プロローグ
月の都は、この数日特に騒がしかった。
明日、王位継承がなる。新たな女王が立つのだ。
民は式やパレードを一目見ようと押しかけ、屋台は大通りからはみ出すほどの賑わい。王宮内の庭園は一般解放され、湖には様々なボートが浮かんでいる。
国中に、三百年以上続いた女王の御世の思い出と、明日から始まる新たな御世の話題が溢れていた。
一方、白磁の宮殿奥の部屋は、静寂に包まれている。準備のすべてが終わった今、ここだけは別世界のようだった。
「ねえ、おばあさま。地上の話を聞いてもいい?」
金の髪を持つ少女が目を輝かせて尋ねる。
向かいに座る老女は紅茶を注ぎながら、口では注意をしつつも、声は優しい。
「まあ。おばあさまは今やっと、準備から解放されたところなのよ。休ませてくれないの?」
「ごめんなさい、おばあさま。でもね、お母さまは何も話してくれないの。女王になるための試練、私もいつか受けるはずなのに、知らないままなんて怖いじゃない」
老女は静かに紅茶を注ぎ終えると、開いた窓の外に見える、青く輝く星を見やった。
この国の者ならば、生まれたころから必ず日に一度は目にする、宝石のような星だ。
「心配しなくても、あなたの母も、あなたも、素晴らしい女王になれるわ。少なくとも、問題児といわれていた私よりずっとね」
少女は信じられない、といった顔で見上げる。
「光の女王と名高いおばあさまが、問題児?」
老女――女王は微笑んだ。
「そうよ。あまりに問題児だったものだから、本来は成人後に受けるはずの試練の儀を、罰として成人前に受けさせられたわ。しかも神力を封印されてね」
少女の目がさらに輝く。
「聞かせて! おばあさまの昔の話。とても聞きたいわ」
孫娘のお願いを受けて、女王は紅茶を一口飲み、静かに目を閉じた。
目をつむれば、すぐにあの夜の光景がよみがえる。
暗い空を裂く一筋の光。
地上へ落ちていく、自分自身の姿。
あれは試練だったのか。
それとも、運命だったのか。
「……そうね」
あの頃を思い出して、微笑む。
「私も、あなたと同じだったわ。地上のことを何も知らず、ただ怖がっていた」
紅茶の湯気がゆらりと揺れる。
明日は娘の戴冠式だ。女王はただの人になり、まだ幼いこの孫娘は王太女になる。
「もう、いいのかもしれないわね」
女王はそこで、侍従を呼ぶ鐘を鳴らす。
きょとんとする孫娘に、軽食を頼むように言った。
「覚悟しなさい、きっと夜までかかるわよ。おばあちゃんの話は、とっても長いですからね」
即位してから随分時間が経った。
けれど、あの一年の記憶だけは、誰にも語ってこなかった。
それを、今語ろう。
「おばあちゃんはね、地上で、咲夜と呼ばれていたわ――」
爽やかな南風が吹いて、窓から香りが入り込む。
湖の香りだ。
一般開放されている今は、少しだけいつもと異なる甘い匂いがした。




