仮面舞踏会 午前の部「女優、克己(前編)」
土曜日の昼。貴重な時間を無意味に過ごすことに、焦りを覚える一方で、妙に体感する時間はゆったりとしている。
――それが例え、学校の中でも。
「へぷっぷー」
2-1の教室。
赤ペンを走らせる私の目の前で、唯一の登校生徒である村雨雫は頬杖ついて、口を尖らせている。
「どうしてタマのお休みを、ハナミンと過ごさなきゃなんないのよー」
「仕方ないだろ。お前、学力テストの時ロケに行ってたんだから、こんな日でもとらなきゃテストなんてできなかっただろ。私だって、お前とこんな時間過ごすくらいなら、ウーパールーパー相手に一日中話しかけてる方がまだ有意義に思えてくる」
「……毎回思うけど、ハナミンのそのテのジョーダン、割とつまんないからっ!」
「冗談で言ったつもりはないんだけどな」
そうこうしているうちに、国語の採点は終わる。
解答用紙をまとめていると、ずいと少女は教壇に身を寄せる。
「で、で、どーだった?」
「……正直ネタにもならない微妙さだな。ギャップがあるほど高得点じゃない。笑ってやれる珍解答もない。ったく、どうコメントして良いか判断に困るもの書くなよ」
「ネタ目当てでやってないから! マジでやってるから、それ! だからハナミンもマジメに答えてよ」
「そうだな……小説と漢文で点数稼いでる一方で、現代文や古典での失点が手痛いな。ま、サルに日本語を理解しろというのも酷な話だが、古典的なギャグをやるクセに、古典が低いとか……」
「ハナミンはまじめにやって点数上げて、余計な一言でゼロに戻すよね」
雫はそう私に切り返した。
落ち着きができたのは結構なことだが、それが互いに慣れた結果だと思うと、とてもやり切れない。
「あ、そう言えばずっと言いそびれてたんだけどさ」
「なんだ」
「バネちゃんの身体、キレイだった?」
私は机に足を引っ掛けて思わずコケた。
「ななな、何言ってんだ!?」
「だって最初の頃、ハダカ見たんでしょ?」
「確かにそんなこともあったが、なんでお前が知ってんだ!?」
「だって本人がメール送ってきたもん」
起き上がりかけにまた衝撃の事実を知らされて、床を滑って頭を机の角に打ちつける。プリントが宙に舞い踊る。
「見る? バネちゃんの顔文字とか、わたし初めて見たよ」
「なんだあいつは!? 痴女か、痴女なのか!?」
よろよろと、起き上がる私を、雫の低温の視線が見下ろしている。
「むしろ、純情乙女だよ。何年越しの片思いだってのよ。ねぇ、いい加減ハナミンも気付いてるでしょ?」
「なんのことかサッパリわかりませんね!」
「ったく、バネちゃんもユキセンパイも、こんな男の何が良いんだろうね。この顔のレベルなら掃いて捨てるほどいるのに。オマケに目つきも悪けりゃ口も悪い。態度も、総合的に見て性格も悪い。わたしだったら、も少しマシなの選ぶよ。……あ、だから寝取られたのか」
「お前は良いよなぁ。どう転んでも恋愛なんて無縁だもんな。……いや、相手はいたな。日光か犬山のお友達か、それとも獣姦趣味のド変態か。なるほどよりどりみどりだなぁ」
「あははは」
「ははは」
「……」
「……」
「死ねぃ!」
「このクソ猿がぁっ!」
互いに肩を掴み合い、取っ組み合う。
互いの額がぶつかるぐらいに揺さぶり合い、罵り合う。
そんな中で、
ガラリと、
教室の戸が開く。
理事長の射場重藤が顔を覗かせる。
にこやかなその目に、手を組ませ合う私たちの姿はどう映ったのか。
笑んで、物言わずネクタイを緩めている。
ただわかることは、私が数秒後、構えたその拳でブン殴られるということだけだ。
■■■
「どうかなさったの? そこのひと」
「いやぁ、この男が娘さんによからぬことをしようとしていたもので」
「誰がするか」
腫れる頬の熱が引く前に私と雫が連れていかれたのは、応接間。
いかにもな黒革のソファに、脚を組んで、上等なスーツをまとった女は座っていた。
私の隣で、まるで重罪人を捕らえた憲兵隊長か何かのように、重藤が控えていた。
「それはそれは……また物好きな」
「ママ!?」
そうだ。
この女は、村雨雫の母にして、村雨興業社長。昭和を生きた名優。
村雨理美。
娘と同じく切りそろえた短い髪。目元や眉のつくり、唇の色、形も似ている。だが受ける印象は真逆だ。
五十は過ぎているはずだが、全身から理知と厳格さと、自信と才気を周囲に発している。
それに当てられたか、立ちすくむ理事長もどこかそわそわとしている。
「優秀な自分の言うことなすこと、すべて正しい」
語らぬままに、そんな己の信条を語っているような気がした。正直言って、苦手なタイプだ。
そしてまだ、安心できない。
「冗談ですよ。……花見大悟先生ですね。お噂は娘と息子よりかねがね」
「……」
「どうかなさいました?」
「いえ。アレとコレの母親と聞いたら、突如発狂しかねないなと身構えています」
「花見くん!」
重藤が私をたしなめる。言われた本人は、口に手を当て、上品に笑う。
「まぁ、それは……返す言葉もございません。無理らしからぬことですわね」
「ママ!?」
――どうやら娘と息子の変態性については把握はしているようだ。
ほんの少し安心して、構えを解いた。
「どうですか? 娘の様子は」
「最近だと、突然教室の窓から池に飛び込む。音楽でもないのに歌い出す。山に向かって吼えたと思えば、クラスメイトの頭にのぼってクチャクチャ髪を噛み始める。まぁそんなところでしょうか」
「ママ、こいつ訴えようよっ! きっと勝てる!」
「よかった。普段どおりですのね」
「ママ!?」
「冗談よ。それにしても、あなたも冗談がお好きなのね」
「いえ、冗談ではないんですが」
私が真顔でそう言うと、娘は睨み、母はますます笑う。
「あなた、ずいぶん勇気あるわね。この様子じゃ、カメラの前でも萎縮しないわね」
「何が、言いたいので?」
回りくどい言い回し。恐々しながら問う私に、彼女は驚くべきことを、こともなげに言い放った。
「貴方、そこの雫と一緒に今度バラエティに出なさい。教師と生徒がワンペアとなって挑むクイズ番組です」
「ちょっ……」
「ちょっと待ってよママ!」
テーブルに手を突いて、私よりも先に雫が反応した。
「なんでわたしがこんなのと一緒に出なきゃいけないのよ!?」
「だそうですが? それに、こいつは今までバラエティには無縁だったはず。どんな心変わりです?」
疑問を率直にぶつける。
すると、理美は美しい眉をひそめて、ため息を下に落とした。
「……ええ、そのはずでしたとも。なのに、ウチの専務が」
「パパが?」
「あの男と番組ディレクターが学生時代の友人らしくてね。二つ返事でオーケーしたそうよ。ったく、あのボンクラ使えないうえに余計な面倒増やすんだから」
仮にも亭主相手に、恐ろしく温度の低い言い方をする。
それは身内に対する遠慮のなさのためか、それとも単純に人間として優しくするのに値しない人物なのか。
嫁どころか彼女もいない私に、その辺の機微がわかるわけがない。
だが、私がこのゴタゴタに巻き込まれるのは、なんとしてでも回避したい。
「……ならば断れば良いのでは」
「もう断れるような段階にありませんもの。断れば今後の出演にも響きますわ。それに」
「それに?」
「タマには良いと思うのも、確かですの」
――なんだ、やっぱりノリ気じゃないか。
「知ってのとおり、この雫は、俗っぽい言い方をすれば『清純派』で売っている娘です。そんな娘が、アクシデント、アドリブに満ちた番組でもなお、その顔を維持できるか、その役者の腕を見てみたい。そう思っています」
「だからって、なんで私なんですか?」
「そうですよ!」
と乗り出したのは、私の隣に立っていた射場重藤だった。
「この男は見ての通りの無礼なヤツでして、どんな粗相をするかもしれません! あぁ、僕で良ければそのクイズとやらに挑戦しますよ! 彼女と僕の娘は友人で、彼女自身とも交流がある。何より母親である貴方の関連の問題が出ても対処できるくらいの知識はありますよ! そう、特にあなたの晩年の作品『砂の目玉』! アレは良かった! 脚本、演出、そして貴方自身の演技とアドリブ! どれをとっても完成していて、例えるならば一つの宝石のようなものでした! 他にも」
――と、ずいぶん早口で弁舌をふるう。
そう言えば、射場家のリビングにはさっき言った映画も含め、多くの理美主演作品のDVDがあった気がする。
記憶に新しいのは、そのせいか。
「……と、あなたの下僕その一が言ってますが?」
「ぐっ! ね、ねっ、こんなこと言う人間なんですよ!?」
「お気持ちは嬉しいけれど理事長。……遠慮しておきますわ」
「な、なんでよ!? わたしもこいつよりはバネちゃんのパパさんが良いと思うよ?」
私の顔に差された指を、手で払いのける。
「ご覧のとおり、この娘はわたしでも手のかかる子。いえ、手に余ります。役者としても未熟で、いつ素が出るかもわからないし、その素を知る人間も限られてくる。その点花見先生はよくご存じで、操縦の仕方も心得ていらっしゃるわ。マネージャーである信夫に代役を頼むという手もありますが、信夫はこの娘の兄として顔が知られていますし、何より別用で当日は出かけますので……やはり花見先生以上の適役はいなくってよ?」
「……はっきり言いますけど、そこまで苦労するなんて路線の進ませ方間違えたのでは?」
「……今更悔いても仕方ありません。コーギーの血を引く犬が総じて短足になるように、あの男の血を引く以上娘がバカになるのは宿命だったのでしょう」
「ママ!?」
「それに、貴方を選ぶのは他にも理由がありますの」
「そいつは良い。ぜひともこの平凡な人間を挙げる理由を知りたいもんだ」
皮肉で言ったはずの言葉。そのニュアンスが伝わらないわけがないのに、その名優は、ニッコリと、そしてハッキリと口にした。
まるでそれが決定事項のように。法令を民衆に伝える女王の布告のように。
「あなた、ウソがお上手ですもの」
そう、言い切った。
「……は?」
「ウソって……プフーッ! ママ、こいつほど思ってることが顔に出る人間もいないよっ」
「だから貴方はまだまだなのよ」
「んぐッ」と、雫が声を詰まらせる。
「そうね。だいたいは顔や言葉に出るのかもしれない。でも……本当に守りたいものに関しては、どうなのかしらね? 守るべき秘密は……大切な約束とかは、軽率な性質のご自分そのものを欺いてでも、守りきる。……そんな気がするわ」
「……買いかぶりですよ。何を根拠に?」
「さぁ? 役者の勘と、女の勘かしら?」
――思ったより気は合いそうだが、どうにも調子が狂う。
くだらない見世物に出演させられるよりも、今この妙な場でアレコレ詮索される方が、よっぽどか苦痛に思える。
「……分かりました。ただし一度きりです。次はないですよ」
「えぇー!? ハナミン受けんのー!?」
「と、言ってますが、当日この女の口は縫い合わせた方が良いのでは?」
「大丈夫ですよ。腐ってもプロ意識はありますから」
「腐るどころか成熟もしてないよ!?」
すべてが用意されたような答えだった。
どうにも、事の始まりから終わりまで、この女の描くシナリオどおりに展開が回されたような気がする。
■■■
日曜当日。
――また貴重な休日が、こうして理不尽に奪われていく。
「……客はカボチャ、スタッフはカボチャ、共演者もカボチャ……私もカボチャア!」
「……プロ意識?」
控え室で己に暗示をかける雫に呆れつつ、部屋を後にする。
そこでは撮影の準備が着々と行われていて、私でけ、なんだか部外者のような気がして居心地が悪い。
「お疲れ様です」
と、そこに駆け寄ってくる女子生徒が、一人。
射場羽々音。
後ろで手を組んだまま、相変わらずニコニコとしている。
今日は休みのはずなのに、学校の制服を着用だ。
「……ほんとならまだ疲れる前だけどな。で、君がどうしてここに?」
「学校を代表して、番組のお手伝いに。なーんて! ほんとはちょっと父さんに無理言って来ちゃいました。せっかく大悟さんとしーさんが共演するんだし」
「学校を代表して、か」
見慣れた廊下のタイル。
見慣れた教室のドア。
見慣れた掲示板。
見慣れたゲタ箱。
――というか、国原中央学院だ。
「なんでロケ地ここなんだよ……」
「父さんが場所を提供したんですよ。学院への良い宣伝になるからって」
ゲタ箱の向こうに目を向けると、よく見るクイズ番組のセットが立てられている。空の下、なんでこんなことをしなきゃならないんだろうか。
看板には『業界対抗! 学校対抗! スクールウォーズッ!』とある。
バカらしいことに『ッ』や『!』もタイトルに含むらしい。
各分野の著名人の中で現役の学生とその教師がペアを組み、クイズ形式で番組を運んでいく……らしい。
こんなド田舎の民放でも鼻で嗤われるレベルのクソ企画がどうしたら通ったのかのかはさておき、私がこの番組の進行の中で求められているものは、二つ。
一つ、村雨雫の『素』を出さないこと。これは大前提だろう。
だがその大前提とやらを死守することが困難だ。
二つ目、成績上位を狙うこと。
清純派俳優ゆえに、あまり周囲がヒくようなレベルのバカさを露呈させないこと。
――親すら認める根っからのバカのどこを、どう矯正しろと?
「大悟さん、あの人、知ってます?」
羽々音が廊下の壁にもたれた少年に視線を向ける。
脱色した髪。赤い学ラン姿。詰め襟の校章からすると、王水学園の生徒か。
この近辺の私立学校だ
雪路と違ったタイプの、りりしい感じの美形だが、顔に見覚えはない。
「……昔頼んだピザ屋の宅配か?」
「頼んでないですってば。アイドルの香流成海さんですよ。大悟さんが今日共演する」
「知らないな」
「大悟さん、テレビ見ないからなぁ」
「君はあぁ言うのが好みなのか? なら、食事にでも誘いに行けば良い」
「……いじわる」
何がイジワルなのか、皆目見当がつかない……いや、極力考えないようにしながら「冗談だ」と、口を尖らせる羽々音に向かって肩をすくめる。
「しかし、あいつ大丈夫なのか?」
控えとして使っている教室からは、呪文のように暗示が漏れ聞こえている。
チラチラと、香流とやらを始め番組スタッフも気になっているようだが、内容までは聞こえてこないし、特別干渉しようという雰囲気もない。
「大丈夫ですよ。彼女、プロですから」
「……プロ、ね」
雫の父親についても、一応の調べはつけてある。
古河善氏。
芸名だ。
元は歌舞伎の家柄だったが、どんな理由か知らないが破門、絶縁されている。
その後芸能界でマルチタレントとしてほどほどに活躍していて、結婚を機に引退している。母親の方が引退したのはその数年後の話だ。
……しかし破門とは、一体何をしでかしたのか。
「ウワオッ!」
「!?」
突然、背後から奇声が浴びせられる。
羽々音と一緒に振り返って見てみれば、
三日月の前立てがついた兜をかぶり、
ニンジャの覆面で顔を覆った、
紋付き姿の男が
模造刀両手に構えて、
頭を上下していて、
「ウワオ! ウワオ! イエス! イエス! ハラキリ! フジヤーマ! ……カレーライスッ! ウオォォォォッ!」
――警察よりも黄色い救急車が必要かもしれない。
羽々音の顔に視線を送り、どちらを呼ぶべきか意見を求める。しかし彼女は冷静そのもので、優雅に笑って、
「お久しぶりです。おじさん」
頭を下げた。
「やー羽々音ちゃん。相変わらず笑顔が素敵だねぇ」
低く済んだ男の声に、ギャップ以外何も感じない。
「え? なに? 知り合い?」
「はい。しーさんのお父さんで、古河善氏さんです」
――また濃いのが来たなぁ。
だが覆面を外した男の顔は、頬はやや垂れているが、一般的な中年のものだ。
「あっ、これは失礼。日本の方でしたか。いやー、娘がハナミンハナミン言うもんだから、てっきりどこか別のお国の人かと思い、日本式のあいさつをと……驚かせてしまいましたな」
「そうですね。まさか破門の理由が数秒で解決するとは思いませんでした」
そして遺伝の比率も、なんとなく見えてくる。
「あぁ、破門! お若い方はご存じないでしょうが、カブキとは、元来『傾奇』、すなわち人がマネをしない行動こそが語源となっています。わたしはその言葉に忠実に生きているだけなのに!」
「いや、語源は知ってますよ。でも確信して言えますが、この場に観阿弥と世阿弥がいれば、泣くかその刀取り上げてあなたの脳天に叩き込むでしょうね」
「HAッHAッHA! 雫の言うとおりユニークな方のようだっ! 今日はひとつ、よろしくお願いします!」
「……だから冗談で言ってるわけじゃないんですけど」
「それでは……レッツパーリィィィィィィ……を、楽しんでください。ではでは」
嵐のような男が、スキップしながら去っていく。
その様子を、私はただ呆然と見送るしかなかった。
「……あれとよく結婚したな。理美さん」
「でも、企画力と人脈はスゴイらしいですよ」
「いやぁ、仕事のスキルうんぬんでどうにか出来る問題でもないだろ。アレは」
まったく、他人の恋愛というものは理解に苦しむ。
「それはそうと羽々音ちゃん。せっかく来てくれたのに悪いが、君に頼みたいことがある」
「はい! 大悟さんの頼みなら、なんだって」
「……いや、そんな大したことじゃないんだけどな」
と、私は自分のスーツの胸ポケットから『緑札』一枚、抜き出して彼女に手渡す。
「もし雫が何かしくじるようなことがあれば、『識』であいつを撃ち抜いて欲しい」
「大したことじゃないですか」
流石に、羽々音であってもこの指示には怪訝な目を向けている。
「醜態さらすくらいならせめてもの慈悲と『白札』も用意したんだが」
「ならさら悪いです」
「まったくだ。あいつなんかのために君の手を汚すわけにもいかないと思ったんだ」
「いやいや、そうじゃなくて!」
なおも食い下がろうとする羽々音だったが、やがて、諦めたようにそのカードを自分の上着にしまい込む。
「……こんなもの使わなくても、きっと彼女なら大丈夫ですよ。大悟さんが、ちゃんとサポートしてあげれば」
「と言っても中身がアレだし、正直自信ない」
「もっとしーさんを信じてあげてくださいよ。ちゃんとプロなんですから」
「……」
気づけば、暗示の声は消えていた。
腕時計に目を落とすと、そろそろ時間だ。
「村雨さん、入りマース」
という、スタッフの声が廊下に届く。
そして引き戸がガラリ、音を立ててオープンした。
「皆さん、おはようございますっ! 本日も、がんばっていきましょう!」
――あれは、
――だれだ。
清潔感ある目鼻立ちは忘れがちだが元々村雨雫のものだ。
髪はつややかな黒い長髪。ウィッグをつけているのか。それを一つに束ねて後ろに回している。
伊達メガネも外している。
それでも問題というほどじゃない。
雰囲気からして、まるで別人なのだ。
笑顔からして、周囲に拡散する清浄さが段違いだ。
一個の清楚な美少女が、それぞれの部品をピッタリ合わせ、コンマミリのズレも許さずヤスリで削り、そのうえで組み合わせたように完成されていた。
そんな女が納豆パンくわえて疾走したり、
そんな女が突然奇声を放ったり、
そんな女がケツとか連呼したり、
そんな女が泊まりに行くのに下着を忘れたり、
そんな女がセミを食ったり
――するだろうか?
なんだか自分の記憶を疑いたくなるような、乖離っぷりだ。
「ね?」
念押しするように、羽々音が私に満点の笑みを向ける。
そんな私たち二人に、雫のようなモノは近寄ってくる。
「あの、花見先生?」
「は、花見、センセイだぁ!?」
「はい。いつもそう呼んでるじゃないですか?」
本当に不思議そうに、村雨雫は首を傾げる。
ウソをつけと言えるような空気が、そこにはない。いつものようにポンポン好きなこと言えるような雰囲気がない。
息苦しさを、覚えた。
だがこれは演技だ。
なら、私もしなきゃならない。
「い、いやなんでもない」
「そうですか。それじゃっ、みんな待ってるんでそろそろ行きましょ?」
優雅に微笑み、一人外へ。
――頭の痛みが、ひどくなっていく。
「……ちょっとトイレ行ってくる」
「お腹の調子悪いんですか?」
「いや、吐きたくなってきた」




