第七講「教職員、合宿(中編)」
午前十一時きっかり。
「……どういうつもりですか?」
私は、丸い大岩に背をもたれさせる射場重藤を問い詰める。
小川のせせらぎも、鳥のささやきも、風流を解さぬ私たちには無意味なもので、そもそも感動を共有するような間柄でもないだろう。
「……なにがだい?」
「どういうつもりで、あの女を実習生として迎え入れたんです?」
「ほう。それじゃ、君の手引きではなかったのかい?」
「なに?」
「僕も昨日知ったばかりだよ。押した覚えのない判と、書いた覚えのないサインが書かれた書類が僕のオフィスに送られてきた時の驚きと言ったら……はらわたがずり落ちる感覚って、あぁいうことを言うのかなぁ……」
その愁眉に曇る顔色に、虚偽はなさそうだ。
とすれば、誰か重藤の名を借りて文書を偽造して、この学校にあの女を送り込んだ人間がいる。
それは彼女自身か、あるいは……
「まぁそんなわけで僕も彼女を監視するためにここに来た。注意はしておくけど、いつまでも見続けているわけにもいかない。そこは頼まれてくれるね」
重藤が髪の生え際を気にしながら、クールに振る舞うので思わず噴き出す。
小山田かすみに前髪掴まれた際の恐怖が、いつまでも残っているのだろう。
「……何がおかしいのかな?」
「いえいえ、なんでもありません」
私がそう言った時、その上の丘から、声がかかる。
「もー! ハナミン! 遊んでないで火おこすぐらい手伝ってよぉーっ!」
村雨雫。
こいつと羽々音、あと雪路と一年坊主が、私たちと同じチームに入っている。
本来は各学年一人に教師一人ずつという組み合わせだが、今回はグループからはぐれた射場羽々音が入ることになった。
もちろん、意図的にあぶれたに違いない。
すなわちほぼ『カフェ・シャレード』のメンツで構成されているわけだ。
あとは……。
■■■
――イヤガラセかと思った。
というか、そうとしか思えなかった。
自分たち顔をいぶすようにしながら、その『六人』は、少し歪んだ鉄板の上、野菜と麺が焼けるのを待っていた。
私。
羽々音。
雫。
雪路。
一年女子、坂巻穂波。
そして……小山田かすみ。
「……」
今朝のバカ丁寧なあいさつはどこへやら、腕組みの状態で、むっつり黙りこくっている。
――監視丸投げかよ。
横槍が飛んでこないのは結構だが。
それとも、何か別の目的が……?
ちらりと横目を彼女に入れる。
すかさず、拳が飛んできて、
「ぶへっ」
したたかに、顔を地面に打ち付ける。
返す刀で
「なんでわたしがァァ!?」
雫がぶたれる。
「な、なにかしたんですか? この人たち」
坂巻が怪訝そうな目で、被害者である私たちを見る。
「さぁ……」
羽々音は私を抱え起こしながら小山田に珍しく険しい目を向けていた。
「まっ、気にしたらマケって気もするし」
車椅子の上で、雪路が鉄板を箸でつついたりしている。
しばらく、そんな調子だった。
普段は会話が途切れるようなメンツでも、初対面相手に恥ずかしがる殊勝さのあるような奴らでもない。
ただ一人、異物が混入するだけで、こうも気まずい雰囲気になるのか。
無言で肉と、野菜と、麺をヘラでかき混ぜる。
「……ねーハナミン。他の班みんな食べてるよー。わたしもうお腹ペコペコ」
話題作りのためなのか、あえて雫が突っ込んでみせる。
「じゃあそこの樹、季節外れのセミがいたから食ったらどうだ?」
せっかくだから乗ってみる。
「食べるわけないでしょうがっ! そんなのもう卒業したよっ!」
そうかそうか、もう卒業したか……
……
…………
………………
「…………お前、今なんつった…………もう? ……卒業?」
「えっ?」
「えっ」
「え」
「え」
「……」
全員が、一斉に雫の顔を見る。
「え、まさか……食べたことないの? ……みんな、セミ食べたことないのっ!?」
「食ったこともねぇし『信じられない』って顔される言われもねぇよ! 信じられないのはこっちだよッ!」
雫は目を見開いたままで、何度も首を振った。
「なんで!? 小学生の頃、若気の至りでやったりしたでしょ!? ねぇっ!」
「やらねぇよ! やっても公園のツツジの蜜吸ったりしてただけだよっ!」
「……うわ、引くわー」
「お前に引かれるほどじゃねぇよっ!」
「なんでよ!? 世界には食用のセミとかもあるんだよ!?」
「食に困らない社長令嬢があえてセミを食おうとする意味がわかんねぇんだよッッッ!」
「あ、それで思い出したんだけどさ。抹茶アイスの緑って、カイコのフンらしいね」
雪路が、要らん爆弾を投下する。
「え、ユキセンパイ、それマジで?」
「そういえばお前この間、おやつに抹茶アイス食ってたよな? はっ、セミに続いてとんだスカト」
言葉が、一撃の拳のもと、身体ごと吹き飛んだ。
「ぶへっ!」
私は再度地面を転がり、角張った石とキスをする。
返す刀で、強烈なアッパーが雫に。
「なんでわたしが!?」
――いや、この場合、そこそこ正当な理由だろう。
「……申し訳ございません。虫がうるさかったもので」
しばらくぶりに聞いていなかった小山田の娘の言葉は、重く、冷たかった。
焼きそばというものを、久々に焼いた気がする。
というより、少人数で囲う料理を食べる機会はそんなにも多くない。
だがタレの甘い麺を噛む度、思い出されるのは、
殴られた痛み、
パシられ、良いように使われた十神時代のバーベキューパーティー、
……そして、セミ。
他の奴らも、他の班ほどあまり愉快な顔はしていない。
あの会話の中心にいた私ですら、ちょっと後悔している。
だが沈黙ゆえに、見えてくるものもある。
たとえば『識』とはまったくの無関係者である坂巻穂波。
この中では一番の小柄だ。
一年生だから仕方ないのかもしれないが、それにしたって他の一年女子と比べてみても小さい。中学生どころか小学生だ。アウトドアだから仕方ないのかもしれないが、化粧っけの少ない童顔と、おさげにした黒髪がなおさらそれを助長させる。
気になるのは外見よりも、そのくりくりした目の動き。
……これで十二度。
この三十分中で、彼女が見た回数。
羽々音を挟む形で私の隣にいる、雪路橘平を。
「花見先生、おかわり要ります?」
「あ? あぁ、頼む」
私は羽々音に反射的に紙皿を差し出した。
そして、また感謝の言葉を忘れる。
「じーっ」
「じーっ」
そして雫と雪路の視線に挟まれる。
その雪路を、坂巻が見ている。
「それとだいぶ量少なくなりましたけど、三袋目、投入します?」
「……いや、いいわ」
「じゃ、そろそろ火落として」
ガタン、と。
元々静かだったその場に、物音が立つとより大きく聞こえる。
見ると、床几からかすこが立ち上がっている。
そしておもむろに胸元のチャックに手をかけて、いっきり引き下ろす。
「ちょっ!?」
「な、なにしてんですか!」
狼狽する私たちの上を、ジャージとTシャツがひらひらと舞う。
それに気取られていて、あわてて視線を下に戻した時にはもう、『変身』は、終わっていた。
ブリーツ付きの黒い上下に、V字の切れ込みが入ったエプロン。
そして頭にはおなじみのカチューシャ。
「うおっ、メイドさんだ!? ナミさん、メイドさんだよっ!」
「しかもヴィクトリアンだよヴィクトリアーンだよっ、ハナミン!」
「っつーかどっから持ってきたんだよ!?」
するとその即席メイドは、唐突に米袋を取り出し、鉄板の上にライスをブチまける。
「炒め始めましたよ先生!?」
「っつーかどっから持ってきたんだよ!?」
一見して乱暴な所作だが、米袋からの落下から、今に至るまで、米粒ひとつ地面に落下していない。ヘラを両手で使い、残りの具材と、余りの具材。すべてをかき混ぜ、ぐるぐると回す。熱した鉄板に顔を近づけているのに、汗一つかかず、涼しく料理している。
仕上げに、ペットボトルに入ったドロドロの液体を、時計回りに、円を描くように振りかけていく。
「特製だよっ! きっと特製の秘伝のタレだよハナミン!」
「連呼すんなっ! っつーかどっこから持ってきたんだよっ!」
気がつけば、食事を終えた奴らの注目の的になっている。
視線を気にしつつ、自らの皿に山のように盛られたそれを、まじまじと観察する。
そばめしだ。
なんかもっと上品なものができあがるのだと勝手に思い違いをしていたが、すごい普通のシメだ。
だがあの中途半端な甘さの、いかにもアレな焼きそばが、どうかわったのか。
――というか、毒が入っていない可能性も、否定ができないわけで。
おそるおそる、割り箸で一口。
瞬間、脳裏に電撃、走る。
「……おいしいっ!」
珍しく羽々音が大声で、私の声を代弁した。
「うんっ! おいしい! おいしいよハナミンっ!」
「だから連呼すんなって!」
だが確かに、美味い。
ただだらけて、媚びるように甘かったあの味に、はるかにメリハリがついていて、ピリピリ舌にくるのに、それが不快じゃない。
米の炒め加減も絶妙だ。
「お粗末様です」
と眉ひとつ動かさずに言った小山田かすみは、
「元の格好に戻ってる! 戻ってるよハナミン!」
「もう良いわ!」
いつの間にか、私たちのノリに戻っているし、食事的にも満足している。
――まさか狙ってやったわけじゃないだろうな?
だが、もう一人、坂巻穂波はどうだろうか?
この一連の流れ、一般人にはキツすぎるだろうに。
「……」
また、雪路を見ている。
「ナミさん! ヤッバイこれ、超ウマい! こんな飯なら、毎日でも食べたいねー!」
本人は、気づいていない。
そういえば、と思い出す。
坂巻は現サッカー部のマネージャー。同じサッカー部の雪路とは入れ替わるような形で入部したはずだが、二人には、何かしら接点があるのかもしれない。
いや、雪路は知らなくても、坂巻の十五回の注視には、何かしら意味がある。
ふと、その雪路と視線が合う。
「ん? ……にこー☆」
この脳天気なスマイルじゃ、たぶん心当たりどころか、視線にすら気づいてないだろう。
■■■
夕食は無難にレストランでバイキング。
それが済めば簡単なビンゴとクイズの後で、風呂。
そのやかましさから逃れるようにさっさと出ると、
「あ」
「あ」
同じく浴び終えた雫と鉢合わせて、さっぱとした清潔感が台無しになる。
「……まさかハナミン、私を覗いて!」
「あいにく私にゲテモノ趣味はない」
「現役俳優に向かって……この男はっ」
振り下ろされた拳を軽くかわし、夜露に濡れた草を踏む。
雫に追われ、こうして暗い中を歩いていると、短い距離の間でも、いかに自分が文明の明るさに慣れ親しんでいたかがわかる。
夜はまだまだ暖かさとはほど遠く、湯冷めしないように自然、足は速くなる。
「ん? あれっ」
「どうした?」
「あれだよ、あれっ。穂波ちゃんじゃない?」
確かに、私たちの班の女子が借りているコテージの中からあの坂巻穂波が出て行こうとしているところだった。
「何か持ってる」
だが私には、彼女の小柄さなシルエットが見えるだけで、そこまでは見えない。
「お前、眼鏡してるクセにどんな視力してるんだ」
「コレ? だって伊達だもん。変装用。同じクラスでも同姓同名の別人と思われてるみたいだし、バレないもんよ」
「……いや、それ眼鏡の問題じゃなくて、ただテレビのお前とギャップが違いすぎるだけだろ」
ともかく、今は何か持っている彼女のことだ。
あくまで常識的な視力を持つ私から目を凝らしてようやく見えるのは、抱きかかえるような彼女の仕草。そして、キョロキョロと、首を左右に振って周囲を確認しているそぶり。
さながらそれは、盗人のような……
「まさか、あのコテージから何か盗ったのか?」
「え? まさかサイフ!?」
「バカ! サイフは入浴時間中は職員が預かってるだろ!」
「じゃあ何を」
「『識札』」
「えぇっ! だって彼女、『識』とは関係ないんでしょっ?」
「たとえばの話。それに、まだ敵が何者なのかも判明してないんだ。誰であろうと可能性はゼロじゃないし、確かめるだけならタダだ。……追うぞ」
「あーん! せっかくお風呂入ったのに汚れちゃうー!」
「セミ食う女がナイーブなこと気にしてんじゃねぇっ!」
遠のいていく彼女の背を、私たちでコソコソと追う。
■■■
坂巻が向かったのは、昼食の後片付けの際、洗い場として使った場所だった。
蛾が舞っては身を焼く白熱灯の下、彼女は思い詰めた顔をしている。
私たちは外壁に身を隠し、その様子を陰から探る。
取り出したのはペットボトルだった。
麦茶にしては色が濃い。というより、どこかで見た色をしている。
「ハナミン、あれっ、小山田さんの!」
「……あぁ!」
雫に指摘されて、やっと気がつく。
昼間そばめしに使った、秘伝のタレ。
『識札』ではなかったが、それにしても、何故あんなものを……あんな顔で。
「これさえ、あれば……」
息を凝らして様子を窺う私たちに、
「誰!?」
坂巻が、鋭く声をあげる。
バレた。
と……
そう思いきや、向いている方向はまるで別だ。
反射的に顔を出そうとする雫の肩を隣から押さえつけて、慎重に、誰に向けられた誰何の声か、確かめる。
「申し訳ありません。部屋を出て行くのが見えたもので」
――小山田本人だ。
学校指定の黒い上下のジャージのまままだが、直立不動の堂々たる態度は、謝罪の意などまるで感じられず、王者のようである。
……メイドしていたくせに。
「お、小山田……先生」
「いかなるわけでそちらを持ち出したのか、お聞かせいただけないでしょうか?」
怒った様子はない。いつもどおりの静けさで、しかしじんわりとプレッシャーをかけて、彼女は、坂巻穂波に近づいていく。
「あ、あの……」
「なんでしょうか?」
「小山田先生! このタレの作り方! 教えて……ください」
「……はぁ?」
思わず声が出かかる口を、自らふさぐ。
なんで、そうなる?
料理好きなのだろうか?
「残念ながら、そちらは市販の濃口ソースとなっております」
「えっ、そうなの!? ふげぇっ」
雫の口を、私は強引に閉ざした。
「そんな……っそんなはずっ……だって、だってあの人は!」
「よろずの道に近道なし。すべては父に手ほどきを受けた自分の腕前によるものです」
誇るでもなく、事実を語るように。いやおそらくは事実を、小山田かすみは淡々と述べているに過ぎないのだろう。
唇を噛みしめ、ペットボトルを抱きかかえて、坂巻はうつむいている。
そんな彼女を、ただ冷ややかな二つの目が見下ろしていた。
「それに雪路橘平は、料理という要素ひとつで転ぶほど単純な男ではないですよ」
?
なぜ、今ヤツの名前が出てくる?
それに、坂巻の、彼に対する視線の理由もまだ解決してはいない。
……
…………
「あ」
二つを頭の中で並べてみて、やっと繋がる。
「え、まさかハナミン。昼間の時点で気づいてなかったの?」
呆れたような、雫の小声。コイバナは専門外とはいえ、こいつに見下されるのはなんかシャクだ。
「いや、視線には気づいてたんだ。うん。気づいてた。雪路は気づいてないみたいだったけど、私は気づいてた」
隣で、露骨なため息が聞こえる。
「ウチの男どもって、どうしてこんな鈍感なんだろ」
返す言葉もない。
――嗚呼、フラストレーションが溜まる……。
坂巻はというと、心の中身を見透かされ、羞恥心で首まで朱に染まっている。
ブルブル震えるその姿は、初々しくて、微笑ましい。
スナック菓子感覚でバージンを失っていく昨今、こういうウブな子も珍しい。
本人次第なのだから、前者が悪いとか、後者が正しいとかは言いたくない。
だが私にとって好意的なのは、坂巻穂波のような子だ。
――周囲の女は、プレデターとタイマン張れそうなぐらい強キャラだったり、セミ食ったり、ワケもなく殴ってきたりするし……
「聞かせていただけないでしょうか? あの男に好意を抱いた、そのいきさつを」
「え? な、なんでそんなこと」
「ただの個人的な理由、と言いたいのですが、自分の『職務』ですので」
「……そ、それって、ガッコの先生だから、ってこと、ですか?」
「どのようにとっていただいても構いません」
小山田の娘は、イエスともノーとも言わなかった。
数少ない彼女の言葉の中で、もっともあいまいな答え。
――あるいは『職務』とは、教師じゃなくて私と同じ……?
「ほらハナミン、ボケッとしないでよっ! 話始まるよ?」
――こいつのバカさ加減を見ていると、時々自分のやっていること、考えていることが虚しくなる。
だけど、雪路橘平のことを、私自身よく知っているわけじゃない。
だから小山田かすみではないが、その人となりを他人の話から探るのも悪くはないだろう。
「あなたと雪路橘平は、入れ替わりで部に入ったとうかがいました。……どこで接点が?」
「……ううん。雪路先輩は知らないんです。アタシが、勝手に好きになってるだけで、同じサッカー部ってことも、たぶん知らないんでしょうね」
「では、なぜ?」
「……実際に目にする前は、印象サイアクでした」
抱きかかえたソースに目を落とし、少し陰のある笑い方で、はっきりと言う。
「大事な大会控えておいて、よりにもよってサッカープレイヤーの命のはずの脚をケガするなんて、そんなヒト、スポーツマンとして失格だなって」
「同感です」
こちらの女性も、ずいぶんときっぱりと頷く。
坂巻と違い、その負傷には理不尽な理由があるのは知っているだろうに。ずいぶん酷な女だ。
「でも一度、入る前に部室覗いたら、その先輩がいたんです。……部室、掃除してるんですよ。泣きながら。車椅子から転げ落ちて、這うようにして雑巾で……涙が落ち続けていつまでもきれいにならないのに、同じ床ばっか拭いてて。その時、思ったんです。あぁこの人、本当にサッカーが好きで、好きで、諦め切れなくて、それでも諦めるしかなくて……そんな人、放っておけるワケないじゃないですか」
「なるほど」
分かったか、分かっていないのか。
かすみはあくまでクールだった。
感情というものをまるでコテージの中とかに置き忘れてしまったみたいな瞳が、坂巻をじっと見つめている。
その視線から逃れるように、坂巻は顔と目を伏せる。
「でも、雪路先輩の周りって最近、射場先輩とか、村雨先輩とかいて、特に村雨先輩、なんか女優さんやってるんじゃってウワサ聞くしで……なんか失礼なこと考えてたアタシとじゃ、釣り合わないのかなって」
「……いや、羽々音ちゃんはともかくこいつ相手なら近所のイモムシでも勝てるだろ。あいつ昼間に一体何見てたんだ」
「…………そろそろハナミンとは決着をつけなきゃって、最近つくづくそう思うよ」
私は雫を無視し、目の前の二人に注目する。
「色々申し上げたいことはありますが」
と、かすみは言った。
「他のお二人はともかく、まずあなたが行動しなければ、雪路橘平も気づかない。そもそも、あなたの視線に気づかないのだから、その鈍感さは折り紙つきです」
「……でも」
「よろしいですか。坂巻穂波」
その瞬間だけ、白熱灯に照らされていたかすみの顔は優しくなっていた。教師の顔だった。
そんな気がした。
「言葉にしなければ、伝わらないですよ」
私は、雫を見た。
雫も、私を見ていた。
二人顔を見合わせ微笑し、頷き合う。
そしておそらく、ほぼ同じ時に、同じ言葉が、頭に浮かんだだろう。
「お前が言うな」
と。
「でも、そんなにかんたんに告白できたら苦労しない、です」
「……そちらは、差し上げます」
小山田かすみは彼女の胸に抱きしめられる自らのソースを、人差し指で示す。
「え?」
「料理であの男を魅せたいというのであれば、せめて同じ素材であれぐらいは作るだけの力量は必要でしょう」
「小山田、先生……」
「確かにそれだけではないですが、言葉というのは口から出るものとは限らない。それを、どうか忘れぬよう」
「……はいっ!」
ようやく、少女の顔に笑みが浮かぶ。
暗がりに身をひそめてそれを認めた私たちは、音を立てず、身を屈めたままその場を去る。
「……ねぇハナミン」
「なんだよ?」
「小山田さん、なんかものっすごいふつうに喋ってたね……」
「……あいつ私たちが嫌いなだけなんじゃないか?」
■■■
雫と別れてコテージに戻る。
歩きながら、私は女達の会話を思い返す。
――あの雪路が泣くとは。
いや……そうだった。
男であろうと、いや男であるからこそ、それは涙を流して当然だった。
今まで積み上げてきたものが、それを基に描けるはずだった未来が。
大人の勝手な都合ですべて、ブチ壊されたのだから。
改めて、自分の所属する組織がどういうモノだったか、再確認する。
そして、ヘタをしたら自分も第二の雪路を生み出しかねないのだと、イヤになる。
――いや。
よそう。こんな風に考えるのは。
恐れがかえって、私を第二の芦田にする可能性は十分にある。
私はただ、私の仕事をすれば良い。
私の『仕事』を
『約束』を
「ッ……キャアアアアアアアアァァァ……ッ!」
悲鳴が、聞こえた。
全身が、凍り付いたようになった。
オクターブの違いこそあれ、それは間違いなく坂巻穂波の声だった。
「しまったっ!」
思わず口から言葉が滑り出る。
油断していた。
敵の規模も全容もわからないのに、勝手に頭の中でその活動範囲を限定させてしまっていた。
市内ならば十分に可能性はあった。
そして、私たちがおふざけしている間にも、襲撃も考えられた。
「……っ!」
杞憂であってくれと、腹の中で祈る。
だがどうしても、頭が楽観を受け付けない。
声のした方角には、森があった。
植林されてまっすぐ伸びたブナの樹と、小高い丘に囲まれるようにして、土がむき出しの、円形の広場。そこに、小山田かすみが手渡したはずの、市販のソースが、無造作に転がっていた。
駆け出さない。
駆け出せない。
弾む息を殺し、周囲を探る。
やがて、このまま待ち伏せを続けることへの無意味を悟ったのか、丘の上に人影が伸びた。
見覚えがある。
顔は見えないが、その服装に。
ライダースーツ。ヘルメット。そして夜風にたなびく、赤いマフラー。
小脇には、ぐったりとしたおさげの少女が抱えられていた。
「……よう、また会ったな。クソ野郎」
罵るも、正体を特定する反応は見られない。
それどころか。
「…………っ!」
罵声に対する礼は、包囲。
まったく同じ格好をした十数名が、丘の上から私を取り囲んでいた。




