第二話「咲夜」
大和国辺境。その地は都から遠く、豊かさからは程遠い地だ。
隣国・久馬羅の兵が、国境を越えてくるのは日常茶飯事である。小さな衝突や略奪は、毎年のように起きた。住民たちは血を流し、必死に家族や生活を守らんと歯を食いしばり、その度に何かを失った。
中央政府は、辺境の現状を知りながらも、脅威を過小評価して対策を取りもしない。
十二年前、元服したての時親が領主として赴任してきた時、この地からは笑顔すら失われていた。
***
馬上のまま、街の入り口である門をくぐる。突如、サクヤは大きな歓声に包まれることになった。
「御屋形様! お帰りなさいませ!」
そこは笑顔で溢れていた。住民たちは、口々に領主を労わる言葉を発している。
遠くから見た街は、まるで要塞のようだった。山城を中心に木造の建物がひしめき、それらを守るように高い塀と堀が、ぐるりと囲いを作る。たくさんの生活の煙が立ち上り、そこに多くの民が暮らしているのだと窺い知れた。
その民たちが、時親の帰還に歓喜している。
サクヤを支えるようにして同じ馬に乗っていた時親は、住民の子供たちが駆け寄ってくるのを見て、先に馬を降りた。
「御屋形様、見てください!」
「大きな瓜でしょう? あたしたちが育てたのよ」
そう子供たちが掲げるのは、新鮮な長瓜だ。
「約束通り、御屋形様にあげるね。今日のお夕飯に食べて!」
時親はしゃがみ込むと、
「立派な瓜だ。よく頑張ったな。ぜひ、いただこう」
と、子供たちの頭を撫でた。
彼の表情は柔らかく、先ほど死闘を繰り広げた後だとはとても思えない。
馬上に残されたサクヤは、黙ってその光景を眺めていたが、すぐに住民たちの注目を集めるようになった。
それも当然である。この地に生きる人々は、サクヤのように輝く金の髪ではない。皆一様に、黒い髪と黒い瞳をしている。その目立つ少女が、自分達の領主と共に帰還したとなれば、必然、注目の的であろう。
「御屋形様。あの人はだれ?」
子供達も興味津々な様子だ。
「ああ……」
時親は立ち上がって、サクヤを振り返った。
「彼女は少し、訳ありでな。屋敷に迎えるつもりだ。いずれまた紹介しよう」
その言葉に、住民たちが一瞬ざわめいた。サクヤを見る視線がより興味の色を帯びたが、時親の説明を受けてか、それ以上踏み込んでくる様子はない。
地上人に囲まれ、サクヤは強く緊張していたが、視線を逸らすことはしなかった。ここで逸らせば、負けのような気がしたのである。
地上に落とされ、神力を封じられた。しかし、月の王女としての矜持が、サクヤの背筋を伸ばし、唇を引き結ばせる。
時親はサクヤのそばに戻ってくると、馬首を山城の方へと向ける。
「屋敷に案内しよう。その後に、事情を聞かせてほしい。そなたがどこから、何のためにやってきたのか」
囁くように告げられる。訳ありと紹介したことからも、時親はサクヤの事情はわからずとも、何かを察しているのだろう。
それはそうだろうな、とサクヤは自身の金の髪を見た。月では女王の直系として、称えられ拝まれる象徴であったが、ここではそうではない。むしろ住民からは奇異の目で見られていることに、サクヤはすぐ気づいた。
この髪がこんなに目立つ色だなんて。
サクヤの試練は、地上で一年を過ごすことだ。過ごし方は問われていない。何事もなく過ごすことができるなら、それに勝るものはない。しかし、こうも目立つのでは、そう簡単にいきそうになかった。
そういえば、とサクヤは首をめぐらせた。
タケルの姿がない。街に着くまでは、距離を取りつつも空からサクヤの跡をついてきていた。しかし今は、その気配がなかった。どこに行ってしまったのか。今後のことを、相談したかったのに。
「娘。――いや」
ふと、時親が歩みを止めて振り返る。
「すまぬ、名を聞いていなかったな。何という?」
サクヤは一瞬、躊躇した。しかし、今更の話ではあった。ここまで来た以上、もはや、隠す意味はないだろう。
「サクヤよ」
「さくや。さくやか。どのような字を書く?」
「サクヤは、サクヤよ」
「なるほど。……それなら、字は私が考えようか」
何がなるほどなのか。サクヤは意味がわからなかったが、時親の表情は真剣である。
「さくや。朔夜、咲耶……いや、咲夜。咲夜がいいだろう」
勝手に悩まれ、勝手に決められた名前であった。音は同じである。よくわからないが、勝手にすればいい、とサクヤは頷いた。
「咲夜――夜に咲き誇り輝く花という意味だ。美しいそなたにふさわしい名だろう」
サクヤは耳を疑って、時親を見やった。
照れている様子がない。
その平然とした顔は、まさか咲夜を口説いているわけではないだろう。しかし、世辞を言っているようにも見えない。
咲夜は思った。まったくよくわからない男だ。
そうして、サクヤは「咲夜」と呼ばれるようになった。
***
てっきり時親は山城に住んでいるのだと思ったが、そうではなかった。あの城は遠くを監視するためと、戦時に使うための軍事拠点で、普段は街の一番奥の館を住まいにしているらしい。
馬から降ろされた後、咲夜はすぐに湯殿に案内された。襲撃に巻き込まれた彼女は、返り血や泥で汚れ、ぼろぼろであったのだ。
「まあまあ。こんなに汚れて……綺麗なお顔とお髪が台無しではありませんか!」
つけられた侍女は、咲夜のことを一目見るなり、主人の時親から彼女を奪い取り、眉をつり上げてその惨状を嘆く。
「いけませんよ、御屋形様。女子をこのような姿で放っておくなど。かわいそうではありませんか」
「仕方がない。山からここまで駆けてきたのだぞ」
「お顔を拭くことくらいできたでしょうに。まったく御屋形様は気が利きませんわ」
咲夜は湯殿に放り込まれた。
咲夜は王族の姫である。浴場で世話をされることには慣れていたが、それでも地上人に触れられるのは抵抗がある。しかし、この侍女はにこにこした顔で、有無を言わせぬ迫力があった。手慣れた様子で咲夜の衣装を脱がせ――地上の衣装とは仕組みが違うはずだが、その侍女にかかれば、まるで簡単に解かれてしまった――咲夜の頭の上から爪先までを念入りに磨き上げ、最後に花びらの浮かぶ湯の中に咲夜をそっと導く。熱いかもしれませんがしっかり温まってくださいね、と言葉を残して、侍女は汚れた衣装を洗うために出て行った。
これだけはと死守した神器の首飾りを握りしめて、一人になった咲夜はほっと息をついた。湯は熱いくらいであったが、緊張で冷たくなっていた咲夜にはちょうどよく、じわりと体温が上がっていく。
「わたし、何してるんだろ……」
ぽつりと本音が漏れた。
月に帰りたかった。
しかし、帰れないことはわかっている。
手の中にある神器は、確かに優れたものではあったが、咲夜を月に帰すだけの力はない。自らの神力がない今、彼女は本当にただの少女なのだ。
肩が小さく震え、胸が締め付けられる。湯は確実に体を熱くしていたが、どうしようもない寒さが胸の内にあった。神器を握りしめた手に力を込める。
「うっ……」
自然と涙が溢れ、頬を伝って湯に落ちた。
どうすればよかったのだろうか。真面目に王太女として振る舞っていればよかったのか。
しかし長続きはしまい。自分の気持ちに嘘はつけなかったに違いない。
目の前に完璧な女王がいるのに、どうあがいても敵わないのに、その跡を継がなければならない現実が、咲夜には重すぎた。
もしも母さまがいたら。そうしたらまた違った未来があっただろう。
でも、母は帰ってこなかった。この地上で消息を絶った。
だから、咲夜はこの試練を乗り切らなければならない。月に帰るために。
そのために、何ができるだろうか?
咲夜は首飾りを強く握りしめた。やがて侍女が戻ってきて声をかけられるまで、じっとそれを考え続けていた。
***
湯から上がって身綺麗になった咲夜は、時親に自身の正体を、正直に伝えることにした。
湯で考えた結果――協力者が必要だ、という結論に達したのである。
咲夜の目的は、一年後に無事、月へ帰ることだ。
それには、安寧に暮らしていくだけの力がなければならない。だが、今の咲夜にはそれがない。戦う力も権力も、全て月に置いてきてしまっている。唯一の味方であるタケルも鳥になっていて、頼れそうにない。
その点、目の前の男――時親は、まったく問題のない人物だ。
この地の領主であるという権力があり、武力も持ち合わせている。何より、地上人にしては知性と理性がある人物である。領民と接していた光景を思い出す限り、恐怖政治を敷いているわけでもなさそうだった。
謁見の間。
咲夜の知るその部屋は玉座が置いてあったけれど、ここでは玉座は存在しない。直に床に座るのが、地上人の風習のようだった。
「なるほど」
咲夜の話を聞き終えた時親は、しばらく考えこむように、唇に手を当てた。
彼は兜と鎧を脱いで、簡素な着物姿になっていた。血と汚れを洗い流し、傷の治療も終えた今は、その精悍な顔つきや体つきがよりはっきりと見て取れた。
「月の国……御伽話が真実であったとは」
「信じてくれるの」
簡単に受け入れられるとは思わず、咲夜は驚いた。
神力を封じられている今、咲夜が月の王女だという証明はできない。何とか言いくるめようと決意していただけに、拍子抜けであった。
「私が知る限り、地上にあれほど人語を理解し、喋る鳥はいない。あれはそなたの鳥だろう。あの時は助けられた」
咲夜は納得した。
確かにタケルは、あの時鳥の姿で何度も喋っていた。明らかに人の言葉を喋り、共闘したのだ。時親がタケルを認識していても無理はないだろう。
「それに、そなたも」
「……私?」
「そなたと会う少し前に、急に空が暗くなってな。夜になったかと思うほどの闇だった。そこに天から光が一筋降りてきたのだ。我らは久馬羅が何かしたのかと、慌ててそこに向かった。途中、刺客に襲われはしたが――件の場所に、金の髪の娘。咲夜、そなたがいたのだ」
人語を話す鳥を伴う、美しい娘。見たこともない衣装をまとい、輝かんばかりの髪と、まるで夜の星を詰め込んだような瞳の持ち主。
少なくとも尋常の存在ではない。薄暗い山奥で、その娘の周囲だけは光り輝いているように見えた。
時親はその時の光景を思い出すように語ると、まっすぐに咲夜を見た。
「月の王女よ。そなたの目的は何だ?」
その台詞を皮切りに、空気が引き締まった。
それまでの時親からは、咲夜の身を案じるような空気があった。幼子に対するような気遣いを感じていたのだ。
しかし今は違う。急に冷えた圧力を感じ、咲夜の背が伸びた。
知っている。
これと同じ緊張を、女王である祖母に対して感じたことがある。祖母は、公私の顔を使い分ける人だった。女王としての祖母は、厳格で偉大さの象徴であった。
この男も同じだ。先ほどまでは、迷子の咲夜を保護する男の顔だった。今は、この地を守護する領主としての顔になったのだ。もしも咲夜がこの地を害する存在とわかれば、彼は容赦なく牙を向く。
咲夜はぐっと下腹部に力を込める。
この空気に飲まれてはならない。これは交渉だ。地上人に屈するのは、恥である。
「私は、月に帰りたいだけ」
睨むように時親を見やる。
「でも、私が帰れるのは一年後。それまで、私を守護してほしい。その代わり、私にできることは、何でもやるわ」
これは賭けだった。
もしもこの男が、その辺にいる低俗な男どもと同じなのであれば、咲夜の言葉を言質に、喜んでこの身を我がものにするだろう。咲夜に差し出せるのは、この地上では体くらいのものだ。
しかしそうはならないと、咲夜は賭けた。
否、賭けにすらなっていなかったかもしれない。咲夜は確信していたのだ。
自身の身を預けようと決めた男である。その辺の低俗な男と同じなはずがない。自分の目がそんな節穴であるはずがない。
それに、この男は自分を保護すると、妙な自信があった。
どうしてなのか理由は説明できない。ただ、時親の深く澄んだ湖の底のような瞳が、不思議と確信させるのだ。
底知れぬ瞳から、感情を読み取ることはできない。だというのに、凍えるような冷たさまでは感じられない。
不思議な男だった。
待った時間は、短かったか、長かったか。
果たして、時親は選んだ。
「良いだろう。一年後、月に帰るその時まで、そなたを守ろう」
彼は宣言した。
「これよりそなたは、この地を救いにやってきた『天女』だ。存分に働いてもらおう」
賭けには勝ったようだ。咲夜は安堵した。これで、安寧の一年が得られると、胸を撫で下ろす――
しかし、本当にそうだろうか。
聞き捨てならない単語に、咲夜は顔を顰めた。
「……天女?」
それはいったい、なんだ?




