第4話「ほめない上司」
うちの課長・黒川さんは、ほとんど人をほめない。
営業成績トップを取っても、「まぁ、次も頼む」で終わり。
大きな案件を取ってきても、「運も実力のうちだな」で片づけられる。
逆にミスをしたときは、静かな声で、細かいところまで指摘される。
「この数字の根拠、甘いな」
「このメールの一文、いらない」
「“とりあえず”って言葉、ビジネスで使うな」
正論なんだけど、刺さる。
おかげで課内では、
「褒めない黒川」
「ダメ出し製造機」
と、ありがたくないあだ名がついている。
俺・小野は入社三年目。
つい最近、課をまたぐそこそこ大きな案件を任された。
「ここで結果出せば、昇進も見えてくるぞ」
人事の先輩にそう言われた案件だ。
資料を何度も作り直し、夜中までプレゼン練習をして、先方との商談当日も、朝からずっと胃が痛かった。
それでもなんとかしゃべりきり、先方の部長からは「若いのにしっかりしてるね」とまで言われた。
(やっと終わった……!)
ぐったりした足取りで会社に戻り、俺は緊張しながら黒川の席に向かった。
「先方、前向きです。来週には正式な返事がもらえそうで――」
「そうか」
黒川さんは、キーボードを叩く手を止めずに短く言っただけだ。
「相手の部長も、“かなり良い提案だ”って――」
「ここ、直しとけ」
途中で話を切られ、渡した資料の最後のページに赤ペンで印がつく。
「“全力でサポートいたします”ってフレーズ、薄い」
「え?」
「誰でも言う。
“何をどうサポートするのか”を書け。
このままだと、『がんばります』って言ってる学生の自己PRだ」
ぐさっときた。
(そこじゃなくね? もっと他に言うことあるだろ)
喉まで出かかった言葉を飲み込み、「……はい」とだけ答える。
ちゃんと評価してほしいのは、そこに至るまでの準備とか、倒れそうなメンタルとか、そういう部分だ。
なのに返ってくるのは、いつもダメ出しばかり。
(あんたの心がわかったらどんだけ楽か)
イライラを隠しながら席に戻る。
◇
その日の夜。
同期との飲み会で、つい愚痴がこぼれた。
「いやマジで、“よくやった”の一言ぐらいあってもよくない?」
「わかる。俺も“悪くない”って言われたのが最高記録」
「褒め言葉のハードル、高すぎんだよな、あの人」
ビール片手に、みんな好き勝手言う。
笑い話になってはいるけれど、内心ではみんな少しずつ傷ついているのがわかった。
◇
数日後。
例の案件が正式に決まった。かなりの売上だ。
隣の課の先輩がわざわざ席まで来てくれて、
「小野、やるじゃん! これでうちの四半期、だいぶ救われたわ」
と握手してくれた。
部長からも、「ボーナスに色つけとくからな」と冗談めかして肩を叩かれる。
そんな中で、黒川さんだけはいつも通りだった。
「契約書の文言、細かいとこまで確認しとけよ」
それだけ。
(……はいはい、そうですよね)
うれしさとむなしさが、ごちゃ混ぜになって胸につかえる。
◇
お昼休み。
コピー機の前で資料を印刷していると、総務の田村さんが世間話ついでに話しかけてきた。
「小野くん、この前の件、すごかったね。黒川課長、うちの部長に自慢してたよ」
「え、黒川さんが、ですか?」
「そう。“うちの小野は手がかかるけど、伸びしろがあるんですよ”って」
「……手がかかる?」
余計な情報までついてきた。
田村さんは笑いながら続ける。
「“あいつは雑に褒めるとすぐそこで満足するから、あえてあんまり言わないようにしてる”ってさ。
“でも実力はあるから、長い目で見てやってください”って」
「……は?」
頭の中で、何かがずれる音がした。
雑に褒めると満足するから、あえて言わない?
(なんだそれ)
意味がわからなかった。
でも同時に、胸の奥で、もう一つ別の声も生まれる。
(もしかして……期待、されてる?)
◇
その日の夕方。
黒川さんに「少し時間あるか」と呼ばれ、会議室に入った。
「例の案件のフォローなんだが――」
細かい実務的な確認が一通り終わったあと、黒川さんは、珍しく言いよどんだ。
「……一つ、言っとく」
「はい?」
「お前、このまま行けば、今年か来年には昇格候補に入る」
「え」
予想していなかった言葉だった。
「数字も出してるし、クライアントからの評判も悪くない。
ただ――」
黒川さんは、俺をまっすぐ見た。
「前から気になってたが、お前、褒められるとすぐ“ゴールした顔”する」
「ゴールした顔……」
「一年目のとき、覚えてるか。
小さい案件取ってきたとき、俺が“悪くない”って言ったらさ。
そのあと一週間くらい、集中力が目に見えて落ちた」
思い出したくない黒歴史を、はっきり掘り返された。
たしかにあの頃、ちょっと浮かれてミスも連発した。
そして案の定、「調子に乗るな」と怒鳴られたのだ。
「だから、それからは、極力“その場で気持ちよくさせる褒め言葉”を使わないようにしてる。
ちゃんとやれてるところは、俺なりに評価してるつもりだがな」
「……評価してるようには、正直あまり見えませんでした」
ぽろっと本音が漏れた。
黒川さんは、ふっと苦笑した。
「だろうな。
やりすぎた自覚は、ある」
机の上の資料を揃えながら、ぽつりと言う。
「俺自身が、“褒めてくれる上司”に甘えて失敗した口だからな」
「失敗……ですか」
「ああ。
三十前半の頃、やたら俺のこと持ち上げる部長がいてな。
『黒川なら大丈夫だ』『さすがだな』って言われるたびに、気が大きくなっていった」
そして、ある案件で大きな見落としをしたらしい。
部全体を巻き込む損失になり、「期待していたのにガッカリだ」と言われた、と。
「それから、“その場だけ気持ちよくする褒め言葉”ってやつが、妙に信用できなくなった。
もちろん、モチベーションも大事だが……俺は、“長く食っていける力”の方を優先したい」
言葉を選ぶように、ゆっくりと話す。
「だから、お前には、“今ここで満足するための褒め言葉”は、なるべく渡してこなかった。
その代わり、“次に何を直せばもっと良くなるか”だけは、ちゃんと伝えるようにしてたつもりだ」
あんたの心がわかったらどんだけ楽か――そう、何度も思ってきた。
その心の中に、こんな理屈と後悔が詰まっているなんて、想像もしなかった。
「……じゃあ、俺は、ちょっと厳しめコースってことですか」
冗談めかして言ってみると、黒川さんは少しだけ肩をすくめた。
「そうだな。
お前は、甘やかすと一番ダメになるタイプだと思ってる」
「ひどくないですか、それ」
「褒めてるんだよ。
“まだ伸びる”って意味だ」
なんだそれ、と思いながらも、心のどこかが少しだけあたたかくなる。
◇
会議室を出ようとしたとき、背中に声が飛んできた。
「小野」
「はい」
「……さっき言いそびれたが」
一拍置いて。
「この前の案件は、よくやった。
ちゃんと、自信持っていいレベルだ」
心臓が、一瞬だけドクンと鳴った。
たったそれだけの言葉なのに。
ずっと欲しかった「よくやった」を、やっともらえた気がした。
「ありがとうございます」
なるべく落ち着いた声でそう言って、俺は頭を下げた。
全部わかったわけじゃない。
黒川さんの心の中には、まだ知らない過去や、言葉にしない優しさも、たぶんいろいろある。
でも、「ただの褒めない上司」から、「不器用な守り方をする人」に見え方が変わっただけで、
明日からの仕事が、少しだけ違って見える。
(あんたの心がわかったらどんだけ楽か、って思ってたけどさ)
席に戻りながら、俺は新しい案件のフォルダを開いた。
(“全部わかる”まで行かなくても、“ちょっと理由を知る”だけで、結構楽になるんだな)
モニターに映るメールの件名は、「次案件の相談」。
その送り主は――黒川課長だった。
苦笑しながら、返信ボタンを押す。
「……またダメ出しされるんだろうな」
そう思うと同時に、少しだけ楽しみになっている自分もいた。




