第18話「いつも途中で帰る先輩」
会社の飲み会で、うちの部署の先輩・新城さんは、必ず途中で帰る。
二次会どころか、一次会もだいたい二時間のコース。
ラストオーダーの声がかかる前に、
「じゃ、俺このへんで」と立ち上がる。
時間は、だいたい二十時五十分から二十一時のあいだ。
時計を見なくても、きっちりその頃になると、
新城さんの「帰りますスイッチ」が入る。
「もう帰るんですか? 明日休みですよ」
誰かが引き止めても、
「悪いな。家の用事あって」
と、いつものセリフ。
「家の用事」が何なのか、誰も知らない。
◇
ある金曜日。
珍しく課長も参加した部署飲み会で、
いつものように新城さんが席を立った。
「俺、そろそろ帰るわ」
「えー、またですか。もうちょっといいじゃないですか」
同期の田島が、露骨に残念そうな声を出す。
「明日土曜ですよ? カラオケ行きましょうよ。
新城さん、歌うまいって有名なんすから」
「昔の話だよ」
そう笑いながらも、新城さんはコートを手に取る。
「お先です」
「“家の用事”っすか?」
田島が、半分冗談でそう言った。
「おう。大事なやつ」
新城さんは、それだけ言って店を出ていった。
「いいなぁ、“家の用事”って便利な言い訳」
田島が、残ったビールを飲み干して笑う。
「嫁さんに尻に敷かれてるんじゃないですか?」
「でも結婚指輪してなくない?」
「彼女かなぁ。
“門限付き彼女”とか、逆に萌えますけど」
テーブルは、軽い好奇心と笑いに包まれた。
私は笑いながらも、少しだけモヤモヤしていた。
(あんたの心がわかったらどんだけ楽か)
普段の仕事ぶりは頼りになる。
締め切り前には残業もするし、
誰かが困っていたらさりげなくフォローに入ってくれる。
だけど、飲み会になると、
きっちり一定のラインで距離を取っていく。
(なんか、信用されてない感じするな)
そんなふうに、勝手に拗ねていた。
◇
別の日。
チームで大きな案件を乗り切った打ち上げの帰り道、
私は終電がなくなりかけていた。
「やば、あと五分で最終」
駅までの道を急ぎながら、スマホで時刻表を確認する。
「佐伯(私)、こっち乗るの?」
後ろから声がして振り向くと、
そこには新城さんがいた。
「え、新城さん、さっき帰ったんじゃ」
「タクシー捕まらなかった」
そう言って笑うけど、
服装はさっき飲み会で見たまま。
店を出てから、あまり時間は経っていない。
「駅、こっちだよな。一緒に行くか」
「はい」
夜の風は冷たくて、酔いが少し醒めてきた。
「新城さんって、いつも飲み会途中で帰りますよね」
つい、前から気になっていたことを口にしてしまう。
「ん?」
「みんなで話してたんですよ。“家の用事”って何なんだろうって」
「ああ」
信号待ちで立ち止まりながら、新城さんが苦笑した。
「気になるか」
「ちょっと」
「言い訳っぽいですし」
「正直だな」
二人で少し笑った。
青信号になって、歩き出す。
「……内緒にするほどのことでもないんだけどな」
新城さんがぽつりと言った。
「ただ、あんまり飲み会の場で長々話す話でもないというか」
「そうなんですか?」
「うん。
“空気重くなる系”のやつ」
そこで会話はいったん途切れた。
電光掲示板には、「最終電車まであと3分」の表示。
私は内心焦りながらも、耳だけは新城さんの方に向いていた。
◇
翌週。
私は、たまたま新城さんと同じタイミングで会社を出た。
「おつかれさまです」
「おう、おつかれ。今日はまっすぐ帰る?」
「コンビニ寄って帰ります」
「そうか」
エレベーターを降りてビルを出ようとしたとき、
新城さんのスマホが震えた。
彼は、画面を見て一瞬だけ表情を緩める。
「悪い、ちょっと先行くな」
そう言って、足早に駅とは反対方向へ歩いていった。
(……家、あっちじゃないはずだけど)
社員の住所は、だいたい把握している。
新城さんの最寄り駅は、私と同じ路線の隣駅だ。
(家の用事、って家じゃないところで用事してるってこと?)
小さな違和感が、胸の中に残った。
◇
数日後の金曜日。
私は、友だちと行く予定だったライブに向かっていた。
が、駅のホームで友だちからメッセージが届く。
『ごめん、体調やばくて今日は無理そう……』
チケットは二枚。
当日キャンセルなんてもちろんできない。
(どうしよう……)
ひとりで行くか、諦めるか。
迷いながら改札を出たところで、見覚えのある後ろ姿を見つけた。
(……新城さん?)
会社帰りらしきスーツ姿。
いつもと違う駅。
新城さんは、まっすぐ駅ビルのエレベーターに乗っていった。
私は、反射的に少し距離を置いて後を追った。
(ストーカーじゃないよね、これ)
自分で自分にツッコミを入れながらも、
「家の用事」の正体が気になって仕方ない。
エレベーターを降りた先には、小さな総合病院の入り口があった。
自動ドアの上には、「面会時間 21:00まで」の文字。
時計を見る。
時刻は、二十時二十八分。
(……あ)
飲み会で“帰るスイッチ”が入っていた時間が、
頭の中でぴたりと重なった。
私は、病院の前で立ち止まり、
ガラス越しに中の様子をうかがった。
受付の前を通り過ぎ、
エレベーターに乗っていく新城さん。
(病院……)
喉の奥が少しだけ冷たくなった。
◇
その週末。
部署で提出する資料の件で、新城さんに電話をかけた。
「もしもし、佐伯です。明日の会議の資料のことで――」
用件を伝え終わったあと、
私は少しだけ迷ってから、言葉を足した。
「あの、先輩」
「ん?」
「この前、駅の近くの病院にいましたよね」
一瞬の沈黙。
電話越しでも、空気が変わったのがわかった。
「……見られてたか」
「すみません。たまたま同じ駅にいて、たまたま見かけて」
「いや、責めてるわけじゃないよ」
新城さんは小さく息を吐いた。
「どこまで見た?」
「入り口まで。中には入ってません」
「そっか」
少しの間。
聞くべきか、聞かないべきか。
私は迷った末、正面から言うことにした。
「“家の用事”って、病院のことですか?」
しばらく沈黙が続いたあと、
新城さんは、静かに言った。
「……ああ。
母親が、入院しててな」
◇
「父親、もういなくてさ」
翌週、会社の屋上で昼休みに、
あらためて話を聞くことになった。
冬の風が冷たくて、
コートの襟を立てながらベンチに座る。
「母さん、一年前に倒れて、そのまま半分寝たきり。
病院と施設を行ったり来たりしてる」
「そうだったんですね……」
「面会時間、平日は夜九時までだから、
週末以外はどうにかしてその時間までに一回顔出したくてさ」
飲み会でいつも時間を気にしていた理由が、
頭の中で一気につながっていく。
「“家の用事”っていうのは」
「母さんのところ行く前に、
家に寄って洗濯物とか着替えとか持っていくんだよ」
新城さんは、空を見上げたまま続ける。
「説明しようかなと思ったこともあったんだけど、
酔ってる場で“母が寝たきりで”とか言うと、
空気固まるだろ」
「……たしかに」
「別に隠してるわけじゃないけど、
あの場で話すと、“かわいそうな人”枠になりそうでさ」
その言葉に、妙な説得力があった。
「昔、別の職場で似たようなことあってさ。
親が入院してるって言ったら、
“大変ですね、無理しないでください”って言われたあと、
変に腫れ物扱いされたことがあって」
「そうなんですか」
「仕事のミスも、“お母さんのことで気が散ってるんでしょ”って。
そうじゃなくて、普通に俺の凡ミスだったのに」
あんたの心がわかったらどんだけ楽か――
今、その一部を聞かせてもらっている。
「だから、必要以上に説明しないようにしてた。
“家の用事”って言っておけば、
それ以上踏み込んでこないかなって」
「たしかに、“便利な言い訳”だって言ってました、みんな」
「便利だからな」
新城さんは、自嘲気味に笑った。
◇
「でもさ」
私は、ベンチの木目を指でなぞりながら言った。
「説明してもらえなかった側は、
ちょっとモヤモヤしてました」
「だろうな」
「“俺たちとはそこまで深く付き合う気ないんだろうな”とか。
“プライベート、全然見せてくれないな”とか」
「うん」
「みんなで冗談言ってても、
時間になったらスッと帰っちゃうから」
「そういうふうに見えるよな」
新城さんは、素直に肯定した。
「あのさ」
「はい」
「佐伯は、どうして病院まで追いかけてきたんだ?」
「追いかけた、って言うと聞こえ悪いですね」
「事実だろ」
「……気になったからです」
正直に答える。
「“家の用事”って言うたびに、
なんか寂しそうな顔してたから」
「寂しそう?」
「はい。
飲み会でみんなが“二次会行こうぜー”って盛り上がってるとき、
新城さんだけ、ちょっと違うところ見てる感じだったから」
その瞬間、
飲み会のたびに一瞬だけ見えた、“遠くを見る目”と、
病院の自動ドアの上にあった「21:00まで」の表示が、
ぴたりと重なった。
意味がわかると、すっきりする。
同時に、胸の奥が少し締め付けられる。
◇
「……悪かったな」
「え?」
「勝手に線引きしてた」
新城さんは、小さく笑った。
「“ここから先は仕事仲間には見せない”って。
別に信用してないわけじゃないのにな」
「私の方こそ、勝手に拗ねてました」
「拗ねてた?」
「“距離取られてるなー”って。
“あんまり好きじゃないのかな、この部署のこと”って」
「それはない」
即答だった。
「この部署は、結構好きだよ。
だから余計、“家の事情”で早退してること、
あんまり重く知られたくなかったのかもしれない」
「重く、ですか」
「“大変ですね”って言われると、それだけで疲れるからさ」
その気持ちも、なんとなくわかる。
◇
「じゃあさ」
私は、少しだけ冗談っぽく言った。
「今度から、“家の用事”じゃなくて、
“面会時間との戦い”って言いません?」
「長いな」
「“家の用事”よりは、ちょっと本当っぽい」
「たしかに」
二人で笑う。
「じゃあ、“母のところ寄ってくる”くらいは、
言うようにしてみるか」
「その方が、こっちも“いってらっしゃい”って言いやすいです」
「そうか」
「はい。
“また途中で帰るんですか”じゃなくて、
“今日はお母さんのとこなんですね”って」
「……それ、ちょっとだけ救われるかもな」
新城さんは、少し照れくさそうに目をそらした。
◇
その後も、新城さんは相変わらず、
飲み会の途中で帰る。
ただ、席を立つ前に、
必ずこう言うようになった。
「悪い、今日は母のところ寄ってくる」
そのたびに、誰かが「いってらっしゃい」と声をかける。
田島も、「今度お見舞い行きましょうか?」なんて言って、
新城さんに「それはまだいい」と笑われていた。
“家の用事”という曖昧な壁の向こうに、
少しだけ光が差し込んだような気がした。
◇
あんたの心がわかったらどんだけ楽か――
ずっとそう思っていたけれど。
“いつも途中で帰る先輩”の正体は、
「面会時間と仕事と、ささやかな自分の生活を、
ぎりぎりのところで同時に支えようとしている人」だった。
全部を理解することは、多分できない。
でも、「なんでその時間になると急に帰るのか」を知っただけで、
飲み会の光景は、少しだけ違って見える。
次の飲み会でもきっと、
時計の針が二十時五十分を指すころ――
「じゃ、俺このへんで。母さんとこ寄ってくるわ」
そう言って立ち上がる背中に、
私はきっと、迷わずこう声をかけるだろう。
「いってらっしゃい。
また続きは、月曜の昼休みにでも聞かせてください」
“あんたの心”の一部を知ったことで、
月曜日の雑談まで、少し楽しみになった自分に気づきながら。




