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第24話「なんでも『すぐ戻ります』と言う先輩」



 うちのフロアに、なんでも「すぐ戻ります」と言う先輩がいる。


「じゃあ、この件の詳細は――」

「すみません、ちょっとだけ席外します。すぐ戻ります」


 会議の途中でも。

 クライアントとのオンライン打ち合わせ中でも。


 時間にしたら、だいたい二十分。

 「すぐ」って言うには、ギリギリ長い。


 戻ってきても、特に理由の説明はない。


「お待たせしました。続けてください」


 そう言って、何事もなかったみたいに椅子に座る。


(いや、“続けてください”じゃないんだよな)


 私・結衣ゆいは、心の中でツッコミを入れていた。


 その先輩――綾瀬さんは、仕事はできる。

 段取りも早いし、書類もきっちりしている。


 だから余計に、「すぐ戻ります」が気になるのだ。



 ある会議の日。


 新商品のキャンペーンについて、

 部署をまたいだ打ち合わせが開かれていた。


「じゃあ、SNS周りの運用は――」


「その辺りは、結衣さん中心でお願いできれば」


 部長の一言で、私に視線が集まる。


「はい、承知しました」


 内心ドキドキしながら答えたところで、

 隣の席の綾瀬さんが、そっと手を上げた。


「すみません、私、少し席を外してもいいですか。

 すぐ戻ります」


(まただ)


 資料の山と、プロジェクターの光と、

 空いた椅子。


 その椅子の分の仕事が、

 じわりとこっちに寄ってくるように感じてしまう。


 結果、議事録も、タスクの取りまとめも、

 私が引き受けることになった。


 会議が終わる頃、

 綾瀬さんは、何食わぬ顔で戻ってきた。


「おつかれさまです。どうでした?」


「どうでした、って……」


 思わず、刺のある言い方になってしまう。


「キャンペーンの中心メンバーに、

 私、入ることになりました」


「おお、よかったじゃない」


「“よかった”っていうか……

 綾瀬さんも、このプロジェクト入ってるはずですよね?」


「そうね。名前はあったね」


「だったら、せめて会議にはちゃんと――」


 そこまで言いかけて、

 私は口をつぐんだ。


 自分でも、ちょっと子どもっぽいことを言っている気がしたからだ。


「……ごめんね」


 綾瀬さんは、あっさりと言った。


「席外すタイミング、

 本当はもっと調整すべきなんだろうけど」


 そう言って、

 机の端に置いてあったペットボトルの水を一口飲んだ。


 その喉仏の動きが、妙に印象に残った。



 それからも、「すぐ戻ります」は続いた。


 午前十時半ごろ。

 午後一時ごろ。

 夕方四時ごろ。


 だいたい、決まった時間に。


 電話が鳴っても、

 その時間帯だけは絶対に取らない。


「結衣ちゃん、ごめん、この電話お願いしてもいい?」


 そう言って、

 モニターの右上に小さなカウントダウンタイマーを出し、

 立ち上がっていく。


 戻ってくるときには、

 少しだけ顔が赤い。

 肩で息をしているときもある。


(トイレにしては長いし、

 休憩にしては中途半端だし……)


 あんたの心がわかったらどんだけ楽か。


 でも私の頭の中には、

 ひとつの疑いが浮かび始めていた。


(もしかしてサボってる?)



「綾瀬さん、また“すぐ戻ります”してたね〜」


 給湯室でコーヒーを淹れていると、

 同期の隆が、紙コップを片手に話しかけてきた。


「ね。

 あの時間帯、電話番全部こっちだよ」


「どこ行ってるんだろうね。

 屋上でタバコでも吸ってんのかな」


「吸う人に見えないけどな……」


「“すぐ戻ります”って言う人に限って、

 全然すぐ戻らないよね」


 二人で笑いながらも、

 笑いごとにできないモヤモヤが残る。


「結衣はさ、

 ああいうの、気になるタイプ?」


「気になりますね。

 ちゃんとしてほしいって思っちゃう」


「真面目だねぇ」


 隆はそう言ったあと、

 少し真面目な顔になった。


「でもまぁ、綾瀬さん、仕事ちゃんとしてるしね。

 “すぐ戻りますタイム”があっても回ってるなら、

 別にいいんじゃない?」


「……“回ってる”からいいのかな」


 その「回ってる」の中には、

 自分の残業時間も含まれているのに、と

 内心思った。



 ある日。

 例の時間帯に、

 コピー機のトナーが切れた。


(よりによって今……)


 資料の締め切りは今日。

 綾瀬さんは、ちょうど「すぐ戻ります」で席を立っている。


「結衣ちゃん、ごめん、トナー交換できる?」

「やったことないんだけど……」


 見よう見まねでやってみるものの、

 うまくはまらない。

 カートリッジが斜めに入って、ガコッと変な音がする。


(やば)


 焦って説明書を見ようとしたとき、

 背後から声がした。


「それ、ちょっと貸して」


 振り向くと、

 タイマーを止めながら戻ってきた綾瀬さんが、

 さっとカートリッジを抜き取り、

 手際よくセットし直した。


「ここ、角度がちょっとだけコツいるのよ」


「あ、ありがとうございます」


「いいよ」


 そう言って、

 自分のモニターに戻る。


 タイマーは「00:19:48」で止まっていた。


(二十分きっかり……)


 そこでようやく、私は気づいた。


 綾瀬さんの「すぐ戻ります」は、

 いつもきっちり二十分前後で完了していることに。


 トイレにしては正確すぎる。

 サボりにしては効率が良すぎる。


(なにそれ、逆に気になるんだけど)



 謎が気になって仕方なくなった私は、

 ある日、フロアの隅の休憩スペースから、

 それとなく綾瀬さんの動きを目で追った。


「じゃあ、私は少し席を外します。

 すぐ戻ります」


 いつもの台詞。

 スマホと、白い小さなポーチと、

 金属の水筒のようなものを持って立ち上がる。


 トイレの方向ではなく、

 奥の方へ続く廊下に歩いていく。


(あれ……トイレじゃない)


 廊下の先には、

 「多目的室」と書かれた小さな部屋がある。


 普段はあまり使われていない、

 窓も小さい、地味な部屋だ。


 綾瀬さんは、その部屋のドアを開けて、中に消えた。


(多目的室って、

 なにに使われてるんだっけ)


 私の知る限り、

 会議で使われているところを見たことはない。


 しばらくして、

 綾瀬さんはもう一度同じ扉から出てきた。


 手には、さっきより少しだけしぼんだ水筒。

 顔は、少し赤くなっている。


(なんだろう……)


 でも、そこまでだった。

 さすがに、後をつけてまで覗き込む勇気はない。



 数日後の昼休み。

 私はたまたま、総務の佐伯さんと同じテーブルになった。


「そういえば、あの奥の多目的室って、

 何に使ってるんですか?」


 何気ないふりをしながら聞いてみる。


「ああ、あそこ?」


 佐伯さんは、箸を止めて言った。


「“いろいろ用”よ」


「いろいろ?」


「仮眠したい人も使うし、

 体調悪くなった人を一時的に寝かせたりもするし。

 それから――」


 少し言いよどんでから、

 声を潜める。


「授乳室代わり、ね」


「授乳室?」


「っていうか、正確には、

 “搾乳する人用のスペース”。

 うち、ちゃんとした専用ルーム作れてないから、

 今はあそこを使ってもらってるの」


 その言葉で、

 頭の中のピースが急に組み上がり始めた。


 白いポーチ。

 金属の水筒。

 二十分きっかりの「すぐ戻ります」。


 そして――


「そういえば、綾瀬さんって、

 去年、産休明けで戻ってきたんだっけ」


「そうそう」


 佐伯さんが頷く。


「保育園、職場の近くになんとか入れて。

 まだ完全に断乳してないって言ってたから、

 昼間は搾乳して持って帰ってるみたい」


 意味がわかると、

 胸の奥がじわっと熱くなった。


(“すぐ戻ります”って、そういうこと……?)



 午後。


 また、例の時間が近づいてきた。


 綾瀬さんは、スマホのタイマーを見て立ち上がる。


「では、私は少し席を外します。

 すぐ戻ります」


 私は、思わず声をかけた。


「あの」


「ん?」


「“多目的室”、

 使いづらくないですか?」


 一瞬、綾瀬さんの目が、

 警戒したように細くなった。


「なんで?」


「あ、えっと」


 しまった、と思った。

 言い方を間違えた。


「総務の佐伯さんに、

 “授乳室の代わり”みたいに使ってるって聞いて。

 もし、もっと使いやすくできることがあったら、

 プロジェクトの予算とかで提案してもいいのかなって」


 早口で言いながら、

 自分の顔が熱くなっていくのがわかった。


 綾瀬さんは、少し驚いたような顔をしたあと、

 ふっと力を抜いて笑った。


「……そっか。

 そういう意味ね」


「変な聞き方してすみません」


「ううん。

 “何してるんですか”って聞かれる方が、

 よっぽど困るから」


 そう言って、

 白いポーチをちらりと持ち上げる。


「中身、想像つく?」


「……搾乳機、ですよね」


「正解」


 彼女は、照れくさそうに笑った。



「“すぐ戻ります”ってさ」


 多目的室の前まで来たところで、

 綾瀬さんが立ち止まった。


「本当は、“二十分だけ、母親にさせてください”って意味なのよ」


 その言い方に、

 思わず息を飲んだ。


「でも、会議のたびに、

 “母乳育児中で〜”とか“搾乳の時間なので〜”とか言えないでしょ」


「……たしかに」


「だから、“すぐ戻ります”って、

 あそこまでの全部を縮めた言い方」


 あんたの心がわかったらどんだけ楽か――

 と思っていた自分が、

 急に恥ずかしくなる。


「“サボってる”って思ってた?」


「正直に言うと、ちょっと」


「だよね」


 綾瀬さんは、肩をすくめた。


「でも、思われても仕方ないかもって、

 どこかで覚悟してた」


「覚悟?」


「“仕事に戻るなら、母親の事情は持ち込むな”って、

 言う人もいるだろうなって」


 その言葉に、

 胸の奥がちくりと痛む。


「だから、せめて、

 時間だけはきっちりしようと思って」


 毎回、二十分。

 タイマーをセットして。


「本当はね、

 もっとゆっくりしたいんだよ。

 搾乳って、地味にしんどいし」


 少し笑ってから、続ける。


「でも、部下の前で“母乳が〜”なんて言うの、

 さすがに恥ずかしすぎるじゃない」


「……たしかに」


「結衣ちゃんには、

 もっと早く説明しておけばよかったね」


 そう言って、

 綾瀬さんはそっと頭を下げた。


「迷惑かけてるのは本当だから」


「迷惑っていうか……」


 私は、慌てて首を振った。


「“すぐ戻ります”の意味、

 ちゃんとわかったので。

 私が勝手にイライラしてただけです」



 数日後のプロジェクト会議。


 タイムラインを確認していると、

 例の時間が近づいてきた。


 綾瀬さんが、いつものように立ち上がる。


「すみません、私は少し席を外します。

 すぐ――」


「あ、綾瀬さん」


 私は、さっと口を挟んだ。


「この後、SNSパートの細かいところ、

 私の方でまとめておくので、

 戻ってきてから一緒に確認してもらえますか」


「助かる。

 お願いしてもいい?」


「はい」


 部長がそれを見て、

 軽く頷いた。


「必要なことなら、ちゃんと時間は取ろう。

 その代わり、戻ってきたあと、

 さっきの議論のフォローも頼むね」


「もちろんです」


 “すぐ戻ります”の一言が、

 以前とは少し違って聞こえた。



 あんたの心がわかったらどんだけ楽か――

 ずっとそう思っていた。


 “なんでも『すぐ戻ります』と言う先輩”の正体は、

 「仕事と母親業のあいだで時間を切り刻みながら、

  その両方をどうにか守ろうとしている人」であり、

 「本当の事情を全部説明することさえ、

  気を遣いすぎてためらってしまう人」だった。


 全部を理解することは、多分できない。

 だけど、「なぜ二十分きっかりなのか」を知っただけで、

 空いた椅子の見え方は、ずいぶん変わった。


 次に誰かが、「また綾瀬さん、すぐ戻りますしてたね」と笑ったら――

 私はきっとこう言うだろう。


「うん。

 ちゃんと“戻ってくるための二十分”なんだよ、あれ」


 あんたの心がわかったらどんだけ楽か。

 その“わからなさ”を、

 少しずつ「聞いてみる勇気」に変えていけたら――


 空いた椅子の横にある温かさにも、

 気づけるような気がした。


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