第六話「灯火」
咲夜は走った。
足を踏み出すたびに怪我をした部分が叫びを上げて折れそうになるが、無我夢中で駆ける。
久馬羅の兵は、異様な外見の咲夜を警戒した様子だった。簡単には追いかけず、じりじりと距離を測っている。
「さ、さの、紗乃――」
膝から崩れ落ちるようにたどりつけば、草の中に伏す彼女の姿があった。
紗乃の体には、いくつもの刀傷がつけられていた。着物は大きく裂かれて血で汚れ、草までも赤く染まっている。震える手で恐る恐る触れると、紗乃はまだ温かかった。
「なんで……」
続きは言葉にならない。
咲夜なんて放っておけばよかったのに。逃げ出した偽天女なんて、無価値な存在だろう。どうして追いかけてきてしまったのか。
咲夜が偽天女だと告発して、久馬羅の兵に引き渡せばよかったのだ。そうしたら、命は助かったかもしれない。どうして咲夜なんて、守ってしまったのだ。
「どうして……っ」
御屋形様と――仲直りしてくださいませね。
背中しか見えなかったけれど、紗乃の声は静かで、優しかった。悲劇を目の前にして、あんなに穏やかな声で、他人のために言葉を残すだなんて、咲夜には到底できない。
足の傷なんかよりもずっと、ずっと痛くて重い言葉。
ざりっとした音に、久馬羅の兵たちが包囲網を狭めたのがわかった。
きっと咲夜はこの後、無惨に殺されるだろう。何もなせぬまま、愚かな女として死ぬのだ。
しかしそれがわかっていても、咲夜はもう動けない。
紗乃の望みを叶えることは、できそうにない――。
咲夜は紗乃のぬくもりに寄り添うように、目を閉じた。
刹那。
高く澄んだ空気の通る音が、場を切り裂いた。
上がる男の悲鳴と、次々と鳴る高音。そのたび、低い悲鳴が続いていく。
反射的に目を開けば、臨戦態勢だった久馬羅の兵が、重い荷物を転がした時のように倒れていく様が見えた。ある者は頭を、ある者は喉を、そしてある者は胸を。見事なまでに白い矢が、一撃で貫いている。
「咲夜、そのまま動くな! 総員突撃ッ!」
その高らかに響いた声を合図に、場に兵士がなだれ込んでくる。
ああ。
咲夜は思わず、深く息を吐いていた。それが安堵なのか、絶望なのか、咲夜にはわからなかった。
強襲をかける味方の兵たちの奥に、まっすぐ立つ時親の姿があった。弓に矢をつがえたまま場を睥睨する様子に、形容しがたい思いが胸の内に立ち上る。
来てくれたのか。
戦場が落ち着くのはあっという間だった。弓による奇襲で、敵の数が減ったというのが効果的だったのだろう。そう時間がかからずに最後の久馬羅兵が倒されて、山に漂っていた緊迫感が薄れていった。
それを見届けた後、時親は、伏した紗乃の隣に座りこむ咲夜のもとへやってきた。
彼はまず、静かに紗乃の状態を確認した。ぬくもりや脈、息を確かめる。
淡々とした作業だ。その手慣れた様子を見て、咲夜は改めて心の蔵がつかまれたような気持ちになる。
彼の顔に浮かぶのは悲嘆ではない。微動だにせぬ表情は、明らかに咲夜の知る世界とは一線を画している。
「……う……」
血の気がない紗乃の口から、うめき声が漏れた。
咲夜ははっと紗乃の顔を覗き込んだ。
「紗乃!」
生きている!
光が一瞬差し込んだ気がした。
「お、やかた、様……よかった……間に合ったのですね……」
「紗乃!」
「咲夜、さま……よかっ、た……」
紗乃の息は細く、声は聞き取れないほど小さい。死の濃厚な気配が漂っていた。
「紗乃」
時親は、紗乃の血に濡れた手を握ると、彼女の名前を呼んだ。
「礼を言う。……大儀であった」
その言葉を聞いて、紗乃はかすかに笑った気がする。
二人の間に流れる空気はとても落ち着いていて、咲夜にはわからない何かで通い合っているように思えた。
しばらく紗乃の顔を眺めていた時親は、ゆっくりした動作で、静かに短剣を取り出す。鞘を抜けば、鈍色の刀身が、木陰から落ちる光を反射してきらめいた。
その刃が向けられた先は、紗乃の細い喉であった。
「な、何するの!」
咲夜はとっさに、時親の腕をつかむ。
紗乃を助けにきたのではないのか。咲夜は彼が剣を向けたことが信じられず、強く強く、その腕に爪を立てる。
「もう助からぬ」
時親は、咲夜の手を無理に押しのけなかった。ただ瞳を合わせて告げた。
「楽にしてやるのが、私の務めだ」
時親の瞳は深い。
初めて会った時に感じた、静謐な湖の底だ。どんな力を受けようとも、深く重い水は揺れない。ただ、何もかもを吸い込んで受け止める。そんな色を宿した瞳。
けれどそれは。
「――紗乃は、あなたの家族でしょう?」
咲夜は思わずそう返していた。
時親と紗乃の関係は、長く共にあったからこそ芽生える主従以上の何かがあるように思えた。母と息子。叔母と甥。姉と弟。あるいは、それに似たすべて。
ほんの一時しか関わっていない咲夜にだって感じ取れる絆が、二人にはあった。
だからこそ咲夜は、時親に紗乃を殺してほしくないと勝手に願った。
否。
殺させてはいけないと、思った。
咲夜のまっすぐなまなざしを受けて、時親の瞳が、わずかに揺れた気がした。それは、水面に小さな石を投げ入れたときの波紋のように、かすかなもの――。
しかし、それだけで十分だった。
紗乃は語っていた。
――御屋形様は、本当はとてもお優しくて、誠実なお方なのです。一度懐に入れたお方を、決して見捨てたりしません。
家族に刃を突き立てた後、彼はきっと悲しみを表さないだろう。「やるべき」だと思えば、躊躇なく行えてしまう。それは、時親が月の女王と同じ側の人間だからだ。
けれど、時親が本当に紗乃の言う通りの男なのだとしたら。
それはどんなにつらく、苦しい道だろうか……。
彼に、家族を殺させてはいけない。
咲夜の強い眼差しを避けるように、一度だけ、時親が目を閉じる。すぐに開かれ、低いささやきが届いた。
「苦しませたくないのだ」
咲夜が初めて聞いた、彼の願いであった。
唇が震えた。
何か言葉をかけたかった。かけるべきだと思った。しかし胸の内の思いは言葉になってくれない。
時親の言葉は、確かに願いのはずなのに、紗乃の命を救うものではない。もう助からないと知っているがゆえの諦観。助かってほしいという、綺麗事は吐かない。どこまでも冷徹に現実に寄り添った言葉だ。
だから彼は、義務に非情な願いを込めて、紗乃の――家族の命を、自ら摘もうとしているのだ。
私が逃げたから。
咲夜はようやく、自らの失敗を心の底から理解した。
王太女でありながらその責任から逃げ、女王の叱責から逃げ、試練から目を逸らし続けた。時親から逃げ、紗乃から逃げ、竹流の言葉からも逃げた。
その結果がこれだった。
これから紗乃を殺すのは、時親ではない。咲夜なのだ。
咲夜が逃げ続けた責を、この男が負おうとしている。
そんなこと――。
――そんなことは、あってはならない。
咲夜は時親の腕から手を離すと、首から下げた神器を握りしめた。
――一度きりですが、この神器を使えば、いかなる災害や怪我、病魔からも身を守れるでしょう。いつ何のために使うかは、あなたが決めなさい。
これを持たせてくれた、女王の言葉を思い出す。
「使うのか?」
いつの間にか、頭上に伸びた竹の枝に、白い鳥が止まっていた。
「いいのか? それを使ったら、本当に何もできない」
「……そうかもしれない」
ただの無力な女になるのかもしれない。偽天女だと罵られ、殺されるのかもしれない。
「使う価値があるのか? その地上人の女に」
「……価値?」
「自分のためではなく、地上人に神器を使ったと、責に問われるかもしれない。王太女を剥奪されるかもしれないぞ」
責に問われる? 王太女を、剥奪される?
咲夜は顔を上げた。時親が自分を見ていた。ぐっと顎を引いて、背を伸ばした。
彼から目を逸らさず、咲夜は空に宣言した。
「月も王太女も関係ない。いま救える力があるのに使わないのなら、ないのと同じだわ。どんな未来になったって、もう逃げない。私は――紗乃に生きていてほしい!」
黄金の奔流が、咲夜の胸にかかる神器からほとばしった。
長い髪を。覚悟が宿った瞳を。彼女の体を染め上げて――奇跡を体現する。
音が消え、色が消え、黄金は一本の柱になって、咲夜から時親を、そして紗乃を飲み込んだ。竹の葉が光を返し、やがて山ごと染め上がる。真昼だというのに、むしろ周囲が暗く見えるほど強烈な光。
それは、遠く離れた都にも届くほどの神々しさだった。誰しもが言葉を失い、その光景をただ茫然と見上げた。信仰心の強いものは、畏敬の念から膝を折り、地面に頭をこすりつけた。
光の中、咲夜は見た。
見つめ合う時親の瞳に、黄金の光が何度もはじけて沈んでいったこと。息を呑んで、なおもこちらから視線を離さない彼の精悍な顔。いつも前髪に隠れる場所にうっすらと残る古傷。白かった紗乃の頬が、ほのかに色づいたこと。時親の握る短刀の切っ先が、ゆるりと下がっていったこと。
それがどのくらいの時間だったのか。
随分長く見つめ合っていた気がしたが、もしかしたら瞬く間だったのかもしれない。
光が収束していく。風が吹いて、竹林がさああっと音を立てる。手の中にあった神秘の塊が、さらさらと溶けて膝に落ちていく。
ふっと、紗乃の息づかいが聞こえた。
奇跡は成った。
よかった。
咲夜は目を閉じた。
次の瞬間、咲夜は時親に抱きしめられていた。
広い胸が咲夜を包み込む。咲夜は驚いて身を固くしたが――ややして、背に回された腕のわずかな震えを感じ取って、力を抜いた。
強く抱かれて、顔は見ることができない。
触れた衣から、焚きしめられた香と汗の混ざり合った、濃厚で深みのある匂いがする。少し爽やかで、しかしどこか苦さの混ざるそれを、咲夜は嫌いではないと思った。
咲夜はそっと、広い背に手を回して、目を閉じた。
頭上で静かに、鳥が羽ばたいた。
***
その日、大和国の辺境に舞い降りた天女が、奇跡を顕現せしめた。
国境沿いに軍を展開していた久馬羅の兵士たちは、神威を目の当たりにして震え上がり、壊走したという。
その報は、畏怖とともに諸国に駆け巡った。




