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第18話「いつも途中で帰る先輩」



 会社の飲み会で、うちの部署の先輩・新城さんは、必ず途中で帰る。


 二次会どころか、一次会もだいたい二時間のコース。

 ラストオーダーの声がかかる前に、

 「じゃ、俺このへんで」と立ち上がる。


 時間は、だいたい二十時五十分から二十一時のあいだ。

 時計を見なくても、きっちりその頃になると、

 新城さんの「帰りますスイッチ」が入る。


「もう帰るんですか? 明日休みですよ」


 誰かが引き止めても、


「悪いな。家の用事あって」


 と、いつものセリフ。

 「家の用事」が何なのか、誰も知らない。



 ある金曜日。

 珍しく課長も参加した部署飲み会で、

 いつものように新城さんが席を立った。


「俺、そろそろ帰るわ」


「えー、またですか。もうちょっといいじゃないですか」


 同期の田島が、露骨に残念そうな声を出す。


「明日土曜ですよ? カラオケ行きましょうよ。

 新城さん、歌うまいって有名なんすから」


「昔の話だよ」


 そう笑いながらも、新城さんはコートを手に取る。


「お先です」


「“家の用事”っすか?」


 田島が、半分冗談でそう言った。


「おう。大事なやつ」


 新城さんは、それだけ言って店を出ていった。


「いいなぁ、“家の用事”って便利な言い訳」


 田島が、残ったビールを飲み干して笑う。


「嫁さんに尻に敷かれてるんじゃないですか?」


「でも結婚指輪してなくない?」


「彼女かなぁ。

 “門限付き彼女”とか、逆に萌えますけど」


 テーブルは、軽い好奇心と笑いに包まれた。


 私は笑いながらも、少しだけモヤモヤしていた。


(あんたの心がわかったらどんだけ楽か)


 普段の仕事ぶりは頼りになる。

 締め切り前には残業もするし、

 誰かが困っていたらさりげなくフォローに入ってくれる。


 だけど、飲み会になると、

 きっちり一定のラインで距離を取っていく。


(なんか、信用されてない感じするな)


 そんなふうに、勝手に拗ねていた。



 別の日。

 チームで大きな案件を乗り切った打ち上げの帰り道、

 私は終電がなくなりかけていた。


「やば、あと五分で最終」


 駅までの道を急ぎながら、スマホで時刻表を確認する。


「佐伯(私)、こっち乗るの?」


 後ろから声がして振り向くと、

 そこには新城さんがいた。


「え、新城さん、さっき帰ったんじゃ」


「タクシー捕まらなかった」


 そう言って笑うけど、

 服装はさっき飲み会で見たまま。

 店を出てから、あまり時間は経っていない。


「駅、こっちだよな。一緒に行くか」


「はい」


 夜の風は冷たくて、酔いが少し醒めてきた。


「新城さんって、いつも飲み会途中で帰りますよね」


 つい、前から気になっていたことを口にしてしまう。


「ん?」


「みんなで話してたんですよ。“家の用事”って何なんだろうって」


「ああ」


 信号待ちで立ち止まりながら、新城さんが苦笑した。


「気になるか」


「ちょっと」


「言い訳っぽいですし」


「正直だな」


 二人で少し笑った。


 青信号になって、歩き出す。


「……内緒にするほどのことでもないんだけどな」


 新城さんがぽつりと言った。


「ただ、あんまり飲み会の場で長々話す話でもないというか」


「そうなんですか?」


「うん。

 “空気重くなる系”のやつ」


 そこで会話はいったん途切れた。


 電光掲示板には、「最終電車まであと3分」の表示。

 私は内心焦りながらも、耳だけは新城さんの方に向いていた。



 翌週。

 私は、たまたま新城さんと同じタイミングで会社を出た。


「おつかれさまです」


「おう、おつかれ。今日はまっすぐ帰る?」


「コンビニ寄って帰ります」


「そうか」


 エレベーターを降りてビルを出ようとしたとき、

 新城さんのスマホが震えた。


 彼は、画面を見て一瞬だけ表情を緩める。


「悪い、ちょっと先行くな」


 そう言って、足早に駅とは反対方向へ歩いていった。


(……家、あっちじゃないはずだけど)


 社員の住所は、だいたい把握している。

 新城さんの最寄り駅は、私と同じ路線の隣駅だ。


(家の用事、って家じゃないところで用事してるってこと?)


 小さな違和感が、胸の中に残った。



 数日後の金曜日。

 私は、友だちと行く予定だったライブに向かっていた。


 が、駅のホームで友だちからメッセージが届く。


『ごめん、体調やばくて今日は無理そう……』


 チケットは二枚。

 当日キャンセルなんてもちろんできない。


(どうしよう……)


 ひとりで行くか、諦めるか。

 迷いながら改札を出たところで、見覚えのある後ろ姿を見つけた。


(……新城さん?)


 会社帰りらしきスーツ姿。

 いつもと違う駅。

 新城さんは、まっすぐ駅ビルのエレベーターに乗っていった。


 私は、反射的に少し距離を置いて後を追った。


(ストーカーじゃないよね、これ)


 自分で自分にツッコミを入れながらも、

 「家の用事」の正体が気になって仕方ない。


 エレベーターを降りた先には、小さな総合病院の入り口があった。


 自動ドアの上には、「面会時間 21:00まで」の文字。


 時計を見る。

 時刻は、二十時二十八分。


(……あ)


 飲み会で“帰るスイッチ”が入っていた時間が、

 頭の中でぴたりと重なった。


 私は、病院の前で立ち止まり、

 ガラス越しに中の様子をうかがった。


 受付の前を通り過ぎ、

 エレベーターに乗っていく新城さん。


(病院……)


 喉の奥が少しだけ冷たくなった。



 その週末。

 部署で提出する資料の件で、新城さんに電話をかけた。


「もしもし、佐伯です。明日の会議の資料のことで――」


 用件を伝え終わったあと、

 私は少しだけ迷ってから、言葉を足した。


「あの、先輩」


「ん?」


「この前、駅の近くの病院にいましたよね」


 一瞬の沈黙。

 電話越しでも、空気が変わったのがわかった。


「……見られてたか」


「すみません。たまたま同じ駅にいて、たまたま見かけて」


「いや、責めてるわけじゃないよ」


 新城さんは小さく息を吐いた。


「どこまで見た?」


「入り口まで。中には入ってません」


「そっか」


 少しの間。

 聞くべきか、聞かないべきか。

 私は迷った末、正面から言うことにした。


「“家の用事”って、病院のことですか?」


 しばらく沈黙が続いたあと、

 新城さんは、静かに言った。


「……ああ。

 母親が、入院しててな」



「父親、もういなくてさ」


 翌週、会社の屋上で昼休みに、

 あらためて話を聞くことになった。


 冬の風が冷たくて、

 コートの襟を立てながらベンチに座る。


「母さん、一年前に倒れて、そのまま半分寝たきり。

 病院と施設を行ったり来たりしてる」


「そうだったんですね……」


「面会時間、平日は夜九時までだから、

 週末以外はどうにかしてその時間までに一回顔出したくてさ」


 飲み会でいつも時間を気にしていた理由が、

 頭の中で一気につながっていく。


「“家の用事”っていうのは」


「母さんのところ行く前に、

 家に寄って洗濯物とか着替えとか持っていくんだよ」


 新城さんは、空を見上げたまま続ける。


「説明しようかなと思ったこともあったんだけど、

 酔ってる場で“母が寝たきりで”とか言うと、

 空気固まるだろ」


「……たしかに」


「別に隠してるわけじゃないけど、

 あの場で話すと、“かわいそうな人”枠になりそうでさ」


 その言葉に、妙な説得力があった。


「昔、別の職場で似たようなことあってさ。

 親が入院してるって言ったら、

 “大変ですね、無理しないでください”って言われたあと、

 変に腫れ物扱いされたことがあって」


「そうなんですか」


「仕事のミスも、“お母さんのことで気が散ってるんでしょ”って。

 そうじゃなくて、普通に俺の凡ミスだったのに」


 あんたの心がわかったらどんだけ楽か――

 今、その一部を聞かせてもらっている。


「だから、必要以上に説明しないようにしてた。

 “家の用事”って言っておけば、

 それ以上踏み込んでこないかなって」


「たしかに、“便利な言い訳”だって言ってました、みんな」


「便利だからな」


 新城さんは、自嘲気味に笑った。



「でもさ」


 私は、ベンチの木目を指でなぞりながら言った。


「説明してもらえなかった側は、

 ちょっとモヤモヤしてました」


「だろうな」


「“俺たちとはそこまで深く付き合う気ないんだろうな”とか。

 “プライベート、全然見せてくれないな”とか」


「うん」


「みんなで冗談言ってても、

 時間になったらスッと帰っちゃうから」


「そういうふうに見えるよな」


 新城さんは、素直に肯定した。


「あのさ」


「はい」


「佐伯は、どうして病院まで追いかけてきたんだ?」


「追いかけた、って言うと聞こえ悪いですね」


「事実だろ」


「……気になったからです」


 正直に答える。


「“家の用事”って言うたびに、

 なんか寂しそうな顔してたから」


「寂しそう?」


「はい。

 飲み会でみんなが“二次会行こうぜー”って盛り上がってるとき、

 新城さんだけ、ちょっと違うところ見てる感じだったから」


 その瞬間、

 飲み会のたびに一瞬だけ見えた、“遠くを見る目”と、

 病院の自動ドアの上にあった「21:00まで」の表示が、

 ぴたりと重なった。


 意味がわかると、すっきりする。

 同時に、胸の奥が少し締め付けられる。



「……悪かったな」


「え?」


「勝手に線引きしてた」


 新城さんは、小さく笑った。


「“ここから先は仕事仲間には見せない”って。

 別に信用してないわけじゃないのにな」


「私の方こそ、勝手に拗ねてました」


「拗ねてた?」


「“距離取られてるなー”って。

 “あんまり好きじゃないのかな、この部署のこと”って」


「それはない」


 即答だった。


「この部署は、結構好きだよ。

 だから余計、“家の事情”で早退してること、

 あんまり重く知られたくなかったのかもしれない」


「重く、ですか」


「“大変ですね”って言われると、それだけで疲れるからさ」


 その気持ちも、なんとなくわかる。



「じゃあさ」


 私は、少しだけ冗談っぽく言った。


「今度から、“家の用事”じゃなくて、

 “面会時間との戦い”って言いません?」


「長いな」


「“家の用事”よりは、ちょっと本当っぽい」


「たしかに」


 二人で笑う。


「じゃあ、“母のところ寄ってくる”くらいは、

 言うようにしてみるか」


「その方が、こっちも“いってらっしゃい”って言いやすいです」


「そうか」


「はい。

 “また途中で帰るんですか”じゃなくて、

 “今日はお母さんのとこなんですね”って」


「……それ、ちょっとだけ救われるかもな」


 新城さんは、少し照れくさそうに目をそらした。



 その後も、新城さんは相変わらず、

 飲み会の途中で帰る。


 ただ、席を立つ前に、

 必ずこう言うようになった。


「悪い、今日は母のところ寄ってくる」


 そのたびに、誰かが「いってらっしゃい」と声をかける。


 田島も、「今度お見舞い行きましょうか?」なんて言って、

 新城さんに「それはまだいい」と笑われていた。


 “家の用事”という曖昧な壁の向こうに、

 少しだけ光が差し込んだような気がした。



 あんたの心がわかったらどんだけ楽か――

 ずっとそう思っていたけれど。


 “いつも途中で帰る先輩”の正体は、

 「面会時間と仕事と、ささやかな自分の生活を、

  ぎりぎりのところで同時に支えようとしている人」だった。


 全部を理解することは、多分できない。

 でも、「なんでその時間になると急に帰るのか」を知っただけで、

 飲み会の光景は、少しだけ違って見える。


 次の飲み会でもきっと、

 時計の針が二十時五十分を指すころ――


「じゃ、俺このへんで。母さんとこ寄ってくるわ」


 そう言って立ち上がる背中に、

 私はきっと、迷わずこう声をかけるだろう。


「いってらっしゃい。

 また続きは、月曜の昼休みにでも聞かせてください」


 “あんたの心”の一部を知ったことで、

 月曜日の雑談まで、少し楽しみになった自分に気づきながら。

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