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月下恋歌  作者: 梨千子
第一章「月、落つ」
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第一話「落天」

「今、私に、地上に降りろと……そう言ったの?」


 サクヤは、呆然と呟いた。


「そうです」


 肯定するのは、厳格な眼差しで自分を睨む月の女王。サクヤの祖母だ。


「いやよ! 行きたくないわ!」

「これは決定事項です。あなたの意思は関係ないのよ」


 女王が手で合図を送ると、側近の一人が部屋を出ていく。


「サクヤ。あなたは私のたった一人の孫。この国の王太女なのですよ。その責務から逃げてはなりません。だというのに、またあなたは、公務を無断で欠席しましたね。次はないと、伝えたはずです」

「何度も言ってるわ。私は女王になんてなりたくない。おばあさまみたいになれないって!」

「サクヤ……」


 女王は深くため息をつく。このやりとりは何度も繰り返してきた。しかし今回は、叱って終わりではない――。


「ならば余計にです。あなたには、試練の儀を受けてもらいます。そこで自分を見つめ直し、王太女としての自覚を得なさい」

「おばあさま!」


 サクヤは叫んだ。


「本気で言ってるの? 地上は……あそこは、母さまが帰ってこなかったところなのよ!」

「知っています」


 それでもなお、ということだ。サクヤは真っ青になった。


 サクヤが幼い頃、女王になるための試練の儀に挑み、帰ってこなかった母。そこにどんな危険があるか、想像するも恐ろしい。


 サクヤは、逃げ出すことに決めた。たとえどんな罰が待っていようとも、地上に落とされることに比べれば、痛くも痒くもないと思ったのだ。サクヤの持つ神力は、女王と対等に渡り合えるくらいには強いものだ。逃げることに力のすべてを注げば、何とかなると思われた。


 しかし、女王の方が一枚上手である。


「逃げようとしても無駄です」


 突然、サクヤの体は指先一本として動かすことができなくなった。


 女王の手には、人を拘束するための力を宿した神器がある。さらに女王自身の神力が重ねられている。到底、抗えない強さだ。サクヤの考えなど、とっくに読まれていた。


 そこに、先ほど出て行った女王の側近が、一人の少年を伴って戻ってきた。


「た、タケル!」


 それはサクヤの近衛を務める少年だ。


「サクヤ。女王として命じます。これより試練の儀を受け、無事に達成なさい」


 女王はタケルに近づくと、ひざまづいた彼の頭に手をかざす。


 瞬く間にタケルは、人の姿から白い小さな鳥へと姿を変えた。


「見届け役として、この近衛をつけましょう。この姿ならば、邪魔にはならぬでしょう」

「いやよ! 地上になんて行かないわ!」

「本来であれば条件はつけぬのですが、今回は特例。罰を兼ねています」


 サクヤのそばに戻ってきた女王は、また手をかざした。


「あなたの神力を封じます。何の力もないただの娘として、地上で一年を過ごすこと。それがあなたの試練」

「なっ――」


 抗議の言葉を叫ぶよりも早く、サクヤの力はあっさりと封印されてしまった。


 自分を取り巻くいつもの全能感が消えている。あまりの出来事に、サクヤは呆然とするしかなかった。


「1つ神器を持つことを許しましょう。一度きりですが、この神器を使えば、いかなる災害や怪我、病魔からも身を守れるでしょう。いつ何のために使うかは、あなたが決めなさい」


 小さな首飾りの神器と、白い小鳥にされた近衛。

 その2つを持ち物として、サクヤはその日、地上に落とされたのであった。


 ***


 サクヤが落ちたのは、深い竹林が広がる山奥だった。


 木陰の向こうにちらちらと覗く空は青いが、伸びた竹の葉が光を遮り、そこは薄暗い。


 落ちた直後は泣き叫び、空の彼方に向けて罵詈雑言をわめき散らした。しかしやがて無駄だと気づくと、サクヤは次に、小鳥になった近衛・タケルに文句を垂れるようになった。


「どうして止めてくれなかったのよ」

「そんなこと言われても、女王陛下に逆らえるもんかい」

「ばかばか! 私の近衛としてそんなんでどうするの」

「あそこで逆らったところで、どうせすぐに捕まるだけだろ。彼我の権力の大きさを考えてみろ」


 姿形はどう見ても白い鳥だというのに、声だけははっきりと人間の頃のものだ。奇妙なものだが、女王の術なら簡単にできてしまうのだろう。


「最悪だわ……これからどうするの」


 季節は夏の終わり。葉月である。冬でなかったのは幸運だった。少なくとも寒さで凍え死ぬ心配はないし、食料も豊富だ。


「とりあえず川を探そう。まずは水を確保しないとな」


 タケルはそう助言する。そのかわいらしい姿に反して、言葉には冷静さと知恵が感じられた。本来の彼は成長期の少年で、サクヤの近衛として武芸を磨いてきたはず。主従というより、気安い幼馴染に近い関係である。


「そのあと、どうするの?」

「……下っていけば、人里に出ると思うぞ」


 サクヤは無言で自身の腕を抱きしめる。


 母が消えた地。そこに住む人間が、どのような者たちなのか。もしかしたら母を知っているかもしれない。母を害した者かもしれない。そんな場所に、行くのか——。


 タケルはしばらく、震えの止まらないサクヤを観察していたが、やがて何かに気づいて羽ばたいた。


「おい、人の声だ。近い!」


 サクヤははっと顔を上げる。


 深い山の中、かすかに金属を打ち合う音と、怒号のような声が聞こえてきた——こちらへ近づいてくる!


 とっさに、姿を消す術を使う。月では、王太女としての勉強をサボるためによく使っていた術だ。


「ばか! 今のおまえは神力がないんだぞ!」


 タケルが叫ぶ。


 そうだ。癖で術を使ったが、発動する気配は微塵もない。神力が使えないことを、今初めて実感する。慌てて音から遠ざかろうと足を動かしたが、もう遅い。


 密集する竹の隙間から、黒尽くめの人物が一人飛び出してきた。否、倒れこんできた、という方が正しいだろう。黒い装束と黒い覆面で、男か女かもわからない人物は、倒れ伏したまま動かない。その背に短刀が突き刺さっているのを見て、サクヤは息を呑んだ。


「ひっ」

「ばか、見るな!」


 タケルが羽を広げて、サクヤの視界を隠す。


 しかし、その残酷な場面はサクヤの目に焼きついてしまっている。突然の死の気配に、血の気が引き、脚が震える。


 一体何が起こっているのか。確認するよりも先に、状況が動いた。


 次の乱入者は、甲冑姿の男だった。黒装束の人間が倒れこんできた方から姿を見せる。その後ろにも、同じ甲冑姿の髭を生やした男がいた。どちらの手にも抜き身の剣がある。その剣身は、血に濡れている。眼差しはぎらぎらしていて、荒々しい息づかいと濃厚な血の匂いを漂わせていた。


「ひ、ひぃ――」


 サクヤは今度こそ力が抜けて、腰を抜かした。喉がひきつり、悲鳴も出ない。


 先に姿を見せた方の男が、サクヤの姿を認めて、一瞬はっと息を呑んだ。


「そなた、いったい――」


 戸惑ったように、男は動きを止める。


時親(ときちか)様、来ます!」


 髭男が低く言った。それを合図に、黒装束の人間が複数、一気に場に乱入してきた。全員、細身の剣を抜き、男二人を囲むように、正面、側面、背後から姿を現し、一斉に躍りかかったのだ。誰一人声を発しないままの急襲である。


 男二人の目の前にいるサクヤは、包囲の中心にいた。


「サクヤ、走れ! 逃げろ!」


 タケルが耳元で叫んだが、サクヤは完全に腰が抜けて、何が起きているのかさえわからない。


 凶刃が迫ってくる。黒装束の人物たちは、サクヤのことを気にも留めていない。ためらいなく、ただの障害物として斬り捨てようとしている。


 舌打ちをしたのは、タケルだったか、それとも別の誰かだったか。


 ――サクヤに迫る刃を弾いたのは、時親と呼ばれた男だった。


 金属のぶつかり合う激しい音がして、何度も火花が散った。呆然とするサクヤの目の前で、男は彼女を庇うように立ち、襲撃者の剣を弾いては押し返すということを繰り返す。その時親という男を補佐するように、もう一人の男が立ち回る。


 しかし、多勢に無勢である。男二人は、剣術に詳しくないサクヤの目から見ても強かったが、さすがにこの人数を捌くのは難しい。しかも今は、サクヤを守ろうとしているのだ。遠くないうちにこの均衡は崩れるだろう。


「仕方ねえなっ!」


 均衡を崩したのは、小さな白い鳥だった。


 タケルは毒づくと、一度高く羽ばたいてから、翼を折りたたんで自身の身を急降下させた。くちばしを下にして、まさに剣を振り下ろそうとする黒装束の一人に向かって突進したのだ。小鳥とはいえ、くちばしは鋭い。突進を受けた方は、たまったものではない。


「ぎゃあっ」


 タケルの狙いは正確だった。人間の急所――眼球を狙ったのである。その攻撃を、何度も繰り返した。サクヤを守らんとする男二人の動きに合わせ、的確に攻撃を重ねるたび、みるみるうちに黒装束たちは数を減らしていった。


 やがて、戦場は静かになった。


 サクヤはぼんやりと、目の前の光景を眺めていた。まるで現実感がなかった。これは夢ではないだろうかとさえ思った。現実の自分は、王太女の義務を放り出して、いつものサボり場所でのんびり昼寝でもしているのではないかと――。

 ゆるりと視線を下げる。自身のまとう白い装束が、土で汚れて黒ずんでいるのが見えた。小さな虫が這っている。そして、いくつもの赤い斑点が散っている。血だ。


「サクヤ、大丈夫か」


 タケルが心配そうに、サクヤの顔を覗き込んだ。


 真っ白な羽毛は、赤黒く汚れていた。


 サクヤはもう、ただ叫びたかった。これが現実のはずがないと。一刻も早く帰りたい。美しく平和な、あの完璧な月の国に帰りたい、と。

 これが女王になるための試練だというのなら、やはり自分には無理だ。自分は祖母のような、名高き女王にはなれない。だってもはや、女王なんてどうでもいいと思っている。サクヤはただ帰りたいのだ。迷子の子供のように泣きわめきたい衝動に駆られる。


 軽い音がしたので反射的に顔を上げると、甲冑を着た男が剣を鞘に仕舞ったところだった。彼はしばらく周囲を見渡していたが、やがて安全だとわかると、サクヤの前に膝をついた。もう一人の髭を生やした男は、黒装束の死を確かめるためなのか、離れていく。


 男はサクヤの顔をじっと見て、「怪我はないようだな」とひとつ息をついた。


 その顔は、血と泥で汚れている。返り血だけではない、切り傷から流れ出す血が、顎をつたって流れ落ちる。血の匂いにサクヤはくらくらしたが、男の瞳はまっすぐで濁っていない。黒い双眸は、さっきの戦いが嘘のように静かに凪いでいる。


「娘。ここは久馬羅(くまら)との国境。なにゆえこの危険な地にいる? 家はどこだ?」


 サクヤはすぐに返せなかった。初めての暴力と死に触れ、大きく混乱していた。ぼんやりと、男の顔を見返すことしかできない。

 男はサクヤの様子を見て、わずかに目を細めた。


「まずはここを離れる。我らの街までゆこう。そののちに、そなたの家を探そう。よいか」


 まるで幼子に言い聞かせるような声だった。


 彼は立ち上がると、周囲を警戒し続けていた男に声をかけ、「帰投するぞ」と告げた。

 放心するサクヤの腕に触れる。抱えていくつもりなのだろう。


 大きく、熱い手に触れられて、サクヤはようやく我に返った。今まで思考停止していたことが嘘のように、彼女の視界が澄んでいく。地上に落とされ、突然の襲撃に巻き込まれ、そして今、見知らぬ地上人の男に触れられている。――母を奪った地上の、正体不明の男に!


「無礼者! 触らないで!」


 かっと胸が熱くなり、サクヤは男の頬を平手打ちしていた。


 正確には、サクヤはまだ混乱の中にあったのだろう。何もかもが初めてで、衝撃的な出来事だった。すべてを拒否したかった。現実を否定し、抗いたかったのだ。


 引っぱたいた男と目が合った。理不尽な暴力を受けたはずなのに、その瞳に怒りは浮かんでいなかった。


 静かだ――とても。


 静謐な瞳の奥に、深い何かが眠っているのを垣間見る。それはサクヤの知るどんなに深い湖よりも深く、どこまでも続いているような気がした。湖の底は、昏く凪いでいるだろう。少しでも気を許すと、足元から飲み込まれて沈んでしまいそうだった。どんなに抵抗しても、そこに捕らわれれば逃げられない。そんな錯覚に、サクヤは言葉をなくす。


「大丈夫だ」

 男は静かに言う。

「怖かっただろう。巻き込んですまなかった。もう危険はない」

 大丈夫だ。男は繰り返す。


 そう言って、サクヤが打った頬を気にも留めない様子で、男は静かに息をついた。

 腕に触れる手は、揺るぎなくそこにある。


 改めて見ると、精悍な青年だった。傷を受け、ところどころ血を流してるのに、決して弱さは感じられない。


 不思議な感覚だった。サクヤの胸の内を占めていた嘆きが、急に溶けて薄まっていった。

 地上の、サクヤのことなんて何も知らぬ男の言うことである。信じられるわけがない。信じられるはずがないのに――しかしサクヤの肩からは、勝手に力が抜けていくのだ。


 そのままサクヤを支えて立ち上がらせた男は名乗る。


「我が名は時親(ときちか)。この地の領主だ。金の髪の娘。そなたを歓迎しよう」


 彼の導きを受けて、サクヤはその地を後にする。

 竹の葉の隙間から、白くかすんだ月が青空に溶けるように浮かんでいた。


 その様子を、白い小鳥が黙って見ていた。

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