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月下恋歌  作者: 梨千子
第二章「兄と、弟」
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第一話「弦音」

 霜月も半ば過ぎた朝であった。


「わあ」


 蔀戸しとみどを開けて、咲夜は思わず声を上げた。


 晴天。空は澄み切っていて青かった。すでに日は昇っていたが、差し込む光はまだ薄白い。

 昨晩、少し雪が降ったようだ。庭がそこかしこ薄い雪に覆われて、白く染まっている。薄い氷の張った池や、霜の残る草が、日光を浴びてきらきらと輝いていた。


「すごい。これは何?」


 咲夜の吐きだす息まで白い。


「雪です。ご覧になるのは初めてですか?」


 先ほど自分を起こすためにやってきた紗乃が、部屋の中央に木桶を運んでいる。使用人たちも、蔀戸を次々と上に上げて、部屋に日光を取り入れていた。


「雪って?」

「空から落ちてくる、とても小さくて白い花ですね。こうやって寒くなると、降るのです」

「白い花……」


 咲夜は縁側から、土に積もる雪をじっと観察した。少しだけすくいあげてみると、驚くほど冷たいそれは、さらさらと指先を抜けていく。

 まるで冷たい砂みたいだ、と思った。月には雪は降らなかったが、たくさんの白い砂が地表を覆っていた。けれどこの雪と呼ばれる白い花のほうが、月の砂よりも何倍も薄白く、儚い性質を持っていた。


「触れると溶けてしまうのね」


 指先にわずかに残った水を、不思議なこともあるものだ、と咲夜はまじまじと眺めた。

 少し遠くを見やれば、山城の屋根も白くなっていた。であれば、今日は街中が真っ白に輝いているのであろう。


「さ、炭の準備ができましたよ。咲夜様、そこは寒いでしょう、こちらで温まってくださいませ」


 紗乃が指し示す先。部屋の中央には、小さな桶が置かれていた。中に白い灰が入っていて、黒く焼かれた木を覆っている。時折それが赤くぱち、と鳴いて、静かな暖を放っていた。

 咲夜がそこに近づくと、庭から入ってくる冷たい風を少しでも遮るためにか、使用人たちが御簾を下げて、几帳を立てていく。


「御仕度をいたしましょう」


 紗乃が使用人から衣を受け取って、床に広げた。

 月と違って、地上では暑さや寒さを遮るすべは、あまり発展していないらしい。寒い冬、人々はこうして火を囲み、夏は木陰や水に頼って生きている。

 着るものだって、機能性を重視した月のものとはずいぶんと違う。あちらでは白い衣を軸に、小物は金や銀といった色でまとめる。それは月の国がある砂丘や白磁の宮殿によく合っていた。しかし、季節によって姿を変える自然豊かな地上では、衣服の色さえも豊かで、情緒あふれている。

 薄紅、浅葱、紫、萌黄。紗乃は色の話をすると止まらず、咲夜を着飾ることにとても熱心だ。


「咲夜様は、今日も修練場に行かれるのですか?」

「ええ、そうよ。自分の身は自分で守れるように、強くならないといけないもの。それにようやく、重孝しげたかから矢を射てもいいって言われたのよ」


 咲夜を着替えさせた後は、金の髪を櫛で梳く。紗乃は大きくため息をついた。


「そのようなこと、男子おのこに任せておけばよいのです。咲夜様は姫君なのですよ。先日も指先を切ってきたではないですか。白くて美しい指ですのに」

「普通のお姫様のように守られてるだけじゃダメ。またあんなことがあった時、少しでも戦えたほうがいいでしょ?」


 咲夜は、その白い掌を握りしめた。


 ――あれから。


 あの奇跡の日から、咲夜は領で一目置かれるようになっていた。兵士たちからは妙に固い敬語を使われるようになったし、屋敷の門から子供たちがきらきらした目で覗くようになった。毎日様々な贈り物――果物や肉、花が届いたし、ぜひ会いたいというおとないも増えた。


 このまま何もしなくても、月に帰るその日まで、咲夜は平穏に暮らせるのかもしれない。


 しかし、それは幻想だと、咲夜はこの短い期間で知ってしまった。


 地上のことわりは、月のものとは全く異なっている。守護者たる女王はおらず、様々な国があって、日々争いを繰り広げている。彼らは誰一人として神力を持っていない。嵐が来れば逃げるしかなく、飢えれば死ぬ。生きることは命がけだ。人々は自分たちの力で、生活を脅かすものを排除し、打ち勝ち、時には共存していかなければならない。

 奇跡によって紗乃は死を免れた。しかし、いつまたあのようなことが起こっても不思議ではない。


 だから咲夜は、時親にお願いをした。戦うすべを身に着けたいと。


 時親ははじめ、だいぶ渋っていた。彼の常識に、女子供が身を張って戦うなんてことは、ありえなかったのだろう。まさか咲夜がそんなことを言い出すとは思ってもみなかった様子で、少しだけ長い沈黙のあと、すげなく断られた。


 しかし咲夜はあきらめなかったのだ。毎日、直談判をするために時親のところに顔を出した。


 時親は早朝、必ず修練場で兵士たちと一緒に訓練していた。まずはそこへ通い詰めた。

 時親は咲夜を明らかに認識しているはずなのに、かたくなに無視していた。兵たちの号令が響く修練場の端で、咲夜はただ黙って立ち続けた。

 許可をしてくれるまで絶対にあきらめないと熱心に通うその姿は、兵士たちからは夫を見守るいじらしい姿に見えたようで、現場からは応援された。


 それを一か月も続ければ、さすがに時親も折れた。ただし、条件付きでだ。


 ――訓練は弓のみ。そして、時親か重孝のどちらかの目が、必ず届く場所で。


 支度が終わると、咲夜は早速、修練場に向かった。


 山城の門の中にあるそこは、日が昇っている間は、毎日たくさんの兵士の姿があった。剣や槍の訓練のための藁や木材、弓当てのための的の予備が、横にいくつも積まれている。

 すでに訓練は始まっていた。男たちの掛け声が響く中、修練場の入り口に、背の高い男が姿勢を整えて待っている。


「重孝、来たわ」

「はい。こちらへ」


 重孝は短くうなずいて、静かに身を返した。その背を追って、咲夜は修練場に入る。最近はずっとこの流れだ。


 この重孝という男は、時親の腹心の部下だ。咲夜は最初、重孝が誰のことかわからなかったが、ちゃんと紹介されたときに思い出した。地上に落ちてきた時に受けた襲撃で、時親と一緒に咲夜を守ってくれた男である。

 背が高く大柄で、立派な髭を生やしたその男はとても目立つ風貌をしていたが、不思議と気配は薄かった。時親のそばに控え、余計な口出しをせず、影に徹しているようだ。

 目的地まで、重孝は全く言葉を発しない。最初の頃は気まずくて、咲夜はいくつか話しかけたりもしたのだが、ほぼ「はい」しか返ってこない上、こちらが逆に無言を貫き通しても、重孝は全く苦にも感じていない様子だった。気にするのがばからしくなって、咲夜はもはや何も言わないことにしている。

 つまりは、こういう男なのだ。


 修練場の奥は、射場になっている。的が横にたくさん立ち並び、距離を開けた手前の定位置で、兵士たちが弦を絞っている。先ほどの剣術や槍術の広場と違って、こちらはあまり声がない。背後からの掛け声が響いてくるだけだった。


「咲夜様」


 顔なじみになった兵士の一人が、礼儀正しく頭を下げた後、奥を指し示す。


「もうすぐ始まるところです」


 そういって彼が示した先に目をやれば、多くの兵士たちの視線を一心に集める光景があった。


 一番奥の的。的までの距離は様々だが、そこは一番距離が開いている。当然、当てるにはかなりの腕がいる。初心者はまず矢が届かず、中級者はかすりもせず、上級者でも外すときは外す。


 その、射場で一番難しい的の前に立っていたのは、時親だった。


 伸びた背筋と、研ぎすまされた横顔。焼けた頬に薄い日が落ちて、影を作る。

 彼は片袖を抜いた半身を的に向けて、呼吸を整えているようだった。


 咲夜は静かに、特等席に案内された。そこは一番、弓手がよく見える。咲夜が一か月、時親の許可を求めて通った際、兵士たちがわざわざ用意してくれた席だ。


 時親の姿を見ると、咲夜は少しだけ不思議な気持ちになる。


 彼の政治姿勢は、月の女王と似ている。血の匂いのする決断を下すこともあるが、女王ほど絶対的な君主でもない。領民の祭に顔を出し、酒宴で兵士たちと輪になり、屋敷では紗乃に詰め寄られている。苛烈な政治の裏に、静かに息づく生活と秩序があった。彼はそれを人に求めないし、押しつけない。ただ、一人、実行して見せる。そうしたら、周囲はいつの間にか整っている。そんな感じだ。

 ここ最近はずっと時親の後をつきまとっていたので、咲夜はそういう様々な面を見ることになってしまった。そして、側面を知るたびに思ってしまう。

 まったくわけわかんない、と。


 だけれど……。


 咲夜が譲らずに、ずうずうしく追いかけまわした結果、時親は仕方なく修練場での訓練を認めた。これは、咲夜が彼に勝利したといってもいい。


 だから咲夜は満足している。

 彼を困らせてやったことに。


 す、と時親の腕が持ち上がった。頭上に持ち上げられた弓がゆっくりと下がってきて、彼の吐く白い息が流れる。左右に弧を描きながら開かれる弓と、弦がきしむ音。頬のあたりまで引き込まれた矢が、静かな圧力を放っている。その瞬間はまるで、一枚の絵のように整っていた。


 空気が張り詰めたのは一瞬だった。そして、次の瞬間には終わっている。咲夜が瞬いている間に、矢は遠くの的に命中していた。びぃん、と弦の鳴りだけが響いた。


「わあ……」


 咲夜は思わず息を吐いた。


 初めてこの射撃を見たとき、咲夜は思いきりはしゃいでしまった。重孝は短く言った。「静粛に」と。そのあとからは静かにするよう努めているが、あまり制御できていない。いつも、思わず感嘆の言葉を出してしまっている。それが、この静けさの中では妙に大きく響いてしまう。

 咲夜が悪いのではない。この人の射撃が、とても美しくて完成されているだけなのだ。咲夜は一瞬の静と動に感動して、反射的に声を上げてしまうだけなのだ。


「お見事です」

「さすがは御屋形様」

「素晴らしい腕前ですな」


 兵士たちが、咲夜の方をちらりと見てから、次々と時親を褒め始めた。咲夜の感嘆の声は、その中に埋もれる。すぐに重孝の「静粛に」という声があって、皆は咳払いをした。それを合図に、訓練が再開された。


 咲夜は重孝に促されて、修練場の一番手前、初心者用の的に行った。時親が今さっき射た的よりも、はるかに近い。あちらが確実に五十歩以上離れているなら、こちらは十歩ほどだろうか。その的のさらに近くに、巻いた藁を持ってこられる。咲夜から二、三歩しか離れていないところだ。これが今日の的だ、と言われた。

 もちろん文句はない。咲夜はつい最近まで、弓なんて持ったこともなかった初心者なのだ。初心者用の弓すらも重く、弦を引くこともままならなかった。今も、背筋の痛みにさいなまれ続けているほどだ。はじめはここからだと言われれば、悔しいが従うしかない。


 最初に型の確認をした後、咲夜は矢を持たせてもらえることになった。瞼には、先ほどの時親の美しい姿勢が焼きついている。よーし、と意気込む。


 時親と同じように、半身になって。

 呼吸を整えて、弓を持ち上げて。弦を、力いっぱいに……。


 再現しているつもりが、まったく上手くいかなかった。弓は重く、腕がぷるぷると震える。放った矢はどれも、力なく地面に刺さった。一射ごとに重孝が短い助言をくれたが、これは時間がかかりそうだ。


 射場の奥で、弦音が鳴った。空気が震えるような、長く澄んだ音は、咲夜の放つ無様なものとは違う。

 ちらと見れば、残心中の時親の姿があった。

 まったく、憎たらしいほど完璧な絵だ。


「もう一度」


 拾い上げた矢を差し出して、重孝が咲夜を促した。


 咲夜はふう、と息を吐いて、静かに目を閉じる。もう一度、彼の射撃の光景を思い出しては、なぞろうとした。


 何度も行っていたせいで、緊張感が薄れていたのだろう。

 あっと思った時には姿勢が崩れ、弦が指から離れてしまった。びしっと音と一緒に、激痛が走る。


「いっ……!」


 咲夜は思わず、身をすくめた。


「姿勢が崩れましたな」


 背後から重孝の冷静な声が降ってくるが、それどころではない。うずくまって痛みを耐える。

 弦を引くのを失敗して指を切ったことはあったが、その時以上の痛みだ。左腕を打たれた衝撃が胸にまで響き、皮膚の下で熱が広がった。びりびりとした痛みに思わず息をつめてしまう。

 絶対に痣になっていると、確信できる痛さだ。湯あみの時、紗乃から悲鳴が上がるに違いない。


 さわ、と修練場の空気が揺れた。兵士たちの立てる音が、ほんの一瞬止まる。多分、咲夜がすぐに立ち上がらなかったせいだ。


 ふと、頭上に影が落ちた。きっといつまでも立たない咲夜を見て、重孝が様子を見に来たのだろうと思った。


「咲夜」


 しかし違う声だ。

 影は、咲夜の前で膝を折った。時親だった。


「見せよ」


 咲夜の左腕を取って、軽く袖をまくり上げる。白く薄い肌に赤い線が走っている。それを見つけたあと、時親はすぐに袖を戻した。


「心配ない。数日で引く」

「めちゃくちゃ、痛い」

「弓を始めたばかりの者は、皆ここを打つ。よくある怪我だ」


 そう言いつつ、時親は咲夜を支えて立ち上がらせた。咲夜の弓を拾い上げて、重孝へ渡す。


「弓は、ものになるまで時間がかかる。まだ止めぬか?」

「あ、あたりまえよ」


 痛みはまだおさまっていなかったが、咲夜は背を伸ばした。


 今、立ち上がらせてくれたのだから当然なのだけれど、思ったよりも彼が近くにいて、咲夜はどきっとした。弓を放っていた時のまま、時親は左の片袖を脱いでいた。日に焼けた腕と肩が、すぐ目の前にある。思わず、体の痛みを忘れた。

 答えを聞いて、時親は少しだけ困ったように、目を細めた。まさか、怪我をしたから訓練をやめると、咲夜が言い出すと思っていたのだろうか。


「絶対にやめない。あの的に絶対、当ててやるんだから!」


 怪我をした手で、十歩ほど先の初心者用の的をびしっと指した。


 時親はその的をちらりと見た。

 それから、先ほどまで使っていた奥の射場へ無言で引き返す。

 抜いていた袖を戻し、自身の弓を取ると、再び咲夜のもとへ歩いてきた。


「そなたは非力だ」


 嘲りは含まれていない。ただ事実を言ったという風に、続けて言った。


「腕の力で引くな。姿勢が崩れる」


 時親は、ぽかんとする咲夜の近くに立つ。半身から、矢はつがえずに弦だけを引き絞る。


「使うのは背中だ。背中で、体を開くように引く。重孝がそう指導していたはずだ」


 弦を離す。びぃん、と高い音がこだました。

 咲夜はその姿に見入っていたが、一瞬遅れて、慌てて重孝が静かに差し出している自身の弓を取った。


「今のもっかい見せて!」


 時親の隣に並んで弓を引く、という訓練が始まった。


 澄み渡った弦音の後に、未熟な弦音が続く。

 なぜか、修練場はいつも以上に静まり返っていた。

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