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第17話「なんでも『大丈夫』と言う友だち」



 友だちの千紗は、なんでも「大丈夫」と言う。


「最近どう? 仕事きつそうだけど」

「大丈夫大丈夫、なんとかやってる」


「その咳、ずっと出てない?」

「大丈夫、ただの乾燥」


「彼氏と最近どうなん?」

「大丈夫だよ、いろいろあるけどさ」


 顔色が悪くても、大丈夫。

 声がかすれていても、大丈夫。

 目が泣き腫らしていても、やっぱり大丈夫。


(どこが?)


 心の中でツッコミを入れても、

 口から出るのは結局「そっか」になってしまう。


(あんたの心がわかったらどんだけ楽か)


 そう思いながらも、「大丈夫」の壁は分厚くて、

 なかなかその向こう側にたどりつけなかった。



 ある金曜日。

 仕事終わりに駅で待ち合わせをして、居酒屋に入った。


「かんぱーい」


 ビールのグラスを合わせながら、私は千紗の顔色を観察する。


 化粧で隠しているけれど、目の下のクマはくっきりしている。

 グラスを持つ手も、少し震えている気がした。


「最近どう? 例のプロジェクト、落ち着いた?」


「うーん、まあ、大丈夫、大丈夫」


(出た)


「残業、減った?」


「んー……まぁ、先週は毎日終電だったけど」


「それ、大丈夫って言わないやつじゃない?」


「大丈夫だって。なんとかなるよ」


 笑っているけれど、声が少し掠れていた。


「何時間寝てるの?」


「うーん……三時間……四時間? いや、二時間の日もあるわ」


「全然大丈夫じゃないじゃん」


「でもさ、終わらせなきゃいけないし」


 そう言いながら、千紗はポテトをつまむ。


 大丈夫じゃなさそうな話をしながら、

 「大丈夫」を連打するその感じが、どうにも落ち着かなかった。



 それから数日後。

 私は会社のビルの前で、偶然千紗を見かけた。


 道の端にしゃがみ込んで、スマホを握りしめたまま、

 深呼吸を繰り返している。


「千紗?」


 近づいて声をかけると、

 彼女はびくっと肩を震わせて、無理やり笑顔を作った。


「あ、真奈。なんでここに」


「たまたま取引先来てて。……大丈夫?」


「大丈夫大丈夫。ただ、ちょっと貧血っぽくなっちゃって」


 顔は真っ白だし、額には汗。

 どの口が大丈夫と言っているのか。


「とりあえず、脇のベンチ座ろう」


「いや、ほんと大丈夫。戻らなきゃ」


「戻れそうに見えないけど」


 半分強引に腕を取って、近くのベンチに座らせた。


 しばらく水を飲ませていると、呼吸は少しずつ落ち着いてくる。


「ごめんね、びっくりさせて」


「びっくりするわ。

 倒れる前に誰かに言いなよ」


「言えたら言ってるって」


 ぽろっと本音がこぼれた。



 その日の夜。

 さすがに心配になって、千紗の家に様子を見に行った。


「片づいてないからやだなぁ」


 と言いながら玄関を開けた部屋は、本当に片づいていなかった。

 洗濯物の山、テーブルの上のコンビニご飯のゴミ、

 床には書類が散らばっている。


「……戦場?」


「戦場って言うな。仕事と睡眠に全振りすると、こうなる」


「睡眠に全振りしてこれ?」


「睡眠“したい気持ち”に全振り」


 意味不明なことを言いながら、千紗はペットボトルのお茶を出してきた。


「今日、病院は?」


「行ってない。“休めるときに休んでください”って言われるだけだし」


「実際休んでないじゃん」


「休めるときがないんだもん」


 ソファに座り込む千紗の横に、私も腰を下ろす。


 テレビは消えていて、部屋に聞こえるのは冷蔵庫の低い音だけだった。


「ねぇ」


 私は、画面の消えたテレビを見ながら言った。


「なんでそんなに“大丈夫”って言うの」


「え」


「今日みたいなときでも、“大丈夫”って。

 大丈夫じゃないって、言ってもよくない?」


 千紗は、しばらく黙っていた。


 リビングの時計の針の音が、やけに大きく聞こえる。


「……言ったこと、あるよ」


「誰に?」


「前の会社の上司に」


 少し笑いながら言ったその声は、どこか乾いていた。



「新卒で入った会社でさ」


 千紗は、天井を見上げたまま話し始めた。


「最初の部署、めちゃくちゃ忙しくて。

 終電は普通、タクシー帰りもザラ。

 “若いうちは根性だ”みたいなノリのところ」


 その光景は、私にも容易に想像できた。


「あるとき、どうしても朝起きられなくなって」


「うん」


「布団の中で、“今日行ったらほんとにヤバい”って思って。

 頑張って上司に電話して、“すみません、体調が悪くて…”って言ったの」


「ちゃんと言ったんだ」


「そしたら、“体調管理も仕事のうちだから”。

 “代わりはいないんだから、出てこい”って」


「……うわ」


「“無理です”って言ったら、“無理っていうのは甘えだろ”って。

 “本当に無理なら救急車呼んでから言え”って」


「それで?」


「泣きながら行ったよ。

 で、会社着いたら、“来れたじゃん”って言われた」


 あんたの心がわかったらどんだけ楽か――

 その上司にも言ってやりたい。


「それから、“大丈夫じゃない”って言うの、すごく怖くなった」


「……」


「“大丈夫じゃない”って言っても、“来い”って言われたら、

 結局行くしかないし。

 逆に、“大丈夫じゃない自分”の評価だけ下がる気がして」


「じゃあ、“大丈夫”って言ってるときの方が、まだマシってこと?」


「うん。

 “大丈夫です”って言えば、余計な説教は飛んでこないし、

 “頑張ってるね”って言われることもあるし」


「でも今日みたいに倒れかけるじゃん」


「倒れかけるまでは、“頑張ってるいい子”でいられるからね」


 自嘲気味な笑い方に、胸がきゅっとなった。



「でもさ」


 私は、少し間を置いてから言った。


「私たちの関係でまで、それやる?」


「え?」


「上司とか会社には、“大丈夫ですモード”でいてもいいけどさ。

 私の前くらい、“大丈夫じゃない”って言ってもよくない?」


 千紗は、こちらを見た。

 驚いたような、困ったような顔。


「言ったら、どうなると思う?」


「え?」


「“大丈夫じゃない”って言ったらさ。

 真奈、絶対いろいろしてくれるじゃん」


「……まぁ、放っときはしないね」


「それが、申し訳ないんだよ」


 そこか、と心の中で手を打ちたくなった。


「自分の“大丈夫じゃなさ”を見せるとさ。

 誰かの時間と労力を奪うじゃん。

 心配させるし、負担かけるし」


「それは……まぁ、ゼロではないと思うけど」


「だから、“大丈夫”って言っといた方が、

 みんな安心するかなって」


 その理屈は、わからなくもない。

 でも、どこかが決定的にずれている気がした。



「いやさ」


 私は、姿勢を少し起こして千紗を見る。


「“大丈夫”って言われる方も、そんな安心してないよ」


「え?」


「だって、“大丈夫じゃないっぽいのに大丈夫って言ってる人”を見るの、

 結構しんどい」


「……そうなの?」


「うん。

 “倒れるまで頑張る気なんだろうな”って思うと、見てる方が怖い」


 千紗は、ぽかんとしていた。


「“迷惑かけたくない”って言うけどさ。

 倒れられるほうがよっぽど迷惑かかるよ」


「耳が痛い」


「今日みたいに、駅前でしゃがみ込んでるの見たとき、

 普通に焦ったし」


「それは……ごめん」


「謝れって言ってるわけじゃないんだけど」


「いや、謝るよ」


 しゅんとしながらも、少し笑う。



「じゃあさ」


 私は、テーブルの上のティッシュ箱を指でつつきながら提案した。


「“大丈夫/大丈夫じゃない”の二択やめない?」


「二択やめる?」


「うん。“大丈夫じゃない”って言うのが怖いなら、

 その間を作ればいいじゃん」


「間?」


「“ギリ大丈夫”とか、“ちょっとやばい”とか」


 冗談っぽく言うと、千紗が吹き出した。


「なにそれ」


「いや、真面目な話。

 いきなり“もう無理です”って言われると、こっちもパニックになるけど」


「それはそう」


「“今、しんどさレベルが10段階中7です”みたいに教えてくれたら、

 “じゃあ3くらいまで落とすには何手伝えばいい?”って考えられる」


「ゲームみたいだな」


「うん。

 “大丈夫じゃない”を一発で言うのが怖いなら、

 せめて“残HP”くらいは共有してよ」


 千紗は、しばらく黙ってから、ぽつりと言った。


「……それなら、言えるかも」


「でしょ」


「“大丈夫です”じゃなくて、

 “正直しんどさレベル7です”って」


「そうそう」


「会社では言えないけどね」


「それはまあ、様子見つつ」


 二人で笑った。



「あとさ」


 私は、もう一つ言葉を足した。


「“大丈夫じゃないって言ったら迷惑かける”って思ってるかもしれないけど」


「うん」


「“助けたいのに何もさせてもらえない”側のしんどさもあるよ」


「……」


「私、千紗のこと好きだからさ。

 放っときたくて放っといてるわけじゃないし」


「ずるい言い方するね」


「自覚ある」


 そう言うと、千紗は目を潤ませながら笑った。


「じゃあ、今のしんどさレベル、言ってみて」


「今?」


「うん、今」


「えっと……」


 千紗は少し考えてから、指で三本立てた。


「三くらい」


「思ったより低い」


「真奈がここにいるから。

 さっきまで五くらいだったけど、二減った」


「お、それはよかった」


「……こういうの、言ってもいいんだね」


「むしろ、そういうののほうが聞きたい」


 千紗は、目をこすりながら小さく笑った。


「じゃあ、今度から“なんでも大丈夫”は、

 真奈相手には封印する」


「完全封印?」


「いや、それは怖いから……

 “とりあえず大丈夫だけど、レベルは○○”って言う」


「妥協案きた」


 二人でまた、笑った。



 それから少しずつ、千紗の「大丈夫」は、形を変えていった。


『今日、しんどさレベル5』

『さすがに今日は7だから、電話だけさせて』

『今は2。昨日寝たから回復した』


 そんなメッセージが、たまに届くようになった。


『こっちは今3。仕事でちょっとやられた』

『じゃあ、お互い2くらいになるように、電話しますか』


 そんなふうに、

 “お互いの残HPを減らし合わない会話”を、少しずつ覚えていった。



 あんたの心がわかったらどんだけ楽か――

 そう思っていたけれど。


 “なんでも大丈夫と言う友だち”の正体は、

 「大丈夫じゃない」と言っても受け止めてもらえなかった昔の記憶に、

 いまだに縛られている人だった。


 全部をわかることは、多分できない。

 でも、「なんでそんなに“大丈夫”にしがみつくのか」を少しだけ知ったことで。


 私は彼女に、こう言えるようになった。


「“大丈夫じゃない”って言えるのも、ちゃんと大丈夫だから」


 そして、自分のしんどさレベルも、

 少しずつ素直に伝えられるようになっていった。


 “あんたの心”だけじゃなく、

 “自分の心”も、ゆっくりと声をもらい始めている気がする。

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