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月下恋歌  作者: 梨千子
第一章「月、落つ」
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幕間「盃の月」

 青白い月が出ている。


 長月の空は高く澄み、虫の声は、冬の訪れがもうすぐ来ることを知らせている。


 庭園は、薄く透明な月光で照らされていた。松は黒く立ち、紅葉は暗い影を作り、萩が柔らかく揺れている。池は空に浮かぶ月を映して、ほのかに輝いている。


 す、と扇が月光をよぎった。


 庭に面して大きく開かれている部屋――磨かれた木張りの床で、男が一人、舞っていた。


 まるで庭と一体化しているかのような舞である。

 檜扇の扇面が月光を受け、翻るたびに白く冴える。そこに描かれた雲が、空の月や水の月を掬うように動いては、銀色に光る。


 音はない。虫の声だけがある。


 彼は滑るように舞っていた。重い衣の裾が、彼の動きを後から追って、静かに揺れる。


 どれほどの時が過ぎただろう。


 月に雲がかかって、庭は途端に薄暗くなった。

 舞い手は、ふと動きを止めた。


 少し待ったが、かかった雲は深く、月は当分の間姿を見せまい。ようやく男は腕を引いて姿勢を戻すと、檜扇をぱちりと閉じた。


 「今宵の月に、よく似合う舞でございました」


 しばらくしてから、細く柔らかい声が届いた。


 男はただ、視線だけを送った。


 女がいた。

 華奢な肩を覆う衣が、なだらかな線を描いて床に広がっている。白の単衣の上に、淡青、そして蘇芳へと、色が静かに重ねられていた。広げられた檜扇に描かれた竜胆(りんどう)。扇を持つ細い指先。ほのかに淡い爪。伏せられた瞳と、頬に落ちる睫毛の影。


「……いたのか、綾子(あやこ)

「はい」


 彼女が片手を上げると、それを合図に数人の使用人が入ってきて、円座と膳を並べていく。

 漆塗りの膳には、浅い(さかずき)がひとつ乗っていた。綾子が円座のひとつに座ると、彼女の後ろに控えていた侍女が、柄杓を使って壺から酒を汲んだ。


 それを見てから、男は言葉なく、隣の円座に腰を降ろした。酒の満ちた浅い盃を、綾子の手が持ち上げて、男に受け渡す。

 彼は一献傾けて、次にそれを綾子に回した。綾子は一口、口をつけると、また男に預ける。


 二人に会話はなかった。酒を汲む音と、かすかな衣擦れの音が、いくばくか長い間、その場にあった。


 一瞬、雲間から月が切れ長の目を覗かせる。銀の光が男の手の中の盃に落ちて、酒の水面を揺らした。


桂宮(かつらのみや)の話を、おまえは聞いたか? 綾子」


 男は悠然と問うた。

 綾子は思わず、男の横顔に視線をやった。その頬を照らす月の光は、どこか青く、薄暗い。彼の視線は、庭にあった。綾子はすぐに目を伏せた。


「……はい。ずいぶんと、噂になっておりますね」

「おまえは、どう思った?」


 綾子が答えるより先に、男が盃を回してきた。彼女は無言でその盃を受け取り、一口飲んだ。空になりかけた盃に、侍女が次の酒を満たす。


「……とても、おめでたいことかと」

「めでたい、か」


 盃がまた、男の手に渡る。

 彼はその酒を飲まずに、す、と庭に掲げた。盃の水面に雲のかかった月が映り、彼の手の動きに合わせて、ゆるりと回りだす。


「確かに、めでたいことだ。桂宮――今は時親と名乗っているのだったか。あれはなかなか、妻を迎えなかったからな」


 落ち着いた、静かな声だった。


「貴族どもが、(さえず)っている。天女が見たいそうだぞ? あれと、あれの娶った天女を、ここに呼ぼうと必死だ」


 男が再び盃を揺らす。ゆるり。月がまた揺れた。


「私の顔色をうかがいながら、天女の話題を出すのがあまりに滑稽でな。大饗(だいきょう)に呼ぶがよいと、許可を出してしまった」


 ふふ、と男が低く笑う。


「――大饗に、呼ばれたのですか?」


 綾子はつい顔を上げて、そう問いかけてしまった。


 すぐに失敗を悟る。


 いつの間にか、男は綾子の顔を流し見ていた。


 視線が合う。

 男の鋭い瞳が、綾子の息を凍らせた。目を伏せることも、逸らすこともできずに、綾子は膝に落ちた細い指先をわずかに曲げた。


 盃が膳に戻された。並んだ二人の間で、満ちた酒が月を映している。その月は、雲に覆われて、どこか霞んでいた。


 ふふ。

 男が再び笑った。先ほどよりもひそやかに、息を吐くように。


「ああ、綾子。おまえは本当に可愛らしいな」


 その手が舞のような手つきで、綾子に触れる。長い指で、彼女の絹のような頬をなぞり上げて、男は正面から彼女の瞳を覗き込んだ。


「あれが都に来るとわかった途端、まるで匂い立つ花のようではないか」


 口づけをするかのような距離だった。互いの息がかかり、触れ合った衣から立ち上った香りが、濃密で複雑に絡み合う。


「おまえがそのように喜んでくれるとは。許可を出した甲斐があるというものだ」


 男は笑ったまま、綾子の唇を吸った。


「けれども、綾子。おまえは聡く、だれよりも美しい。だからこそ、わかっているのだろう?」


 しめやかな息が交錯する中、男は綾子の耳元にそっと顔を寄せる。


「綾子――おまえは逃げられぬのだよ」


 背に回された腕が、彼女の長い髪を一筋さらい、落としていく。手つきは柔らかで、髪をなぞる指先は、その滑らかな感触を慈しんでいるかのようだ。


 綾子はわずかに息をついた。

 そして、男の腕の中、静かに目を閉じた。


 盃に映る月が、隠れた。

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