第五話「慟哭」
戦になるかもしれぬ。と、時親が言った。
夜が明けて、領内は何事もなかったかのような朝を迎えた。侵入者が一人、捕らえられた後に死んだ。彼らにとっては、それだけのことなのだ。
だが、間者がもたらした情報は無視できなかった。久馬羅の軍が国境に向けて進軍しているという話だったからだ。
時親は、太陽が昇ってすぐに咲夜のところにやってきて、その話をした。それから、咲夜に天女としての働きをなせと要請してきた。
天女の働きをなす。――つまりは、ここには天女がいる、大和国は天女の庇護を受けているぞと久馬羅にわからせること。彼らの目の前に姿を見せ、神々しく振舞う。彼らが国に引き返せば勝ち。そういうこと。
咲夜は黙って彼の話を聞いていた。謁見の間ではないので、時親は腕を伸ばせば届くようなところにいたが、咲夜は顔を上げなかった。ただ無言で、その要請に頷いた。
時親は、何か戦とは関係のない言葉を一言二言、咲夜にかけたように思う。咲夜には、よく思い出せない。
紗乃とも少し長い間、咲夜について話し合っていたようだった。しかしそれも、咲夜には関係のないことだ。
そして夜が何度か明けて、咲夜は気が付くと戦地にいたのだった。
***
国境は、咲夜が降りてきた山の近くにあった。山脈が国を分け、自然と国境を作っているのだ。久馬羅の軍は、その山の谷を進んでいるらしい。
彼らは軍事行動をしているが、国境を越えてきたわけではない。ただの示威行動である可能性がある。たとえそうだとしても、領主である時親は様々なことを考慮して、軍を出さざるを得なかった。
異例の軍編成であった。通常は、先鋒を担う前軍、総大将のいる本隊、そして後詰の任につく後軍で構成されるものを、時親は今回、四つの軍に分けた。本隊を二分割して、片方を咲夜の守護としたのである。何かあった場合に、指揮を執る軍と、咲夜を退避させる軍が必要になる。その判断からであった。
そして、咲夜のいる軍には、紗乃が同行していた。咲夜は一人で馬に乗れないし、そばで彼女の世話をするものが必要という判断からだ。
時親の軍は、山の麓から少し離れた平地に布陣を取った。谷は瓢箪のようにくびれているらしい。攻めるも守るも難しい場所のため、こちらからは谷に入らないことにしたようだった。
久馬羅の軍が山を完全に出てしまったら、戦になってしまう。咲夜はそれまでに、何らかの形で、彼らに対して働きかけなければならない。
「咲夜。おい、咲夜! 聞いてるか!?」
咲夜は、木陰がある場所で涼んでいた。胡坐と呼ばれる折り畳み式の椅子が、紗乃によって用意されている。乗ってきた馬は木につながれていて、草を食み、一休憩している。
その馬の背に、白い小鳥が舞い降りて、咲夜の名を何度も呼んでいた。
「……何? 竹流」
「何? じゃないだろ。おまえ、大丈夫か?」
竹流は、じっと咲夜を見つめる。明らかに心配の色があって、咲夜は首を傾げた。
「大丈夫って、何が?」
「何がって……最近変だぞ」
「そう、かな」
咲夜の見やる先で、兵士たちがせっせと工事をしている。土を盛って、小高い丘を作っているらしい。あれが、天女の「舞台」になる。
「天女を見せるって、おまえどうするんだ?」
「うん……」
谷の出口からまっすぐ見える、目立つ場所。そこに造った高台に上がれば、咲夜の姿は丸見えだろう。心配は弓だけだが、さすがにこの距離を当てられる弓の名手はいないそうだ。
「……どうしようか」
咲夜は何も考えられなかった。
少し前の咲夜なら、張り切って天女の役目を果たそうとしたに違いない。それが咲夜の役割で、時親から明示された保護の条件でもあった。その役目を必ず成し遂げられるという自信を、持っていた。
けれど今は――。
咲夜は一度うつむくと、ごくりと唾を飲み込んで、そっと竹流の顔をうかがい見た。
「……ねえ、竹流。私、どうしたらいいと思う?」
兵士たちの運ぶ土嚢が、一部崩れたようだ。舞台の方角が騒がしくなった。規律正しかった整然とした動きが壊れて、慌ただしく人が行き交っている。無風だったが、土煙が空へ登っていくのが見えた。
沈黙は、随分と長く感じた。
やがて、咲夜にとって残酷な真実が返る。
「咲夜。それを決めるのはオレじゃない」
ばさり。羽ばたきがひとつ。
「これは、おまえの物語だ。だから、おまえが決めて、選ぶんだ」
何を望むのか。何がしたいのか。何を成すのか。どこに向かうのか。――どういう結末にするのか。
「オレは何もできないよ。オレはただの、見届け役だから」
その言葉が、咲夜を刺す。
かろうじて残っていた、自分にはまだ何かできるはずだという自負が、崩れた。
心臓が痛みを上げて、たまらず咲夜は細く短い息を吐いた。
「なんで、なんでよ――」
心の奥底にあったものが、決壊してあふれ出る。
「なんであんたまで、そんなことを言うの!」
思わず叫んでいた。
竹流は知っているくせに。咲夜が母を失ったときも。祖母が泣きじゃくる咲夜を放って、母の捜索を打ち切ったことも。嫌がる咲夜を王太女にしたことも。全部知っているはずなのに!
竹流だけは味方だと思っていた。咲夜がつらいときも、寂しいときも、いつもそばにいたから。咲夜の気持ちを、わかってくれていると信じていた。
なのに――。
竹流はそれ以上、何も返さなかった。咲夜の叫びを受け止めてから舞い上がり、空高く飛んでいく。
咲夜を、置いていく。
「……」
ああ。咲夜の口から、思わず音が漏れた。
「天女様、舞台の準備がもうすぐ整います。ご準備をお願いします」
兵士の一人が、咲夜に声をかけた。
咲夜はのろのろと、彼が指し示す丘を見やる。
――あそこで、今から、完璧な天女を演じる。
「ムリ……無理よ――」
自分にはできない。完璧な天女になんて、なれるわけがない。
ヒン、と馬が鳴いた。その視線の先に、紗乃が歩いてくる姿があった。彼女は水桶を持っていた。後詰の部隊から水をもらってきたのだろう。
咲夜は震えた。怒りからでも、悲しみからでも、寂しさからでもない。急に、恐ろしくなったのだ。
もしも咲夜がうまく天女を演じられなかったら?
久馬羅を止められなかったら?
その時、何が起こるのだろう。
兵士は咲夜を責めるだろうか。
紗乃は失望するだろうか。
時親は……役に立たない咲夜を、守ってくれるだろうか?
咲夜は、立ち上がった。
気づいた時には、馬をつなぐ縄をほどき、その背にしがみついて駆け出させていた。
「咲夜様、どちらへ!?」
驚く紗乃の声を振り切って、咲夜は逃げた。
どこへ行くかなんて考えていない。ただこの場から一刻も早く離れたかった。
咲夜には、馬をうまく操るなんてことはできない。だから、ただ目に入った山――咲夜が降りてきたあの山に向かって、まっすぐ駆けた。
そこに行って、どうしようというのか。
きっと女王は助けに来ない。時親も、逃げ出した咲夜を追いかけてなんてくれないだろう。竹流にだって、頼れない。
そこに行く意味は、ない。
それでも――。
咲夜は、ぐちゃぐちゃのまま駆けた。
しかし、深い山だ。
竹が伸びた山は、馬の足を止めるには十分だった。伸びた竹が壁のように邪魔をして、進めない。速度が次第に落ちていき、やがて馬は完全に足を止めてしまった。
「なんで止まるの。行って、行ってよ……」
咲夜は馬に文句を言った。
しかし、これ以上は進めない。馬にさえ拒否されて、咲夜は仕方なく、その背から降りた。
一人で進んだ。竹をかき分け、傾斜のある坂を登る。腕を切ったが、構わず登った。
しかし、そう進んでいないところで、急に足に激痛が走って、倒れこんだ。
「痛っ……」
山を登るなんて初めての経験である。足元の固く尖る植物の根を踏み抜いた。咲夜は、その場から動けなくなった。
「うっ……」
思わず泣きたくなった。
なんて無様なのだろう。今の咲夜を女王が見たら、呆れて言葉をなくすかもしれない。
もし母が生きていたら……。
――母さまなら、慰めて、抱きしめてくれただろうか。
記憶に残る母は優しかった。眠る前に絵本を読んでくれたのは母だ。いろんなことを教えてくれた。
「あの美しい星」
空に浮かぶ一際大きく、青く輝く星のことを、母はいつもそう呼んだ。王太女として試練の儀に臨める日を、待ち遠しいと言っていた。地上と、地上に住む人々に会えることを、何よりも楽しみにしていた人だった。
彼女はこの地上を、愛していたのだ。
そして、帰ってこなかった。
咲夜も帰れないのだろうか。この地上で、朽ち果てる運命なのか。
足をぬるりと濡らす熱い血潮を感じて、咲夜は次第に力を失っていく。
そのときだった。
「咲夜様! いらっしゃいますか!?」
紗乃の声だった。
咲夜ははっと振り向いた。馬を駆る紗乃の姿が見えた。
思わず隠れようとしたが、見つかる方が早かった。
「咲夜様……! よかった、ご無事で!」
紗乃は馬から飛び降りて、手足に傷がつくのも構わずに咲夜のもとへ駆け寄ってくる。
その手が咲夜に延ばされたとき、
「来ないで……!」
咲夜はそれを拒否していた。
「お願い……私を放っておいて……!」
「咲夜様……」
咲夜は顔を逸らした。紗乃の顔を見るのが怖かった。
紗乃はしばらく沈黙していたが、やがて膝をついて、静かに咲夜の名前を呼んだ。
「……咲夜様、大丈夫です。紗乃がそばにおります。何も怖くはありませんわ」
幼子に聞かせるような、優しい声だった。
「ええ、大丈夫ですとも。この紗乃が、咲夜様をどんな怖いものからも守ってさしあげますからね」
「嘘」
「まあ。どうしてそう思われるのでしょう」
「あなたの主人は、私じゃない」
紗乃の主人は時親だ。紗乃がどう思っているかは関係なく、時親の意思で決まってしまう存在なのだ。
紗乃は少し困った様子だった。
「咲夜様は、御屋形様を誤解されておりますわ。確かに御屋形様は、少々朴念仁なところがございますけれど……本当はとてもお優しくて、誠実なお方なのです」
そんなはずがない。
咲夜はぎゅっと身を硬くする。
時親の、冷酷な言葉が忘れられない。あの久馬羅の間者は殺されてしまった。命を奪う命令を、彼は平然と行ったのだ。
「本当です」
紗乃は優しく、しかし強く繰り返した。
咲夜の震える手をそっと取り、優しく包み込む。
「御屋形様は、一度懐に入れたお方を、決して見捨てたりしません。咲夜様のことを、きっと守ってくださいます。ええ、紗乃が保証しますとも」
おかしな侍女だった。彼女の言葉を聞いていると、不思議と真実のような気がしてくる。
それは紗乃自身が、きっと固く信じているからなのだろう。時親のことを篤く信頼しているのだ。
彼の帰還に、領民が両手をあげて喜んでいたことを思い出す。民たちの嬉しそうな顔。時親の、子供たちに対する穏やかな態度が、今更のように思い出された。
部下や民から、こんなに篤い信頼を預けられるような時親は、一体どのような人物なのか――。
冷たく凍るようだった指先が、紗乃の手に包まれて、少しだけほどけた。
「戻りましょう、咲夜様。皆、心配しております」
咲夜はその手を取った。
しかし、うまくいかなかった。
紗乃の体が、どう、と倒れこんだ。
「……えっ?」
一瞬の出来事で、理解が追いつかない。
紗乃の肩に、突き刺さるものがあった。
矢。
そう認識した瞬間、竹林の隙間から次々と影が立ち上がった。
泥で顔を汚し、ぎらぎらと殺意を眼に宿らせるその影は、時親の率いる兵士たちとは違う甲冑を着ている。
以前、この山で時親を襲っていた黒装束たち。彼らが放っていたような重圧が、今は一心に咲夜たちに注がれていた。
殺される。
昏く冷たい殺意の塊が、ひたひたと足元から忍び寄る。
咲夜は動けなかった。逃げなければいけないと理性ではわかっていても、彼らから視線を逸らした瞬間に、命を刈り取られる予感が身動きを許さない。
紗乃の手が、咲夜の肩を強くつかんだ。それが咲夜を正気に引き戻す。
「さく、や様、お逃げください……! 久馬羅の、兵です……!」
その顔は痛みに歪んでいる。しかし強く決心した目で、紗乃は咲夜を背の高い草の中に押し倒すと、勢いよく立ち上がった。
咲夜を隠すように立ちはだかって、紗乃は大声を上げる。
「まさか、草に潜んで女を不意打ちとは! 武士の風上にもおけませぬ!」
まっすぐに立つ彼女の肩に、長い矢が突き刺さっている。
相当痛むに違いないが、紗乃は矢を受けなかった手を懐に入れて、小さな短剣を取り出した。
「だ、ダメ……」
紗乃が何をしようとしているのか、咲夜は理解した。それを止めよう、止めたいと思うのに、喉がひりついて声が出ない。
「咲夜様……」
紗乃は、ささやくように言った。
「御屋形様と――仲直りしてくださいませね」
どのような顔でそれを言ったのか、咲夜にはわからない。けれどその背中はまっすぐ伸びている。
紗乃は駆けて行った。
複数の足音が彼女を追いかける。男たちの荒々しい咆哮と、女の押し殺した悲鳴が何度も上がった。
……そして、静かになった。
咲夜は何度も浅い呼吸を繰り返した。とてつもなく寒さを感じる。だというのに、汗でべったりと着物が肌に張り付いている。
這うようにして、何とか身を起こした。
久馬羅の男たちが立っていた。
紗乃の姿はない。
否。
草に埋もれるように、彼女の着物の一部が見えた。
「――ッ!!」
言葉にならない悲鳴が、喉からほとばしり出た。




