「息子はかわいくても娘はだめね」な男尊女卑実家に、どうして私が戻ると思うんですか?
「おい、水」
そう言って空の杯を私に投げつけるのは弟のマティアス。
「申し訳ありません。ただいま」
慌てて動き出す私に、
「このぐず! マティアスを待たせるんじゃないの!」
と、すかさずお母様のしっ責が入る。
お父様はそれに見向きもせず、自分の宝剣コレクションを磨いている。なんの変わりもない我が家の日常だ。
私、ジル・キュヴィエは男爵家の長女として生を受けた。生まれ育ったのは、王国の東の端にある小さな領地。お父様曰く「伝統を大切にする美しい土地」らしい。
ここでの暮らしは全て、古くから伝わる「教典」に定められている。これは神の定めたルールであり、守らなければ恐ろしい罰が下るのだとか。
教典は言う。「娘は藁の詰まった袋よりも役に立たない」と。娘は所詮家の人間ではない。結婚後夫のものになる。家にとっては息子でなければ価値がないのだ。
娘の私は当然ながら、生まれた時から冷遇されてきた。しかしそれもまだましな方だったのだと、マティアスが誕生してから私は知ることになる。
待望の長男であるマティアスへの両親の溺愛はとどまることを知らなかった。財政悪化がひどいにもかかわらず、欲しいものを何でも買い与え、豪華な食事を用意。高額の家庭教師までつけた。
一方の私は、マティアスにかけるお金を工面するため、食費諸々を極限まで削られ、さらにやめさせた使用人の代わりに働かされるようになった。だけど、弟のために身をささげるのは当たり前。感謝も報酬も、何一つ与えられたことはない。
「はあ。息子はかわいくても娘はだめね。それもこの出来損ないは」
お母様がいつもの口癖を言う。出来損ない。お母様が私をそう呼ぶ理由は、幼かった頃の出来事にさかのぼる。
まだ幼い頃、私は学問に夢中になった。特に数字が好きで、誰に教わるでもなく見よう見まねで計算を習得した。だけど、私は決定的なミスを犯す。両親と家庭教師の前で、マティアスの解けなかった問題を解いてしまったのだ。
両親の怒りは凄まじかった。女の学問を禁じた教典に背く「出来損ない」。付け加え、長男に恥をかかせたとなれば、その罪深さは計り知れない。三日三晩地下室に閉じ込められた後、私はようやく解放された。
今でも学問は好きだ。こっそり家の図書室に忍び込んで、夜な夜な本を読み漁るほどには。やる気だって、こっそり授業をさぼるマティアスよりよっぽどある。
でも、そんなことはまるで意味がないのだと今はもう知っている。娘である以上、私の生き方はもう決まっているのだから。
「どうぞ」
私は水を注いだ杯を差し出す。
「ったく、普通は空になる前に注ぐだろ。相変わらず女の風上にも置けないな」
「申し訳ありません」
とことん見下した目で私を見る弟に、私は頭を下げることしかできなかった。
*
その後、一通り家事を終えた私は、切らした日用品を買いに街に出た。買い物はすぐに終わる。だけどその時、店の前で何やらもめている男性が目についた。
派手に気崩した服装に、同じくらい派手な耳飾り。ぼさぼさなのに妙に様になる髪型。驚くほど高い背丈。そしてーー洗練されたきれいな顔立ち。
まるで別世界からやってきたみたい。きっと都会の人。一生かかわることのない世界の人だ。
どうやら彼は支払いで手こずっているらしい。この地域は独特の貨幣が出回っていて、王国硬貨を使う習慣がない。よって交換相場を知らない人が大半だ。受取拒否されたんだろう。
「なんとか買わせてくれよ。みんなに土産を買って帰るって言ったんだ。通貨が違うのを忘れて何も買えませんでした、なんて言ったら、俺のやらかしエピソードがついに三桁に突入だ」
頭を抱える男性。さすがにそれはちょっと不憫……かもしれない?
「あの、お手伝いします。王国銀貨、それも先代王の時代に鋳造された場合、銀の含有率は六割なので……」
貨幣に関する本を最近読んだ。その知識と比率計算を組み合わせればいい。
「これでちょうどだと思います」
私は支払いを完了させる。これで問題は解決。でしゃばりと罵られる前に、さっさと退散しよう。
だけどその時、
「ちょっと待ってくれよ」
と、男性が私を引き留める。
「よ、余計なことをしてすみま……」
すかさず頭を下げる私だったがーー
「ありがとう! まじで助かった!」
見上げると、男性は両手を合わせて頭を下げていた。
「あんた頭いいんだな。そうだ、お礼に何かおごらせてくれよ」
状況を理解できずにいた私だったが、タイミング悪くお腹が大きな音を立ててしまう。
「了解。食い物をおごればいいんだな」
にぱっと笑う男性。私は日々の貧しい食事を恨んだ。
*
かくして私は男性にカフェへ連行され、テラス席に座るに至っていた。
「そういえば自己紹介がまだだったっけ。俺はシャルマン・デュクレール。王都で騎士をやっててさ。ここにはちょっとした出張でやってきたんだ」
王都。そう聞いて妙に納得してしまった。王都は派手で風紀の乱れた怖い場所と聞く。この人はちょっと……いや、大分不良っぽいし。
「そうだ、あんたのことは何て呼べばいい?」
「……ジル、です」
「ジルちゃんね。あ、敬語はやめてくれよ。俺はそんな大したもんじゃないし」
「分かりまし、じゃなくて」
普通語で話すなんてしたことがないから、とっさに言葉が上手く出てこない。
「分かっ……た」
もごもごと呟く私を見て、
「な、そっちの方がしゃべりやすいだろ」
と、シャルマンさんがにっこり笑う。
おかしい。こんな笑顔、向けられたことがない。
「それにしても、ジルちゃんは凄いよ。俺、数字を見ると頭が痛くなってくるたちでさ」
「そんなこと……」
「いやいや、そんなことある。こんな優秀で、おまけにそれで誰かを助けてくれる優しい子、滅多にいないぞ。俺が事務員採用者なら絶対欲しいね」
欲しい、って......。生まれて初めて言われた言葉に、恥ずかしいやら嬉しいやらで顔が熱くなる。
「こ……これ、早見表。滞在するなら、あった方が便利かなって」
私は両替レートをペーパーナプキンにしたため、押し付けるように手渡した。少しでも役に立ちたくてーーって、調子に乗りすぎだ。女のくせに出しゃばって、不快にさせてしまったかも……。
だけど、
「うわ! まじでありがとう、ジルちゃん。助かりまくりだ」
と、シャルマンさんは子供みたいに目をキラキラさせて感動してくれた。
やっぱりこの人は凄く変わってる。
*
「これ、早見表の分のお礼。来る途中で、欲しそうに見てたと思って」
帰り際、シャルマンさんは一冊の本を渡してきた。きっと一瞬席を外した時に買いに行ってたんだろう。
「いいの?」
新しく出されたばかりの本。女の私では本屋に入る前に門前払いされ、触れることだったできなかった。
「嬉しい。ありがとう」
初めて自分のものになった本をぎゅっと抱きしめると、
「うん。やっぱジルちゃんは笑ってた方が何倍もかわいいよ」
と、シャルマンさんがくしゃっと笑う。
「えっ」
あまりの衝撃に私は固まったけど、いやいや、本気にしちゃいけない! からかわれたに決まってる。流石都会の男。恐ろしいお方である。
「って、そろそろ宿を取らなきゃ野宿確定だ! じゃあな、また会えたら!」
そのまま走り去ってしまうシャルマンさん。なんだか嵐みたいな人だった。
*
それから私は、夜な夜な部屋で本を読みふけった。
日々の暮らしは何も変わらない。それでも、あの人のことを思い出すだけで、毎日がとても素敵なもののように思えてしまうのだから不思議なものだ。
また会えないかな……。気付けばそう考えてしまっている。
事件が起きたのは、それから三日後の夜だった。
「父上、母上、悲しい報告が一つあります」
ディナーのタイミングで、マティアスがわざとらしく重々しい調子で口を開く。なんだろう。物凄く嫌な予感がする。
「ジルの部屋からこれが」
マティアスが手にしていたものを見た瞬間、身体中から血の気が失せていくのが分かった。シャルマンさんにもらった本。ベッドの下に隠しておいたのに、どうして……?
「まさか、お前が買ったの?」
眉を吊り上げるお母様。どうしよう。言い逃れできない。
「昔あんなに教育したのにまだ教典に背き続けてたなんて……! 恥を知りなさい!」
お母様にしかられる私を、マティアスがにやにや笑って眺めている。昔からそうだ。私が両親に怒られるのを明確に楽しんでる。だから、わざとそうなるよう仕向けるのだ。
「調子に乗るのはもうやめろ。所詮お前は僕と違って不用品なんだ」
マティアスはそう言って、見せつけるように本を破いてーー
「やめて……!」
とっさに身体が動いた。マティアスに掴みかかって、だけど力で勝てるはずもなく、あっけなく押し倒される。机の角が頬を切り、じわりと血がにじみ出る。
「きゃああ!」
お母様が悲鳴をあげる。
「怪我はない!? ああ、怖かったわね!」
そう言ってお母様が抱きしめたのは私じゃない。マティアスだ。
「このろくでなし! マティアスに何かあったらどうするの!」
私をにらみつけるお母様と、その背後で馬鹿にしたように笑うマティアス。どうしていつもこうなんだろう。今までこらえていた思いが、この瞬間決壊する。
「そうやっていつもマティアスばかり。私だって……私だってお母様の子供です。家族の一員です。マティアスの半分だけでもいい。ほんの少しでも大切にしてほし……」
「なにを言ってるの?」
お母様が言葉を遮る。
「娘なんて不用品、どうして大切にするの?」
お母様の目は心の底からそう思っている人の目だった。
その時――
「ジル、お前に話がある」
これまでずっと沈黙を保っていたお父様が口を開いた。
きっと流石に言い過ぎだと思ったんだ。私は不用品なんかじゃないと、お父様はそう言ってくれるーー
「娘の分際で、次期当主たる長男に手をあげるなど、明らかなる教典への背信行為。お前を家族とは思わん。出ていけ。二度とこの家の門をくぐるな」
お父様はそう言って、床に転がっていた本を暖炉の炎の中に投げ捨てる。
かばってもらえるなんて。家族として愛情を持たれてるなんて。なんて愚かな妄想。私の居場所なんてここにはないと、ずっと分かっていたはずなのに。
深くうつむきながら、私は屋敷を後にした。
*
これからどうすればいいんだろう。
私は行く当てもなく夜の街をさまよい歩く。運が悪いことに雨までもが降り始め、慌てて屋根のある馬車の停車駅に転がり込む。
その時――
「あれ、ジルちゃん?」
顔を上げれば、唯一不用品の私に笑いかけてくれた人がそこに立っていた。
「凄い偶然だ。ちょうどこれから馬車で王都に帰るところで……」
シャルマンさんはそこまで言った後、
「って、怪我してんじゃねえか!」
と、駆け寄ってくる。
「ごめんなさい。せっかく買ってくれた本、だめにしちゃった……」
どうしてだろう。家族に何を言われても我慢できたのに。この人を前にすると、ぼろぼろと涙がこぼれてしまう。
「何があったんだ。教えてくれ」
家の人たちとまるで違う優しい目。気が付けば、自分の抱え込む全てを話してしまっている。
「おいおい、本読むだけでしかられるとか、息子しか大切にされないとか、いつの時代の話だ? そんなの百年前の時代でしか聞いたことな……」
そこまで言ってから、シャルマンさんは何かに気付いたように息をのんだ。
「うわあ、そういうことか。ここに来てからずっと妙な感じはしてたんだけどさ。あれだな、ここは因習村なんだな。古びたルールを使って、他人の人生を好き勝手に縛り付ける系の」
「でも、それに耐えるのが美徳だって教典が……」
「いいか。忍耐が美徳なんて言うのはな、虐げる側が都合よく支配を行うための噓っぱちだ。そんもんの言いなりになっちゃ絶対いけない」
シャルマンさんはまっすぐに私の目を見据えてくる。
「逃げるぞ。俺がジルちゃんをさらってやる」
*
シャルマンさんにさらわれて(?)から数日後、馬車は王都に到着した。
「あのさあ、ジルちゃん、いい加減馬車降りようぜ」
呆れきったシャルマンさんは、通算三十八回目になる台詞を言う。
「で、でも王都は恐ろしいところ。田舎者が足を踏み入れたら一瞬で爆発するという噂も……」
成り行きでついてきたけれど、いざ王都となると不安で、私は馬車から降りられずにいた。
「ああもうらちが明かねえ! ほら、自分の目で見て確かめてみろ」
シャルマンさんに馬車から押し出され、私はついに王都の地面を踏みしめる。
「凄い……」
目に飛び込んできた光景に、思わず声が出た。
道に敷き詰められたきれいなタイル。立ち並ぶ背の高い建物。そして行きかう大勢の人々。目に入るもの、そのどれもがぴかぴかに輝いている。
「な? みんな楽しそうにやってるだろ」
隣のシャルマンさんが、通りにいる人々を指し示す。
華やかなドレスに身を包んだ少女たち。店の前では売り子の娘たちが声を張っているし、劇場の前では主演女優が人々に囲まれている。私の故郷では絶対に見られない光景だ。
「ジルちゃんが絶対だと思ってるのは、ちっぽけな村でのルールでしかないんだ。世の中ってのは広い。ここなら別の生き方がいくらでもある。そう思うとわくわくしないか?」
「私、ここでやっていけるかな……?」
「数字に強いんだろ? おまけに知識もある。そういう人材はここじゃ需要ありまくりだ」
シャルマンさんは掲示板に貼られていたポスターをびりりとはがし、私に突きつけた。『王立騎士団・事務員募集』――そう書かれている。
「ここで新しい人生を始めようぜ。ジルちゃんは不用品なんかじゃない。絶対にそう気付けるようになる」
そう言って胸を張るシャルマンさんだったがーー
「あのさあ、お兄ちゃん」
ふと見ると、掲示板の管理人らしきおじいさんが傍らに立っている。
「勝手にポスターはがしちゃだめだよ。元通り張りなおそうね」
「あ、すみません」
いそいそとポスターを張りなおすシャルマンさん。なんだろう、かっこいいのか悪いのかよく分からない人である。
*
それから一時間後。私は騎士団の事務員採用試験を受けていた。それからさらに一時間後。試験に合格した私は、無事に就職を果たしていて……。いや、あまりにもスムーズすぎて恐ろしい! 女子寮への入居も決まって、住居問題まで解決してしまったし!
「合格おめでとう。ま、俺は絶対に受かると思ってたけどな」
シャルマンさんがぱちぱち手をたたく。
「あ、ありがとうございます……」
そう言いながら気付く。仕事があって住む場所もあれば、もう助けてもらうことはできない。この人とはここでお別れーー
「明日からはれて同じ職場だ。よろしく」
「え……って、あああっ!」
そういえばこの人、王立騎士団の隊員だった! 色んなことがありすぎて完全に忘れてた。
でも、シャルマンさんと同じ職場ってことはーー
「就職前に私もその耳飾り買わなきゃかな?」
もしかすると、この派手なファッションセンスが騎士団の標準装備なのかもしれない。というか、都会人の標準?
「いやいや、そんなことまったくないよ。耳飾りも他のも全部、騎士団の規定じゃなくて個人の趣味だしさ。ちなみに騎士団内でめちゃくちゃ不評だぜ」
笑顔で親指を立てるシャルマンさん。な、なるほど……。とりあえず服装問題は解決したようだ。
*
さて、私が王都に来て一か月がたった。
「ジルちゃんの騎士団での活躍に乾杯!」
「乾杯」
私はシャルマンさんを誘って、生まれて初めての酒場に来ていた。
「いやあ、それにしてもあっという間になじんだよな」
「先輩たちがみんないい人だったから。仕事も楽しいし、騎士のみんなや街の人たちの役に立てるのも嬉しい」
初出勤でびくびくしていた私を迎えてくれたのは、気さくで優しい事務員のお姉様方だった。分かりやすく仕事を教えてくれたおかげで、徐々にではあるが仕事をこなせるようになっている。騎士の皆さんも親切で、この職場で働けてよかったとしみじみ思う毎日だ。
「そして今日、生まれて初めてのお給金までもらえたの。ということで、ここは私がおごります」
「さすがに悪いよ。ジルちゃんの好きなものに使えって。新しい本とかさ」
「ううん、だって自分のお金があるなんて、昔の私だったらありえなかったんだもん。だから、それを現実にしてくれた人のために使おうってずっと決めてたんだ」
私は言う。
「本当にありがとう。あの日私を助けてくれたこと、ずっと感謝してる」
「なんか……ジルちゃんといると、いっつも変な気持ちになるな。そんなきらきらした顔で見られたり、感謝されたりすることなんて、俺はあんまりないからさ」
シャルマンさんは困ったような顔をする。
腕は立つが、それ以上に問題を起こす人物、というのが騎士団でのシャルマンさんの評価だ。事件が起きた時の犯人確保率はトップだけど、たいてい捕獲時に何かしらを壊しているので、騎士団への請求書がわんさか届く。今日もそのせいで、騎士団長にこっぴどくしかられてたっけ。
「なんだか騙してるみたいだ。前のジルちゃんは周りにひどいやつしかいなかったから、俺がましに見えてたんだろうけどさ。王都に来て分かっただろ? 俺はわりとだめな部類だよ」
「ううん、そんなことない」
私は前のめりになる。
「だって、何の見返りもないのに、あの時迷わず私に手を差し伸べてくれた。他の人はそんなことできないよ。そりゃあ、かっこつかないところもたくさん見てきたけど。それでも、私の中でシャルマンさんはずっと一番かっこいい人なの」
一息で言い切った後、私ははっと正気に戻る。やらかした……! いきなり熱く語り始めて、気持ち悪いと思われたに決まってる。
目の前のシャルマンさんはすごく変な表情をしている。目を見開いたかと思えば、焦点が定まらないように泳いだり、急に赤くなったり、かと思えば机に突っ伏してみたり。どういう気持ちなんだろう、これは……。
「あのさ、聞いてほしい話があるんだ」
最後、自分の顔をぱんと叩いた後、シャルマンさんは真剣な顔をする。
「俺、ジルちゃんのこと……」
その時――
「あっ、ジルじゃない。偶然!」
「シャルマンもいる。隣座るぞ」
店に入って来た騎士団の同僚たちに、私たちの注意は奪われた。既に別の店に行った後なのか、全員がかなり酔っぱらっている。
そして、めでたく(?)大人数での宴会が幕を開けた。
「もしかして取込み中だったか?」
「ごめんね、お邪魔しちゃって」
そう言われたシャルマンさんは、
「……別に」
と、そっぽを向く。
結局シャルマンさんはすぐに酔いつぶれてしまったので、言いかけたことは聞けずじまいだった。
*
それから数日。今日も今日とて私は仕事に勤しんでいた。昼食時はみんな出払っているので、詰所にいるのは私と事務員の先輩の二人だけ。先輩が受け付けをしてくれているので、私は奥の事務室でのんびり書類をまとめている。
その時、
「ジル、表にお客様が来てるよ。何でも急用なんだって」
と、部屋に入ってきた先輩に声をかけられる。
お客様? 誰だろう。王都にはまだそんなに知り合いは多くないんだけど……。不思議に思いながら建物を出るとーー
「呼ばれたらさっさと出てこい。相変わらずぐずだな」
目の前の人物に私は凍り付いた。噓、どうして……?
そこにいたのは、故郷にいるはずのマティアス、そしてお母様だった。
「……どうしてここが?」
辛うじて絞り出した声は、あまりにもか細く震えていた。
「女が王都行きの馬車に乗った記録が残っていたんだ。それをたどって調べてみれば、見事大当たり。出来の悪い姉を発見だ」
と、マティアス。
「不用品が勝手に出て行ったんだから、本当なら放っておきたかったけど、状況が変わったの。家に帰ってきなさい、ジル」
と、お母様。
「どういうこと……?」
質問しかできない自分が悔しい。
「父上が倒れた。回復の見込みはなく寝たきりらしい。それに付随して、父上が隠していた借金が見つかった。家計は火の車だ。父上の介護と使用人を全員解雇した後の屋敷の整備。そのためにお前を使う。分かったらさっさと荷物をまとめてこい」
「マティアスに手をあげたことは許してあげるわ。恩に報いてしっかり働きなさいよ」
ああ、そういうことだったんだ。自分たちの状況が悪くなったから、都合よく使える娘を連れ戻そうとーー
「ふざけないで!」
気付けば私は叫んでいた。
「私を不用品と蔑んでたくせに! 散々雑に扱ってきたくせに! 都合のいい時だけ利用しようなんて、馬鹿にするのもいい加減にして! あなたたちの指図なんて絶対に受けない!」
今までずっと言えなかった。忍耐が美徳だと信じ込まされて、怒りの感情すらも奪われていた。だけど、今なら分かる。私は怒っていい。拒んでいい。それを我慢する必要なんてどこにもないんだ。
「その言葉遣いは何よ!? こんな場所で男にまじって働いて、ただでさえ我が家の顔に泥を塗ってるくせに! この恥知らず!」
お母様がヒステリックに怒鳴り散らすけど、それに震え上がるのはもうおしまいだ。
「恥知らずで結構。私は今の私が好き」
二人をにらみつける私は、しかし、
「お前に話が通じないのはよく分かった。こうなったら力づくで連れていく」
と、マティアスに腕を掴みあげられてしまう。
「放して!」
必死になってもがくけれど、力でかなうはずもない。周囲は揉め事に気付きながらも、関わりたくないといった様子で遠巻きに眺めるだけ。
どうしよう。このままじゃ、また全部元通り……。
その時、
「騎士団のお膝元で誘拐なんて、随分気合の入ったやつがいるんだな」
と、マティアスの腕をひねり上げる人間がいた。
「さっさとこの子から離れろ。これは命令だ」
そこにいたのは完全に騎士の顔をしたシャルマンさんだった。
「何をするの!?」
お母様が金切り声を出すけど、マティアスは不敵な笑みを浮かべてそれをいなす。
「誘拐? 僕たちはこいつのれっきとした家族だよ。家族問題不干渉は我が国の掟。もしお前が手出しして僕が怪我でもすれば、罪に問われるのはどっちかな?」
悔しいけどマティアスの言う通りだ。教典全盛期に作られた法律は、マティアスたちの行為を完全に正当化する。
「家族……。そうか」
シャルマンさんが呟き、手を離す。マティアスは勝利を確信して笑みを深めたがーー
「だったらなおさら連れて行かせるわけねえだろ! お前らの腐りっぷりは、こちとらよく知ってんだよ! これ以上ジルちゃんの人生を邪魔すんじゃねえ!」
そうだ。この人はこういう人なんだ。損得なんて関係なく、いつだって私に手を差し伸べてくれる人。これまでどれだけのものを与えてもらって、そして今も守ってもらってるだろう。
この人のおかげで手に入れたもの全部、手放してたまるものか。奪わせてたまるものか。
私の中で覚悟が決まった瞬間だった。
「民間人に暴力沙汰なんて、騎士としては再起不能だ……」
「やめなさい、マティアス」
マティアスの前に立ちふさがり、私は大きく息を吸い込む。そしてーー
「この人は、私の夫なの!!」
私は一世一代の大作戦に出た。
「「「え?」」」
瞬間、その場の時が止まる。目を見開いて私を見るマティアス、お母様、そしてーーシャルマンさん。
ごめんなさいシャルマンさん。後で土下座するので、ここは巻き込むことを許してください。
「教典に書いてあったはずよ。結婚したら、娘は夫のものになると。妻となった身で実家に戻ることは、唯一の主人である夫への裏切り。教典はそう厳しく非難してる。もちろん、娘の実家が夫婦関係に口出しすることも」
私の考えた作戦、それは教典を逆に利用することだった。どんな馬鹿げた決まりでも、教典至上主義の二人はそれを遵守する。だからそれを利用して、二人の思想で自分たちを縛らせるのだ。
「あー、説明すんのもめんどくさいから、黙っておこうと思ったんだけどな」
シャルマンさんは私に視線を忍ばせにやりと笑う。どうやら作戦を完全に理解してくれたらしい。
「そういうわけだ。ジルちゃんは俺の妻なの。今は俺が家族なの。元家族の連中はさっさとお引き取りやがりください」
シャルマンさんは見せつけるように私の肩に腕を回す。
「いきなり何を言い出すかと思えば馬鹿馬鹿しい」
「そんなでたらめ信じるとでも?」
衝撃を受けつつ二人も負けじと応戦してくる。
それに、
「そもそもジルちゃんが王都に来たのだって、俺がさらってきたようなもんなんだぜ。初めて会った時に一目ぼれしてさ」
と、シャルマンさんが悪人顔をする。
一歩後ずさる二人。うん、凄い説得力だもん。見た目だけなら完全に娘をさらってそうな人だから。
「いやー、ほんとに幸せだなあ。こんなかわいいジルちゃんと、今じゃ同じ屋根の下で生活して、同じ飯食って、もちろん寝顔だって知ってるんだから」
煽りを続けるシャルマンさん。うん……噓は言ってない。前半二つは同じ職場だから。最後のに関しては、王都行きの馬車で泣き疲れた私が寝てしまったことを言ってるんだろう。
「ジルちゃん、めっちゃ大好きだよ。頭がよく回るとこも、頑張り屋なとこも、すぐ誰かに感謝する優しいとこも、笑った顔が一番かわいいとこも、全部俺がすぐそばで見ていて、そして守りたい」
そう言いながら、愛おしげな表情で私の頬を撫でるシャルマンさん。す、凄すぎる。この人、こんなに役者だったの!? 演技だと分かってるのに、心臓がおかしくなってしまう。
ここが押しどころだと思ったんだろう。シャルマンさんはふいに私を抱きすくめたかと思えば、端正な顔を近づけてきてーー
「そんな破廉恥なことを道端で……! 今すぐにやめなさい!」
お母様がわなわな震えてるのを見て、シャルマンさんが私から顔を離す。作戦は完全に成功だ。
厳格な教典主義者にとって、婚姻関係にない男女がこんな行動を取るなんてありえない。さらに言えば、ここまで接触したなら責任を取って結婚することも決められている。つまりこの瞬間、彼らは私たちが結婚してると認めざるを得なくなったのだ。
「分かっただろ? 俺たちは教典様に守られた夫婦なんだ。このままジルちゃんをさらおうってんなら、神の怒りとやらに触れそうだが……。どんな罰が下るか試してみるか?」
その時二人の頭によぎったのは、きっと病床に伏せるお父様の姿だっただろう。神の罰――お父様の死。お母様の目がみるみるうちに見開かれていく。
「マティアス、帰りましょう。悔しいけれど、教典に定められている以上、夫のものとなったジルに関与することはできないわ」
お母様は低く呟いて、私たちに背を向ける。だけどーー
「……噓だ。こんなの何かの間違いだ」
その場に立ち尽くすマティアスは、蒼白な顔で私をにらみつけている。
「僕が年老いた両親と崩れかけの家を背負って苦しんでるのに、ジルだけ自由に生きるだって? 男子の僕より劣ってるくせに? こんなのあり得ていいはずがない」
マティアスの手が左の腰に向かう。
「夫が死ねば娘は実家のものに戻る。そうだったな!」
その時、確かにマティアスは剣を抜いたーーはずだった。だけど、私の目に映ったのはシャルマンさんに組み伏せられ、首筋に刃を充てられているマティアスの姿だった。
やらかしさえなければ、いつだって隊長になれる実力なんだがなあ。シャルマンさんについて、団長がそうぼやいてたことを私は思い出す。
「王都は怖いところだって教わらなかったのか?」
低い声ですごむシャルマンさんは、いつもの明るい彼と別人だった。あまりの迫力に、私はもちろん、お母様までが声を失っている。
「分かったらさっさと帰りな」
こくこく頷くや、マティアスは一目散に走り去る。取り残されたお母様はぽかんとして、だけど思い出したようにその後を追いかけていった。
終わった……んだ。
張りつめた雰囲気のシャルマンさんは、剣を鞘に納めるや、
「やった、ジルちゃん! 完全勝利!」
と、いつもの彼に戻ってへらっと笑いかけてきた。
「そうみたい」
私はあの人たちに勝てたんだ。そう思うと、途方もない安堵感と解放感が押し寄せてきた。
「それにしても、教典様のくそルールを逆に利用するとか、どうやったらそんなこと思いつくんだ? やっぱジルちゃんは天才だな」
「ううん、全部シャルマンさんがいてくれたから……」
そこまで言って、私は自分が彼にしてしまったことを思い出す。
「さっきは本当にごめんなさい。演技だったとしても、結婚のふりなんて嫌だったはずなのに。好きって言葉は大切な人に言いたかったはずなのに。噓をつかせちゃった……」
頭を下げる私だったけど、
「いいよ。ジルちゃんのためだったら、俺はなんだってするんだ」
と、シャルマンさんが上を向かせてくる。
「それに、噓じゃないからさ。ジルちゃんのことが好きなのも、守りたいと思ってるのも」
「え……?」
「まあ、一個噓っていうか、まだかなってない夢みたいなのもあったけど。それをかなえることが当面の目標かな」
夢? 目標? そんなこと何か言ってたっけ? 色々と聞きたいことは多いけど、この雰囲気の時のシャルマンさんは、全部を上手くはぐらかしてくる気がする。
「そういえばシャルマンさん、どうして詰所に戻ってきたの? まだお昼休みの途中なのに」
代わりに私は軽いことを尋ねてみる。
「ああ、それなんだけどさ。流石にいっつも迷惑かけすぎだって反省して、団長に飯をおごることにしたんだ。で、ちょっといい感じの飯屋で飯食って、いざ会計ってなった時、財布を忘れたって気付いてさ。聞いたら団長も金持ってないって言うから、三十分で戻らなかったら団長を踊り子として客の前に出すって店と約束して、俺は急いで財布を取りに……」
話しながら、シャルマンさんの顔がさああっと青ざめていく。
「団長おおおお!」
さて、団長はどうなったのか。ここではあえて、その後シャルマンさんはしばらく耳飾りを没収されていたとだけ言っておこう。




