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第9話「謝らない父親」



 うちの父親は、ほとんど謝らない。


 高校のときにスマホ代のことでケンカしたときも、

 大学に進学するか就職するかでぶつかったときも、

 最後に「悪かったな」と一言でも言ってくれたことはない。


「お前だって悪いだろ」

「どっちが悪いとかじゃない」

「もう終わった話だ」


 だいたい、その三パターンで押し切られる。


 代わりに、数日後になってから唐突に、

 テーブルの上に私の好きなプリンが置いてあったり、

 部屋のドアの前に新しい延長コードが立てかけてあったりする。


(いや、モノじゃなくて、“ごめん”が欲しいんだけど)


 心の中で毒づきながら、プリンはちゃっかり食べるし、延長コードはありがたく使う。

 それでも、モヤモヤは消えない。


(あんたの心がわかったらどんだけ楽か)


 謝らないくせに、妙に気を遣ってくる。

 その中途半端さが、一番腹が立つのだ。



 社会人二年目の春。

 私は会社で疲れ切り、久しぶりに実家に帰っていた。


「また顔がげっそりしてるな」


 玄関で靴を脱いでいると、父がそう言った。


「痩せたんじゃないか。ちゃんと食ってるのか」


「食べてるよ。

 ていうか、“げっそり”とか言わないでくれる? 自分で気にしてるのに」


「事実を言っただけだ」


 そうやって、余計な一言を足してくるところも、昔から変わらない。


 夕飯の席で、母が何気なく言った。


「秋からの異動、断れなかったの?」


「あー……うん」


 会社で告げられた部署異動。

 残業が多いことで有名な部署だ。


「断れるわけないだろ。若いうちは、そうやって場数踏むもんだ」


 父が当然のように言う。


「いやいや、お父さんの頃と今は違うんだから」


「仕事なんて、どの時代もきついもんだ。

 甘いこと言ってると置いていかれるぞ」


 イラッときた。


「別に甘えてないし。

 ただ、“体壊したら意味ないよね”って話してるだけ」


「体壊す前に、根性つけろ」


「根性論かよ……」


 テーブルの空気が、少しだけ重くなる。


「まぁまぁ二人とも」


 母が間に入ろうとするけれど、私の口はもう止まらなかった。


「お父さんはさ、簡単に言うけど、今の働き方知らないじゃん。

 “休んだら迷惑だ”って意識が異常なんだってば」


「休んだら迷惑なのは事実だ」


「だからさ――」


 そこで、言ってはいけない一言が、口から滑り出た。


「そういうとこが嫌なんだよ。

 昔から、“ごめん”も“ありがとう”もまともに言わないしさ」


 父の箸がぴたりと止まる。


 母が小さく息を呑んだのがわかった。


「……そうだな」


 父は、それだけ言って、黙々とご飯を食べ続けた。


 翌朝、私が起きたときには、もう父は仕事に出ていて、リビングには気まずい沈黙だけが残っていた。



 昼前。

 洗い物をしながらため息をついていると、母がぽつりと言った。


「昨日は、きついこと言ったね」


「……ごめん。でも、本当にずっと思ってたから」


「わかるよ。

 あの人、謝るの、下手だからね」


「“下手”ってレベルじゃないよ。ほとんどゼロだよ」


 母はふふっと笑った。


「高校の頃の、あのときもそうだったもんね」


「あのとき?」


「進路のことでケンカして、凛(私)が“絵の専門学校行きたい”って言ったとき」


 思い出した。

 父に「そんなものは趣味でやれ」と一蹴されたあの夜。


「“将来食っていけるのか”って、やたら厳しく言ってたでしょ。

 で、あんた泣きながら部屋に閉じこもって」


「……あー、あったね」


「そのときも、お父さん、“ごめん”って言わなかったよね」


「言ってないよ。

 “もう終わった話だ”で終了だった」


「でもあの晩、あの人、私にだけ言ったんだよ」


 母は、皿を拭きながら続ける。


「“言い過ぎたかもしれない。怖がらせたな”って」


 私は思わず振り向いた。


「……は? なにそれ」


「『でも、俺が“やりたいことやらせてやれ”って軽く言ったことで、

 もし将来あの子が困ったら、俺、一生自分を許せないと思う』って」


 胸の奥が、じわっと熱くなる。


「だから、“悪者役でもいいから、今きつく言っときたい”って」


「……それ、言い訳じゃん」


 思わず、強めの声が出た。


「私には、“そんなこと一言も説明しなかったくせに”って感じ」


「まぁ、そうなんだけどね」


 母は苦笑した。


「たぶんあの人、“自分の怖さ”を素直に見せるのが、何より恥ずかしいのよ」


「怖さ?」


「“失敗させたくない”“困らせたくない”っていう怖さ。

 それを“心配してる”って形で出せばいいのに、

 怖さが強すぎて、“怒り”とか“命令”の方に変換しちゃうの」


 あんたの心がわかったらどんだけ楽か――

 でも今、母の言葉で、父の中にある別の感情の輪郭が少し見えた気がした。


「おじいちゃん覚えてる?」


 母がふと話題を変える。


「お父さんの方の?」


「うん。あの人も、一度も謝らない人だったのよ」


 父方の祖父。

 私が小さい頃に亡くなった、ちょっと怖い印象のある人だ。


「お父さん、小学生のときに大怪我したことがあってね。

 川で遊んでて、足滑らせて、大きな石に頭ぶつけて」


「そんなことあったんだ」


「それからしばらく、ずっとおじいちゃんに怒ってたんだって。

 “ちゃんと見ててくれなかった”って。

 でも、おじいちゃん、一度も謝らなかった。

 “自分の足で歩いてて転んだなら、自分の責任だ”って」


「……最悪じゃん」


「でしょ? 私もそう思った。

 でもね、葬式のあと、お父さん酔っぱらってぽろっと言ったの」


 母は、少しだけ声を落とした。


「“あの人、あの事故の日から、毎晩俺の布団に様子見に来てたんだよな。

 謝りもしないで、ただ俺の額触って、熱測って”って」


 胸の奥が、ぎゅっと掴まれるような感覚がした。


「“謝らない父親の背中だけ見て育ったから、

 “ごめん”の言い方知らないんだと思うよ、あの人”って、

 私、そのとき思ったの」



 その日の夕方。

 父が仕事から帰ると、いつものように、無言で靴を脱ぎ、

 「おう」とだけ言ってリビングに入ってきた。


「おかえり」


 私は、テレビを消してソファから立ち上がった。


「ねぇ、お父さん」


「ん?」


「昨日は、ごめん。

 “謝らない”とか、“嫌い”とか、言いすぎた」


 父は、少し驚いた顔をした。


「……そうか」


「でも、そう思ってたのも本当だから、

 ちゃんと自分で言っとこうと思って」


 父は、しばらく黙っていた。


 いつものパターンなら「お前だって悪い」とか「終わった話だ」で終わるはずだ。

 でも、その日は違った。


「……俺も」


 ぼそっと、低い声が落ちた。


「言いすぎた。悪かった」


 時間が一瞬止まった気がした。


「え?」


「根性だのなんだの、偉そうに言ったなと思ってな」


 父は、耳の後ろをかく癖を出しながら続けた。


「今の働き方、全部わかってるつもりはない。

 ただ、“逃げ癖ついてほしくない”って気持ちが、強すぎた」


 母がキッチンからこっそりこちらを覗いているのが見えた。


「……お父さん、“ごめん”って言えるんだね」


 口にした瞬間、自分で笑ってしまう。


「言えないわけじゃない」


 父は、少しだけ目をそらした。


「ただ、“一回謝ったら、全部自分が悪かったことになる”気がして、

 なかなか言えん」


「そんなことないでしょ」


「頭ではわかってる」


 父は小さく息を吐く。


「けど、あのじいさん見て育ったからな。

 “男がごちゃごちゃ謝るな”って、刷り込まれてるところはある」


 あぁ、本当にそう思っていたんだ、と腑に落ちる。


「でも、昨日言われて、ちょっと反省したよ。

 “謝らないこと”で、かえってお前を追い詰めてたなって」


「……うん」


「だから、完璧には無理だが、

 “悪いと思ったときは言う”ってのを、少しずつやってみる」


「少しずつ?」


「習慣だからな。急に変わらん」


 その言い方に、思わず笑ってしまった。


「いいよ、練習期間つきあうから」


「なんだそれ」


 父も、少し笑った。



 その夜。

 布団に入る前、ふとリビングに戻ると、

 テーブルの上にコンビニのプリンが二つ置いてあった。


「……またプリンか」


 思わず苦笑する。


 でも、今日はそれが前より少しだけ、優しく見えた。


 あんたの心がわかったらどんだけ楽か――そう思ってきたけれど。


 “謝らない父親”の正体は、

 「謝り方を教わらなかった人」であり、

「謝ったあとに自分を責めすぎる人」だったのかもしれない。


 全部を理解することは、多分一生できない。

 それでも、“少しだけ理由を知る”ことで、

 私の中のわだかまりは、だいぶ形を変えてくれた。


 冷蔵庫を開けてプリンをしまいながら、

 私は心の中で、小さくつぶやいた。


(まあ……こっちも、練習してあげるか)


 “許す”とか“わかろうとする”のも、

 きっとお互い、少しずつ慣れていくものなんだと思いながら。

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