第14話「説明してくれない医者」
胃がきりきりと痛み出したのは、二十六歳の春だった。
最初はストレスだと思って、市販薬でごまかしていた。
けれど、ある朝、会社に向かう電車の中で、立っていられないほどの痛みがきて、
私は途中駅で降りて、そのまま駅前のクリニックに駆け込んだ。
「じゃあ、一通り検査しておきましょう」
白衣の医者は、淡々とした声でそう言った。
採血、レントゲン、エコー。
いくつか検査を受けて、結果を聞きに診察室に戻ると、
医者はモニターをちらっと見てから、短く言った。
「大丈夫ですよ。致命的なものは何も出てません」
「……そうなんですか?」
「ええ。薬出しておきますから、しばらく様子を見ましょう」
そう言って、すぐにカルテに目を落とす。
私は、何を聞けばいいのかわからないまま、
診察室を追い出されるように出てきてしまった。
会計を待ちながら、胸の奥のモヤモヤだけが、じわじわと広がっていく。
(“大丈夫”って、どのくらい大丈夫なんだろう)
原因は?
なにが「ない」とわかったのか?
どうなったら「大丈夫じゃない」のか?
聞きたいことは、あとからあとから出てくるのに、
診察室にいる間は、どうしても言葉にならなかった。
(あんたの心がわかったらどんだけ楽か)
“説明してくれない医者”。
それが、私の中での、その人のラベルになった。
◇
それから一ヶ月。
処方された薬で痛みは少し落ち着いたものの、
ときどき波のようにぶり返す。
「今日もまた病院?」
同居している妹の灯が、キッチンから顔を出した。
「うん。二回目」
「どう? ちゃんと見てくれる先生?」
「うーん……」
私は、マグカップを両手で包んだまま、言葉を濁した。
「ちゃんと“見て”はくれてるっぽいんだけど、説明が少ないっていうか」
「少ない?」
「“大丈夫です”と“様子見ましょう”ばっかり。
検査の結果とか、画面見せてくれないし、こっちが素人だからって思ってそう」
「ふーん……」
灯は、冷蔵庫からヨーグルトを取り出しながら言った。
「それ、説明してくれないのは“向こうが悪い”けど、
“聞かないのは自分の仕事”でもあるよ」
「え、なにその名言っぽいやつ」
「だってそうじゃん。
お医者さんの心がどうかは知らないけど、
自分の体は自分のものなんだし」
正論すぎて、思わず黙り込む。
「質問リスト作って、持っていきなよ。
“ここまでは絶対聞いて帰る”って決めてさ」
「……それ、ちょっと怖いんだけど」
「怖いのは“知らないこと”であって、“質問すること”じゃないよ」
灯はそう言って、洗面所に消えていった。
あんたの心がわかったらどんだけ楽か――
でも、本当に知りたいのは、
「先生の心」よりも「自分の体のこと」なのかもしれない。
◇
その日の診察。
私はスマホのメモ画面に小さく打ち込んだ質問を、
手汗でにじんだ指先でスクロールしながら、順番待ちをしていた。
診察室の前の椅子に座っていると、中から声が漏れ聞こえる。
「……ですから、今一番大事なのは、
“今ある症状を抑えること”なんですよ」
医者の声だ。
「でも、ネットで見たら、“この薬は危険だ”って」
年配の女性の声が、少し震えている。
「そうやって不安を煽る記事もありますね。
ただ、そこだけ切り取っても仕方ありません。
この薬を飲まなかったときのリスクと、飲んだときのリスク、
両方を比べないと」
私は思わず、姿勢を正した。
「さっきお見せした検査結果、覚えてますか?
ここです。この数値」
医者は、モニターを指さす音まで聞こえてくるようだった。
「このまま何もしなければ、
一年後、三年後にどうなるか。
その可能性を考えて、今の治療をお勧めしています」
「……先生が、そこまで考えてくれてるなら、信じてみます」
「不安なことがあれば、その都度聞いてください。
“ネットに書いてあったんですけど”でも構いません」
診察室のドアが開き、
白髪混じりの女性が、少し安心したような顔で出てきた。
入れ替わりに名前を呼ばれ、
私は診察室に入った。
◇
「調子はいかがですか」
「えっと……
前よりはマシになったけど、ときどき、急にきりっと痛くなります」
「ふむ」
医者はキーボードを叩きながら、淡々と聞いてくる。
私は、意を決して口を開いた。
「あの」
「はい?」
「前回、検査の結果、“大丈夫です”って言ってもらったんですけど……」
「ええ」
「“何が大丈夫なのか”を、ちゃんと知りたくて。
可能なら、画面とか、見せてもらえますか」
少しの沈黙。
医者は、こちらをまっすぐ見た。
「……もちろんです」
意外なくらいあっさりと、そう言った。
「聞かれなかったので、“そこまで知りたくないのだろう”と思っていました」
「え?」
「全部話すと、かえって不安になる方も多いのでね。
“簡潔に”を意識しすぎていたのかもしれません」
言いながら、モニターをこちらに向ける。
「まず、こちらが腹部エコー。
ここが胃のあたりです」
白黒の画像に、私にはよくわからない影がいくつも映っている。
「ここに明らかな腫瘍や、出血の跡はありません。
壁も、厚くなりすぎていない。
さっき“致命的なものはない”と言ったのは、
“今すぐ命に関わるような異常は見当たらない”という意味でした」
「……そういうことだったんですね」
「血液検査も、この通り」
画面の数字を、ひとつひとつ指さして説明してくれる。
「もちろん、これで“完全に安心”とは言いません。
症状が続くようなら、カメラの検査も必要になる。
ただ現状、“急いで大きな病院に行かなければならない”状況ではない。
それは、はっきり言えます」
あんたの心がわかったらどんだけ楽か――
と思っていたけれど。
単に、「聞かれなかったから言わなかった」部分も、
意外と多かったのかもしれない。
◇
「先生は、あまりたくさん説明しない方なんですか」
思い切って聞いてみると、
医者は苦笑した。
「昔は、しつこいくらい説明していました」
「そうなんですか?」
「検査結果を全部並べて、“ここがこうで、あれがこうで”と。
そうしたら、“怖くなったからもう来ません”と言われたことがありましてね」
カルテを閉じながら続ける。
「こちらとしては、正確な情報を伝えたつもりでも、
受け取る側にとっては、“怖い言葉”だけが残ってしまうことがある。
それから、“どこまで話すべきか”の線引きが、難しくなりました」
「……」
「中には、“怖い可能性があるなら全部知りたい”という方もいれば、
“ひとまず今必要なことだけ教えてほしい”という方もいる。
今日は、あなたが前者だということが、ようやくわかりました」
まっすぐな目で見られて、
少しだけ照れくさくなる。
「最初から、“私は全部知っておきたいタイプです”と言っていただければ、
こちらも構え方を変えられます」
「そんなこと、言ってよかったんですね」
「言っていいですよ。
“どれくらい知りたいか”を伝えるのも、立派な情報ですから」
◇
診察を終えて、待合室で会計を待っていると、
二人の看護師さんが小声で話しているのが聞こえた。
「先生、今日はずいぶん画面見せてたね」
「さっきの若い方?
“ちゃんと知りたいみたいだから、説明多めにした”って」
「前より“様子見るだけじゃ嫌だって人も増えたなぁ”って、
この前も言ってたよ」
私は、雑誌をめくるふりをしながら、
こっそり耳を傾けた。
「先生、怖いって言う人もいるけどさ。
あれでかなり気にしてるからね。
“余計なこと言って不安にさせたくない”って」
「言わなきゃ言わないで、“説明してくれない”って言われるしね」
「難しいね、お医者さんも」
あんたの心がわかったらどんだけ楽か――
それは、患者だけでなく、
医者の側も同じなのだろう。
◇
家に帰って、灯に報告した。
「質問リスト、役に立った?」
「うん。
ちゃんと画面見せてもらって、説明もしてもらった」
「よかったじゃん」
「先生、自分でも“説明のしすぎで失敗したことある”って言ってた」
「へぇ」
「だから、“大丈夫ですよ”って言うときも、
“どこまで言うべきか”ずっと悩んでるのかも」
マグカップにお茶を注ぎながら、
灯がぽつりと言う。
「“あんたの心がわかったらどんだけ楽か”ってさ」
「うん」
「結局、“わかろうとする”って、
こっちの番もあるんだね」
「……そうだね」
“説明してくれない医者”と決めつけていた相手は、
実は、「説明し過ぎて失敗した記憶を引きずっている人」で、
「どこまで踏み込んでいいのか」ずっと迷っていた。
全部をわかる必要は、きっとない。
でも、「どれくらい知りたいか」を一言伝えただけで、
診察室の空気は、前より少しだけ柔らかくなった。
次の予約の日付をカレンダーに書き込みながら、
私は心の中で小さくつぶやいた。
(またちゃんと、聞きたいことを持っていこう)
“あんたの心”だけじゃなくて、
“自分の心”の方も、少しずつ整理しながら。




