最終話 卒業と旅立ち
二月。三番線を吹き抜ける風には、尖った鋭さの中に、ほんのわずかだけ湿った春の匂いが混じり始めていた。
自由登校期間に入り、僕たちが制服を着てこのホームに立つ理由も、あと数えるほどしかない。
いつもの自販機の横。結衣はもう、赤いマフラーを鞄の底にしまい込んでいた。首元には、僕が贈ったネイビーのマフラーだけが巻かれている。
「……ねえ、悠介。卒業したら、この場所はどうなるんだろうね」
結衣が自販機のボタンを押した。ガタン、という鈍い音。冬の間、僕たちの凍えた指先を温め続けてくれたココア。
「……ただの駅のホームに戻るだけだよ。……僕たちが、ここを卒業するだけだから」
僕の言葉に、結衣はふふっ、と小さく笑った。その笑顔は、かつての「岸本結衣」が見せていた完璧な作り物ではなく、どこか頼りなげで、けれどひどく柔らかな、僕だけが知る結衣の顔だった。
「私ね、ここに来るのが怖かった時期があるの。沈黙が怖くて、誰かに期待されるのが苦しくて。……でも、悠介が隣にいてくれるようになってから、静かなことが怖くなくなった」
結衣は僕の腕に自分の腕を絡め、ココアの缶を両手で包み込んだ。
「悠介は、私の声を聴いてくれた。言葉にならない、ボロボロな私の声を」
僕は、ポケットの中で新しくなった英単語帳を握りしめた。そこにはもう、自分を隠すための単語は並んでいない。これからは、彼女と交わす新しい言葉を一つずつ書き込んでいくための空白が広がっている。
「……僕の方こそ。……結衣に、言葉を待ってもらうことの温かさを教えてもらった」
三番線の掲示板に『まもなく電車が参ります』の文字が点滅する。 遠くから聞こえてくる電車の轟音。それは、この場所での「五分間」が終わる合図だ。けれど、今の僕たちにとって、それは次の場所へ向かうためのチャイムのように聞こえた。
「行こう、悠介」
結衣が僕の手を強く引いた。
僕たちは、滑り込んできた電車に並んで乗り込んだ。扉が閉まり、動き出した車両の窓越しに、見慣れた自販機が遠ざかっていく。
聖域は、もう必要ない。僕が隣にいて、彼女が隣にいる。それだけで、世界中のどこだって、僕たちは僕たちのままでいられるから。
走り出した電車の影が、早春の光の中に長く伸びていった。
おわり
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またどこかの作品でお会いしましょう。




