第十講「逃走者、反転」
――時が過ぎるのが、苦痛に感じる。
ホテルの一番安いシングルの中に引きこもって一週間。
カーテンは締め切り、ただひたすらに地図の紙面に図と字を書き連ねる。
パソコンはあるし無線LANもホテルの備え付けがあるが、使用しない。
……干渉されるおそれがある。
日光を浴びる時があるとすれば、カーテンの隙間から、わずかに外を覗くとき。
約十秒間。それ以上は見ないようにしている。
図面を睨む。
「……やっぱり、妙だ。あまりに符合し過ぎている。……たぶんそういうことだろうが……あぁ! ったく最近のデータが欲しいなっ! 出てく時にかっぱらっときゃ良かったんだ! それか何か……こう……羽々音ちゃん、悪いがコーヒ……」
――独り言が多くなった。
居もしない幻影を見て、語りかけ、幻臭を嗅ぎ、幻聴が聞こえる。
――たぶん、酒が入っているせいだ。
再び山積みになった缶を見て、そう思った。
右拳を壁に叩きつける。
皮膚が破れては、また傷がふさがり始めた時にこうしてあの頃を思い出し、また叩きつけて出血する。
呼吸を整える。少しは気が紛れた。
幻聴の間隙を縫うようにして、
ピンポン
……とマヌケな呼び鈴が聞こえた。
ルームサービスを頼んだ覚えはない。知人もこの町にはいない。友人も失い、女は作った覚えも商売女を呼んだためしもない。
――気のせいだろう。
そう思って再びペンを手に取った時、
ピンポン
……また聞こえた。
連続で、連打。
今度は、幻聴でも気のせいでもなく、実際に鳴っているのだとわかった。
……なら、向こうの勘違いだろう。
そう思って定規を手にした矢先に、
連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打…………
「だあぁぁ! もう、うるせぇっ!」
怒り、立ち上がり、ドアへと向かいチェーンを解く。
「なんなんだよっ! 一体!?」
まず見えたのは、顔じゃなかった。
固く握りしめた、拳。
鼻っ柱を強く殴られ、昏倒し、ツンと痛み、耳鳴りがする。
思いっきり、クリーンヒットしてしまった。
「ぶっ……お、お前……」
見れば、小山田かすみが直立不動で立っている。
「失望いたしました。花見大悟」
「はっ? な、何を……」
「潔く身を引くならまだしも、まだ諦め切れずにここにいて、あれやこれやと未練がましく口出しする。あげく人の好意につけ込んで無理をさせるとは……」
「ちょっと待て! なにを言ってる!?」
「この男の有様を見て、言い逃れできるとでも?」
言われて、目が彼女の右にいく。
小脇に抱えられた、小柄の少年。
見覚えは、ある。あるに決まっている。
「雪路!?」
優しく床に下ろされたかつての仲間は、額に汗をまんべんなくにじませて、ぐったりとしている。顔色も土気色で……足のくるぶしから下が、不自然に変色していた。
「おい、何があった!? おい!」
「何を白々しい。あなたが指示したのではないのですか? 『カフェ・シャレード』の活動記録を盗み出せ、と」
「なんだと?」
「そのせいで芦田直人に捕まり、足を踏みつけるという拷問を受けたというのに?」
「……ナミさんは……はぁ……関係、ない」
薄い胸を上下させる雪路の声に反応し、強く抱き寄せる。
わずかに目を開き、中の黒目が正気であることを物語っていた。
「オレが勝手に、やったこと、だから」
「お前、辞めろって忠告しただろうが! 私に失望したんじゃないのか?」
「……失望なんて、して……あげないよ」
にへへと笑いを交え、雪路は言った。
「だいたい、さ。……ナミさんの悪ぶりなんて、今に始まったことでもない……じゃない。ああでも、しなきゃ……ナミさんのことだから、無理、しちゃうだろうし……そこはホラ、第二夫人としての機転ってヤツ? ……怒ってない、って言ったらウソになるけど、だからってナミさんをほっとけるワケ、ないよ」
「…………っ」
もっとちゃんと、言葉を尽くして止めれば良かったと、今になって悔いる。
自分のエゴで生徒を、仲間を傷つけるなんて。
――これじゃ、芦田と何も変わりがないじゃないか。
だが、
――それどころじゃ、ない。
後悔なんて、後でいくらでもできる。
問題は……
カーテンを開ける。
人影が、向かいのビルでせわしなく動き回っているのが見えた。
「っ、やっぱ仕掛けてくる気か!」
「え?」
「伏せろ! ……伏せるんだよっ!」
言いつつ、自身は窓から飛び退き、缶の海にダイブする。
背に、恐怖が迫っていた。
時速数百キロの世界で飛んでくる弾丸の種類がわかるわけないが、私たち三人を屠るだけの威力があることだけは、理解できた。
弾丸が、窓にぶつかり、亀裂を入れた。
そこから、火の蛇が這い出てくる。
刹那、
光と、音が、高熱孕む風が、
ガラスを砕く。フレームを歪ませ、カーテンを焼いた。
内向きに散らばる破片が、土砂のように私たちの上に積もった。
部屋が静寂を取り戻す。
――最近熱いメに遭ってばっかりだな、と。
起き上がりながら私は思った。
地図でメモをくるんで畳みジャケットのポケットにしまう。ドアへと向かう、その足が、止まった。
呻く暇もない。
ドアの新聞受けのわずかな隙間、そこから、投げ込まれたのは、黒い札。
『切札』。二枚だ。
「ったく、念の入ったことだな……」
それら札の面から、墨汁のようなわずかに粘性の液体がこぼれ出る。
液体はまず水かきのついた脚を作り、 浮かぶ札を鋼鉄の質感の鱗が守り、撫で肩、そして目の濁った魚の顔。
不気味なマーマンが、私たちに半開きの口を巡らせた。
――なんか、見つめられるだけで夢見が悪くなりそうだった。
その口の中、黒い濁水が渦巻いているのを、私は見た。
徐々に開いていく口に、言いしれぬ危機感。
咄嗟に、身を伏せた。
頭上を、吐き出された液体が光線となって突き抜けた。
破られた窓を抜け、直線を描き続けたまま、三百メートルはあるだろう反対のビルの窓をそのまま突き破る。
息を呑む私の傍らで、
「ナミさん、少し右にズレて……っ」
雪路が枯れた声で私に頼む。
言われたとおりにすると、『白札』を同じく二枚、雪路が虚空に投げた。
『雷切』。
札から現れた肩幅の広い、屈強な男たちが一対一で、魚人に組み付く。
そのまま二発目が来る前に窓の方へと押し込んで、そのまま自分たちもろとも落ちていった。
四体とも『識』だから、この八階の高さから落ちても死なないだろうが。
矢を継ぐように、ドアが開く。
フルフェイスのヘルメットにライダースーツ。たなびくマフラーは、ピンクと黄色。
だがおそろしく切れるし強い赤いのがいなければ、問題はない。
振りかざされる警棒。それを掴み、手首を外す。
ヘルメットをぬがし、驚愕に歪む素顔に叩きつけた。
防具が凶器に変わり、男を地面に沈めさせる。
かすみはイエローのマフラーをつかむとキツく締め上げ、もがく敵を引き寄せ一気に蹴り飛ばす。
耐性を超えた使い方によってちぎれた布きれをつまらなさそうに捨てる。
「……形から入るからそうなる」
言いつつ私は血に濡れたメットを捨てて、雪路を抱え直す。
「さっきの敵、合宿の時の……」
耳元でささやくように言う雪路に、私は舌打ちした。
「……あぁ。学校を出たすぐ後からな。だからホテルから動けなかったってのに、お前らが来るから」
「水くさいな」と彼は笑う。
「だから……オレらを……巻き込まないために……?」
「…………べつにそれだけじゃねぇっての」
もはや心を偽ることが無駄だと分かっている。
今話せる範囲で、かつ円滑に行動するためにも、私には彼にかいつまんで説明しておく必要があった。
「一時的にでも『カフェ・シャレード』を重藤が動かせなくする必要があった。何より……羽々音ちゃんだけは絶対に離しておきたかった。例え彼女に憎まれてもな」
「……なん、で?」
「色々あるんだよ。大人にはな」
それ以上は、雪路は問わなかった。
■■■
部屋を出る。
足を、再び止める。
「……いや」
誰にともなく、呟く。
「引きこもりはやっぱり良くないな。周囲の状況がまるで見えてなかった」
怪訝そうに眉をひそめたかすみの後ろ、ドアが開く。からさまに敵とわかる、例の格好の男。
振り返らずに、彼女はその美脚を伸ばして爪先でその胸をえぐる。
さらにその後のドアが開き、私の後のドアも次々と……
バタリ、バタリと。
総勢、四十名近い。
マフラーもカラフルで、あの真紅のリーダーを除けば二百五十六色揃っていそうだ。
同フロアのすべての部屋が、いやヘタをすればこのホテルすべてが、
知らないうちに占拠されている。
右奥のエレベーターがのぼって、
チン、と
ベルが鳴り、自動ドアが開く。
積載量ギリギリだろうという人数が、さらにおかわりでやってきた。
……この調子だと、他の階も敵の手に落ちていて、かつエレベーターも使用不能。
非常用の階段は屋外に通じる左奥。バルコニーという手もあるが、狙撃手も落下していった魚の『識』も狙っているなかで、敵を背にして戻るのは得策じゃない。
つまり活路はその左奥。私から見て敵の最奥、ということになる。
狭い通路。
逃げ場もない。進路も封鎖されている。
反対側で、かすみが表情を変えないままに『白札』を発動させた。
だが構築させた紅のバイクに、彼女は足をかけることさえしない。
その尻を乱暴に蹴り上げる。
乗り手もないままに独りでにバイクは発車し、加速をつけながら、男達を、ドアを、壁を、破壊し、巻き込みながら進んでいく。
スピードを落とさず、一本きりの道の奥へと集団を押し込んで、押し込んで、エレベーターに突っ込む。
幾重にも重なるうめき声。だが『識』はそれで止まらない。
タイヤは、なおも回っていた。
装飾のハデな壁にヒビが入り、やがて、重みで、
ガラリと、
控えめな音とともに、砕けた。
無数の断末魔が下へと遠のくのを聞けば、敵といえど生死を案じざるをえない。
ともあれ、背後を突かれる心配はなくなった。
改めて向かい合う。
動揺の波が広がる。
――まぁその原因ではなく私でなく、後で控えているかすみだが。
そのかすみに雪路の身柄を預ける。
かすみと雪路が何枚、何色、『識札』を所持しているかは知らないが、急いで脱出したとすれば、それほど多い数じゃない。
瞬時に、敵は動揺を収めて反応する。
まず最先頭の一人が、ボクサーのように両拳を握りかため、ステップを踏み始める。
二発のパンチを外してかわすと、ほぼ同じタイミングで、同じ腹にキックを打ち合う。
よろめきながら振りかざされたフックを、半身を反らして避けた。
「ちょああああ!」
男は壁を蹴り三角飛び、雄叫びとともに私に拳を放つ。
着地点とリーチを読んでそれを避け、背に回り込んで裏拳を叩きつけるとかすみがそれに応じて、よろめいたそいつを蹴りで壁に打ち付けた。
次いで私に、組み付く男がいて、その裏で拳銃を二人が構えている。
「俺ごと、俺ごと殺れぇっ!」
「うむっ! すべては十神様のためにっ!」
「いざっ、尽忠尽忠ッ!」
舌打ちし、そいつの腹にヒザを見舞って潰す。
私とかすみは隣のドアを開いて入り、身を隠す。
発射音を聞き、的が外れて無駄撃ちに終わったことを知ると、すぐさま飛び出た。
二人で二人の射手をねじ伏せ、隣室のドアをぶつけ、次へ。
「うっぷ……ちょっと酔ってきた」
私とかすみに揺さぶられ続けた雪路が、彼女の手の中で青白い顔をしている。
酔ったどうのはともかく、雪路の体力的にも、ここで時間を食っている場合じゃない。
「尽忠……」
倒れた男が、自身への念仏のように呟く。
「尽忠」
「正義を」
「勝利を」
「信義」
「情熱」
「愛」
「大一大万大吉」
「天誅」
「善は我ら」
「我らは善」
「戒音様こそ救世主」
「十神様も、きっと喜んでくださる」
それぞれが口々に、勝手なお題目を呟いている。
――まったく、苛立たしい。嘆かわしい。
「……気持ちの悪いカルト教団に成り下がりやがって」
かつて自分のいた組織の末路を、私はヘドが出る思いで眺めていた。
飛んできた腕を脇に挟んで絡め取り、靴底で喉を蹴る。
もぐり込んで鳩尾を突き、投げ、手首を固めて、反対側で起き上がって敵を蹴り飛ばす。かすみが私が捕らえた敵を蹴倒す。
跳び蹴りを仕掛けたヤツは、頭の高さまで持ち上げた爪先が撃墜する。
突破しながら、思う。
――それが本心じゃないだろうに。
自分の欲、飢餓、憎悪、苦痛、無力さ非力さ、諦め、負い目。
奴らはそんな負の心を、もっともらしい大義名分でくるんで飾り立てて、自分すら欺いている。
――私も、同じか。
……やめた。
ならせめて、一息で吹っ飛ばすのが、慈悲だ。
「小山田、雪路」
「……」
「頼む。やってくれ」
「……よろしいのですか?」
「頼む。戒音や純の代わりにやってやれ」
かすみと雪路の手の中で、白札と緑札が輝く。
その光から目をそらした時にはもう、かつて志を同じくした奴らは、見えなくなっていた。
■■■
走りつつ、倒れた敵を避けて乗り越え、非常口に出る。
ガラスに映り込む太陽が、目を刺す。高い場所のため、風が強く、肌寒い。
私は雪路を担いで、鉄製の螺旋階段を下りていく。
が、足下で、金属音がはじけた。
「くっそ……」
狙撃手が、ライフルを構えている。
「一殺多生一殺多生一殺多生ォ!」
黙ってれば良いのに、ここまで聞こえる大音声で甲高く叫ぶ。
――それを口にする人間は、大抵自分のことは入ってないが。
舌打ちし、私は転がり落ちるように、
二発
三発
と撃たれる中、
七階
六階
と下りていく。
腕は悪いが、ヘタな鉄砲、数撃ち続けられればいつかは当たる。
ましてやこちらは満足に疾走することさえ禁じられているのだから。
駆動音が、頭上からした。
足を止めて見上げれば、どこへ行ったかと一瞬見失っていた小山田かすみが己の『識』にまたがって、非常用階段の手すりを突き破り、スピードはそのままに
飛んだ。射手のいるビルに飛び移ろうとしている。
だが、落ちている。
風の抵抗もあるだろうに。ぐんぐん高度を失っていき、あからさまに壁に激突しそうな軌道を描いている。
だがそこで彼女は、腰を上げ、シートに足をつけると、跳躍した。
それでも距離、速度、高さすべてが足りない。
――落ちる。
そう直感した矢先、
なんとかすみは、二枚目の『識札』を斜め上に投げつけた。
現れた二台目に手をかけ飛び乗る。踏み台にし、さらに高く。
今度こそ届く条件を満たしていた。
狼狽するスナイパーを、見事なライダーキックでやっつけた。
「……」
私たちの横をすり抜け落ちていく哀れな一台目は、目下の道路や鉄筋コンクリートの壁に激突する前に霧散した。
「天罰ッ!」
声がかかったかと思えば、五階の非常口から飛び出たグリーンのマフラーの男が、私の胴にしがみつく。そのまま押し込み、鼻息荒く雪路もろとも落とそうと踏ん張る。
「…………奇襲しようって人間が大声出すんじゃねぇっ!」
私はその無謀を怒り、その力をいなし、後に回って後頭部を掴む。
そのまま、手すりの角に顔面を押しつけた。
……メットが鼻のある位置までひしゃげた気がするが、見なかったことにする。
「な、ナミさん……っ、下っ」
雪路の声が、私に斜め下の敵の存在に気づかせた。
先ほどの魚人の『識』たちが、死んだ目でこちらを見つめ、口を開けている。
――失念していたわけじゃないが、よりにもよってここで復帰するか……っ
鉄板を貫く水圧光線が、下から突き上げ私たちの生命をおびやかす。
一見して無計画に、無軌道に狙っているように見えたが、
「っ!」
階段と建物の付け根、接続部分を、狙っている。
一本、二本とそこが撃たれ、断たれるごとに、階段は傾き、私たちもバランスを失って揺らぐ。
残る一本が撃たれた時、均衡は、完全に崩れた。
外側にわかって倒壊しつつある階段のへりに、私は片腕でしがみつく。
だが、階段も、私の腕も、数秒と保たない。
まして私の背を、鉄をも断つ水の二発が、狙っていた。
――嗚呼、非常階段って、本当に非常時の階段なんだな。
ぶら下がり、痛感する。
四階の高さでは、まだ地面は遠い。
飛び降りれば、確実に脚を折る。
だがこのままだとなぶり殺しだ。
まだ生きる目は、ある。
意を決した。
足場の裏に靴をつけ、腕を放して一気に蹴る。
「お、おおぉぉぉぉぉ……っ!」
離した手元で、水の弾が爆ぜる。
落ちていくなか、不思議と周囲の景色はスローに見えてくる。
走馬燈は見えないが、散らばる雪路の札は見えた。
だがその『緑札』は、いずれも『識紋』が浮かんでいた。
ばらばらと、
私たちよりも先に落ちた『雷切』の兵士たちが、折り重なって一山を築く。
私は、その山頂に落ちた。
硬い。
痛い。
どいつもこいつも鎧やら防具やらを着込んだ意匠のせいで、身体中のいたるところにトゲとか突起物が突き刺さる。
だがまぁ、脚を折って行動不能になるよりは、遙かに良い。
「よくやった」と、雪路の汗ばんだ頭を撫でる。崩れた階段に潰されたメットの男を、生死はともかく、彼の視界に映らないようにする。
「大丈夫? ナミさん」
「……十年老けた気がする」
「まぁまぁ。その分オレが養ってやるって」
軽口を叩きながら、魚人から逃げる。
だが雪路は大多数の『識札』を使い切ったに違いない。複数体の『識』を使役する感覚など私にわかるはずもないけれど、積み重なった奴らが動かず消えていくところを見ると、もはやそんなに余力はないだろう。
ホテルの立体駐車場。そこに行けば車が手に入ると、そう踏んでいたが、追いつかれる方が先立った。
建物に入る前に『切札』で呼ばれた魚の異形は、私たちの背後に立っている。
「……ヤッバ、『識札』もう空っぽ」
「……あれば使えるのか?」
「んんー、一、二回? ナミさん持ってる?」
「なわけないだろ」
振り返り、睨み合う。
せめて雪路はと、彼の身体を下ろして私の後に隠したその時だった。
機銃が、魚鱗を叩いた。
ヘッドライトを輝かせ、小山田が、真紅の愛馬にまたがって側面から疾走してくる。
「花見大悟、飛びなさいっ!」
「はっ?」
何故と問う前に、理由はわかった。
小山田が『識』から飛び降りた。
統制を失ったバイクが、倒れながら火花を散らして、こちらへと滑ってくる。
私は横に跳んだ。
その攻撃に、二体の『識』が巻き込まれる。
「雪路橘平!」
起き上がるよりも先にかすみは、雪路のフルネームを叫んで、『白札』を三枚、投げた。
きれいにそれをキャッチした雪路が、己の前に三体、古めかしい長銃を持った戦士を呼び出す。いずれも山高帽をかぶった、黒いのっぺらぼう。
「ナミさん、伏せててっ!」
「飛べだの伏せろだの忙しいな、クソッ!」
だが言われるままに、伏せる。
頭を低くしながら、私は
「バイクだ、バイクを狙え!」
と命じた。
雪路はひとつ頷き、わずかに銃口を下げさせる。
一斉射撃。
私の頭を過ぎ去る無数の弾が、バイクのタンクで音を奏でる。ガソリンで動いているわけではないだろうが、そこから鮮やかな薄緑の炎が引火し……
私は雪路を抱えてその場から逃走した。
色のついた爆風が、二尾の魚を焼く。
直接撃破していないから、こいつらが『雷切』に組み込まれるわけじゃない。
燃え尽きる『黒札』に閉ざされた精神は、どこかの病院で眠る誰かの肉体へと戻るだろう。
■■■
サイドガラスを叩いて砕くと、警報機が鳴り響く。
ロックを解除し、ドアを開きキーを回す。
サイドブレーキを解いて、ドライブにし、ハンドルを握ってアクセルを踏む。
発車したその車を、
「追え、追えぇっ!?」
まだホテル内に残っていた敵がゾロゾロと出てきて、あるいは徒歩で、あるいは自分たちの車で追った。
……
…………
最後の一人を見届けた私たちは、トラックの下から這い出た。
「……頭悪いな、あいつら」
容赦なくそう言い放った私は、その車を運転する『雷切』の主を担ぎ上げた。
言葉はない。
息が荒い。
――意識はあるようだが、どこまで保つか。
ふとその時、携帯が鳴った。
着信メロディはアイドルの……なんとかとかいうヤツの曲。最近街頭でよく流れている。
「はい、かすみでございます」
「お前かよ!」
その意外性に、思わず声が出る。
「……はい……はい。かしこまりました」
張り詰めた声で相槌を打っているかと思えば、彼女は、私にピンクの中折れ式携帯を突きつけた。
誰から、という答えはない。仏頂面で、無言で突き出す。
出ろ、ということらしい。
「……もしもし」
〈小山田でございます〉
「……だと思った」
低く澄んだ美しい声。
こんな事態にかかってくる人間と言えば、この男、小山田かすみの父親、小山田純ぐらいだろうと想像はついた。
「何の用だ?」
〈では端的に用件のみお伝えいたします。……花見殿。とくもと総合病院に続く十キロの道と、そちらに行き着くまでの三十分のお時間をご用意いたしました。あの病院は百地・十神いずれにも属さない中立の立場。敵もおいそれとは乗り込んで来ないでしょう〉
私からしてみれば、その申し出は魅力的というよりかは、かなりの意外だ。
「……お前にしちゃほんとに端的だな」
〈事は一刻を争いますゆえ。そちらより東角のコインパーキング、黒色のセダンがございます。ロックをこちらの操作で解除いたしますので、どうぞお使いを〉
――昔から何を考えているかわからない男だ。
だがそれゆえに、遊び心抜きで私にそう言う十神の執事の心遣いが、胸に染みる。
「後が怖いからお前に借りは作りたくねぇけど、恩に着る。……あと、面倒ついでにもう十分保たせてくれ。こっちにゃケガ人がいるんだ」
〈承知いたしました。花見殿〉
「ん」
〈『約束』を果たした後は、どうぞお心のままに。亡き旦那様も、それを望んでおります〉
そして通話は、切れた。
■■■
小山田の言うとおり、妨害はなかった。
四十分後にはとくもと総合病院にたどり着き、雪路を見せ、そして、
殴られた。
「……どうしてこんなになるほど彼を酷使した!? あぁ!?」
口内を歯で切り、血が滲んで、弁解ができない。……弁解のしようがない。
私を殴った徳本は、起き上がることもできない私の襟首をひっつかんで、丸い顔を近づけて凄んだ。
「……良いか。せっかく治癒の見込みが立ったっていうのに、また逆戻りだ。余計なことをしたから、『識』の毒がまたぶり返してきてんだよ。タチが悪いことに前回よりさらに広がってきている。……もしかしたら今後に障害が、いやヘタをすると一生完治しないかもしれないんだぞ」
私は芦田を憎むよりも、おのれを憎んだ。
まさにこの医者の言うとおり、雪路をそこまで追い込んでしまったのは、私が原因なのだから。
誰もいない廊下。壁の辺りにかすみが直立して、冷たい目でこちらを見下ろしている。
二発目が飛んでこようとした、まさにその時、
「待ってよ永さん!」
車椅子を引いて、当の雪路が制止の声をあげた。
「だから何度も説明してるじゃん。オレにムチャさせたのは芦田さんで、ムチャしたのは、オレ。そこにナミさんは介在してないって」
「……だがなぁ……」
「いや、徳本さんの言うとおりだ」
と、私は両手に床をついて言った。
「私の浅慮が、お前にこんな傷を負わせてしまった。私がもっとちゃんと拒んで、憎まれ役に徹底していれば、こんなことにならずに済んだんだ」
「……ふぅー」
と、
雪路は嘆息した。
「ねぇナミさん」
まるで聞き分けのない子どもに語る母親のように、少年は、噛んで含めるような言い方をした。
「オレ、後悔してないよ」
「……え?」
「今回こうなるだろうってことは薄々わかってた。でも、ナミさんのためだからね。誰から何言われたって、オレはやるよ」
「雪路……」
「これは理不尽なことじゃない。自分で考えて、納得して、それできちんと答えを出した結果なんだ。……確かにまた足はヤバくなっちゃったけどさ、その覚悟は、オレにも出来てる。……わかる? ナミさんは、オレとの約束、ちゃあんと守ってくれたんだよ」
「……すまん」
今の私に言えるのは、それだけだった。
事の正否に関わらず、私に『カフェ・シャレード』に帰る資格はなく、帰るつもりもない。
すべてが終わった時に、また言おう。
深々と、長いため息が徳本の口から漏れる。
「……とにかく、情報を整理しておけ。奥の部屋が空いている。雪路にはそこを使わせろ。。……俺は、何も聞かなかったことにする」
「えー、永さん、協力してくんないの?」
「誰がするかこんな厄介ごと! ……カミさんが離婚届叩きつけて家飛び出した時だって、百地十神の戦いには参戦しなかった」
私はそれを、聞かなかったフリをした。
■■■
もらい受けたのは大部屋だが、他には人がいない。
「……なるほどな。やっぱりか」
雪路から渡されたデータをパソコンに取り込み、その内容を自分の手書きの用紙に書き込んでいく。
地図に円と日にちを記し、一から情報を追っていく。
赤く丸を打ったところが、『切札』の発生した場所。青でそれをかぶせたところは『カフェ・シャレード』が出動した地点。
私は市内のホテルに赤丸だけを打つ。
「……荷担しないんじゃなかったんですか」
ペンを置き、私は地図を覗き込む徳本永助を軽く睨みつけた。
「中立と無知は違うだろ。むしろ中立たるためには情勢の見極めは必要だ。ま、要するにだ。俺が口を挟まなきゃ良い」
と、ずいぶん勝手な理由を、悪びれもなく言う。
「で、どうなんだ? 話の整理としてはついたのか?」
「そうですね」と私は語る。
まず、事の始めからだ。
この品山市で『切札』という謎のカードが蔓延し、人の意識を奪っていった。
それに対抗するため、射場家は『白札』『緑札』『赤札』の三種類を開発し、その教導者としてまず芦田が呼ばれ、雪路との事件で負傷した後は私が選ばれた。
当初重藤は『切札』から生まれた『識』という怪物が無統制に暴れていた、と言っていたが、もうこの仮説は崩れている。
こちらを認識して追ってくるバイク。使用者の逃走を手助けするように動いたウサギ。そして確実にこちらの撤退を邪魔した魚たち。
いずれも、ある程度の目的を持っていて、そしてそれを命じたのはあの黒いメットの男たちだ。
とすれば、今回の事件の直接の犯人はこいつらだ。
そして全員の顔を確認してはいないものの、私が見た限りでは全員が、元十神派の連中だった。
リーダーは、赤いマフラーの男。
ずば抜けた戦闘センスと、的確な対応能力……どこかで、見覚えがある。
重要なファクターは他にもある。
この市に入ったという百地の『内部調査官』だ。
小山田の情報によると十神派の人間。
……
…………
赤いマフラーの男がこいつで、わざとかつての仲間である十神派を焚きつけて、射場の管轄で問題を起こして領地を取り上げようとしている、というのが重藤の考えだ。
そのあおりかどうかは知らないが、その調査にやってきた小山田かすみ、私たち、雪路橘平、そして重藤が経営する国原中央学院の生徒である坂巻穂波が襲撃されている。
そして、秘されていたはずの『識』の事件が匿名の密告により百地家に伝わる。
重藤は私の妄言だと、百地家の追及を切り捨てた。……私ごと。
そして、今に至る。
「やっぱり内部調査官が、オレらを密告したのかニャ?」
ベッドの上の雪路が、頬を指でへこませながら首を傾げる。
「……雪路、お前寝てて良いんだぞ」
「ジョーダンッ! せっかくイイ感じなのに、寝てられますかってんだよ」
私はため息をつき、首を振る。
「でもでも、だとしたらイバちゃんのオヤジさんがナミさんを見捨てたところで、なんの解決にもなってない気がすんだよねー? まだあの赤マフラーが町にいるんだしさ。また騒ぎが起こったら、ナミさんのウソじゃなくてマジってわかるだろうに」
「……あるいは」
「んー?」
「……あるいは、次に騒ぎを起こす前に、決着をつける算段が射場重藤にはある、という可能性もございます」
二人が、妙に鋭いことを言う。
「そこで私が追い出された直後の情報が生きてくる」
「お代は熱いベーゼで良いよ~」
「……正直なところ、この情報くれるってんならそれぐらいしかねなかったよ。もうもらったから、絶対にしねぇ」
「…………くそっ! もっともったいぶりゃ良かった!」
「本気で悔しがんなや!」
「っつってもな」
唸る雪路の隣で、永助は嘆息した。
「見た感じ、お前さんが出てったせいでゴタゴタがあった日は、出動どころか『切札』さえ発生してない。その後の数日は普通に行って、普通に『切札』を退治してるし、雪路が芦田のクソ野郎から逃げ出した以降の情報まったくなし。これで何がわかるってんだ?」
その言葉で、他の二人がハッとした顔をする。
不用心な徳本の口出しに、私の口の端から、思わず久々の笑みがこぼれ出た。
「……? なんだ、どうしたんだよ?」
「徳本先生、わざわざ禁忌を破ってご助勢ありがとうございます」
「……っ!」
言われて、この助言者も察したようだ。
「そう。まったく動きがないんですよ。あの騒動で『シャレード』が活動不能になっていた、あの一両日はね。白と黒、それぞれがまるで呼応してるみたいに。……私たちの中に内通者が、いる」
――だいたいの察しは、もうついている。
あとは、それを確定づける証拠だけだ。
「……まさか、最初からそれを知るのが目的でオレらをバラバラにしたの?」
「それもある。分の悪い賭けだったが、ベットするのが私一人なら、まぁ安いもんだろ」
雪路が、ふくれて私を見ている。
「……それ、イバちゃんたちに言わない方が良いかもね」
「当然」
「……今の会話で思い出したのですが」
と、腕組みしながらかすみが問う。
「村雨雫はどうしているのですか?」
「……よくイバちゃんを支えてる。なんかオレ、ナミさんが出てった後は遠ざけられてたし、あんまりよく知らないけど、二人して芦田さんのやり口に反発してて、オヤジさんも手を焼いてるってさ」
「……あいつらしいな。どこまでもまっすぐな、大バカ野郎」
雪路の言葉に、あいつらの苦境がまざまざとまぶたの裏に映る。
「……雪路橘平が去った以降の情報が、まだ必要でしょう。何より今後『切札』の動きを探るためにも……あの女の協力は不可欠です」
「あー、でも……」
私のくたびれた顔に、視線が集中する。
「この男が、絶縁状態の雫が、会話できるのか」
語らずとも、そんな不安があることぐらい、見て取れた。
「ほ、ほらイバちゃんから先に行けば? 頼りになるし、頼られたらきっと泣いて喜ぶよ!」
「……だとしたら、もうこっちについてるはずだろ。なのにまだあの場にいるってことは、こんな私より、もう父親を選んだってことだろ。ついてくるはずがない」
仕方ないと、
そう言う割に、己の未練が言葉の端に引っかかっている。
そんな自分が、たまらなく嫌だった。
「だったら、オレが雫ちゃんを口説きにいくよ!」
「これ以上お前にムチャさせられるか」
徳本は中立だし、無口なかすみが行けば余計にややこしくなる。
となると、選択肢は一つしか、一人しかいない。
「……わかってる。私がまいた種だ。私がその根を刈り取るしかない」
実際私は、何度となく、失敗はしていたが、射場羽々音と向き合おうとしていた。
――でも、
村雨雫に関しては正視しようとすらしなかった。
……見たくなかった。
まっすぐに人を信じ、まっすぐに人に逆らうその姿に、
私が、かつての自分を、すでにない己の姿を見ていたからこそ。
今が、その時なのかもしれない。
「私があいつに、雫に詫びを入れる」




