第十一講「失敗者、謝罪」
次の日は折悪く、雨だった。
梅雨にはまだ早いものの、分厚い雲は切れる気配がない。
ビニール傘を差しながら、会社兼自宅の前で、ヤツを待つ。
郊外に建てられているものの、さすがに社長宅。三階建ての瀟洒な豪邸で、そこから上はどうにも稽古場や事務所になっているらしい。
しばらくすると仕事を終えたらしい村雨一家の社用車が、隣の車庫に停まるのが見えた。
「……いったいどうしたんだ? 雫。あんなにミスするなんて……」
「あ、はは……ごめん。最近なんかスランプ気味でさ」
兄兼マネージャーの信夫と会話するあいつは、まだこちらの存在に気づいた様子はない。
学校帰り、着替えるヒマもなかったようだ。雫は学校の制服を、そのまま着用していた。
息を張り詰め、雫が来るのを門の前で待つ。
「今日はまぁ話のわかる監督さんで良かったけど、あの場に母さんがいたらお前、殺されてるぞ」
「うぅ、精進しま……っ」
門に入る直前で、ようやく私の存在に気がついた。
「……あぁ花見先生、合宿ぶりです! 何か、雫に用事でも」
「ごめん。兄ちゃん先入ってて」
「え?」
にこやかに話しかけた兄に、雫は冷たく言い放った。
不思議そうに私たちの顔を見る彼に、
「行って」
とさらに厳しさを増して言う。
信夫は何か察したような険しい顔つきで、一度だけ頷く。それから、家へと入っていった。
二本の傘が、ばらりばら、と雨を弾く。
「こんなところにまで来て、どういうつもり?」
今まで大小の諍いが、私たちの間にあった。それでも、気がついたら流れで解消されていた。
しかし、今回は傷が深すぎる。
ここまで敵意を見せて拒絶する村雨雫、私に、初めて見せる顔。
気まずさを隠せないまま、私は時間をかけてゆっくり、慎重に口を開いた。
「……お前に用がある」
「こっちには……なんにもないよ」
そう言って、横に逸れて通り過ぎようとする。そのまま通してやるわけにはいかなかった。
回り込み、その足を止める。
「私がああいう態度をとったのは、それなりに理由がある」
「…………」
本来は真っ先に口にすべき謝罪なのに、喉の奥で引っかかって出てこない。
心底失望したように睨み上げる雫の視線から目を外しながら、私はなおも言い募る。
「雪路と、それを助けた小山田かすみは、こっちで保護した。知ってたか? あいつが芦田に拷問されたこと」
知らなかったらしい。雫は大きいその目を、さらに大きく見開いた。
反応は示したがそれは、私への遺恨とはまるで別のものだ。
「あとは……お前の協力が要る」
「今更……っ! アンタがそれを頼むって言うのっ?」
返す言葉もない。
私に、そう頼む資格はない。
それでも、私が言わなければならないことだった。
「理由がある!? そんなの知ってるよっ! あの場にいた誰だって、そのことには気づいてたよ! それでも! あの娘へのアンタの仕打ちは許せないっ! 連れてかれたあの後、寝ずに帰りを待ってたあの娘のことを考えればねっ!」
「……そうだな。恨まれても、仕方がない。彼女が私を追わなかったのも、無理ない話だ」
「やっぱり何もわかってないじゃないっ!」
雫が振りかざした左手の甲が、私の傘を弾く。
雨が降り注ぐ中、濡れていく私を激しく咎める。
雫の目いっぱいに溜まる水滴は、頬
「バネちゃんはあんたのことを憎んじゃいない! どっちが敵でどっちにつくとか考え方もしてないっ! でも言ってたよ!? 『カフェ・シャレード』の今を守ることが、あんたのためになるって! あんた結局、何も見ないままにあの娘のこと、全部決めつけて……っ!」
――『カフェ・シャレード』を守ることが、私のため……?
まさか、と笑うと、冷えた空気が肺に入ってくる。
だが、
「そうだ」
私はそれを、肯定する。
「離れてみて、やっとわかった。私は羽々音ではなく、重藤の娘を、梓の妹を、かつての教え子を、見てきただけに過ぎない。今の彼女がどういう人となりか、よく考えもしなかった」
「だったら……だったら! あの娘のところに行ってあげてよ……っ! わたしじゃもう、なんの力にもなれない……っ」
「だから!」
私は濡れたその手で雫の肩を掴んだ。
「だから、お前の知る射場羽々音を教えて欲しい。あの娘が今何を考え、何と戦っているのか、そしてお前がそれに何を思うのか知りたい! ずっと、今でも一緒のお前が、教えてくれ! でなきゃ私は彼女に何を詫びたら良いかさえわからない! お前に許されないままに彼女に顔向けもできないっ! 頼む…………雫っ!」
途端、雫は狼狽する。唇をわななかせ、それでも、私を拒む。力任せに振り払われたその手が、冷たさと痛みで、痺れている。
くるりと背を向ける雫は、震える声を精一杯振り絞った。
「ゆ……許すって、なに? 土下座でもするっての!?」
「……土下座すれば良いのか?」
「ま、まぁアンタがわたしにするはずが……っ!」
振り返り、息を呑む音が聞こえた。
当然だろう。
どんな時でも互いに絶対に頭は下げなかった。詫びの一つも言わなかった。
そんな犬猿の仲の人間が、
自分が冗談交じりで言った通りに土下座しているのだから。
全身が、つぶてのような大粒の雨に打たれる。
両手を水たまりにひたし、額を濡れたアスファルトに押しつける。
「雫……すまなかった」
「や、やめてよ……っ」
「……今だから言える。私はな、お前がうらやましかった。お前は私が捨てたものを多く持っている。正直さ、まっすぐさ、人を思いやり、それを理屈抜きで行動に移せる心。……十神にいた頃は確かにあったのに、今の私にはない。あったことは覚えてるのに、それがないんだよ。そしてそれは取り戻せない。だから悔しかった。……許してくれなんて押しつけがましいことは言わない。ただそれだけは伝えたかった」
足音が、私から遠くなっていく。
私は、それでも雫に頭を下げ続けた。
何分たったか、何十分経ったか。
様子を見に来た信夫が傘を拾おうとしたが、私は甘えることなく首を振り、それを拒んだ。
そしてまた、一人で詫び続ける。
……
…………
雨が止んだ。
いや、自分の周囲が、雨に当たらなくなったのだ。
ふと見上げれば、私の目の前、村雨雫が屈んで、自分が吹き飛ばしたビニール傘を差しだしている。
「……何時間そんなところにいるの? 営業妨害だよっ。ご近所さんに何言われるかわかったもんじゃないよ」
「雫……」
「か、勘違いしないでよねっ、ユキセンパイが心配だから、お見舞いに行くだけなんだからねっ!」
「お前……」
雫に差し出された傘を、私は掴んで立ち上がる。
喜びが、胸にこみ上げてくる。
そんな大きく揺れる心を抑え、できる限りの笑顔で、
「ちょろいなぁお前!」
……と言った。
「んなーっ!?」
「お前、素はすぐ顔に出るからな。一度家入った時点で、もう怒り解けてるって気づいてたんだよ」
「だ、だったらなんであんな長時間土下座してたのよっ?」
「そりゃお前……強烈な罪悪感をお前に植え付けないと、私の気が収まらないからだよ」
笑いがジワジワと、不敵で意地の悪いものに変わっていくと自覚する。
ゲンコツのひとつぐらい、飛んでくるのを覚悟する。
――だが、
「ぷふっ……あはっはははっ!」
と、雫は頬に空気を溜めて、それを一気に噴き出した。
らしからぬ反応。私としては、面白くない。
「……なんだよ、何がおかしい?」
「ハナミンがわたしのことわかって、わたしがハナミンのことわかんないワケないでしょ」
そう言って、今まで私といがみ合っていた女は腹を抱えて小刻みに身体を震わせる。
「知ってるよ。ただそれだけで、私相手に、しかも二時間土下座なんてできないでしょ? ……わたしが負い目を感じないよーに、そんなそぶりするってのも、ねぇ。ったく、いつまで経っても成長しないんだから、ハナミンは」
――正直なところを看破されて、居心地が悪くなり、私はビシャビシャになった後ろ髪を、無造作に、己の五指でかき乱す。そんな私を見て、ニヤニヤと、ますますかさにかかって雫は面白がっている。
ひとしきり笑った後、少女は、いつもの村雨雫に戻っていた。
「それじゃ、わたしがバネちゃん情報をレクチャーしてあげよう! 何知りたい? やっぱスリーサイズ? 指輪のサイズー?」
「そんな情報はどうでも良いから……まず、今の羽々音を含む周囲の状況をみんなの前で説明頼む」
変わらず雨は降るし、雲に切れ目はない。
だがようやく、ほんの少しだけ、その分厚さが薄らいで、雲の奥で太陽が照り始めたのを、確かに感じた。
■■■
そして、病院の、雪路の寝室に戻る。
市内に出入りしたというのに、これといって妨害はなかった。
これも小山田の援助によるものだろうか。
病院に戻ると、徳本は緊急の患者が入ってその手術をしに、小山田かすみはいつの間にか姿を消していた。
とにかく、ひとしきりの再会を喜んだ『カフェ・シャレード』の面々を落ち着かせ、雫から、話を聞く。
「えっ? いやー、なんか最近は忙しいよ。そりゃ、ユキセンパイが抜けたってのもあるけどさ、黒いのイッパイ出てくるし」
「いっぱいって、どれぐらいだよ?」
「んー……当社比で五割増し……?」
「……」
当社比、というのが何を基準にしているのかはサッパリだが、それにしても五割という数値は穏やかじゃない。
「手は足りてるの? オレ抜けて、苦労しちゃってる?」
「そりゃあもうイッパイイッパイだよっ! 実質倒せるのはバネちゃんだけだし」
「……羽々音ちゃんだけ? 芦田はどうしてる? あいつ、『識』の構築者じゃないのか?」
「……いや、たしかオレと一緒に戦ってた時はもう構築してた」
私の推測を、ベッドの上の雪路の実体験が否定する。
「ほんとか?」
「うん。ガントレットの『識』だったかな」
とすれば、ますます妙な話だ。
あの玉砕上等主義者が、この忙しい状況下で自分は前線に立たず、羽々音ひとりに戦闘を押しつけている。
ヤツが口だけのチキンという可能性もあるが、この敵味方の動き、まるで……
「おい雫」
「なに?」
「その芦田はどうしてる?」
「……うん、順調だよ。順調に……ハナミンの残した教えとか、あのカードケースとか、処分しようとしてる」
「……やっぱりか。くそっ、あれがどれだけ金と労力かかってると」
「そーゆー問題じゃないでしょ」
少し怒ったように、雫が口を尖らせた。
「お前はさっき、私に雨の中土下座させた時、気になることを言ったな。彼女は、『カフェ・シャレード』の今を守っている、って。それは……そういうものも、含むってことか?」
「えっ、雫ちゃんそんなことを……?」
「あんたが自分でやったクセに人を極悪人みたいな言い方しないでよっ! ……まぁ、そゆことだけど、それだけじゃないよ。他にも、トレーニングとか、戦ってる時にさえ、『大悟さんはそんなことさせませんでした』。……って、大悟さんのやり方を譲らなかったんだから!」
まるで自分のことのように、雫は誇らしげに言う。
――けど、羽々音が守りたいものが、なんとなく見えてきた。
自分たちが過ごした『カフェ・シャレード』の姿。
その日常。
いつ取り戻せるかもわからない、ヘタをすれば卒業までに戻らないかもしれないのに、彼女は、維持しようとしている。
大人たちに反発してまで。
身を削ってまでそんなことをしても、私が喜ぶと……?
形ばかりの組織、そんなものを守って、喜ぶと……?
「……バカな」
と、私は拳を強く握りしめる。
「雪路といい、君といい……なんで私なんかのために……」
「なんか、じゃない。花見大悟だから、だよ」
雪路は、男にしておくにはもったいないほどに、優しく、慈愛に満ちた目をしていた。
「……そだね。確かにハナミンは、ワガママで、子どもっぽくて、イライラしてるし、すぐキレるし、口は悪いし、態度悪いし、人間的にも褒められた部分は少ないし」
「こーゆー人の心が読み切れずにデカいミスもしちゃったりするし」
「つまづくし、くじけるし、泣くしメンタル弱いし、裏切られたことも散々あるよ」
さんざんな言われようだ。
「……それでも、きっと最後はオレたちを見捨てない。なーんか、そう信じられるんだよねぇ」
と雪路は言う。
「だから、わたしたちも、相手に、ハナミンに……あと、自分と向き合える。失敗すること、傷つくことを恐れないで、進んでいけるんだと思う。きっとバネちゃんもここにいたら、そう言ってるよ」
――勝手だな。
正直なところ、そう思う。
梓も、戒音も、
私と勝手に約束し、この世から消えた。
それでも、託されたものが私を生かし、羽々音たちと引き合わせた。
……恨む気なんて、ない。
雪路の言うとおりだ。
託されたものを見捨てられない、切り捨てられない。
だから、ここにいる。
「ハナミンッ!」
雫が鋭く声を発した。
彼女が手にしているのは、『赤札』
『識』の襲来を、告げる札。
羽々音がこの札が示す場所に来ている可能性は、高い。
――そして、私の推測が正しければ……そろそろまずい。
『黒札』による『識』はすべて品山市内で発生している。ここから品山までの半径五十キロが捜索範囲だ。
「……あ、召集のメールが来た」
雫が携帯を確認する。
私が文面を見れば、確かに重藤がその旨を送ってきている。
「お呼びとありゃ、呼ばれてやる。雪路は留守番しててくれ。かすみが戻ってきたら説明頼む。……雫、行くぞ」
「ハナミン」
と、村雨雫は私に視線を注ぐ。
「……バネちゃんと会う覚悟、できた?」
「あぁ。お前がくれた情報でな。ようやく腹が決まった。…………ありがとな」
「あーらら素直なこと。こりゃ槍が降るから道中気をつけなきゃね」
「ほっとけ」
私が礼を言うと、雫が白い歯を見せてはにかんだ。
そんな私たちを、じっと雪路が見ていた。
腰をひねり、上半身だけをこちらに向けながら、両手で作った長方形から、写生の要領でこちらを覗き込む。
「うーん。イバちゃんとナミさんっていうのも良いけど、やっぱこの二人もなかなか良い二人姿だね」
「どこが!」
「ジョーダンじゃないよっ!」
「じゃっ、そういうことならさっさと三人揃うよう、がんばってきてね」
言われなくても、と心の中で固く誓う。
私と雫が並んで病院から出ると、雨はあがり、星がのぞいていた。




