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第九講「教職員、失業」

 ――そう、あの日、十神と約束したのも夕方だった。

「十神傘下以外で協力を取り付けられたのは以上です」

 そう私が説明すると、十神戒音は窓からこちらへ向き直る。

 表情を変えたのはわかったが、逆光のせいで笑っているのかも、怒っているのかもわからない。

「大したもんだな。結婚して、十神とゆかりのないかつての恋人を巻き込んでおいて、なおそうして平気で人を集める」

 私はできるだけ感情を押し殺して、十神に言った。

「私は正しいことのためにやってるだけですよ。百地は暴走し始めている。それを止めるためにも、この戦いは必要だった」

「……本当に、そう思うのか?」

「そうとでも思わなければ、やってられませんよ」

「そうだな」

 十神が夕暮れの薄闇から、出てきた。

 日に焼けた皮膚。小柄なのに、一歩ごとにプレッシャーが増してくる。

「だが、そんなお前だから、頼める」

「また任務ですか?」

「いや」と男は首を振る。

 珍しく、弱い笑みを見せている。

 疲労でかすれたその声で、

「これはな、『約束』だ」

 と、私に頼む。

 場所は月森大公園内、建設中の体育館。

 私たちの足下には、死体袋にくるまれた同胞たちの成れの果て。

 踏み場もないほど、覆い尽くしていた。


■■■


 かつての私の夢は、そこで終わる。

 差し込んできたのは、光。

 夕陽じゃなく、どこか病んだLEDの輝き。


 気がつけば、拉致されて、監禁されていた。

 覚えているのは午後、突然銃を突きつけられて、デイサービスに偽装したワゴン車に押し込まれたところまで。

 ここに至るまで記憶は飛び、私は夢の中だった。

 私に催眠の類は無効だから、恐らく薬品を使用したんだろう。


 周囲を見る。

 自分が尻に敷いているのは、パイプ椅子。

 手には手錠。

 地下駐車場のような分厚いコンクリートの壁。右手には鉄の扉があって、オートロックされている。

 壁の上のあたりに覗き窓が長方形に切り取られている。

 その奥に別室が見えて、いくつか人影が動いている。


〈花見大悟さん、お目覚めですか〉


 と私を呼ぶ聞きなれない男の声。

 情というものが一切ない険しさが、まだ目覚め切らない頭にキツい。

〈ご安心を。僕たちは百地家の人間です。話を聞かせてもらおうと思い、君をここへ招きました〉

「話を聞くにしちゃ、ずいぶんな扱いだな」

〈君自身から聞くことは何もありませんよ。今のところは、ね〉

 いまのところは。

 その七文字が、十倍以上の意味を持つ。

 そんな含みの持たせ方だ。

〈話を聞くのは彼からです。……どうぞ〉

 電子音がかすかに聞こえる。

 靴音とともに男がぬっと、中に入ってくる。


 射場重藤。


 私と目が合うと、珍しく向こうが視線を外した。

〈さて射場先生、ご足労いただいて早々ですが、先生にいくつか確認したいことがあります〉

「……なんでしょうか?」

〈彼があなたの管区に居住しているというのは、事実ですか?〉

「事実です」

〈では、あなたが経営している国原中央学院に、教師として就任したというのも?〉

「事実です」

 重藤は「事実です」という言葉に、たっぷりと重みを加えて二度、言った。


〈ではあなたがその男を招いたというのは?〉

「それは違います! その男が、亡き梓との関係で揺さぶりをかけてきて、止むを得ず雇い入れたのです!」


 ……言うな。

 …………私を失望させる前に、それ以上、言うな、と。


 私は心の中でかろうじて願った。


〈最近あなたの管区にて妙なウワサが流れている。札から生まれる怪物が暴れていると。その対策のためにこの男を招いたのかと思いましたが?〉

「とんでもない。それこそこの男が吹聴している方便。そのような事実は毛頭ありません」

「……あんた、シラ切る気かっ」

 起き上がろうとする私は、イスの拘束に引き戻された。歯噛みして見れば、両足も鉄の輪で固定されていた。


〈君には聞くことがないと言ったでしょう? では射場先生、市内で続発している意識不明者。ほか、異形の目撃情報。これはどう説明します?〉

「失礼ながら、その情報はどちらから?」

〈質問返しとは礼儀を失していますが、まぁ良いでしょう。匿名で本部に小包が届けられましてね。そこに先ほどの証拠書類が入っていた〉

 ――次の瞬間、私の心と脳は、絶望で白く染まる。

 臓腑がずり下がり、四肢が裂かれる、そんな気さえした。


「なるほど。確かに、多少の騒動はあった。ですがそれは、この男の自作自演だったことが、こちらの調べで判明しています」


〈……ほう? その理由は?〉

「大方、と十神時代の栄光が忘れられないのでしょう。騒ぎを起こし、我々十神派に名誉挽回の機会を与えようとした。もっとも平穏に生きようとする我々にとっては良い迷惑です」

〈しかし、その男は霊的資質が皆無と聞きました。その男が怪現象を引き起こせるでしょうか?〉

「術が使えなければ機械や薬品を使えば良い。腐ってもこの男は十神の人間。その類の手練手管に長けています」

 奇妙な構図だった。

 本来敵であるはずの百地が私を擁護し、数ヶ月間手を組んできた重藤が、私を陥れようとしている。


「よろしい!」

 と、重藤は大仰に腕を広げ、高らかに宣言した。


「これより、国原中央学院より花見大悟を解雇! また市外へ追放し、今後一切の立ち入りを禁じます!」


 元より静まり返ったその場所の空気が、重藤の大音声によって、さらに冷たく、重くなった気がした。

 私は、自分の関係ないところで、私の処分が決まって行く様を、呆然と見送るしかなかった。


〈すばらしい〉

 と、姿のない裁判官は言った。

〈その即断、その英断。百地様もお喜びになることでしょう〉

「恐れ多いことです」

 と、うやうやしく讒言者は一礼する。

「元は僕が彼を甘やかした結果です。お褒めに預かるなど」

〈しかしてあえて問います。射場重藤〉

 男の声が、私の頭上を通り過ぎ、言葉を遮られた重藤にぶつけられた。


〈お前に百地に対する叛意、ありやなきや〉


 と。

「百地様には死して償い切れないほどの罪を、ご寛恕いただきました。この恩は、必ずや」

 地を見たままの横顔の奥、両眼が色づいて燃えている。

 私は力なく、虚しく、それを見るしかなかった。


■■■


 とりあえずその場は、帰ることが許された。

 追放される準備をするために。

 部屋から百地の人間の気配が消える。

 拘束が外れた次の瞬間、私は反射的に重藤に掴みかかっていた。

 拳をその脇腹に入れ、壁に叩きつけると、重藤は顔をしかめてこちらを睨む。

「……や、奴らの介入や射場家取りつぶしを防ぐためには、これしか方法がなかった。讒言したのは例の監査官だろうが……それでもこれで奴らの陰謀は当面防げる」

「よく言うなぁっ! あんた、最初からこれが目的で私を引き込んだな!? 本家から追及された時に、私一人になすりつけて捨て駒にするためだけに! 違うか!」

「可能性のひとつとして考えていただけだ……だが、そのおかげで皆救われた。それに、君だって元々はイヤでやっていただろう! 良かったじゃないか!? これで僕の顔も見なくて済むだろうに……っ!」

 さらに襟元をねじり上げる。今まで出かかっていた声を絞り出すように、


「君だって、その口で梓に協力を強いたんだろ! 人のことが言えるか! あの娘だけは関係なかったのに! そのために中立の家に嫁がせたのに! 君の勝手が全部ムチャクチャにしたんだっ! あの娘の一生を奪っておいて、今度は自分が奪われる側に回ると逆上するなっ」


 ――途端、力が抜ける。

 全身が、海面に叩きつけられたような衝撃を受けた。

 百発殴られようと、決して手放すまいとしていたその手から、重藤の身体がするりと抜けた。

 突き飛ばされる。耐える力もなく、その場に崩れる自身を、私はどこか他人事のように感じていた。

「……約束には、二つの形がある。一つは守るための約束。もう一つは、口実だけで守る意味のない約束だ。君も大人なら、それぐらい分かっているだろうに」

 重藤は自分のスーツと髪の乱れを整えて、一度肩を上下させる。

「芦田くんを呼び戻す。彼のような勇者なら、君よりもずっと上手くまとめてくれるだろう。引き継ぎの準備をしておけ。そして荷物もまとめておけ。……そして二度と、私たち家族の目の前に現れるな」


■■■


 外に出れば、朝になっていた。

 その足でバスに乗って品山市に戻った私は、またその足を引きずって、国原学園の敷居をまたいだ。

 そして重い、重い、重い……その足で、旧校舎へと向かう。

 誰一人、止める人間も、咎める人間もいなかった。

 『カフェ・シャレード』の拠点である旧生徒会室。

 思えばここに持ち込んだ物は、日に日に増えていった気がする。

「……さて」

 戻りがけに買ったスポーツバッグに、手近なものから拾って、適当に放り込んでいく。


「……なに、してるんですか」


 震える声が、私の手を、一瞬止めた。

 もはや今が始業前か、昼休みか、終業後かもわからない。ただ太陽が窓から白々しいほどに明るい光を送ってくるのが、わずらわしかった。

 だが第一声を放った射場羽々音を始め、ほか雫と雪路が、入り口にいた。

「……なにって、君はオヤジさんから聞いてないのか? 私はもうお払い箱なんだとさ」

「知ってます! 知ってます、けど……っ」

「そうだよっ! なにもほんとに出て行かなくても! 絶対何かウラがあるのに! おかしいって!」

 がなり立てる雫の目前を無視して通り過ぎ、棚に置いた文庫本をしまい込んでいく。

「羽々音ちゃん、そこのコーヒーカップ、とってもらえないか?」

「……大悟さんっ」

「どうせ消える人間なんだし、記念品ぐらいもらっても罪にはならないだろ」

「大悟さん!」

「こんな役立たずの私物なんてあっても、君らも扱いに困るだけだろうしな」

「大悟さんっ!!」

 私は裏返った羽々音の声を、今まで付き合って初めて……無視した。

 大声を無理して出したためか、羽々音はむせ返る。

 本をしまい終えると、カバンを引きずってカウンターの方へと回る。

 そんな私の態度が気にくわなかったのか、表情を険しくさせた雫がズンズンと近寄って、私の前に立ちふさがる。

「……っ、バネちゃん、ハナミンのことずっと心配してたんだよ!? 一言ぐらい、かけてあげても良いじゃない」


 ……一言?

 そんなものが欲しいと言うなら、いくらでもくれてやる。

 私が雫の頭越しに羽々音を睨むと、彼女は哀しそうな目をしてたじろいだ。

 ――そんな表情を私に見せる彼女を、私はここに至って初めて目にした気がする。

「羽々音ちゃん」

「…………はい」

「君の父親はな、私にすべて任せると約束した。始まりに、そうせざるを得なかった時に、私はせめてそれだけは守って欲しいと、条件を出した。……だが、実際はどうだった? 散々活動に口出し、横槍を入れたあげくに、ボロ雑巾のように捨てた。……身を尽くし心を尽くし、必死でがんばった結果がこれだ。……いつも、これなんだ……っ」

「……それは」

「君の姉だってそうだった!」

 私が声を振り絞ると、ビクリと、華奢な肩が激しく揺れた。

「……もうわかってるだろ? 私と、君の姉がどういう関係だったか」

「……知って、ました……」

「ふん。なるほどな。知ってて、私を利用しようと近づいたってわけか」

「違います! 違うんです……お願いです……信じて、ください……っ」

 言い切って軽く咳を落とす彼女はもう、私を見ていなかった。見ていられなかったのかもしれない。

 うつむき、唇を噛む彼女の姿に、わずかに心が揺れる。

 だが

「もう良い」

 私はそう区切り、震える声を限界まで抑えつつ、最後の、一押しを……


「射場の人間を信じようとした、私がバカだった」


 瞬間、私の視界が、

 鋭い激痛とともに、大きく揺らいだ。

 手をあげたのは、羽々音本人じゃなかった。

だがある意味で、予想していた、私を殴りつけるのに、もっとも『らしい』女。

 村雨雫だった。

 痛いのはこの女自身だろうに。振り下ろした拳は骨に当たって、赤く腫れ上がっていた。

「……わたしにヒドイこと言うのは良いよ。でも今の一言は……最低……サイアク」

「……知ってて言ったんだよ」

「……っ!」

 親の敵を見るように、激しい憎悪が私という一点に向けられる。

「もう良いっ! もう絶交だよっ! 二度と顔見せんなっ、バカッッ!」

 子どもじみた捨て台詞を吐いて、彼女は私よりも先に部屋から駆け出ていった。


 特に反応するでもなく、雪路がそれを横目で見送る。

 羽々音は、わずかに顔を上げて私に視線を向けた。

「行けよ。……これ以上誰かを裏切りたくないならな」

 私がそう顎で促すと、彼女の足が外に向く。

 この期に及んで私に礼儀正しく一礼すると咳ひとつ、蝶の羽ばたきのように残し、遠のく足音を、迷わず追っていった。

 もうこの部屋に残っているのは、私と、追える足を持たない雪路だけだった。


「……オレも追わなきゃダメ?」

 肩をすくめ、車椅子の美少年はとぼけた顔をする。

「……勝手にしろ」

 と私は吐き捨てた。

「あのさ、ナミさん」

「なんだよ」


「それが『自分を許せない手』ってヤツ?」


 指摘されて、初めて自覚する。

 痛み。

 食い込む爪。

 皮膚を破って流れ出てしたたる、血。


 それを拭うこともできずに、私は舌を鳴らす。

「……なんで気づいた?」

「なんでってそりゃオレ、ナミさんのことが大好きだからニャー。……もっともイバちゃんはアンタのことが好きすぎて気づかなかったみたいだけど。そこはホレ、オレは年長者のヨユーってヤツかしらん?」

 と、いつもの雪路のノリだ。

 そんな彼を見てどこか安心している自分に、むしょうに腹が立った。

「やっぱ、演技だったんだ」

「……当たり前だろ」

 ――物事の帰結は、結局のところ自分の行動いかんによるものだ。

 不幸だなんだ言うのは、自分の行動を正当化したいか、『私こんなに苦労してます』って、自己満のアピールっていうのが、私の考えだ。

 だから私は自分の不幸を嘆いたりなんて、しない。

 まして誰かを憎むなど……

 ――悪いのはすべて、考え無しにこの結末へ導いた、私だ。


「で?」と、

 車椅子を回し、彼は私に接近した。

「オレになんか手伝えること、ある?」

「は?」

「とぼけちゃって。まだ、諦めてないでしょ。何か考えがあるから、彼女たちやオレを突き放そうとしてる。……違う?」

「…………ただの思い違いだろ」

「どーだろね。まぁ、なんでも良いから言ってみなよ。足手まといにはならないからさ」

 楽しげに、私の顔を下から覗き込む。

 わずかに、息が漏れる。

 そんな自分を戒めて、私は、彼に告げた。

「雪路」

「んー?」


「お前、もう辞めろ」


 私の言葉を聞いた瞬間、雪路の笑顔に、陰りが宿った。

「お前、もう大学の準備とか、色々あるだろ。『識』がどうのより、まず足と、進路の方が大事なんだからな。こんな無駄な詮索してるヒマがあるなら、英単語のひとつ覚えろって話だ」

「……ふーん……」

 つまらなさそうに鼻を鳴らしたかと思えば、ニッコリ笑って、再度私に接近した。

「ね? ナミさん。ちょっと屈んでよ?」

「は? なんでだよ」

「いーから! ほら、早く!」

 しぶしぶ、私は足をわずかに折り曲げた。

「あーもー、そこじゃ届かないって! ほらもっと下!」

「ったく」

 言われるがままに、腰を屈めて跪き、雪路の視線の高さに合わせる。


 飛んできたのは、拳だった。


 頬を殴られ、地面をすべる。

 ささくれだったフローリングのトゲが、わずかに顔に突き刺さる。

 ――正直、この一撃は予想していなかった。

「……なかなか良いパンチするじゃねーか」

「そりゃ、鍛えられるところは、鍛えてますから」

 雫ほどではないものの赤くなった手を振って息を吹きかけている。

 涼しい顔で

「あースッキリした」

 と、

 臆面もなく彼は言い放つ。

 それから少し寂しげに、目を細めて私を見下ろした。

「……ナミさん、言ったじゃん。『自分だけじゃ、自分の視界でしか世界を見られない』って……そう言ってくれたアンタが、こんなつまんないマネしちゃ、ダメじゃんか……」

 起き上がる私の前から、ゆっくりと、雪路が遠のいていく。

「イバちゃんの分も含めて、今のでオレのムカつきは精算したから。言われなくてももうこんなことには関わらないよ。そいじゃ、まったねー」

 別れは、ずいぶんアッサリとしていた。

 だからこそ、雪路らしいとも言える。

 私にはもう、呼び止めることも、追い抜いて部屋を出ることもできない。

 三人が完全に離ればなれになるまで、それを何も出来ずに見届けることしかできない。


 ――いや、これで良い。

 これで、今後彼らがこの活動に関わることはない。

 また、一人に戻るだけだ。

 また、身を退くだけだ。

 かつての梓と、同じように。

 私一人が潰れて消えれば、すべてがきれいに片がついて、元通りになる。

 ――私一人で、いい……。


■■■


「……その頬、どうかしたのかい?」

 理事長室。

 流石に異変に感づいたのか、重藤が、怪訝そうに私を見ていた。

 高級そうなソファをきしませ、「まぁいい」と肩をすぼめる。


 その理事長の脇に、一人青年が立っている。

 ルックスは良い。

 背も高く、スラリと伸びている。

 赤く染めた髪が、輝く灰色の瞳が、まるで冒険もののアニメの主人公を思わせた。

 ただ、それだけの男。

 芦田直人。


「お久しぶりっス。花見先輩!」

 相変わらず、無駄に騒がしい男だ。

 この射場重藤や小山田純とは、とてもイヤな思い出が多い。

 だがこの男には、イヤな思い出しかない。

 去る私がそう思うのも妙ではあるけど……不安が拭えない。


「今まで俺の代わりにご苦労様でしたっ! 俺が復帰したからには、花見先輩の負け分を挽回してみせますよ」

「……あぁそうかい」

 私の露骨な嫌悪が、この男には見えていないのか。

 その無駄な光輝は、少しも収まるところを知らない。

 あらかじめ用意していたマニュアルを出力したものを、私は芦田に手渡した。

「ここ最近の『切札』の動き、出現パターン、そしてそれらの対処方法と各実戦のレポート、すべてこいつに詰まってる。できることならこれをよく読んでくれ。……人間、できることとできないことがあるのを忘れんなよ」

「…………なるほど。典型的なマニュアル主義。頭の固いガンコジジイの発想だ」

 表紙の文面すらまともに見た気配もなく、後任の男は言った。


「でも、マニュアルよりももっと大切なことがあるんじゃないスか? 大切なのは、実戦と、経験と、そして熱意です。悪討つべしと唱えて進めば、自然皆の心は一つとなり、士気は高まる。そんなことも分からないとは……ふっ、いや失礼。いささか前線知らずと言わざるをえませんよ。自分は後方にいてノンビリと構えてるなんて、俺にはとてもできないなぁ。でも安心してください。こんなもの見なくても、俺ならもっと面白くしてみせますよっ」


 ――芸術家気取りのクソドラマの監督みたいなこと言いやがって……

 早口でまくし立てる芦田に対し、私はヤツの病気の悪化を感じざるをえない。

 ――このまま、ヤツに任せてしまっても良いというのか?


 だが、もう後戻りはできない。

 さっさとこの紙の束を渡して帰ろう。

 元の生活に戻ろう。

 だから、

 これを、

 『カフェ・シャレード』を、

 手放せ

 手放せ

 手放せ

 手放せ

 手放せ

 手放せ……手放せ…………手放せ!


 ――手が離れない。

 指が、まだ未練をもってしがみついている。

 歯の根が鳴り、振動が全身に伝わる。

 ――渡したくない。

 強く掴み直したその手から、第三者がさっさとそれをもぎとった。

「……これは、僕の方で処分しておこう。芦田くん、今日から君を、正式に『プロジェント・シキガミ』の教導官に任命する。また君の活躍が見られることを、うれしく思う」

「はいっ! 正義のため、彼らと共に一身をなげうつ覚悟です!」

 盛り上がる二人をよそに、空虚感を、私はその手に掴んでいた。


 しかし、芦田の言うとおりだ。

 今さら私の復帰なんて、誰も望んじゃいない。

 重藤も

 雫も

 雪路も

 …………羽々音、も。

 結局私は、彼らに半端に期待させて、強い失望を与えただけだった。

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