第五話 謝罪と優しさ
翌日の学校。僕は一度も顔を上げることができなかった。
休み時間のたびに響く結衣の笑い声が、昨日のホームでの「藤井くん」という呼び声を上書きしていく。彼女が僕を指さして笑った、あの瞬間の空気が肌に張り付いて離れない。
放課後。僕は三番線へ行くべきか、迷っていた。あそこに行けば、また彼女に会ってしまう。けれど、行かなければ、僕たちの「治外法権」は完全に消滅してしまう気がした。
結局、僕はいつもの自販機の横に立っていた。昨日の今日だ。彼女は来ないかもしれない。あるいは、友達と一緒に現れて、また僕を「地味なクラスメイト」として笑うかもしれない。
英単語帳を持つ手が、寒さとは違う理由で少しだけ震えていた。
「……悠介」
背後から届いたのは、掠れた、今にも消えてしまいそうな声だった。振り返ると、そこには赤いマフラーを口元まで引き上げた結衣が立っていた。昨日のような仮面はない。その瞳は赤く縁取られ、隠しようのない後悔が滲んでいた。
「……ごめん。……本当に、ごめん」
彼女は僕に近寄ることもできず、数歩離れた場所で立ち尽くしていた。
僕は、言葉を探した。思考の遅い僕の頭の中では、怒りや悲しみや諦めが、ぐちゃぐちゃに混ざり合って停滞している。
「……分かってるよ。岸本さんは、悪くない」
「……『岸本さん』って、呼ばないで」
彼女の声が、鋭く震えた。
「あんなことしておいて勝手なのは分かってる。でも、悠介にまでそう呼ばれたら、私、本当にどこにもいなくなっちゃう。……昨日は、怖かったの。藤井くんと、悠介と、ここでこうしてるってバレたら、全部壊れる気がして」
彼女の目から、一粒の涙が零れ落ち、マフラーに吸い込まれた。
僕は、ポケットの中で単語帳を握りしめた。昨日、彼女が笑った僕の宝物だ。
「……結衣」
僕がその名を呼ぶと、彼女は弾かれたように顔を上げた。
「……僕は、傷ついたよ。……結衣に笑われたこと。あんなふうに、いないものみたいに扱われたこと」
嘘はつきたくなかった。嘘をついたら、僕たちを繋いでいた「静寂」まで嘘になってしまうから。
「でも、結衣が、一人でずっとあの場所を守ろうとしてることも、分かってる。……誰にも言えない本当の自分を、ここでだけ休ませてるんだよね」
僕はゆっくりと歩み寄り、自販機の取り出し口に手を伸ばした。ガタン、と音がして、温かいココアが二つ、転がり落ちる。僕はその一つを、まだ震えている彼女の手に、押し付けるようにして渡した。
「……これ、お返し。……今日は、僕が聴く番だから。結衣が、言いたくないことは、全部ここに置いていっていいよ」
結衣は缶の温もりにすがるように、両手でそれを包み込んだ。
「……悠介は、優しすぎるよ。……もっと、怒ればいいのに」
「……怒る言葉を探すの、遅いから。……それより、こうしてる方が、楽なんだ」
三番線の掲示板に、次の電車の案内が出る。
僕たちはまだ、完全に元通りになったわけじゃない。けれど、昨日付けられた深い傷跡を、自販機の明かりの下で、二人で静かに眺めていた。
それは、ただの友達でも、ただのクラスメイトでもない、名前のない新しい「同盟」が結ばれた瞬間だった。




