第六講「教職員、合宿(前編)」
……そう、射場梓の妹は、昔から頭の良い子だった。
勉強の効率が、実に良い。何よりこちらの一言一句、すべて記憶したいというような意欲に満ちていた。
「はい、じゃ、今日はこれで終わり」
あまりに出来が良い教え子なもので、ストックが尽きて、予定より早く切り上げる。
「大悟さん、ありがとうございました」
とても小学生とは思えない礼儀正しさ行儀の良さで、彼女は私に一礼する。
私は頷き、足早に部屋を出た。
「もう終わりだよ、梓」
私の開けたドアを避けるようにして廊下の端、かつての恋人がいた。
私が高校生だった頃は大学生のくせにオサゲで、化粧気も少なかったが、今は髪も下ろして染めて、紅を口に塗っている。
手にしたトレイと、その上のカップとソーサーが三人分、揺れている。
そのたびに光の加減で、見せつけるように指のソレが輝いている。
「久しぶりだな。元気してたか?」
「う、うん。大悟くんこそ、その」
元気で、と言いそうな口を彼女はつぐんだように見えた。
それはそうだろう。
もし私が心身のバランスを崩しているなら、それは彼女自身の仕打ちのせいなのだから。
「よく、受けてくれたね。羽々音の家庭教師なんて」
「まぁ、任務だからな」
『各分家の結びつきを強化するため、各家の代表が別の家の子弟を一定期間教導する』
これは、十神戒音の考えたカリキュラムの一種だった。例えば、射場家と私はこれに基づいて、教え、教えられている。
「恨んでないの?」
感情に揺らぐ声が、逆に私を咎めるように聞こえてしまう。
「そりゃあ、恨み言のひとつも言いたいさ。十神の人事の異動やらでとてもそんなところまで頭を回してる余裕がないんで」
理屈のうえではまったくそのとおりなのだが、どうも私の口から出るその言葉は、端々に子供っぽさがにじんで、我ながら苦しいものになっている。
「第一、僕はアンタに選ばれなかった。それは事実だ」
「違うっ……それは、家の都合で……お願い、わかって」
「大丈夫。分かってる。家とか、権威とか富とか、それを上回るだけの器は僕にはなかった」
ただそれだけの話。
そう切って、私は言葉を継いだ。
「さっき、旦那さんに連絡つけておいたよ。『もう怒ってないから、そっちも許して欲しい』だそうで」
「……っ」
「披露宴の時に会ったけど、話してみると案外いい人だったよ。……ほら、行けって」
盆を彼女の手から奪い、その背を押す。
振り返るその顔が、一瞬何かにすがるような顔をしていて、こちらの心臓を、
ぎちり、
嫌な鼓動にさせる。
見間違うかと思うほどに、変化は劇的で、一瞬だった。
「大悟くん。私はあなたに何もあげられなかったけど、ただ一つ……ただ一つだけあげるのは、約束してあげる」
「何、を?」
「いのち」
聞き慣れていたはずなのに、どこか遠い言葉。
意味が飲めずに、ただ言葉だけが頭の中に下りてくる。
要らないよ、と。
そういう前に、彼女は私の下から姿を消していた。
トレイを倒さないよう、身長に、力の入らない身体を落としていく。
上のカップのひとつを手に取り、コーヒーを飲む。
そのブレンドだかアメリカンだかよくわからないものを一口、
「にっが……」
こんな時ぐらい、味覚が麻痺していたいものだと思った。
ふと、横を見る。
シュガースティックが二本、伸びてくる。去った女の妹、射場羽々音がおずおずと、それを差し出していた。
まさかやりとりが見られたわけでもない。いや、見られていたとしても、幼い少女には何が起こったか理解できないだろう。
身体を密着させるようにして、羽々音が私の隣に座る。
「苦かったら、砂糖入れても良いんです」
「そう、だな……苦いなら、甘くすれば良いだけか」
自分でもよくわかんないことを言って、私は少しだけ飲んで量が少なめになった濃いコーヒーに、砂糖を多めに入れる。
彼女はそれを、じっと見ていた。
「羽々音ちゃん」
「はい」
「ありがとう」
「……はい」
こうも長く同じ家にいると、ふと記憶のひとつも蘇る。
■■■
空気は乾いていて、空は雲一つなかった。だが風はとても強く、庭園に植えられたハナノキが警鐘のように葉擦れの音をかき鳴らす。
そんな土曜日に、私はいつものメンツと県庁近くの病院に来ていた。
すなわち、
射場羽々音。
村雨雫。
雪路橘平。
以上三名。
チーム名は『カフェ・シャレード』。
紆余曲折あって、新たについた名前だ。
そして私、花見大悟に加えて、部外者がもう一人いた。
「やぁ、待たせてしまったな」
射場家の長、射場重藤。
いつもどおり、紳士ぶってにこやかにあいさつしたが、まず彼が目を向けたのは、車椅子の雪路だった。
「ども」
控えめに雪路は頭を下げた。
彼はパーカーを好んで良く着る。私服だけでなく、制服でも、色とりどりのフードつきのものを、ブレザーの上や下に着込むことがある。
それを微笑む重藤が受け止める。
関節的な因縁を持つ二人だが、やりとりはそれで終わる。
「敵と疑ったことも、脚の件もお忘れか。いいご身分だ」
と、なじってやりたいが、何より一番怒るべき雪路の、波風立てたくないという配慮を無駄にしたくない。
私たちがいるのは『とくもと総合病院』。
表向き、何の変哲もない中規模の病院だが、百地家ゆかりの病院だ。
現代医療では治療のできない妖異による傷病を負った患者が担ぎ込まれる場所。
本来その恩恵に預かれるのは百地一族の人間だけなのだが、ここの院長、徳本永助と私は数年来の付き合いで、そのコネで雪路の脚を診て、治療とリハビリを施してもらっている。
だが、今日ここに来たのは雪路が理由じゃない。
ここに入退院を繰り返している、ある人物が目的だった。
皆が中に入るのにならい、私も続く。
だが、その私の前に、先行したはずの射場重藤が立ちふさがっている。
脇にそれて通り過ぎようとした私を
「なぜ雪路橘平を捕らえなかった?」
低い声が、呼び止める。
ちらりと隣を見るが、男は先ほどとなんら変わりのない、柔和な笑みを浮かべていた。「僕はそう命じたはずだが?」
「おや? そうでしたか。私の聞き間違いでしたか。まさか本当に、口封じのために雪路を捕縛しろと、そんなバカげた指示を少女たち相手に下すとは思えなかったものでね」
「……今更になるけど、人の言うことを聞かない男だね、君は」
「自分で言うのもアレですがね、私ほど義理固い人間もいませんよ」
「……そうだな。だが従順と真面目。正義と秩序。正解と妥協。それらは別のものだ。君も早く大人になりなさい」
教師面、いや教師だったか。
偉そうにそう言った重藤は、病院に足を向けて歩いて行く。
「雪路の疑いはまだ晴れたわけではない。せいぜい獅子身中の虫でないことを祈るだけだな」
■■■
病院に入ると、丸顔の男が、受付から顔を出した。
「おぉ、射場さん。お久しぶりです!」
「久しぶりだね、永助君。そう、梓の葬式以来か」
「機材や薬品の提供は頻繁に受けていますが、そうですね……それぐらいになりますか」
と、そこそこの挨拶をした後、雫がひょっこり顔を出す。
「へぇ~、この人がこの病院の……」
徳本は工業用ヘルメットをかぶった。
「……親方?」
受付から出てきた徳本の腹、白衣の下に剣道の防具が取り付けられている。
「……師範?」
「なんて格好してんですか」
と私が問えば、
「色々事情があるんだ」
遠い目をして、呟くように言う。
「うちに運ばれてきた患者なんだが、これが手のつけられない暴れ者でなぁ。意識を取り戻した後は脱走し、捕まえたと思ったらまた脱走し……入退院をそうやって繰り返すが検査もまともにさせてくれん」
気になる言葉が出てきた。
「ね、ハナミン! 今入退院って!」
私の袖引く雫の言葉に、素直に頷く。
よく見ると看護師や医師、インターン生らしき青年も、形は違えど防具をそれぞれ取り付けている。
そのうちの一人が、
「先生! 来ました!」
廊下の奥を示して、声を張り上げる。
「ちぃっ! またかっ!」
「どうしたんですか?」
問う羽々音が視線をそちらへ向ける。
こつり、
こつり、
静まりかえった病院に、足音が響いて玄関まで届く。
節電のためかほの暗い院内、その薄い闇の幕から、妙齢の女性は現れた。
切りそろえた前髪、腰まで伸びてなびく後ろ髪。
羽々音ほどではないが背はそこそこに高く、一六○センチは超えているだろう。
出る所は出る。引っ込めるべきところは引っ込める。
そんな魅惑的なプロポーションをぴっちりとした黒いライダースーツで包んでいる。
身体の正中線をブレさせることなく、また固く拳を握りしめ、堂々たる足取りでずんずんとこちらに向かってくる。
真一文字に結んだ唇。そして……茫洋としつつも、意思の光はしっかりとしていて、何より他人にあまり関心のなさそうな、その眼差し。
――見覚えがある。
「ね、ねぇ! あなた! 小山田さんって言うんでしょ!?」
不用意に近づこうとする雫に対し、
「おい、よせっ」
徳本は制止の声をあげた。
だが、遅い。
その茫洋とした一瞥が、雫の足を止めさせ、そして
「グフーッ!?」
腹パン。
深々とめり込んだ彼女の右拳が、雫に醜い断末魔をあげさせる。
ベルトのカードケースが半開きだったのか、各色の『識札』が宙を舞い、床に散らばる。
彼女はそのまま、まっすぐ進む。
小山田かすみ。二十歳。
別の県にある五色大学に在籍する大学生。
彼女が原因不明の昏睡状態でこの病院に搬送された日、そして覚醒した日を照らし合わせて考えてみると、私たちが撃破した『黒札』の一枚にその精神が閉じ込められていた可能性が高い。
当時の事情、覚えていることを聞き出そうと私たちはここに来たわけだが、私個人が彼女が気になっている点は、もうひとつある。
腹を抱えてうずくまる雫をよそに、
ずんずん
彼女はその口を開くことなく問答無用で我が道を行く。
「まぁまぁ。お嬢さん。ここは穏便に話し合おうじゃないか、なにもそんないきり立」
さらに前に立ちふさがった重藤の、よりにもよって残り少ない髪の生え際をつかんで、
「か、髪が!? 僕の髪が!?」
壁に顔面から叩きつける。
ずんずん、
さらに進む。
そんな彼女の横から、私は声をかけた。
「お前」
ぴたりと、革靴を履いた足が止まる。
「……小山田純の娘だな?」
「お、おやまだ!?」
重藤は知らなかったのか、赤く腫れ上がった鼻を押さえつつ、壁から顔を離す。
声色には、怯えがあった。
だが小山田かすみは何を思ったのか、私の傍に寄る。
拳が、間髪入れずに私の右頬に打ち付けられた。
「なぜ!?」
通行の邪魔はしていなかったはずなのに!
きりもみしながら倒れ伏す私の視界に、彼女と対峙する、というか逃げ遅れた雪路橘平の姿があった。
彼女が拳を振り上げると、
「うひゃっ」
慌てて少年は両手を掲げる。
しばらく、見つめ合う。
だが彼の座っているものを見てからゆっくり、拳を下ろす。
ずんずん、
歩行を再開した。
最後の一人、射場羽々音が前に立つ。
「話を聞きたいんです」
にっこりと、いつも通りの菩薩の笑み。
そんな笑みにもためらわず、右ストレートは飛んだ。
が、
「時間はそんなにかからないと思いますけど?」
ふんわりと、まるでオムレツに包まれるように、音もなくかすみの拳は羽々音の掌に受け止められていた。
一度引いた拳が、新たに繰り出されるキックが、羽々音の身体に何度も襲いかかる。
が、それらすべてを、手なら手が、足なら足が、見事に受け流す。
数回の応酬の後、無意味を悟ったか、かすみは両手をダラリと下ろす。
だが再び挙げた右手には、札。
バラまかれていたはずの『白札』が、彼女の手に渡っていた。
「いつの間に……」
思わずそう呟いてしまうが、私が彼女から目を離したのは、殴られたその瞬間以外にありえない。
それならまだ驚くには値しない。
だがこの『白札』には、『識紋』が浮かび上がっているのだ。
見覚えのある馬の絵が。
「『構築者』!? しかもあの馬の絵!」
「あぁ、間違いない」
私たちの初陣。いや羽々音にとっては初陣ではなかったろうが、私と雫が、初めて戦って、そして勝利した相手。
ならば同じ紋を持つそれから、何が生まれるのかもまた、予測はついた。
虚空に、羽々音の前に投げられた札が、無から二輪車を生み出す。
以前それは黒い重量級のものだったが、『白』から生まれたそれは、赤い、彼女の相棒としてはピッタリの、真紅で細身のものだった。
かすみが颯爽と飛び乗り、主を得た愛馬は、そのタイヤを高速で回し始める。
私が動いたのは、その加速と同時。
「羽々音っ!」
とっさに、羽々音を突き飛ばしていた。
無意識にすがったか、私が代わりに犠牲になるのを危惧したか、羽々音のその手が、私の腕を掴んでいて、引きずられるように私もまた、中空を過ぎる。
「……っ!」
覆い被さるように私が羽々音の上に倒れた時にはもう、自動ドアを突き破り、駆動音が遠のいていくのがわかった。
無防備に、じっと私を見上げる下の視線が、つい今日見た過去を思い起こさせる。
「わ、悪い」
「いえ、こちらこそ。ありがとうごさいました」
あの頃小学生だった娘は、そう言って目だけで笑う。
だが、動かない。
私のように取り乱した様子もなく、というかなんだか幸福なことでもあったかのように、目をうっとり細めている。
飛び退く私は、彼女の父親のキツイ視線をまず浴びる。
彼は、ネクタイを緩め、満面の笑みで、ざっとファイティングホーズを構えていた。
霊感の類を持たない私だが、その背の向こうに鬼を見た気がした。
「あーあーあー……病院内でケガ人出して器物破損やらかしやがって……」
という徳本の嘆きで、緊迫していたその場を免れる。
「すまないね。代わりに、立て替えておこう」
「いやぁこちらこそ、うちの患者が面倒を……あれが『識』と『構築者』ですか」
「あぁ。おそらくは『切札』に取り込まれたショックで、覚醒したんだろうね」
どうやらこの医者もまた協力者らしい。
個人的に数年来の付き合いなのだから、その辺りの連絡は欲しかったものだ。
「こらハナミン!」
安心していた私の袖を、またも雫が引いた。
その後を、何故か雪路がついてくる。
「なんだよ?」
「なんだよ? じゃないでしょっ、ハナミンもバネちゃんに助けられたんだから、そこはお礼言わないと!」
「あ? あぁ……」
「っていうかナミさん、イバちゃんにちゃんと『ありがとう』って言ったことある? いやまぁ、オレらはともかくさ」
ふむ、とアゴに手を当て思い返す。
飲んだくれていた私に重藤が手を差し伸べたのは、他ならぬ羽々音の進言によるものだ。それが戦いへ続く道だったとはいえ、よって久々に生き甲斐も得られた。
それより以前、それより以後にも、私は彼女に物理的に、戦力的に、対人的に、何より精神的に支えられてきた。
どんな思惑があれ、どんな気持ちがあれ、その事実に偽りはない。
だが確かに、それらに対する感謝の言葉は、未だに私の口から出されたためしがない。
「あっきれた!」
と雫は嘆息する。
「言ってきなさいよ。ほら今、ナウ! ほれ早く!」
雫にせっつかれる形で私は羽々音の前に突き出された。
「バネちゃーん、ハナミンが、話あるって」
あげく、退路が塞がれる。
首を傾げて距離を詰め、「なんですか?」と彼女は問う。
そのまっすぐな視線に耐えきれず、私は顔を背けたまま、重い口を開けた。
「は、羽々音……ちゃん」
「はい?」
ありがとう、ありがとう、ありがとう。
略語でも、英語でも、あるいはフランス語でも良い。
だがありふれたその五文字は、私の喉から出かかって、出てこない。
そもそもタイミングが完全にズレてしまっているのだから。
「さ、さっきの、あの、その」
「さっき?」
「さっきの、あ、あ、あ……さっきのあいつ! あいつの父親のこと、知りたくないか!?」
だはぁ。
男女二色のため息が、私たちの横から漏れ聞こえた。
「そりゃ、大悟さんの話なら、なんでも興味あります」
嬉しそうで曇りのないその表情に、罪悪感で胸が締め付けられる。
――私がそういう話題にしてしまったのだからしょうがないが、あの男のことはあまり触れたくない。
小山田純。
私たちのボス、十神戒音の片腕と呼ばれた男。
小山田家は代々十神の従者、いわゆる執事として仕えた家柄で、例に漏れず、車の運転手、あるいは秘書と、あるいは戦闘員と、多方面で十神の活動をサポートしてきた。
組織の中でも、一番の年長だったはずだ。
時折人を人と思わぬ傲慢で、かつそれを当然と思った態度に、私たちや現場の人間はひどく辟易したものだった。
娘のあの目は、色といい形といい雰囲気といい、父親とソックリだった。
「だがヤツは先の百地との戦いで行方不明になったはずだがね」
かつての同僚、射場重藤は腕組みして口を挟んできた。
「そこですよ。あいつの娘が、なんだってここに? 誰の命令で、どういう意図で? そして何故『切札』に取り込まれなければならなかったんです?」
「なるほど? 疑うべきは……他にいるというわけか」
雪路にそれとなく視線を送り、重藤は苦みの混ざった息を吐く。
あの男は、謎の多い男だった。
どんな動機で、どんな風に動くのか予測もつかない、ニトログリセリンみたいなヤツ。
それが小山田純だった。
「わかった。それはこちらで調べよう。だが、妙なマネはしてくれるなよ」
「妙な、とは?」
「知ってるよ。君、勝手に外部に情報屋を雇っていたろ」
――その情報はどこから漏れた?
雫か、それとも羽々音か。
まぁいつかはバレると思っていたから、それほどショックでもなかった。
「すみません。信頼できなかったもので。現にこの情報がなければ、私は雪路を『誤認逮捕』してしまうところでしたが」
「小山田かすみとは言葉を交わせなかったけど……君とは百回千回と言葉を交わしても、理解し合えそうにないな」
「いえいえ。『理解し合えそうにない』。その一言だけは……お互い理解している」
大人二人の、冷たいいさかい。その間でオロオロする子どもたちやその他部外者たちを、客観的に見て少し哀れに思う。
「そういえば」
その中、唯一平静を保てていたのは、私たちと近しい射場羽々音だった。
ポンと手を打ち、
「そろそろオリエンテーション合宿の日も近いですね」
「オリエンテーション合宿?」
私が気を改めて問うと、ここぞとばかりに雫と雪路が乗る。
「もー、知らないのハナミン?」
「この学校では毎年、全学年合同で一泊二日の合宿を行うんだ。生徒間の親睦を深めるために。……まっ! 二年勤め上げたオレから言わせれば、友達ができるヤツは学年に関係なくできるし、出来ないヤツはとことん出来ない。要するに、コミュニケーションのふるい、みたいな? ナミさんも気をつけなよ~? オレがついてるけど」
「……余計なお世話だ」
そもそも、教師が仲良しになってどうするという話でもない。
「そうだ! みんなで後でお菓子買いに行こうよ!」
雫の提言に、二人の友人は同じ感じに顔を見合わせ、また、苦笑する。
「合宿はまだ一週間も先だよ。しーさん」
「じゃ、日持ちするやつ! せっかく都会に出てきたんだしさ、トクモト先生オススメの店とかない?」
「あぁ、それなら駅地下に新しい洋菓子屋ができてるな。大悟、俺は重藤さんと話してるから、送ってやれ」
そして徳本はその話し相手の肩越しにウィンクしてみせる。
彼らの配慮に甘え、ここは素直に頷く。
「……悪いな。羽々音ちゃん」
「いえいえ。それよりも呼び捨てでやっと呼んでくれたし、そっちのほうが嬉しいです」
「……そうか?」
言って、また後悔する。
またちゃんと礼が言えなかった。
あの時、コーヒーを分かち合った時には素直に言えたあの一言が、どうしてだか、今は言えなくなっている。
■■■
出会いの季節の象徴、桜もとうに散っている。
葉桜の下、バスの前に集合する生徒を遠目に見ながら、私はウィンドブレーカーを羽織る。
私の脇で、雫は自分の荷物を指さし確認していた。
「……納豆よしッ、乾燥貝柱よしッ、スキムミルクよしッ、乾パンよしッ、いりこよしッ、アスコルピン酸よしッ、『識札』よしッ」
考えに考えたメニューであった…………
高タンパク
高ビタミン
低価格
低重量……
そして長期保存……
「ぜんぶよしッッ!」
「んなわけあるかぁっ!」
私は確認したもの以上に広がる雫の荷物を、足でブチまけた。
「なんだお前!? 化け猿退治にでも行くつもりか!? 一泊二日っつっただろうが!?」
「いや、山じゃ何があるか分からないって」
「市内のキャンプ場で遭難する危険性がどこにあるんだよッ!? むしろこんな荷物に押しつぶされる可能性のほうが高いっつの!」
「あと、低価格低重量ではないですよね……」
ジャージ姿の羽々音が、そう呟いた。
その向こうで、おーい、おーいと声が聞こえる。
次第に大きくなっていく呼び声の方角を見れば校門のあたり、男がいた。
二メートル近い身長。広い肩幅。スーツを着ていなければ、ガテン系にも見えただろう。短く刈り上げたその頭を撫でながら、女物のショルダーバッグを担いでこちらに近づいてくる。顔こそいかついが、そこに老いは感じられず、はつらつとしていて、私や徳本と同年代に見える。
「あっれ、兄ちゃん!?」
と声をあげたのは、雫。
「どしたのこんなとこまで!?」
「いや、母さ……社長がな、お前の準備する様子がまるで山ごもりに行くような様子だっていうんでな。で、見てみれば替えの下着も持っていっていないようだったし」
「あっ、忘れてた」
「…………しーさん」
羽々音ですら、声も出ないようだった。
いわんや私も。
「で、改めて社長が荷物まとめたから、それを持ってきた。ついでに、次の台本も」
「わざわざゴメンねー」
それとなく『識札』は自分のポケットに移し、そして雫の兄らしきその男は、慣れた手つきで荷物をまとめていく。
不要物が片付くと、改めて兄は、私と向き合った。
「やぁ、あなたが花見先生! なかなかユニークな先生とお聞きしています!」
「それはどうも。そういうあなたは?」
差し出した覚えのない手をしっかりと握りしめられる。ダミ声が耳に痛い。
可能な限り不快感を押し殺しながら、私は平坦な声で尋ねた。
「あぁ、申し遅れました! わたし、村雨興業で村雨雫のマネージャーをしています、村雨信夫です」
離されたその手から、名刺が渡される。
そして繰り返される『村雨』の名。
村雨興業。
雫の素性が知れた後は、調べをつけるまでもなかった。
地方への興業がメインのしがない劇団から始まったその会社は、いまや芸能界でも屈指の存在感を発揮している。
その基礎を作り上げたのが、現社長にして昭和の名優、そして雫の母、村雨理美だ。
つまりチャランポランで、社会へ適性の能力が完全に欠如したこの怪生物は、何をどう間違えたか期待の二世で、社長令嬢ということになる。
まったく世界の魔性というやつだ。
「どうですか!? うちの雫は。学校でもうまくやっていけてますか」
「……いや、二時間おきにバナナやリンゴを与えないと授業中でも教室中を飛び回るし、クラスメイトの髪の毛をむしり始めるし、ほんと最悪ですわ」
「……あの、ハナミン。そろそろ訴えたらわたし勝つ自信あるよ」
だが当人ほど兄は気にした様子はない。
耳障りなほど豪快に笑い、再び私の手を握り固める。
「いやぁ、思ったとおりの面白い人だっ! それぐらいの個性がないと雫は制御できませんからねっ」
「まったくです」
自分でも、心底そう思う。
「しかしお兄さんも大変でしょう。仕事の一環とはいえ、妹の替えの下着まで持ってこさせられて」
「ハハ、なぁに。芝居以外ではいつもこんな調子ですからね。もう慣れましたよ」
「いやでもしかし、一流企業となると身内以外の女の子も多いでしょうに。私のところも女性比率高くてね。なかなか困ることがあります」
「……そういうフェミ的な思考回路なんて初めから持ってないくせに」
社交辞令にもいちいち、妹の方は突っかかってくる。
だが兄の方も、今度は笑い飛ばさない。
だが、口の端はつり上げたままだ。
そして、
「あぁ、女は……どうでも良いです」
「……は?」
瞬間、イヤな汗が出た。
理由もなく、ただ直感と本能が早鐘のように鼓動のビートを上げる。
固く握りしめたその手を振り払おうにも、異様に力の入りようで、かんたんにふりほどけそうにない。
もう片方の手が、私の右肩を掴む。
「それにしても大悟さんはいいカラダをしている! 見た目はともかく、触ってみればわかりますよっ! 国語の先生と聞いてましたが、なにかスポーツをされていたので?」
「いえ……特別には」
「ははっ、そうだ……妹のことでご苦労もおありでしょう? わたしでよろしければ話相手ぐらいにはなりますよ。どうです? 今度焼き肉でも?」
「……あの、そろそろあいさつが始まりますので」
「あぁッ! すみません! では、わたしはこれで!」
手を離された瞬間、私はむしょうに、この身体をくれた親に申し訳ない気持ちと、感謝の念を覚える。
大量の荷物を両肩に担ぎ、脅威は去っていく。
安堵が一気に、汗と息と疲労とに還元されて、私の身体から排出されていくのがわかる。
「……おい」
「なに? ハナミン」
「……二度とッ! アレをッ! 私の近くに寄せ付けるんじゃあねぇッ!」
「んもー、ハナミンは了見狭いなぁ。ケツ穴のひとつやふたつ貸してやるぐらいの度量見せなさいよ。ったく、ケツの穴小さいんだから。……あぁ、狭いからシマリがいいのかな」
「わかってんだろ!? わかってお前、言ってんだろ!?」
私の声は、もはや悲鳴や断末魔のそれに近いほどに、見事に裏返っていた。
「二人とも。そろそろ校長先生のあいさつ始まりますよ」
という唯一この場でまともな羽々音の意見に、二人して頷く。
「まさかキッペー先輩だけじゃなく、しーさんのお兄さんがライバルだったなんて……」
やっぱまともじゃなかった。
話っていうのは、その人の人生そのもの。
かつて上司からそう教わった。
薄い人生を送ってきた人間が何年生きて、百万の言葉を並べたところで、ただの文字列でしかない。
その逆も、またしかり。
――つまり、何が言いたいかというと。
「校長の話、マジつまんねぇ」
その一言に尽きる。
しおりに予定として取られていた時間は十分弱だが、それを倍はオーバーしている。時計は見ていないが、体感としてそんな風に思えた。
宮本武蔵の話から始まり、野球選手に続き、そして最後には現職の総理大臣の批判へと変わる。
三年のエリアで、雪路があくびをかみ殺しているのが見えた。
望んで見てしまったわけではないのだが、全員が体育座りの中、車椅子の上の雪路は、この時ばかりは頭ひとつ分、誰よりも高い。
ようやくまとめらしき言葉を言い終えて、ホッとした矢先、
「えー、最後に」
――まだ続くのか。
「まず一つ目」
――しかも最後って言っておきながら複数かよ。
「今年は射場理事長も、この合宿に参加されることになりました」
「!?」
私は職員の立ち位置から、羽々音に視線を送る。
微妙な顔して首を横に振る彼女からして、どうやら初耳のようだ。
次いで、その父を見る。
渋面。
苦い表情で、何かを思案するようにうつむいている。
「えー、えー、理事長は、生徒たちの皆さんの気持ちや心、悩みなどを直に確かめたいという……」
そんな上っ面だけの理由はどうでも良い。
――何が目的だ?
だが模索するまでもなく、理由は次の話題で明らかになる。
「あ、あー、あと……この時期に大変珍しいことなのですが、教育実習生として皆さんと学校生活を共にする仲間が、今日、合宿に参加します」
教育実習生。
もう何年も経っているのに、その言葉を聞くと身体が素直に反応する。
「では紹介を……小山田くん?」
「なに!? 小山田!?」
だがそれ以上に、現在気になるそいつの名前が出た瞬間、全身が緊張する。
借りた観光バスの中、そこから現れたのはまぎれもなく彼女。
衣装がライダースーツからジャージ姿に変わっているものの、あの、小山田かすみだった。
相変わらず正中線はブレることなく、まっすぐと私たちの下へと現れる。
「すげぇ……」
「なんかモデルみたい」
生徒たちの興味は、正規の教師でも、生徒でもない、この若い女に向けられている。
注目している彼らを目だけ左へ、右へ動かし見回して、女は、とうとう無言を貫いていたその口を開く。
「皆々様。先ほどご紹介にあずかりました小山田と申します」
「しゃべった!?」
と雫。
「よりよい学校生活を送れるよう、また自分の経験となるよう尽力する所存ですが、まだまだ若輩者ゆえ、先生方、生徒の皆様にご迷惑をおかけするかと思いますが、なにとぞ、ご指導、アドバイス、お願いします」
「しかも謙虚だ!?」
と、雪路。
まるでオペラ歌手のような、透明感のあるかなり高音の声帯の持ち主だ。
あるいは喋らない理由は、このキャラとは合わない自らの声音を、忌み嫌っているからなのかもしれない。
だが、疑問のほとんど手つかずのまま、というか増えた。
私は、羽々音の父と同じような顔で、無表情のままの美貌の横顔を見つめていた。




