第15話「すぐ“別れようか”と言う恋人」
私の彼氏・直人は、ケンカをするとすぐこう言う。
「じゃあ、もう別れようか」
最初に聞いたのは、付き合って三ヶ月目のことだった。
「なんで昨日、LINE返してくれなかったの?」
私がそう聞いただけなのに、
「仕事で疲れてたんだよ。……そんなに怒ってるなら、もう別れようか」
唐突すぎて、なにがなんだかわからなかった。
「え、ちょっと待って。別れたいなんて一言も言ってないじゃん」
「でも、不満なんでしょ?」
「不満くらい言わせてよ」
「じゃあ、どうしたらいいの?」
そこで沈黙して、「別れようか」が宙に浮いたまま、話はうやむやになった。
それから半年。
ケンカのたびに、同じことが繰り返される。
「今度の休み、また仕事? 全然会えないね」
「ごめんって。……無理させてるなら、別れようか」
◇
ある日、私は思わず言ってしまった。
「ねぇ、直人」
「ん?」
「“別れようか”ってさ。
便利な逃げ台詞になってない?」
居酒屋の隅のボックス席。
唐揚げの皿を前に、直人は箸を止めた。
「逃げてるつもりないけど」
「じゃあ、どういうつもりで言ってるの?」
「……だって、嫌なんでしょ?」
「いや、嫌なこと“も”あるけど、全部が嫌なわけじゃないよ」
「でも、不満あるんだよね?」
「人間だからあるよ、不満くらい」
「だったら、いっそ別れた方が楽じゃない?」
あんたの心がわかったらどんだけ楽か。
私はグラスを置いて、まっすぐ彼を見た。
「私、別れたいならちゃんとそう言うよ」
「……」
「なのに、ケンカのたびにそっちから“別れようか”って言われるとさ、
“あぁ、この人は、本当はずっと別れたいんだ”って思っちゃうんだよね」
直人は、視線を落としたまま黙り込んだ。
「トイレ行ってくる」
それだけ言って席を立つ。
鏡の前で顔を洗いながら、自分に呆れた。
(こうやってまた、変な空気にしちゃったな)
◇
その週末。
私は大学時代からの友人・香澄に会った。
「で、“別れようか”彼氏は、その後どうなったの?」
カフェの窓際で、ケーキをつつきながら、香澄が聞いてくる。
「どうもなってない。
あのあと微妙な空気になって、普通に解散した」
「連絡は?」
「“この前はごめん”ってLINE来たけど、いつもの軽い謝罪って感じ」
「“別れようか”は?」
「そのメッセージには入ってなかった」
「進歩……なのかな」
二人で苦笑する。
「ねぇ、それさ」
香澄がストローをいじりながら言った。
「一回、本人じゃなくて“第三者経由”で聞いてみたら?」
「第三者?」
「直人くんの友だちとか。
家族の話、あんまりしないんでしょ?」
「うん。仕事の話とか趣味の話はするけど、家族の話にはあんまり触れたがらない感じ」
「“家族のところに答えがある”ってパターン、結構あるからさ」
「ドラマの見過ぎじゃない?」
「そうかも」
でも、香澄の言葉は、頭のどこかにひっかかったままだった。
◇
数日後。
直人に誘われて、彼の会社の飲み会二次会に顔を出した。
「彼女さん、初めまして。いつも直人がお世話になってます」
そう言って笑ったのは、隣の部署の先輩だという宮村さんだった。
人当たりがよくて、場を和ませるのが上手い人だ。
はじめましての挨拶やらなんやらがひと段落した頃、
直人がトイレに立った。
テーブルには、私と宮村さんだけが残る。
「直人くん、仕事のときは頼りになるんだよ」
宮村さんが、ぽつりと言った。
「そうなんですね」
「納期ギリギリでも粘るし、クライアントとの調整もうまいし。
ただね」
グラスの水滴を指でなぞりながら、苦笑する。
「プライベートは、すぐ“終わらせようとする”クセがあるみたいで」
どきっとした。
「“終わらせようとする”って……」
「なんかあると、“じゃあ俺抜けるよ”とか“もう関わらない方がいいよね”って言うでしょ、あいつ」
「……言います」
というか、“別れようか”の変形だ。
「昔から?」
「昔から」
宮村さんは、どこか遠くを見るような目をした。
「俺、直人とは前の会社からの付き合いでね。
その前、そのまた前の彼女とも、ちょっと知り合いだったんだけど」
「……」
「みんな、同じこと言ってたよ。
“本音で話そうとすると“じゃあ別れようか”って言われる”って」
胸の奥が、ぎゅっと痛くなった。
「それって、なんなんでしょうね」
自分でも驚くくらい、素直に聞いていた。
宮村さんは答える前に、ビールを一口飲んだ。
「俺の推測だけどね」
「はい」
「直人くん、家が結構大変だったみたいなんだよ」
香澄の言葉が、頭の端でチャイムを鳴らす。
「親が、すごいケンカしててね。
中学くらいのときから、ずっと」
「……」
「“やり直そう”“努力しよう”って何回も言い合っては、
結局また同じことでケンカして、
最後は泥沼で別れたらしい」
その光景が、想像できてしまう。
「で、ある日、直人くんが高校生のときに、
お父さんが家を出て行った」
「置いていかれた側、なんですね」
「そう。
それで、“大人はああやって、最後に勝手にいなくなるんだ”って、
かなりこじらせたらしい」
宮村さんは、少しだけ笑った。
「だから、本人いわく、
“期待させたくない”んだってさ」
「期待?」
「“ずっと一緒にいる”とか、“変わるから”とか。
そういう約束。
“どうせ守れないかもしれないなら、
ダメそうになったときに早めに終わらせた方が、
お互い傷が浅い”って」
あんたの心がわかったらどんだけ楽か。
その言葉が、別の形で返ってきた気がした。
「でも、終わらせようとするたびに、
相手の方は、逆に傷ついていってたみたいだけどね」
「……ですよね」
◇
「別に、直人くんの味方ばっかりするつもりはないよ」
宮村さんは、真面目な顔で言った。
「“すぐ別れようかって言うのやめてほしい”ってのは、
ちゃんと伝えていいと思うし。
むしろ伝えなきゃダメだと思う」
「はい」
「ただ、“そういう背景がある”って知ってるか知らないかで、
見え方が変わることもあるからさ」
それだけ言って、
戻ってきた直人に「彼女さん、いい子だね」と笑ってみせた。
◇
帰り道。
駅までの夜道を歩きながら、私は切り出した。
「ねぇ、直人」
「ん?」
「宮村さんから、ちょっと聞いた」
「なにを」
「昔の家のこと、少しだけ」
直人の足が、ほんの少し止まった。
「……どこまで」
「親御さんが、いっぱいケンカしてて。
最後、泥沼で別れたって」
「宮村さん、余計なこと言うなぁ」
直人は、苦笑した。
でも、その顔は少しだけ、疲れて見えた。
「ごめん。あんまり話したくなかった?」
「いや、別に。
隠してるつもりもなかったし」
そう言ったあと、しばらく黙って歩き続けた。
コンビニの前を通り過ぎたあたりで、
ようやく口を開いた。
「……両親、何回も“やり直そう”って言っててさ」
「うん」
「“頑張ろう”“変わろう”“もう二度としない”って。
そのたびに、ちょっとだけ良くなって、
また同じことで爆発して」
夜風が、少し冷たい。
「最後の一年くらいは、“別れる別れる詐欺”みたいになってた。
“もう離婚する”“いや、やっぱりやり直す”の繰り返し」
「それ、しんどそう」
「しんどかったよ。
どっちの味方していいかもわかんなかったし」
直人は、信号待ちで立ち止まり、青になるのを待ちながら続けた。
「だから、“別れよう”って言葉、俺にとっては“楽になろう”なんだと思う」
「楽に……」
「ダメになりかけてるのに、
無理してつなぎとめようとして、
お互いボロボロになるのを、
目の前で散々見てきたからさ」
あんたの心がわかったらどんだけ楽か――
今、その少しだけを覗き込んでいる。
「だから、“不満が出てきた=もうダメになる前兆”みたいに、
どっかで思っちゃってる。
“そうなるくらいなら、早めに終わらせた方がいい”って」
「……それ、さ」
私は、歩き出しながら言った。
「“自分を守るため”でもあるけど、
“相手を信じてない”ってことにも、ならない?」
直人は、少しだけ顔をしかめた。
「きついこと言うな」
「自覚あるよ」
自分でも、ちょっと言い過ぎたと思う。
でも、引き返さないと決めた。
「私さ、不満を言える相手って、“まだ一緒にいたい相手”なんだよね」
「……」
「どうでもいい人には、不満言わない。
フェードアウトして終わり」
「それは、わかるかも」
「だから、“こうしてほしい”って言ってるときに、
“別れようか”って言われると、
“あ、私の“まだ一緒にいたい”は、全然届いてないんだな”って思う」
信号が青から点滅に変わる。
二人で小走りに横断歩道を渡る。
◇
コンビニの前のベンチで、少しだけ座った。
「じゃあ、どうしたらいいんだろうね」
直人がぽつりと言う。
「“別れようか”って言わないで、
“どうしようか”って言ってみるとか」
「どうしようか?」
「うん。“別れるかどうか”じゃなくて。
“今の問題、どうしようか”」
「……」
「“会う回数減らす?”“仕事の話もうちょっと共有する?”
“ケンカになりそうなとき、一回クールダウンする?”みたいな」
「難しくない?」
「“別れようか”よりは、話し合いっぽい」
直人は、頭をかきながら笑った。
「なんか、面倒だな」
「“面倒”って言った?」
「言った」
「正直でよろしい」
私も笑った。
「でもさ」
直人が、夜空を見上げる。
「“別れようか”って言うとき、一番怖いのは、
“本当に別れよう”って言われることなんだよ」
「そうなんだ」
「自分で言っておいて、矛盾してるけど。
“相手の口から聞く前に、自分から言った方が傷が浅い”って思ってた」
「予防線みたいな」
「そう」
あんたの心がわかったらどんだけ楽か。
でも本当は、多分本人だって、自分の心を持て余している。
◇
「じゃあさ」
私は、少しだけ間を置いて言った。
「次に“別れようか”って言ったら、そのときは本当に別れよう」
直人が、はっきりとこちらを見る。
「……え?」
「今までは、“また言ってる”で済ませてきたけど。
これからは、それを“本気のサイン”として受け取る」
「ちょっと待って、それプレッシャー強くない?」
「強いよ。
でも、“軽い脅し文句”のままにしとく方が、私はつらい」
直人は、しばらく黙っていた。
ベンチの下を、小さな猫が通り過ぎていく。
「わかった」
ようやく、彼が口を開いた。
「じゃあ、俺も一個、条件つけていい?」
「なに」
「“別れようか”って言う前に、
絶対、一回“どうしようか”って言う。
それを、待っててほしい」
「……それなら」
私は、小さく笑った。
「待てるかも」
◇
それから数ヶ月。
ケンカがゼロになったわけじゃない。
「なんで昨日、返事くれなかったの?」
「疲れて寝落ちした。ごめん」
「“寝落ちした”って言えば許されると思ってない?」
「思ってる。……どうしようか」
そこで、一拍、二拍。
“別れようか”ではなく、“どうしようか”から始まる会話に、
まだ慣れてはいないけれど、前より少しだけ、足元が安定した気がする。
あんたの心がわかったらどんだけ楽か――
全部を理解することは、きっとできない。
でも、「なんでそういう言葉を選んでしまうのか」を、
少しだけ共有できたことで。
“すぐ別れようかと言う恋人”は、
“誰かに捨てられる前に、自分から離れようとする人”に変わった。
その弱さごと受け止められるかどうかは、
これからの私次第だ。
夜道を並んで歩きながら、
私は心の中で、そっとつぶやく。
(次の“どうしようか”を、ちゃんと一緒に考えられる自分でありますように)
“別れようか”より、
少しだけ面倒で、少しだけ誠実な言葉を、
お互い選べるようになる未来を、
ゆっくり練習していこうと思った。




