第17話「なんでも『大丈夫』と言う友だち」
友だちの千紗は、なんでも「大丈夫」と言う。
「最近どう? 仕事きつそうだけど」
「大丈夫大丈夫、なんとかやってる」
「その咳、ずっと出てない?」
「大丈夫、ただの乾燥」
「彼氏と最近どうなん?」
「大丈夫だよ、いろいろあるけどさ」
顔色が悪くても、大丈夫。
声がかすれていても、大丈夫。
目が泣き腫らしていても、やっぱり大丈夫。
(どこが?)
心の中でツッコミを入れても、
口から出るのは結局「そっか」になってしまう。
(あんたの心がわかったらどんだけ楽か)
そう思いながらも、「大丈夫」の壁は分厚くて、
なかなかその向こう側にたどりつけなかった。
◇
ある金曜日。
仕事終わりに駅で待ち合わせをして、居酒屋に入った。
「かんぱーい」
ビールのグラスを合わせながら、私は千紗の顔色を観察する。
化粧で隠しているけれど、目の下のクマはくっきりしている。
グラスを持つ手も、少し震えている気がした。
「最近どう? 例のプロジェクト、落ち着いた?」
「うーん、まあ、大丈夫、大丈夫」
(出た)
「残業、減った?」
「んー……まぁ、先週は毎日終電だったけど」
「それ、大丈夫って言わないやつじゃない?」
「大丈夫だって。なんとかなるよ」
笑っているけれど、声が少し掠れていた。
「何時間寝てるの?」
「うーん……三時間……四時間? いや、二時間の日もあるわ」
「全然大丈夫じゃないじゃん」
「でもさ、終わらせなきゃいけないし」
そう言いながら、千紗はポテトをつまむ。
大丈夫じゃなさそうな話をしながら、
「大丈夫」を連打するその感じが、どうにも落ち着かなかった。
◇
それから数日後。
私は会社のビルの前で、偶然千紗を見かけた。
道の端にしゃがみ込んで、スマホを握りしめたまま、
深呼吸を繰り返している。
「千紗?」
近づいて声をかけると、
彼女はびくっと肩を震わせて、無理やり笑顔を作った。
「あ、真奈。なんでここに」
「たまたま取引先来てて。……大丈夫?」
「大丈夫大丈夫。ただ、ちょっと貧血っぽくなっちゃって」
顔は真っ白だし、額には汗。
どの口が大丈夫と言っているのか。
「とりあえず、脇のベンチ座ろう」
「いや、ほんと大丈夫。戻らなきゃ」
「戻れそうに見えないけど」
半分強引に腕を取って、近くのベンチに座らせた。
しばらく水を飲ませていると、呼吸は少しずつ落ち着いてくる。
「ごめんね、びっくりさせて」
「びっくりするわ。
倒れる前に誰かに言いなよ」
「言えたら言ってるって」
ぽろっと本音がこぼれた。
◇
その日の夜。
さすがに心配になって、千紗の家に様子を見に行った。
「片づいてないからやだなぁ」
と言いながら玄関を開けた部屋は、本当に片づいていなかった。
洗濯物の山、テーブルの上のコンビニご飯のゴミ、
床には書類が散らばっている。
「……戦場?」
「戦場って言うな。仕事と睡眠に全振りすると、こうなる」
「睡眠に全振りしてこれ?」
「睡眠“したい気持ち”に全振り」
意味不明なことを言いながら、千紗はペットボトルのお茶を出してきた。
「今日、病院は?」
「行ってない。“休めるときに休んでください”って言われるだけだし」
「実際休んでないじゃん」
「休めるときがないんだもん」
ソファに座り込む千紗の横に、私も腰を下ろす。
テレビは消えていて、部屋に聞こえるのは冷蔵庫の低い音だけだった。
「ねぇ」
私は、画面の消えたテレビを見ながら言った。
「なんでそんなに“大丈夫”って言うの」
「え」
「今日みたいなときでも、“大丈夫”って。
大丈夫じゃないって、言ってもよくない?」
千紗は、しばらく黙っていた。
リビングの時計の針の音が、やけに大きく聞こえる。
「……言ったこと、あるよ」
「誰に?」
「前の会社の上司に」
少し笑いながら言ったその声は、どこか乾いていた。
◇
「新卒で入った会社でさ」
千紗は、天井を見上げたまま話し始めた。
「最初の部署、めちゃくちゃ忙しくて。
終電は普通、タクシー帰りもザラ。
“若いうちは根性だ”みたいなノリのところ」
その光景は、私にも容易に想像できた。
「あるとき、どうしても朝起きられなくなって」
「うん」
「布団の中で、“今日行ったらほんとにヤバい”って思って。
頑張って上司に電話して、“すみません、体調が悪くて…”って言ったの」
「ちゃんと言ったんだ」
「そしたら、“体調管理も仕事のうちだから”。
“代わりはいないんだから、出てこい”って」
「……うわ」
「“無理です”って言ったら、“無理っていうのは甘えだろ”って。
“本当に無理なら救急車呼んでから言え”って」
「それで?」
「泣きながら行ったよ。
で、会社着いたら、“来れたじゃん”って言われた」
あんたの心がわかったらどんだけ楽か――
その上司にも言ってやりたい。
「それから、“大丈夫じゃない”って言うの、すごく怖くなった」
「……」
「“大丈夫じゃない”って言っても、“来い”って言われたら、
結局行くしかないし。
逆に、“大丈夫じゃない自分”の評価だけ下がる気がして」
「じゃあ、“大丈夫”って言ってるときの方が、まだマシってこと?」
「うん。
“大丈夫です”って言えば、余計な説教は飛んでこないし、
“頑張ってるね”って言われることもあるし」
「でも今日みたいに倒れかけるじゃん」
「倒れかけるまでは、“頑張ってるいい子”でいられるからね」
自嘲気味な笑い方に、胸がきゅっとなった。
◇
「でもさ」
私は、少し間を置いてから言った。
「私たちの関係でまで、それやる?」
「え?」
「上司とか会社には、“大丈夫ですモード”でいてもいいけどさ。
私の前くらい、“大丈夫じゃない”って言ってもよくない?」
千紗は、こちらを見た。
驚いたような、困ったような顔。
「言ったら、どうなると思う?」
「え?」
「“大丈夫じゃない”って言ったらさ。
真奈、絶対いろいろしてくれるじゃん」
「……まぁ、放っときはしないね」
「それが、申し訳ないんだよ」
そこか、と心の中で手を打ちたくなった。
「自分の“大丈夫じゃなさ”を見せるとさ。
誰かの時間と労力を奪うじゃん。
心配させるし、負担かけるし」
「それは……まぁ、ゼロではないと思うけど」
「だから、“大丈夫”って言っといた方が、
みんな安心するかなって」
その理屈は、わからなくもない。
でも、どこかが決定的にずれている気がした。
◇
「いやさ」
私は、姿勢を少し起こして千紗を見る。
「“大丈夫”って言われる方も、そんな安心してないよ」
「え?」
「だって、“大丈夫じゃないっぽいのに大丈夫って言ってる人”を見るの、
結構しんどい」
「……そうなの?」
「うん。
“倒れるまで頑張る気なんだろうな”って思うと、見てる方が怖い」
千紗は、ぽかんとしていた。
「“迷惑かけたくない”って言うけどさ。
倒れられるほうがよっぽど迷惑かかるよ」
「耳が痛い」
「今日みたいに、駅前でしゃがみ込んでるの見たとき、
普通に焦ったし」
「それは……ごめん」
「謝れって言ってるわけじゃないんだけど」
「いや、謝るよ」
しゅんとしながらも、少し笑う。
◇
「じゃあさ」
私は、テーブルの上のティッシュ箱を指でつつきながら提案した。
「“大丈夫/大丈夫じゃない”の二択やめない?」
「二択やめる?」
「うん。“大丈夫じゃない”って言うのが怖いなら、
その間を作ればいいじゃん」
「間?」
「“ギリ大丈夫”とか、“ちょっとやばい”とか」
冗談っぽく言うと、千紗が吹き出した。
「なにそれ」
「いや、真面目な話。
いきなり“もう無理です”って言われると、こっちもパニックになるけど」
「それはそう」
「“今、しんどさレベルが10段階中7です”みたいに教えてくれたら、
“じゃあ3くらいまで落とすには何手伝えばいい?”って考えられる」
「ゲームみたいだな」
「うん。
“大丈夫じゃない”を一発で言うのが怖いなら、
せめて“残HP”くらいは共有してよ」
千紗は、しばらく黙ってから、ぽつりと言った。
「……それなら、言えるかも」
「でしょ」
「“大丈夫です”じゃなくて、
“正直しんどさレベル7です”って」
「そうそう」
「会社では言えないけどね」
「それはまあ、様子見つつ」
二人で笑った。
◇
「あとさ」
私は、もう一つ言葉を足した。
「“大丈夫じゃないって言ったら迷惑かける”って思ってるかもしれないけど」
「うん」
「“助けたいのに何もさせてもらえない”側のしんどさもあるよ」
「……」
「私、千紗のこと好きだからさ。
放っときたくて放っといてるわけじゃないし」
「ずるい言い方するね」
「自覚ある」
そう言うと、千紗は目を潤ませながら笑った。
「じゃあ、今のしんどさレベル、言ってみて」
「今?」
「うん、今」
「えっと……」
千紗は少し考えてから、指で三本立てた。
「三くらい」
「思ったより低い」
「真奈がここにいるから。
さっきまで五くらいだったけど、二減った」
「お、それはよかった」
「……こういうの、言ってもいいんだね」
「むしろ、そういうののほうが聞きたい」
千紗は、目をこすりながら小さく笑った。
「じゃあ、今度から“なんでも大丈夫”は、
真奈相手には封印する」
「完全封印?」
「いや、それは怖いから……
“とりあえず大丈夫だけど、レベルは○○”って言う」
「妥協案きた」
二人でまた、笑った。
◇
それから少しずつ、千紗の「大丈夫」は、形を変えていった。
『今日、しんどさレベル5』
『さすがに今日は7だから、電話だけさせて』
『今は2。昨日寝たから回復した』
そんなメッセージが、たまに届くようになった。
『こっちは今3。仕事でちょっとやられた』
『じゃあ、お互い2くらいになるように、電話しますか』
そんなふうに、
“お互いの残HPを減らし合わない会話”を、少しずつ覚えていった。
◇
あんたの心がわかったらどんだけ楽か――
そう思っていたけれど。
“なんでも大丈夫と言う友だち”の正体は、
「大丈夫じゃない」と言っても受け止めてもらえなかった昔の記憶に、
いまだに縛られている人だった。
全部をわかることは、多分できない。
でも、「なんでそんなに“大丈夫”にしがみつくのか」を少しだけ知ったことで。
私は彼女に、こう言えるようになった。
「“大丈夫じゃない”って言えるのも、ちゃんと大丈夫だから」
そして、自分のしんどさレベルも、
少しずつ素直に伝えられるようになっていった。
“あんたの心”だけじゃなく、
“自分の心”も、ゆっくりと声をもらい始めている気がする。




