第9話「謝らない父親」
うちの父親は、ほとんど謝らない。
高校のときにスマホ代のことでケンカしたときも、
大学に進学するか就職するかでぶつかったときも、
最後に「悪かったな」と一言でも言ってくれたことはない。
「お前だって悪いだろ」
「どっちが悪いとかじゃない」
「もう終わった話だ」
だいたい、その三パターンで押し切られる。
代わりに、数日後になってから唐突に、
テーブルの上に私の好きなプリンが置いてあったり、
部屋のドアの前に新しい延長コードが立てかけてあったりする。
(いや、モノじゃなくて、“ごめん”が欲しいんだけど)
心の中で毒づきながら、プリンはちゃっかり食べるし、延長コードはありがたく使う。
それでも、モヤモヤは消えない。
(あんたの心がわかったらどんだけ楽か)
謝らないくせに、妙に気を遣ってくる。
その中途半端さが、一番腹が立つのだ。
◇
社会人二年目の春。
私は会社で疲れ切り、久しぶりに実家に帰っていた。
「また顔がげっそりしてるな」
玄関で靴を脱いでいると、父がそう言った。
「痩せたんじゃないか。ちゃんと食ってるのか」
「食べてるよ。
ていうか、“げっそり”とか言わないでくれる? 自分で気にしてるのに」
「事実を言っただけだ」
そうやって、余計な一言を足してくるところも、昔から変わらない。
夕飯の席で、母が何気なく言った。
「秋からの異動、断れなかったの?」
「あー……うん」
会社で告げられた部署異動。
残業が多いことで有名な部署だ。
「断れるわけないだろ。若いうちは、そうやって場数踏むもんだ」
父が当然のように言う。
「いやいや、お父さんの頃と今は違うんだから」
「仕事なんて、どの時代もきついもんだ。
甘いこと言ってると置いていかれるぞ」
イラッときた。
「別に甘えてないし。
ただ、“体壊したら意味ないよね”って話してるだけ」
「体壊す前に、根性つけろ」
「根性論かよ……」
テーブルの空気が、少しだけ重くなる。
「まぁまぁ二人とも」
母が間に入ろうとするけれど、私の口はもう止まらなかった。
「お父さんはさ、簡単に言うけど、今の働き方知らないじゃん。
“休んだら迷惑だ”って意識が異常なんだってば」
「休んだら迷惑なのは事実だ」
「だからさ――」
そこで、言ってはいけない一言が、口から滑り出た。
「そういうとこが嫌なんだよ。
昔から、“ごめん”も“ありがとう”もまともに言わないしさ」
父の箸がぴたりと止まる。
母が小さく息を呑んだのがわかった。
「……そうだな」
父は、それだけ言って、黙々とご飯を食べ続けた。
翌朝、私が起きたときには、もう父は仕事に出ていて、リビングには気まずい沈黙だけが残っていた。
◇
昼前。
洗い物をしながらため息をついていると、母がぽつりと言った。
「昨日は、きついこと言ったね」
「……ごめん。でも、本当にずっと思ってたから」
「わかるよ。
あの人、謝るの、下手だからね」
「“下手”ってレベルじゃないよ。ほとんどゼロだよ」
母はふふっと笑った。
「高校の頃の、あのときもそうだったもんね」
「あのとき?」
「進路のことでケンカして、凛(私)が“絵の専門学校行きたい”って言ったとき」
思い出した。
父に「そんなものは趣味でやれ」と一蹴されたあの夜。
「“将来食っていけるのか”って、やたら厳しく言ってたでしょ。
で、あんた泣きながら部屋に閉じこもって」
「……あー、あったね」
「そのときも、お父さん、“ごめん”って言わなかったよね」
「言ってないよ。
“もう終わった話だ”で終了だった」
「でもあの晩、あの人、私にだけ言ったんだよ」
母は、皿を拭きながら続ける。
「“言い過ぎたかもしれない。怖がらせたな”って」
私は思わず振り向いた。
「……は? なにそれ」
「『でも、俺が“やりたいことやらせてやれ”って軽く言ったことで、
もし将来あの子が困ったら、俺、一生自分を許せないと思う』って」
胸の奥が、じわっと熱くなる。
「だから、“悪者役でもいいから、今きつく言っときたい”って」
「……それ、言い訳じゃん」
思わず、強めの声が出た。
「私には、“そんなこと一言も説明しなかったくせに”って感じ」
「まぁ、そうなんだけどね」
母は苦笑した。
「たぶんあの人、“自分の怖さ”を素直に見せるのが、何より恥ずかしいのよ」
「怖さ?」
「“失敗させたくない”“困らせたくない”っていう怖さ。
それを“心配してる”って形で出せばいいのに、
怖さが強すぎて、“怒り”とか“命令”の方に変換しちゃうの」
あんたの心がわかったらどんだけ楽か――
でも今、母の言葉で、父の中にある別の感情の輪郭が少し見えた気がした。
「おじいちゃん覚えてる?」
母がふと話題を変える。
「お父さんの方の?」
「うん。あの人も、一度も謝らない人だったのよ」
父方の祖父。
私が小さい頃に亡くなった、ちょっと怖い印象のある人だ。
「お父さん、小学生のときに大怪我したことがあってね。
川で遊んでて、足滑らせて、大きな石に頭ぶつけて」
「そんなことあったんだ」
「それからしばらく、ずっとおじいちゃんに怒ってたんだって。
“ちゃんと見ててくれなかった”って。
でも、おじいちゃん、一度も謝らなかった。
“自分の足で歩いてて転んだなら、自分の責任だ”って」
「……最悪じゃん」
「でしょ? 私もそう思った。
でもね、葬式のあと、お父さん酔っぱらってぽろっと言ったの」
母は、少しだけ声を落とした。
「“あの人、あの事故の日から、毎晩俺の布団に様子見に来てたんだよな。
謝りもしないで、ただ俺の額触って、熱測って”って」
胸の奥が、ぎゅっと掴まれるような感覚がした。
「“謝らない父親の背中だけ見て育ったから、
“ごめん”の言い方知らないんだと思うよ、あの人”って、
私、そのとき思ったの」
◇
その日の夕方。
父が仕事から帰ると、いつものように、無言で靴を脱ぎ、
「おう」とだけ言ってリビングに入ってきた。
「おかえり」
私は、テレビを消してソファから立ち上がった。
「ねぇ、お父さん」
「ん?」
「昨日は、ごめん。
“謝らない”とか、“嫌い”とか、言いすぎた」
父は、少し驚いた顔をした。
「……そうか」
「でも、そう思ってたのも本当だから、
ちゃんと自分で言っとこうと思って」
父は、しばらく黙っていた。
いつものパターンなら「お前だって悪い」とか「終わった話だ」で終わるはずだ。
でも、その日は違った。
「……俺も」
ぼそっと、低い声が落ちた。
「言いすぎた。悪かった」
時間が一瞬止まった気がした。
「え?」
「根性だのなんだの、偉そうに言ったなと思ってな」
父は、耳の後ろをかく癖を出しながら続けた。
「今の働き方、全部わかってるつもりはない。
ただ、“逃げ癖ついてほしくない”って気持ちが、強すぎた」
母がキッチンからこっそりこちらを覗いているのが見えた。
「……お父さん、“ごめん”って言えるんだね」
口にした瞬間、自分で笑ってしまう。
「言えないわけじゃない」
父は、少しだけ目をそらした。
「ただ、“一回謝ったら、全部自分が悪かったことになる”気がして、
なかなか言えん」
「そんなことないでしょ」
「頭ではわかってる」
父は小さく息を吐く。
「けど、あのじいさん見て育ったからな。
“男がごちゃごちゃ謝るな”って、刷り込まれてるところはある」
あぁ、本当にそう思っていたんだ、と腑に落ちる。
「でも、昨日言われて、ちょっと反省したよ。
“謝らないこと”で、かえってお前を追い詰めてたなって」
「……うん」
「だから、完璧には無理だが、
“悪いと思ったときは言う”ってのを、少しずつやってみる」
「少しずつ?」
「習慣だからな。急に変わらん」
その言い方に、思わず笑ってしまった。
「いいよ、練習期間つきあうから」
「なんだそれ」
父も、少し笑った。
◇
その夜。
布団に入る前、ふとリビングに戻ると、
テーブルの上にコンビニのプリンが二つ置いてあった。
「……またプリンか」
思わず苦笑する。
でも、今日はそれが前より少しだけ、優しく見えた。
あんたの心がわかったらどんだけ楽か――そう思ってきたけれど。
“謝らない父親”の正体は、
「謝り方を教わらなかった人」であり、
「謝ったあとに自分を責めすぎる人」だったのかもしれない。
全部を理解することは、多分一生できない。
それでも、“少しだけ理由を知る”ことで、
私の中のわだかまりは、だいぶ形を変えてくれた。
冷蔵庫を開けてプリンをしまいながら、
私は心の中で、小さくつぶやいた。
(まあ……こっちも、練習してあげるか)
“許す”とか“わかろうとする”のも、
きっとお互い、少しずつ慣れていくものなんだと思いながら。




