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第二話 藤井と結衣

翌日、学校という戦場に戻ると、そこには昨日の「三番線の静寂」を共有した少女の姿はどこにもなかった。

教室の中心で、岸本結衣はいつものように笑っていた。彼女の周りには常に何人かの女子が集まり、途切れることのないお喋りの花が咲いている。僕がその横を通り過ぎる時、彼女の視線がふっと僕を掠めた気がしたけれど、それも僕の自意識が見せた錯覚だったかもしれない。

彼女は一度もこちらを見なかった。三番線での出来事は、冷たい空気が見せた一時の幻だったのではないか。そう思うほど、教室の中の僕と彼女の間には、透明で分厚い境界線が引かれていた。

放課後。冬の夕陽が長く伸び、校舎をオレンジ色に染め上げる頃。

僕は吸い寄せられるように、また三番線ホームへと向かっていた。いつもの自販機の横に立ち、英単語帳を開く。けれど、視線は文字を追うふりをしながら、改札から続く階段の方を向いていた。

数分後、少し足早にやってくる足音が聞こえた。マフラーに顔を埋め、白い息を吐きながらやってきたのは、岸本結衣だった。

彼女は周囲に友達がいないことを確認すると、昨日と同じように、僕の隣、自販機の隙間にすとんと収まった。


「……今日は、電車止まってないね」


彼女が、少し照れくさそうに呟いた。僕は数秒置いてから「……うん」と答える。

彼女の声は、教室でのあの高いトーンではなく、どこか湿度を帯びた落ち着いたトーンだった。


「学校での私、うるさいでしょ」


彼女が自販機のボタンを押し、落ちてきた温かいココアを両手で包み込んだ。


「あっちでは、ああしてなきゃいけないの。みんなが期待する『明るい岸本さん』の役割を演じ続けないと、なんだか居場所がなくなっちゃいそうで、怖いの」


缶を手のひらでころころと転がるココアの音が、しんと冷えたホームに響く。

僕は、自分の思考の遅さを恨みながら、ゆっくりと言葉を選んだ。

言葉が遅い僕と、言葉を止められない彼女。

正反対に見えて、僕らはどちらも「本当の自分」を隠すためのシェルターの中で生きているのだと気づいた。


「……ここなら、無理に喋らなくてもいいよ」


僕は彼女の横顔を見ずに、真っ直ぐに線路の先を見据えた。


「岸本さんが黙っていても、岸本さんがそこにいるっていう空気だけで、僕は十分だから」


結衣がふっと息を吐いた。

それは、溜め込んでいた重たい荷物を一度下ろしたような、穏やかな溜息だった。


「結衣。これからは私の事そう呼んで」


その言葉は、線路を渡る冷たい風に乗って、僕の耳に届いた。


「……結衣……さん」


僕が不器用に、けれど精一杯の勇気を持ってその名をなぞると、彼女はマフラーに顔を半分埋めたまま、困ったように眉を下げて笑った。


「……うん」


三番線に滑り込んできた電車の風が、二人の境界線をかき乱すように吹き抜けていった。

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