第24話「なんでも『すぐ戻ります』と言う先輩」
うちのフロアに、なんでも「すぐ戻ります」と言う先輩がいる。
「じゃあ、この件の詳細は――」
「すみません、ちょっとだけ席外します。すぐ戻ります」
会議の途中でも。
クライアントとのオンライン打ち合わせ中でも。
時間にしたら、だいたい二十分。
「すぐ」って言うには、ギリギリ長い。
戻ってきても、特に理由の説明はない。
「お待たせしました。続けてください」
そう言って、何事もなかったみたいに椅子に座る。
(いや、“続けてください”じゃないんだよな)
私・結衣は、心の中でツッコミを入れていた。
その先輩――綾瀬さんは、仕事はできる。
段取りも早いし、書類もきっちりしている。
だから余計に、「すぐ戻ります」が気になるのだ。
◇
ある会議の日。
新商品のキャンペーンについて、
部署をまたいだ打ち合わせが開かれていた。
「じゃあ、SNS周りの運用は――」
「その辺りは、結衣さん中心でお願いできれば」
部長の一言で、私に視線が集まる。
「はい、承知しました」
内心ドキドキしながら答えたところで、
隣の席の綾瀬さんが、そっと手を上げた。
「すみません、私、少し席を外してもいいですか。
すぐ戻ります」
(まただ)
資料の山と、プロジェクターの光と、
空いた椅子。
その椅子の分の仕事が、
じわりとこっちに寄ってくるように感じてしまう。
結果、議事録も、タスクの取りまとめも、
私が引き受けることになった。
会議が終わる頃、
綾瀬さんは、何食わぬ顔で戻ってきた。
「おつかれさまです。どうでした?」
「どうでした、って……」
思わず、刺のある言い方になってしまう。
「キャンペーンの中心メンバーに、
私、入ることになりました」
「おお、よかったじゃない」
「“よかった”っていうか……
綾瀬さんも、このプロジェクト入ってるはずですよね?」
「そうね。名前はあったね」
「だったら、せめて会議にはちゃんと――」
そこまで言いかけて、
私は口をつぐんだ。
自分でも、ちょっと子どもっぽいことを言っている気がしたからだ。
「……ごめんね」
綾瀬さんは、あっさりと言った。
「席外すタイミング、
本当はもっと調整すべきなんだろうけど」
そう言って、
机の端に置いてあったペットボトルの水を一口飲んだ。
その喉仏の動きが、妙に印象に残った。
◇
それからも、「すぐ戻ります」は続いた。
午前十時半ごろ。
午後一時ごろ。
夕方四時ごろ。
だいたい、決まった時間に。
電話が鳴っても、
その時間帯だけは絶対に取らない。
「結衣ちゃん、ごめん、この電話お願いしてもいい?」
そう言って、
モニターの右上に小さなカウントダウンタイマーを出し、
立ち上がっていく。
戻ってくるときには、
少しだけ顔が赤い。
肩で息をしているときもある。
(トイレにしては長いし、
休憩にしては中途半端だし……)
あんたの心がわかったらどんだけ楽か。
でも私の頭の中には、
ひとつの疑いが浮かび始めていた。
(もしかしてサボってる?)
◇
「綾瀬さん、また“すぐ戻ります”してたね〜」
給湯室でコーヒーを淹れていると、
同期の隆が、紙コップを片手に話しかけてきた。
「ね。
あの時間帯、電話番全部こっちだよ」
「どこ行ってるんだろうね。
屋上でタバコでも吸ってんのかな」
「吸う人に見えないけどな……」
「“すぐ戻ります”って言う人に限って、
全然すぐ戻らないよね」
二人で笑いながらも、
笑いごとにできないモヤモヤが残る。
「結衣はさ、
ああいうの、気になるタイプ?」
「気になりますね。
ちゃんとしてほしいって思っちゃう」
「真面目だねぇ」
隆はそう言ったあと、
少し真面目な顔になった。
「でもまぁ、綾瀬さん、仕事ちゃんとしてるしね。
“すぐ戻りますタイム”があっても回ってるなら、
別にいいんじゃない?」
「……“回ってる”からいいのかな」
その「回ってる」の中には、
自分の残業時間も含まれているのに、と
内心思った。
◇
ある日。
例の時間帯に、
コピー機のトナーが切れた。
(よりによって今……)
資料の締め切りは今日。
綾瀬さんは、ちょうど「すぐ戻ります」で席を立っている。
「結衣ちゃん、ごめん、トナー交換できる?」
「やったことないんだけど……」
見よう見まねでやってみるものの、
うまくはまらない。
カートリッジが斜めに入って、ガコッと変な音がする。
(やば)
焦って説明書を見ようとしたとき、
背後から声がした。
「それ、ちょっと貸して」
振り向くと、
タイマーを止めながら戻ってきた綾瀬さんが、
さっとカートリッジを抜き取り、
手際よくセットし直した。
「ここ、角度がちょっとだけコツいるのよ」
「あ、ありがとうございます」
「いいよ」
そう言って、
自分のモニターに戻る。
タイマーは「00:19:48」で止まっていた。
(二十分きっかり……)
そこでようやく、私は気づいた。
綾瀬さんの「すぐ戻ります」は、
いつもきっちり二十分前後で完了していることに。
トイレにしては正確すぎる。
サボりにしては効率が良すぎる。
(なにそれ、逆に気になるんだけど)
◇
謎が気になって仕方なくなった私は、
ある日、フロアの隅の休憩スペースから、
それとなく綾瀬さんの動きを目で追った。
「じゃあ、私は少し席を外します。
すぐ戻ります」
いつもの台詞。
スマホと、白い小さなポーチと、
金属の水筒のようなものを持って立ち上がる。
トイレの方向ではなく、
奥の方へ続く廊下に歩いていく。
(あれ……トイレじゃない)
廊下の先には、
「多目的室」と書かれた小さな部屋がある。
普段はあまり使われていない、
窓も小さい、地味な部屋だ。
綾瀬さんは、その部屋のドアを開けて、中に消えた。
(多目的室って、
なにに使われてるんだっけ)
私の知る限り、
会議で使われているところを見たことはない。
しばらくして、
綾瀬さんはもう一度同じ扉から出てきた。
手には、さっきより少しだけしぼんだ水筒。
顔は、少し赤くなっている。
(なんだろう……)
でも、そこまでだった。
さすがに、後をつけてまで覗き込む勇気はない。
◇
数日後の昼休み。
私はたまたま、総務の佐伯さんと同じテーブルになった。
「そういえば、あの奥の多目的室って、
何に使ってるんですか?」
何気ないふりをしながら聞いてみる。
「ああ、あそこ?」
佐伯さんは、箸を止めて言った。
「“いろいろ用”よ」
「いろいろ?」
「仮眠したい人も使うし、
体調悪くなった人を一時的に寝かせたりもするし。
それから――」
少し言いよどんでから、
声を潜める。
「授乳室代わり、ね」
「授乳室?」
「っていうか、正確には、
“搾乳する人用のスペース”。
うち、ちゃんとした専用ルーム作れてないから、
今はあそこを使ってもらってるの」
その言葉で、
頭の中のピースが急に組み上がり始めた。
白いポーチ。
金属の水筒。
二十分きっかりの「すぐ戻ります」。
そして――
「そういえば、綾瀬さんって、
去年、産休明けで戻ってきたんだっけ」
「そうそう」
佐伯さんが頷く。
「保育園、職場の近くになんとか入れて。
まだ完全に断乳してないって言ってたから、
昼間は搾乳して持って帰ってるみたい」
意味がわかると、
胸の奥がじわっと熱くなった。
(“すぐ戻ります”って、そういうこと……?)
◇
午後。
また、例の時間が近づいてきた。
綾瀬さんは、スマホのタイマーを見て立ち上がる。
「では、私は少し席を外します。
すぐ戻ります」
私は、思わず声をかけた。
「あの」
「ん?」
「“多目的室”、
使いづらくないですか?」
一瞬、綾瀬さんの目が、
警戒したように細くなった。
「なんで?」
「あ、えっと」
しまった、と思った。
言い方を間違えた。
「総務の佐伯さんに、
“授乳室の代わり”みたいに使ってるって聞いて。
もし、もっと使いやすくできることがあったら、
プロジェクトの予算とかで提案してもいいのかなって」
早口で言いながら、
自分の顔が熱くなっていくのがわかった。
綾瀬さんは、少し驚いたような顔をしたあと、
ふっと力を抜いて笑った。
「……そっか。
そういう意味ね」
「変な聞き方してすみません」
「ううん。
“何してるんですか”って聞かれる方が、
よっぽど困るから」
そう言って、
白いポーチをちらりと持ち上げる。
「中身、想像つく?」
「……搾乳機、ですよね」
「正解」
彼女は、照れくさそうに笑った。
◇
「“すぐ戻ります”ってさ」
多目的室の前まで来たところで、
綾瀬さんが立ち止まった。
「本当は、“二十分だけ、母親にさせてください”って意味なのよ」
その言い方に、
思わず息を飲んだ。
「でも、会議のたびに、
“母乳育児中で〜”とか“搾乳の時間なので〜”とか言えないでしょ」
「……たしかに」
「だから、“すぐ戻ります”って、
あそこまでの全部を縮めた言い方」
あんたの心がわかったらどんだけ楽か――
と思っていた自分が、
急に恥ずかしくなる。
「“サボってる”って思ってた?」
「正直に言うと、ちょっと」
「だよね」
綾瀬さんは、肩をすくめた。
「でも、思われても仕方ないかもって、
どこかで覚悟してた」
「覚悟?」
「“仕事に戻るなら、母親の事情は持ち込むな”って、
言う人もいるだろうなって」
その言葉に、
胸の奥がちくりと痛む。
「だから、せめて、
時間だけはきっちりしようと思って」
毎回、二十分。
タイマーをセットして。
「本当はね、
もっとゆっくりしたいんだよ。
搾乳って、地味にしんどいし」
少し笑ってから、続ける。
「でも、部下の前で“母乳が〜”なんて言うの、
さすがに恥ずかしすぎるじゃない」
「……たしかに」
「結衣ちゃんには、
もっと早く説明しておけばよかったね」
そう言って、
綾瀬さんはそっと頭を下げた。
「迷惑かけてるのは本当だから」
「迷惑っていうか……」
私は、慌てて首を振った。
「“すぐ戻ります”の意味、
ちゃんとわかったので。
私が勝手にイライラしてただけです」
◇
数日後のプロジェクト会議。
タイムラインを確認していると、
例の時間が近づいてきた。
綾瀬さんが、いつものように立ち上がる。
「すみません、私は少し席を外します。
すぐ――」
「あ、綾瀬さん」
私は、さっと口を挟んだ。
「この後、SNSパートの細かいところ、
私の方でまとめておくので、
戻ってきてから一緒に確認してもらえますか」
「助かる。
お願いしてもいい?」
「はい」
部長がそれを見て、
軽く頷いた。
「必要なことなら、ちゃんと時間は取ろう。
その代わり、戻ってきたあと、
さっきの議論のフォローも頼むね」
「もちろんです」
“すぐ戻ります”の一言が、
以前とは少し違って聞こえた。
◇
あんたの心がわかったらどんだけ楽か――
ずっとそう思っていた。
“なんでも『すぐ戻ります』と言う先輩”の正体は、
「仕事と母親業のあいだで時間を切り刻みながら、
その両方をどうにか守ろうとしている人」であり、
「本当の事情を全部説明することさえ、
気を遣いすぎてためらってしまう人」だった。
全部を理解することは、多分できない。
だけど、「なぜ二十分きっかりなのか」を知っただけで、
空いた椅子の見え方は、ずいぶん変わった。
次に誰かが、「また綾瀬さん、すぐ戻りますしてたね」と笑ったら――
私はきっとこう言うだろう。
「うん。
ちゃんと“戻ってくるための二十分”なんだよ、あれ」
あんたの心がわかったらどんだけ楽か。
その“わからなさ”を、
少しずつ「聞いてみる勇気」に変えていけたら――
空いた椅子の横にある温かさにも、
気づけるような気がした。




