第22話「なんでもお金で解決しようとする父」
うちの父は、なんでもお金で解決しようとする。
中学のとき、部活の大会で負けて泣いて帰った日。
母が「よく頑張ったじゃない」と背中をさすってくれたあと、
父が帰ってきて一言。
「そうか。じゃあ、次の大会までに新しいシューズ買っとくか」
慰めの言葉より先に、財布が出てきた。
高校受験に失敗したときもそうだ。
「一校落ちちゃった……」
私が泣きそうな声で言うと、
母は「大丈夫、受かった学校だっていいとこだよ」と言ってくれたのに、
父はカレンダーを見ながら、
「この塾、春期講習あるだろ。申し込んでおく」
それだけ。
そのくせ、合格したときも、
「おめでとう。……入学金の振込用紙、どこやった」
嬉しいのかどうかさえ、よくわからない。
(あんたの心がわかったらどんだけ楽か)
「おめでとう」より「振込」。
「大丈夫?」より「新しいの買うか」。
そんな父を、私はずっと心の中でこう呼んでいた。
(結局、“金でなんとかしよう父”なんだよな)
◇
社会人になって一人暮らしを始めてからも、その感じは変わらなかった。
初めての冬。
ボーナスもまだ少なくて、光熱費の高さにびっくりしていた頃。
『最近どうだ』
父から珍しくLINEが来たので、
『まぁなんとか。エアコン代高くてビビってる』
と返すと、
数時間後に、突然「振込がありました」の通知が来た。
見慣れない金額。
通帳を確認すると、父の名前。
『今月分の電気代くらいにはなるだろ』
それだけのメッセージ。
(いや、助かるけどさ……)
「寒くないか」とか「無理するなよ」とか、
そういう言葉が一つもないのが、逆にモヤモヤする。
誕生日もそうだ。
ケーキを囲んで、母と二人で歌ってくれるのは嬉しい。
でも父は、「おめでとう」と言う前に、
封筒をすっと差し出してくる。
「今年はこれな」
中身は、現金か、商品券か。
笑顔も、特にない。
(気持ちはわかるけどさ。
“好きなもの買え”ってことなんだろうけどさ)
それでも、どこかで思っていた。
(“お金渡しておけば父親の役目は果たしてる”って思ってるんだろうな)
◇
ある年の春。
私は、転職することにした。
仕事内容は好きだったけれど、
残業続きと人間関係のストレスで、
朝起きるたびに胃が痛むようになっていた。
慎重に準備をして、
新しい会社から内定をもらったとき、
母にはすぐに電話をした。
「よかったじゃない。
どんな仕事なの?」
「あれこれでね……」
一通り話したあと、
母が言う。
「お父さんにも、ちゃんと言っておきなさいよ」
「うん、あとでLINEしとく」
その晩、父にメッセージを送った。
『仕事、転職することにした。
今の会社は今月いっぱいで、新しい会社には来月から』
五分後に、返事が来る。
『そうか。
身体壊すよりいい』
それだけ。
(もうちょっと、なんかない?)
自分でも子どもっぽいと思いつつ、
画面に向かって小さくため息をついた。
◇
数日後。
実家に顔を出したときのことだ。
父は、珍しくダイニングテーブルの上に紙を広げていた。
「お、来たか」
「ただいま」
靴を脱ぎながらリビングに入ると、
テーブルの上に、私のざっくりした家計簿と、
見慣れない一覧表が並んでいた。
「なにこれ」
「お前の去年の収支。
母さんから聞いた大体の額で、ざっくり書いてみた」
「え、なに勝手に」
「いや、“転職するなら、最初の年はボーナス少ないだろう”と思ってな」
そう言って、父はボールペンで紙をとんとんと叩く。
「今の家賃と、光熱費と、食費と。
もし今のままの生活レベルを維持するなら、
来年の今頃の貯金がこのくらいになる」
書かれている数字は、
私が頭の中でなんとなく想像していたより、少なかった。
「で、もし家賃五千円下げたら、このくらい。
携帯プラン見直したら、このくらい。
定期代込みの交通費で、このくらい」
「……」
「心配だから、見た」
父は、あっさりと言った。
「別に、“転職反対”とかじゃない。
むしろ、よく決めたなと思ってる」
「ならそう言えばいいのに」
「言ってるだろ」
「“身体壊すよりいい”だけじゃ、わかんないって」
つい、少し強い口調になってしまう。
「お前な」
父は、少し苦笑した。
「“身体壊すよりいい”ってのは、
俺の中では最大級の“賛成”なんだよ」
「……不親切な言語仕様だね」
「仕様って言うな」
二人で、少し笑った。
◇
「で、だ」
父が、テーブルの上の一覧表をくるっと回す。
「転職して最初の一年は、何かと出費も多い。
慣れない環境で、倒れるかもしれない」
「倒れないよ」
「“倒れるかもしれない”前提で考えるのが大人だ」
そう言われてしまうと、何も言えない。
「だから、ここ。」
父は、家計簿の「家賃」の欄を指さした。
「一年間だけ、ここを俺が半分持つ」
「……は?」
「月にこれくらい。
お前の手取りと見比べればわかるだろうけど、
固定費を少しでも軽くした方が、
心も楽になる」
「いやいや、そんなの」
「“そんなの”も何も、もう振り込むように手続きしてある」
あっさり言う。
「なんでそうなるの」
「お前が、“仕事のストレスがやばい”って言ったとき、
俺は何もできなかったからな」
その一言で、
頭の中にあの日の記憶が蘇った。
◇
去年の冬。
雪が降る日曜の夜。
私は、珍しく父に電話をした。
『……しんどい。
会社行くの、正直つらい』
電話口の向こうで、
少しの沈黙があったあと、
父が言った。
『そうか』
それから数秒。
『まぁ、どこの会社行っても大変だぞ』
その言葉に、
私は苛立ちと絶望がごちゃ混ぜになって、
「もういい」と電話を切ってしまった。
あのときの、
父の短い返事。
(やっぱりこの人、何もわかってない)
そう思っていた。
◇
「この前、母さんに怒られた」
父は、ぽつりと言った。
「“あのとき、あんたなんであんな言い方しかできなかったの”って」
「……」
「“どこの会社も大変だ”って言ったのは、
“どこ行っても頑張れ”って意味だったんだがな」
「そうは聞こえなかった」
「知ってる」
父は、苦く笑った。
「だから、“口で励ます”のは、俺には向いてないんだろうと思った」
あんたの心がわかったらどんだけ楽か――
と思っていたけれど。
今は、父が父なりに、
自分の不器用さを自覚していることの方が、
胸に響いた。
「俺はな」
父が、湯のみを手に取る。
「お前が小さい頃、風邪ひいて高い熱出したときにさ。
夜中じゅう起きててやれなかったんだよ」
「え?」
「母さんから聞かなかったか」
「知らない」
「仕事で夜勤が多くてな。
昼間も寝てないと身体がもたなくて。
“看病くらいしてやれ”って母さんには何回も言われたが、
どうしても起き続ける体力がなかった」
父は、窓の外を見た。
「“父親なのに”って、
かなり責められた。
自分でも、そう思った」
「……」
「そのときに、“俺にできることは、
せめてこの家の生活を守ることだけだ”って思い込んだんだと思う」
給与明細。
振込用紙。
ボーナスの金額。
父の頭の中では、
「家族を守る」=「金を切らさない」になっていたのだろう。
◇
「だから、
何かあったとき、まず“金の段取り”を考える癖がついた」
父は、淡々と続ける。
「学校で必要なものがあれば、
“買えるようにしておく”。
塾が必要なら、“払えるようにしておく”。
就職したら、“急な出費にも困らないようにしておく”」
「……」
「それしか、思いつかなかった」
その言葉に、
今までの光景が全部つながっていく。
大会で負けたときの新しいシューズ。
受験に落ちたときの春期講習。
誕生日の封筒。
冬の電気代。
全部、「父なりの“看病”」だったのかもしれない。
◇
「でもさ」
私は、少しだけ笑った。
「“全部お金で解決しようとする父”って、
ちょっと寂しいんだよね」
「だろうな」
父も笑った。
「気づいてた?」
「なんとなく」
「じゃあさ」
私は、テーブルの上の紙を指でつついた。
「“金を出す”のと一緒に、
“口だけのやつ”も、少し練習してくれない?」
「口だけのやつ?」
「“よく決めたな”とか、
“心配だけど応援してる”とか」
「そんな、ドラマみたいなセリフ……」
「言えない?」
「練習してから」
「練習するんだ」
二人で笑った。
◇
転職初日。
緊張で早く目が覚めて、
準備を整えていたとき。
スマホが震えた。
父からだった。
『初日、行ってこい。
困ったら、金と愚痴くらいはいつでも出す』
変なメッセージだと思いつつ、
読んでいるうちに、
じわっと目の奥が熱くなった。
(“金と愚痴くらい”って)
たぶん、父にとっての、
最大限の「励まし」だ。
出かける前に、
ふと通帳のアプリを開くと、
あの日言っていた金額が、ちゃんと振り込まれていた。
金額の数字と、
短いメッセージ。
どちらも、
不器用な父の「大丈夫」の言い方なんだと思う。
◇
あんたの心がわかったらどんだけ楽か――
ずっとそう思っていた。
“なんでもお金で解決しようとする父”の正体は、
「言葉や時間で寄り添うことに何度も失敗して、
せめて金だけは切らさないと決めた人」であり、
「それでも本当は、“お前のこと、ちゃんと応援してる”と
うまく言えないでいる人」だった。
全部を理解することは、多分できない。
でも、「なぜまず財布が出てくるのか」を少しだけ知ったことで、
封筒を受け取るときの気持ちは、前よりずっと違っている。
次に実家に帰ったら、
父の財布が出てくる前に、
こちらからこう言ってみようと思う。
「お金もありがたいけど、
“よくやってるよ”って一言つけてくれたら、
もっと頑張れるかも」
そのとき、父がどんな顔をするのか。
少し怖くて、でもちょっと楽しみでもある。




