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第六話 将来と単語帳

あの日以来、僕たちの間には新しい空気が流れるようになった。

三番線での時間は、単なる「避難」ではなく、もっと積極的な「共有」へと変わっていた。

十二月の下旬。期末試験が終わり、学校全体が冬休みの足音に浮き足立っている。

三番線の自販機の前。いつものようにココアの缶を二つ買い、一つを結衣に手渡す。結衣はそれをマフラー越しに頬へ当てて、ふう、と白い息を吐いた。


「ねえ、悠介。悠介は将来、何になりたいとかあるの?」


不意に投げかけられた問いに、僕の思考回路がゆっくりと動き出す。

進路。将来。

それは、僕のような「言葉の遅い人間」にとって、高い壁のように立ちはだかる現実だ。


「……まだ、分からない。ただ……何かを、じっくり見守るような仕事がいいな」


結衣は意外そうに僕を見た。


「見守る仕事?」

「……言葉はいつも、急かされるから。そうじゃなくて、ただそこにあるものを、時間をかけて確かめてもいいような……そんな場所」


結衣は僕の言葉を咀嚼するように、しばらく黙って線路の先を見つめていた。彼女の瞳には、いつもの明るい仮面の奥にある、本物の孤独が透けて見える。


「私はね、期待に応えるのに疲れちゃった」


結衣が、小さく呟いた。


「いい子で、明るくて、誰からも好かれる岸本結衣。……でもね、本当は、私はただの静かな場所が好きな、臆病な女の子なんだよ。それを誰かに言ったら、みんな、がっかりするかな」


自販機の唸り音が、彼女の告白を包み込む。

僕は、結衣がずっと一人で抱えてきた「役割」の重さを想像した。

気の利いた慰めは、やっぱり僕の口からは出てこない。

だから、一番等身大な本音を投げた。


「……がっかりするようなやつは、放っておけばいいよ。……少なくとも、僕は、今の結衣を見てがっかりしたことなんて、一度もないから」


結衣が、ハッとしたように僕を見る。


「……教室の結衣も、ここの結衣も。……全部、結衣だよ。……それを、偽物だなんて思わないでよ」


思考を言葉にするのが遅いくせに、一度溢れ出すと、自分でも驚くほど素直な言葉が口を突いて出た。

結衣は驚いたように目を丸くし、それから、恥ずかしそうに視線を泳がせた。


「……悠介って、たまにすごく、ストレートだよね」

「……そうかな。……ごめん、変なこと言った」

「変じゃないよ。……ありがとう」


結衣は温かいココアを一口飲み、少しだけ、本当に少しだけ、僕の方に肩を寄せた。

触れ合うことはない。けれど、二人の間に流れる「空白」は、もう冷たい風を遮るくらいには、温かい密度を持っていた。


「……明日から冬休みだね。……三番線、しばらくお休み?」

「……そうだね」


三番線の掲示板に、次の電車の案内が出る。電車が入ってくる轟音の中、結衣は「冬休み、会えないの寂しいね」と、独り言のように小さく零した。

僕はそれに、答えを返すことができなかった。

ただ、自分の持っていたボロボロの英単語帳を、彼女の手にそっと預けた。


「……これ、結衣が持ってて」

「えっ、いいの?」

「……返してもらうのを口実に、またここで会いたいから」


思考の遅い僕が、今日この瞬間のために、ずっと前から用意していたような言葉。

結衣は驚いたように目を見開いたあと、その単語帳を両手で大切そうに抱きしめた。


「……ずるいよ、悠介。絶対、返しに来るから」


滑り込んできた電車の風が、二人のマフラーを激しく揺らす。

電車の中では、一言も交わさない。同じドアから入りドアとドアを挟んで立つ。それが俺たちの関係だった。だけど、今日は二人並んで立っていた。

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