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第15話「すぐ“別れようか”と言う恋人」



 私の彼氏・直人は、ケンカをするとすぐこう言う。


「じゃあ、もう別れようか」


 最初に聞いたのは、付き合って三ヶ月目のことだった。


「なんで昨日、LINE返してくれなかったの?」


 私がそう聞いただけなのに、


「仕事で疲れてたんだよ。……そんなに怒ってるなら、もう別れようか」


 唐突すぎて、なにがなんだかわからなかった。


「え、ちょっと待って。別れたいなんて一言も言ってないじゃん」


「でも、不満なんでしょ?」


「不満くらい言わせてよ」


「じゃあ、どうしたらいいの?」


 そこで沈黙して、「別れようか」が宙に浮いたまま、話はうやむやになった。


 それから半年。

 ケンカのたびに、同じことが繰り返される。


「今度の休み、また仕事? 全然会えないね」


「ごめんって。……無理させてるなら、別れようか」



 ある日、私は思わず言ってしまった。


「ねぇ、直人」


「ん?」


「“別れようか”ってさ。

 便利な逃げ台詞になってない?」


 居酒屋の隅のボックス席。

 唐揚げの皿を前に、直人は箸を止めた。


「逃げてるつもりないけど」


「じゃあ、どういうつもりで言ってるの?」


「……だって、嫌なんでしょ?」


「いや、嫌なこと“も”あるけど、全部が嫌なわけじゃないよ」


「でも、不満あるんだよね?」


「人間だからあるよ、不満くらい」


「だったら、いっそ別れた方が楽じゃない?」


 あんたの心がわかったらどんだけ楽か。

 私はグラスを置いて、まっすぐ彼を見た。


「私、別れたいならちゃんとそう言うよ」


「……」


「なのに、ケンカのたびにそっちから“別れようか”って言われるとさ、

 “あぁ、この人は、本当はずっと別れたいんだ”って思っちゃうんだよね」


 直人は、視線を落としたまま黙り込んだ。


「トイレ行ってくる」


 それだけ言って席を立つ。


 鏡の前で顔を洗いながら、自分に呆れた。


(こうやってまた、変な空気にしちゃったな)



 その週末。

 私は大学時代からの友人・香澄に会った。


「で、“別れようか”彼氏は、その後どうなったの?」


 カフェの窓際で、ケーキをつつきながら、香澄が聞いてくる。


「どうもなってない。

 あのあと微妙な空気になって、普通に解散した」


「連絡は?」


「“この前はごめん”ってLINE来たけど、いつもの軽い謝罪って感じ」


「“別れようか”は?」


「そのメッセージには入ってなかった」


「進歩……なのかな」


 二人で苦笑する。


「ねぇ、それさ」


 香澄がストローをいじりながら言った。


「一回、本人じゃなくて“第三者経由”で聞いてみたら?」


「第三者?」


「直人くんの友だちとか。

 家族の話、あんまりしないんでしょ?」


「うん。仕事の話とか趣味の話はするけど、家族の話にはあんまり触れたがらない感じ」


「“家族のところに答えがある”ってパターン、結構あるからさ」


「ドラマの見過ぎじゃない?」


「そうかも」


 でも、香澄の言葉は、頭のどこかにひっかかったままだった。



 数日後。

 直人に誘われて、彼の会社の飲み会二次会に顔を出した。


「彼女さん、初めまして。いつも直人がお世話になってます」


 そう言って笑ったのは、隣の部署の先輩だという宮村さんだった。


 人当たりがよくて、場を和ませるのが上手い人だ。


 はじめましての挨拶やらなんやらがひと段落した頃、

 直人がトイレに立った。


 テーブルには、私と宮村さんだけが残る。


「直人くん、仕事のときは頼りになるんだよ」


 宮村さんが、ぽつりと言った。


「そうなんですね」


「納期ギリギリでも粘るし、クライアントとの調整もうまいし。

 ただね」


 グラスの水滴を指でなぞりながら、苦笑する。


「プライベートは、すぐ“終わらせようとする”クセがあるみたいで」


 どきっとした。


「“終わらせようとする”って……」


「なんかあると、“じゃあ俺抜けるよ”とか“もう関わらない方がいいよね”って言うでしょ、あいつ」


「……言います」


 というか、“別れようか”の変形だ。


「昔から?」


「昔から」


 宮村さんは、どこか遠くを見るような目をした。


「俺、直人とは前の会社からの付き合いでね。

 その前、そのまた前の彼女とも、ちょっと知り合いだったんだけど」


「……」


「みんな、同じこと言ってたよ。

 “本音で話そうとすると“じゃあ別れようか”って言われる”って」


 胸の奥が、ぎゅっと痛くなった。


「それって、なんなんでしょうね」


 自分でも驚くくらい、素直に聞いていた。


 宮村さんは答える前に、ビールを一口飲んだ。


「俺の推測だけどね」


「はい」


「直人くん、家が結構大変だったみたいなんだよ」


 香澄の言葉が、頭の端でチャイムを鳴らす。


「親が、すごいケンカしててね。

 中学くらいのときから、ずっと」


「……」


「“やり直そう”“努力しよう”って何回も言い合っては、

 結局また同じことでケンカして、

 最後は泥沼で別れたらしい」


 その光景が、想像できてしまう。


「で、ある日、直人くんが高校生のときに、

 お父さんが家を出て行った」


「置いていかれた側、なんですね」


「そう。

 それで、“大人はああやって、最後に勝手にいなくなるんだ”って、

 かなりこじらせたらしい」


 宮村さんは、少しだけ笑った。


「だから、本人いわく、

 “期待させたくない”んだってさ」


「期待?」


「“ずっと一緒にいる”とか、“変わるから”とか。

 そういう約束。

 “どうせ守れないかもしれないなら、

 ダメそうになったときに早めに終わらせた方が、

 お互い傷が浅い”って」


 あんたの心がわかったらどんだけ楽か。

 その言葉が、別の形で返ってきた気がした。


「でも、終わらせようとするたびに、

 相手の方は、逆に傷ついていってたみたいだけどね」


「……ですよね」



「別に、直人くんの味方ばっかりするつもりはないよ」


 宮村さんは、真面目な顔で言った。


「“すぐ別れようかって言うのやめてほしい”ってのは、

 ちゃんと伝えていいと思うし。

 むしろ伝えなきゃダメだと思う」


「はい」


「ただ、“そういう背景がある”って知ってるか知らないかで、

 見え方が変わることもあるからさ」


 それだけ言って、

 戻ってきた直人に「彼女さん、いい子だね」と笑ってみせた。



 帰り道。

 駅までの夜道を歩きながら、私は切り出した。


「ねぇ、直人」


「ん?」


「宮村さんから、ちょっと聞いた」


「なにを」


「昔の家のこと、少しだけ」


 直人の足が、ほんの少し止まった。


「……どこまで」


「親御さんが、いっぱいケンカしてて。

 最後、泥沼で別れたって」


「宮村さん、余計なこと言うなぁ」


 直人は、苦笑した。

 でも、その顔は少しだけ、疲れて見えた。


「ごめん。あんまり話したくなかった?」


「いや、別に。

 隠してるつもりもなかったし」


 そう言ったあと、しばらく黙って歩き続けた。


 コンビニの前を通り過ぎたあたりで、

 ようやく口を開いた。


「……両親、何回も“やり直そう”って言っててさ」


「うん」


「“頑張ろう”“変わろう”“もう二度としない”って。

 そのたびに、ちょっとだけ良くなって、

 また同じことで爆発して」


 夜風が、少し冷たい。


「最後の一年くらいは、“別れる別れる詐欺”みたいになってた。

 “もう離婚する”“いや、やっぱりやり直す”の繰り返し」


「それ、しんどそう」


「しんどかったよ。

 どっちの味方していいかもわかんなかったし」


 直人は、信号待ちで立ち止まり、青になるのを待ちながら続けた。


「だから、“別れよう”って言葉、俺にとっては“楽になろう”なんだと思う」


「楽に……」


「ダメになりかけてるのに、

 無理してつなぎとめようとして、

 お互いボロボロになるのを、

 目の前で散々見てきたからさ」


 あんたの心がわかったらどんだけ楽か――

 今、その少しだけを覗き込んでいる。


「だから、“不満が出てきた=もうダメになる前兆”みたいに、

 どっかで思っちゃってる。

 “そうなるくらいなら、早めに終わらせた方がいい”って」


「……それ、さ」


 私は、歩き出しながら言った。


「“自分を守るため”でもあるけど、

 “相手を信じてない”ってことにも、ならない?」


 直人は、少しだけ顔をしかめた。


「きついこと言うな」


「自覚あるよ」


 自分でも、ちょっと言い過ぎたと思う。

 でも、引き返さないと決めた。


「私さ、不満を言える相手って、“まだ一緒にいたい相手”なんだよね」


「……」


「どうでもいい人には、不満言わない。

 フェードアウトして終わり」


「それは、わかるかも」


「だから、“こうしてほしい”って言ってるときに、

 “別れようか”って言われると、

 “あ、私の“まだ一緒にいたい”は、全然届いてないんだな”って思う」


 信号が青から点滅に変わる。

 二人で小走りに横断歩道を渡る。



 コンビニの前のベンチで、少しだけ座った。


「じゃあ、どうしたらいいんだろうね」


 直人がぽつりと言う。


「“別れようか”って言わないで、

 “どうしようか”って言ってみるとか」


「どうしようか?」


「うん。“別れるかどうか”じゃなくて。

 “今の問題、どうしようか”」


「……」


「“会う回数減らす?”“仕事の話もうちょっと共有する?”

 “ケンカになりそうなとき、一回クールダウンする?”みたいな」


「難しくない?」


「“別れようか”よりは、話し合いっぽい」


 直人は、頭をかきながら笑った。


「なんか、面倒だな」


「“面倒”って言った?」


「言った」


「正直でよろしい」


 私も笑った。


「でもさ」


 直人が、夜空を見上げる。


「“別れようか”って言うとき、一番怖いのは、

 “本当に別れよう”って言われることなんだよ」


「そうなんだ」


「自分で言っておいて、矛盾してるけど。

 “相手の口から聞く前に、自分から言った方が傷が浅い”って思ってた」


「予防線みたいな」


「そう」


 あんたの心がわかったらどんだけ楽か。

 でも本当は、多分本人だって、自分の心を持て余している。



「じゃあさ」


 私は、少しだけ間を置いて言った。


「次に“別れようか”って言ったら、そのときは本当に別れよう」


 直人が、はっきりとこちらを見る。


「……え?」


「今までは、“また言ってる”で済ませてきたけど。

 これからは、それを“本気のサイン”として受け取る」


「ちょっと待って、それプレッシャー強くない?」


「強いよ。

 でも、“軽い脅し文句”のままにしとく方が、私はつらい」


 直人は、しばらく黙っていた。

 ベンチの下を、小さな猫が通り過ぎていく。


「わかった」


 ようやく、彼が口を開いた。


「じゃあ、俺も一個、条件つけていい?」


「なに」


「“別れようか”って言う前に、

 絶対、一回“どうしようか”って言う。

 それを、待っててほしい」


「……それなら」


 私は、小さく笑った。


「待てるかも」



 それから数ヶ月。

 ケンカがゼロになったわけじゃない。


「なんで昨日、返事くれなかったの?」


「疲れて寝落ちした。ごめん」


「“寝落ちした”って言えば許されると思ってない?」


「思ってる。……どうしようか」


 そこで、一拍、二拍。

 “別れようか”ではなく、“どうしようか”から始まる会話に、

 まだ慣れてはいないけれど、前より少しだけ、足元が安定した気がする。


 あんたの心がわかったらどんだけ楽か――

 全部を理解することは、きっとできない。


 でも、「なんでそういう言葉を選んでしまうのか」を、

 少しだけ共有できたことで。


 “すぐ別れようかと言う恋人”は、

 “誰かに捨てられる前に、自分から離れようとする人”に変わった。


 その弱さごと受け止められるかどうかは、

 これからの私次第だ。


 夜道を並んで歩きながら、

 私は心の中で、そっとつぶやく。


(次の“どうしようか”を、ちゃんと一緒に考えられる自分でありますように)


 “別れようか”より、

 少しだけ面倒で、少しだけ誠実な言葉を、

 お互い選べるようになる未来を、

 ゆっくり練習していこうと思った。

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