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第5話「ただいまを言わない夫」



 結婚して三年。

 うちの夫・陽介は、家に帰ってきても「ただいま」を言わない。


 玄関のドアが開く。

 靴を脱ぐ音、バッグを置く音、ジャケットをハンガーにかける音だけがする。


 そのあと、無言でリビングに入ってきて、

 私の横をすり抜けて、ソファにどさっと座る。


「おかえり」


 私が声をかけると、テレビを点けながら、


「……うん」


 それだけ。


 最初は「仕事で疲れてるんだろう」と思っていた。

 でも、それが毎日続くと、だんだん心がささくれてくる。


(あんたの心がわかったらどんだけ楽か)


 なんで「ただいま」の一言が言えないのか。

 そんなに私、どうでもいい存在なのか。


 結婚記念日に、少しだけ勇気を出して言ってみたことがある。


「ねぇ、陽介。“ただいま”ってあんまり言わないよね」


「え?」


「なんか、最近ずっと、“帰ってきた感”がないっていうか……」


「……別に、わざわざ言わなくてもよくない?」


 テレビから目を離さずに返されたその言葉が、胸に刺さった。


 わざわざ言わなくてもよくない。

 ——私にとっては、言ってほしいのに。



 そんなモヤモヤを抱えたまま迎えたある日曜日。

 私は、たまたま実家に顔を出した。


 昼ご飯を食べ終えて、お茶を飲んでいるとき。

 母が何気なく言った。


「陽介くん、ちゃんとしてるねぇ。

 この前うちに来たときも、“おじゃまします”“お邪魔しました”って、きちんと言って帰っていったよ」


「……え、そうなの?」


「そうよ。

 あんたの夫、愛想は薄いけど、挨拶はちゃんとしてるわよ?」


 私は思わず首をかしげた。


(うちでは、ほとんど何も言わないのに……)


 その瞬間、スマホが震えた。

 画面を見ると、「陽介」の名前からメッセージが届いている。


『ごめん、夜ご飯いらない。急に飲みになった』


 それだけ。

 「行ってきます」も「遅くなる」も何もない。


 ああ、まただ、と思った。


「なに、その顔」


 母がじっと私の顔を見てくる。


「いや……別に」


「どうせ、“陽介くんが何も言ってくれない”って顔でしょ」


 図星すぎて、返す言葉がない。


「……そんなにわかる?」


「娘の顔くらい、わかるわよ」


 母はお茶を一口飲んで、少しだけ声を落とした。


「前から思ってたけどさ。

 あんた、陽介くんの“しないこと”ばっかり数えてない?」


「“しないこと”?」


「“ただいまを言わない”“今日はどうだったって聞いてくれない”“記念日覚えてくれない”とか」


 心当たりがありすぎて、黙り込んでしまう。


「もちろん、それが寂しい気持ちはわかるよ。

 でも、“してくれてること”は?」


「してくれてることなんて……」


 言いかけて、そこで言葉が止まった。


 朝、私より早く起きて、洗濯機を回してくれること。

 夜、私が遅くなるとき、文句も言わずにコンビニ弁当で済ませてくれること。

 私の苦手なゴミ出しを、何も言わず続けてくれていること。


 ——あった。

 気づいてないふりをしてただけで。


「でも、“ただいま”は言ってほしいんだよね?」


 母の言葉に、私は小さくうなずいた。


「うん……言ってくれないと、なんか距離感じる」


「だったら、“ただいまを言わない人”ってラベル貼る前に、一回ちゃんと聞いてみなよ」


「ちゃんと……聞く?」


「そう。“責める”んじゃなくて、“なんでそうしちゃうのか”を聞く。

 あんた、喧嘩になるのが怖くて、いつも途中でやめるじゃない」


 それも、図星だった。



 その日の夜。

 遅く帰ってきた陽介が、いつものように無言で玄関を開けた。


 靴を脱ぐ音。

 ジャケットの擦れる音。


 私は、キッチンでコップを洗う手を止めて、わざと玄関の方を見た。


「おかえり」


「……うん」


 まただ。

 いつものパターン。


 だけど今日は、そこで終わらせなかった。


「ねぇ、ちょっとだけいい?」


 リビングに入ってきた陽介が、少し驚いた顔をする。


「どうした」


「怒らないで聞いてほしいんだけど」


「なんか怖いな、その前置き」


 私も、自分の心臓の音が聞こえるくらい緊張していた。


「……陽介さ、“ただいま”ってあんまり言わないじゃん」


「……ああ」


「それがね、私、結構さみしいんだよね。

 なんか、“家”って感じしなくて」


 陽介は、視線をテーブルの木目に落とした。


「別に、嫌だから言わないわけじゃない」


「じゃあ、なんで?」


 聞いた瞬間、自分で自分に驚いた。

 今までだったら、ここで話をそらしていたはずだ。


 陽介はしばらく黙っていたけど、やがて、ぽつりと言った。


「……慣れてない」


「慣れてない?」


「実家で、“ただいま”とか“いってきます”とか、ほとんど言ったことなくて。

 親も、“はいおかえり”とか言うタイプじゃなかったし」


 予想していなかった言葉だった。


「朝起きたら、勝手にみんな出かけてる感じ。

 夕方帰ってきても、親は残業かどっかで、家には誰もいないことの方が多かった」


 陽介の口調は、淡々としていた。

 悲しんでいるようにも、怒っているようにも聞こえない。


「だから、“ただいま”って言う相手そのものが、あんまりいなかった。

 言おうとすると、なんか照れくさいっていうか、芝居っぽいっていうか」


「芝居っぽい?」


「うん。

 ドラマで見る“いい家族像”を真似してるみたいな感じがして、気持ち悪くなる」


 私はハッとした。


 私にとっての「当たり前」が、陽介にとっては「見たことのないもの」だったのだ。


「でもさ」


 陽介は、少しだけ目を細めた。


「結婚してから、“言った方がいいんだろうな”ってのは、薄々わかってた。

 あや(私)が“おかえり”って言うたびに、嬉しそうなの、なんとなくわかるし」


「わかってたなら、言ってよ……」


 思わず拗ねた声が出る。


「……言おうとしてたんだよ」


 予想外の返事だった。


「玄関開けて、“ただ……”まで出かかったことも、何回もある。

 でも、その瞬間、“似合わねぇ”って思って、喉が止まる」


「誰に似合わないの?」


「俺に」


 即答だった。


「なんかさ、“ちゃんとした旦那さん”の真似をしようとしてる気がして。

 “演じてる感”が気持ち悪くて、結局黙っちゃう」


 ああ——。


 その言葉で、私の中で何かがカチッと噛み合う。


 私はずっと、“私の望む夫像”を陽介にかぶせていたのかもしれない。

 陽介の「似合わない」という違和感を、ちゃんと見ようとしていなかった。


「……でもさ」


 陽介が、少しだけうつむいた。


「あやがさ、“ただいまって言ってほしい”って真正面から言ってきたの、今日が初めてなんだよね」


「だって、言ったら……」


「めんどくさいって思われると思った?」


「うん……」


 陽介は、ふっと笑った。


「お互い様だな」


「え?」


「俺も、“ただいま言ったら笑われるんじゃないか”って、勝手に思ってたから」


 お互いの“勝手な想像”がぶつかり合って、ずっとすれ違っていたのだ。


 あんたの心がわかったらどんだけ楽か——。

 でも、実際には、「わかろうとしてない自分」の方が問題だったのかもしれない。


「じゃあさ」


 私は、ソファから立ち上がった。


「練習しよ」


「練習?」


「うん。“ただいま”って言う練習。

 今から玄関もう一回出て、やり直して」


「は?」


「ほら、早く」


 陽介は明らかに嫌そうな顔をしたけど、観念したように立ち上がった。


「……マジでやるの?」


「マジでやる」


 半分ふざけているようで、でも、私の目は本気だったと思う。



 数秒後。

 玄関のドアが開き、ゆっくり閉まる音がする。


 しばらくして、またドアが開いた。


「……」


 沈黙。


 陽介は、玄関に立ち尽くしている。

 私は、リビングから顔だけ出して、その姿を見守った。


「……ただいま」


 小さく、でもちゃんと聞こえる声で、陽介が言った。


 胸の奥が、じんわり熱くなる。


「おかえり」


 できるだけ自然に返すと、陽介は少し照れくさそうに頭をかいた。


「……なにこれ」


「練習一回目。合格」


「テストかよ」


 笑い合う。

 たったそれだけのことで、さっきまでのモヤモヤが嘘みたいに軽くなっていく。


「これからも、多分忘れると思う」


 陽介が正直に言う。


「仕事で疲れてるときとか、他のことで頭いっぱいのときとか。

 でも、“言ってあげたい”って気持ちはあるから……そのときはまた、“練習しよ”って言って」


「うん。何回でも付き合う」


 本当にそう思った。

 「最初から完璧な夫」じゃなくて、「不器用だけど練習してくれる夫」と一緒にいる方が、きっと幸せだ。


 あんたの心がわかったらどんだけ楽か。

 でも、本当は——。


 “わからない”って口に出せて、

 “教えて”って言える勇気の方が、ずっと大事なのかもしれない。


 その夜から、陽介の「ただいま」は、まだ毎日は続いていない。

 でも、週に一度くらい、ふとした瞬間に聞こえてくる。


 そのたびに私は、心の中で小さくガッツポーズをするのだ。


 ——今日も、あの人はちゃんと帰ってきてくれた。

 その一言と一緒に。


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