第5話「ただいまを言わない夫」
結婚して三年。
うちの夫・陽介は、家に帰ってきても「ただいま」を言わない。
玄関のドアが開く。
靴を脱ぐ音、バッグを置く音、ジャケットをハンガーにかける音だけがする。
そのあと、無言でリビングに入ってきて、
私の横をすり抜けて、ソファにどさっと座る。
「おかえり」
私が声をかけると、テレビを点けながら、
「……うん」
それだけ。
最初は「仕事で疲れてるんだろう」と思っていた。
でも、それが毎日続くと、だんだん心がささくれてくる。
(あんたの心がわかったらどんだけ楽か)
なんで「ただいま」の一言が言えないのか。
そんなに私、どうでもいい存在なのか。
結婚記念日に、少しだけ勇気を出して言ってみたことがある。
「ねぇ、陽介。“ただいま”ってあんまり言わないよね」
「え?」
「なんか、最近ずっと、“帰ってきた感”がないっていうか……」
「……別に、わざわざ言わなくてもよくない?」
テレビから目を離さずに返されたその言葉が、胸に刺さった。
わざわざ言わなくてもよくない。
——私にとっては、言ってほしいのに。
◇
そんなモヤモヤを抱えたまま迎えたある日曜日。
私は、たまたま実家に顔を出した。
昼ご飯を食べ終えて、お茶を飲んでいるとき。
母が何気なく言った。
「陽介くん、ちゃんとしてるねぇ。
この前うちに来たときも、“おじゃまします”“お邪魔しました”って、きちんと言って帰っていったよ」
「……え、そうなの?」
「そうよ。
あんたの夫、愛想は薄いけど、挨拶はちゃんとしてるわよ?」
私は思わず首をかしげた。
(うちでは、ほとんど何も言わないのに……)
その瞬間、スマホが震えた。
画面を見ると、「陽介」の名前からメッセージが届いている。
『ごめん、夜ご飯いらない。急に飲みになった』
それだけ。
「行ってきます」も「遅くなる」も何もない。
ああ、まただ、と思った。
「なに、その顔」
母がじっと私の顔を見てくる。
「いや……別に」
「どうせ、“陽介くんが何も言ってくれない”って顔でしょ」
図星すぎて、返す言葉がない。
「……そんなにわかる?」
「娘の顔くらい、わかるわよ」
母はお茶を一口飲んで、少しだけ声を落とした。
「前から思ってたけどさ。
あんた、陽介くんの“しないこと”ばっかり数えてない?」
「“しないこと”?」
「“ただいまを言わない”“今日はどうだったって聞いてくれない”“記念日覚えてくれない”とか」
心当たりがありすぎて、黙り込んでしまう。
「もちろん、それが寂しい気持ちはわかるよ。
でも、“してくれてること”は?」
「してくれてることなんて……」
言いかけて、そこで言葉が止まった。
朝、私より早く起きて、洗濯機を回してくれること。
夜、私が遅くなるとき、文句も言わずにコンビニ弁当で済ませてくれること。
私の苦手なゴミ出しを、何も言わず続けてくれていること。
——あった。
気づいてないふりをしてただけで。
「でも、“ただいま”は言ってほしいんだよね?」
母の言葉に、私は小さくうなずいた。
「うん……言ってくれないと、なんか距離感じる」
「だったら、“ただいまを言わない人”ってラベル貼る前に、一回ちゃんと聞いてみなよ」
「ちゃんと……聞く?」
「そう。“責める”んじゃなくて、“なんでそうしちゃうのか”を聞く。
あんた、喧嘩になるのが怖くて、いつも途中でやめるじゃない」
それも、図星だった。
◇
その日の夜。
遅く帰ってきた陽介が、いつものように無言で玄関を開けた。
靴を脱ぐ音。
ジャケットの擦れる音。
私は、キッチンでコップを洗う手を止めて、わざと玄関の方を見た。
「おかえり」
「……うん」
まただ。
いつものパターン。
だけど今日は、そこで終わらせなかった。
「ねぇ、ちょっとだけいい?」
リビングに入ってきた陽介が、少し驚いた顔をする。
「どうした」
「怒らないで聞いてほしいんだけど」
「なんか怖いな、その前置き」
私も、自分の心臓の音が聞こえるくらい緊張していた。
「……陽介さ、“ただいま”ってあんまり言わないじゃん」
「……ああ」
「それがね、私、結構さみしいんだよね。
なんか、“家”って感じしなくて」
陽介は、視線をテーブルの木目に落とした。
「別に、嫌だから言わないわけじゃない」
「じゃあ、なんで?」
聞いた瞬間、自分で自分に驚いた。
今までだったら、ここで話をそらしていたはずだ。
陽介はしばらく黙っていたけど、やがて、ぽつりと言った。
「……慣れてない」
「慣れてない?」
「実家で、“ただいま”とか“いってきます”とか、ほとんど言ったことなくて。
親も、“はいおかえり”とか言うタイプじゃなかったし」
予想していなかった言葉だった。
「朝起きたら、勝手にみんな出かけてる感じ。
夕方帰ってきても、親は残業かどっかで、家には誰もいないことの方が多かった」
陽介の口調は、淡々としていた。
悲しんでいるようにも、怒っているようにも聞こえない。
「だから、“ただいま”って言う相手そのものが、あんまりいなかった。
言おうとすると、なんか照れくさいっていうか、芝居っぽいっていうか」
「芝居っぽい?」
「うん。
ドラマで見る“いい家族像”を真似してるみたいな感じがして、気持ち悪くなる」
私はハッとした。
私にとっての「当たり前」が、陽介にとっては「見たことのないもの」だったのだ。
「でもさ」
陽介は、少しだけ目を細めた。
「結婚してから、“言った方がいいんだろうな”ってのは、薄々わかってた。
あや(私)が“おかえり”って言うたびに、嬉しそうなの、なんとなくわかるし」
「わかってたなら、言ってよ……」
思わず拗ねた声が出る。
「……言おうとしてたんだよ」
予想外の返事だった。
「玄関開けて、“ただ……”まで出かかったことも、何回もある。
でも、その瞬間、“似合わねぇ”って思って、喉が止まる」
「誰に似合わないの?」
「俺に」
即答だった。
「なんかさ、“ちゃんとした旦那さん”の真似をしようとしてる気がして。
“演じてる感”が気持ち悪くて、結局黙っちゃう」
ああ——。
その言葉で、私の中で何かがカチッと噛み合う。
私はずっと、“私の望む夫像”を陽介にかぶせていたのかもしれない。
陽介の「似合わない」という違和感を、ちゃんと見ようとしていなかった。
「……でもさ」
陽介が、少しだけうつむいた。
「あやがさ、“ただいまって言ってほしい”って真正面から言ってきたの、今日が初めてなんだよね」
「だって、言ったら……」
「めんどくさいって思われると思った?」
「うん……」
陽介は、ふっと笑った。
「お互い様だな」
「え?」
「俺も、“ただいま言ったら笑われるんじゃないか”って、勝手に思ってたから」
お互いの“勝手な想像”がぶつかり合って、ずっとすれ違っていたのだ。
あんたの心がわかったらどんだけ楽か——。
でも、実際には、「わかろうとしてない自分」の方が問題だったのかもしれない。
「じゃあさ」
私は、ソファから立ち上がった。
「練習しよ」
「練習?」
「うん。“ただいま”って言う練習。
今から玄関もう一回出て、やり直して」
「は?」
「ほら、早く」
陽介は明らかに嫌そうな顔をしたけど、観念したように立ち上がった。
「……マジでやるの?」
「マジでやる」
半分ふざけているようで、でも、私の目は本気だったと思う。
◇
数秒後。
玄関のドアが開き、ゆっくり閉まる音がする。
しばらくして、またドアが開いた。
「……」
沈黙。
陽介は、玄関に立ち尽くしている。
私は、リビングから顔だけ出して、その姿を見守った。
「……ただいま」
小さく、でもちゃんと聞こえる声で、陽介が言った。
胸の奥が、じんわり熱くなる。
「おかえり」
できるだけ自然に返すと、陽介は少し照れくさそうに頭をかいた。
「……なにこれ」
「練習一回目。合格」
「テストかよ」
笑い合う。
たったそれだけのことで、さっきまでのモヤモヤが嘘みたいに軽くなっていく。
「これからも、多分忘れると思う」
陽介が正直に言う。
「仕事で疲れてるときとか、他のことで頭いっぱいのときとか。
でも、“言ってあげたい”って気持ちはあるから……そのときはまた、“練習しよ”って言って」
「うん。何回でも付き合う」
本当にそう思った。
「最初から完璧な夫」じゃなくて、「不器用だけど練習してくれる夫」と一緒にいる方が、きっと幸せだ。
あんたの心がわかったらどんだけ楽か。
でも、本当は——。
“わからない”って口に出せて、
“教えて”って言える勇気の方が、ずっと大事なのかもしれない。
その夜から、陽介の「ただいま」は、まだ毎日は続いていない。
でも、週に一度くらい、ふとした瞬間に聞こえてくる。
そのたびに私は、心の中で小さくガッツポーズをするのだ。
——今日も、あの人はちゃんと帰ってきてくれた。
その一言と一緒に。




