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第14話「説明してくれない医者」



 胃がきりきりと痛み出したのは、二十六歳の春だった。


 最初はストレスだと思って、市販薬でごまかしていた。

 けれど、ある朝、会社に向かう電車の中で、立っていられないほどの痛みがきて、

 私は途中駅で降りて、そのまま駅前のクリニックに駆け込んだ。


「じゃあ、一通り検査しておきましょう」


 白衣の医者は、淡々とした声でそう言った。


 採血、レントゲン、エコー。

 いくつか検査を受けて、結果を聞きに診察室に戻ると、

 医者はモニターをちらっと見てから、短く言った。


「大丈夫ですよ。致命的なものは何も出てません」


「……そうなんですか?」


「ええ。薬出しておきますから、しばらく様子を見ましょう」


 そう言って、すぐにカルテに目を落とす。


 私は、何を聞けばいいのかわからないまま、

 診察室を追い出されるように出てきてしまった。


 会計を待ちながら、胸の奥のモヤモヤだけが、じわじわと広がっていく。


(“大丈夫”って、どのくらい大丈夫なんだろう)


 原因は?

 なにが「ない」とわかったのか?

 どうなったら「大丈夫じゃない」のか?


 聞きたいことは、あとからあとから出てくるのに、

 診察室にいる間は、どうしても言葉にならなかった。


(あんたの心がわかったらどんだけ楽か)


 “説明してくれない医者”。

 それが、私の中での、その人のラベルになった。



 それから一ヶ月。

 処方された薬で痛みは少し落ち着いたものの、

 ときどき波のようにぶり返す。


「今日もまた病院?」


 同居している妹の灯が、キッチンから顔を出した。


「うん。二回目」


「どう? ちゃんと見てくれる先生?」


「うーん……」


 私は、マグカップを両手で包んだまま、言葉を濁した。


「ちゃんと“見て”はくれてるっぽいんだけど、説明が少ないっていうか」


「少ない?」


「“大丈夫です”と“様子見ましょう”ばっかり。

 検査の結果とか、画面見せてくれないし、こっちが素人だからって思ってそう」


「ふーん……」


 灯は、冷蔵庫からヨーグルトを取り出しながら言った。


「それ、説明してくれないのは“向こうが悪い”けど、

 “聞かないのは自分の仕事”でもあるよ」


「え、なにその名言っぽいやつ」


「だってそうじゃん。

 お医者さんの心がどうかは知らないけど、

 自分の体は自分のものなんだし」


 正論すぎて、思わず黙り込む。


「質問リスト作って、持っていきなよ。

 “ここまでは絶対聞いて帰る”って決めてさ」


「……それ、ちょっと怖いんだけど」


「怖いのは“知らないこと”であって、“質問すること”じゃないよ」


 灯はそう言って、洗面所に消えていった。


 あんたの心がわかったらどんだけ楽か――

 でも、本当に知りたいのは、

 「先生の心」よりも「自分の体のこと」なのかもしれない。



 その日の診察。


 私はスマホのメモ画面に小さく打ち込んだ質問を、

 手汗でにじんだ指先でスクロールしながら、順番待ちをしていた。


 診察室の前の椅子に座っていると、中から声が漏れ聞こえる。


「……ですから、今一番大事なのは、

 “今ある症状を抑えること”なんですよ」


 医者の声だ。


「でも、ネットで見たら、“この薬は危険だ”って」


 年配の女性の声が、少し震えている。


「そうやって不安を煽る記事もありますね。

 ただ、そこだけ切り取っても仕方ありません。

 この薬を飲まなかったときのリスクと、飲んだときのリスク、

 両方を比べないと」


 私は思わず、姿勢を正した。


「さっきお見せした検査結果、覚えてますか?

 ここです。この数値」


 医者は、モニターを指さす音まで聞こえてくるようだった。


「このまま何もしなければ、

 一年後、三年後にどうなるか。

 その可能性を考えて、今の治療をお勧めしています」


「……先生が、そこまで考えてくれてるなら、信じてみます」


「不安なことがあれば、その都度聞いてください。

 “ネットに書いてあったんですけど”でも構いません」


 診察室のドアが開き、

 白髪混じりの女性が、少し安心したような顔で出てきた。


 入れ替わりに名前を呼ばれ、

 私は診察室に入った。



「調子はいかがですか」


「えっと……

 前よりはマシになったけど、ときどき、急にきりっと痛くなります」


「ふむ」


 医者はキーボードを叩きながら、淡々と聞いてくる。


 私は、意を決して口を開いた。


「あの」


「はい?」


「前回、検査の結果、“大丈夫です”って言ってもらったんですけど……」


「ええ」


「“何が大丈夫なのか”を、ちゃんと知りたくて。

 可能なら、画面とか、見せてもらえますか」


 少しの沈黙。


 医者は、こちらをまっすぐ見た。


「……もちろんです」


 意外なくらいあっさりと、そう言った。


「聞かれなかったので、“そこまで知りたくないのだろう”と思っていました」


「え?」


「全部話すと、かえって不安になる方も多いのでね。

 “簡潔に”を意識しすぎていたのかもしれません」


 言いながら、モニターをこちらに向ける。


「まず、こちらが腹部エコー。

 ここが胃のあたりです」


 白黒の画像に、私にはよくわからない影がいくつも映っている。


「ここに明らかな腫瘍や、出血の跡はありません。

 壁も、厚くなりすぎていない。

 さっき“致命的なものはない”と言ったのは、

 “今すぐ命に関わるような異常は見当たらない”という意味でした」


「……そういうことだったんですね」


「血液検査も、この通り」


 画面の数字を、ひとつひとつ指さして説明してくれる。


「もちろん、これで“完全に安心”とは言いません。

 症状が続くようなら、カメラの検査も必要になる。

 ただ現状、“急いで大きな病院に行かなければならない”状況ではない。

 それは、はっきり言えます」


 あんたの心がわかったらどんだけ楽か――

 と思っていたけれど。


 単に、「聞かれなかったから言わなかった」部分も、

 意外と多かったのかもしれない。



「先生は、あまりたくさん説明しない方なんですか」


 思い切って聞いてみると、

 医者は苦笑した。


「昔は、しつこいくらい説明していました」


「そうなんですか?」


「検査結果を全部並べて、“ここがこうで、あれがこうで”と。

 そうしたら、“怖くなったからもう来ません”と言われたことがありましてね」


 カルテを閉じながら続ける。


「こちらとしては、正確な情報を伝えたつもりでも、

 受け取る側にとっては、“怖い言葉”だけが残ってしまうことがある。

 それから、“どこまで話すべきか”の線引きが、難しくなりました」


「……」


「中には、“怖い可能性があるなら全部知りたい”という方もいれば、

 “ひとまず今必要なことだけ教えてほしい”という方もいる。

 今日は、あなたが前者だということが、ようやくわかりました」


 まっすぐな目で見られて、

 少しだけ照れくさくなる。


「最初から、“私は全部知っておきたいタイプです”と言っていただければ、

 こちらも構え方を変えられます」


「そんなこと、言ってよかったんですね」


「言っていいですよ。

 “どれくらい知りたいか”を伝えるのも、立派な情報ですから」



 診察を終えて、待合室で会計を待っていると、

 二人の看護師さんが小声で話しているのが聞こえた。


「先生、今日はずいぶん画面見せてたね」


「さっきの若い方?

 “ちゃんと知りたいみたいだから、説明多めにした”って」


「前より“様子見るだけじゃ嫌だって人も増えたなぁ”って、

 この前も言ってたよ」


 私は、雑誌をめくるふりをしながら、

 こっそり耳を傾けた。


「先生、怖いって言う人もいるけどさ。

 あれでかなり気にしてるからね。

 “余計なこと言って不安にさせたくない”って」


「言わなきゃ言わないで、“説明してくれない”って言われるしね」


「難しいね、お医者さんも」


 あんたの心がわかったらどんだけ楽か――

 それは、患者だけでなく、

 医者の側も同じなのだろう。



 家に帰って、灯に報告した。


「質問リスト、役に立った?」


「うん。

 ちゃんと画面見せてもらって、説明もしてもらった」


「よかったじゃん」


「先生、自分でも“説明のしすぎで失敗したことある”って言ってた」


「へぇ」


「だから、“大丈夫ですよ”って言うときも、

 “どこまで言うべきか”ずっと悩んでるのかも」


 マグカップにお茶を注ぎながら、

 灯がぽつりと言う。


「“あんたの心がわかったらどんだけ楽か”ってさ」


「うん」


「結局、“わかろうとする”って、

 こっちの番もあるんだね」


「……そうだね」


 “説明してくれない医者”と決めつけていた相手は、

 実は、「説明し過ぎて失敗した記憶を引きずっている人」で、

 「どこまで踏み込んでいいのか」ずっと迷っていた。


 全部をわかる必要は、きっとない。

 でも、「どれくらい知りたいか」を一言伝えただけで、

 診察室の空気は、前より少しだけ柔らかくなった。


 次の予約の日付をカレンダーに書き込みながら、

 私は心の中で小さくつぶやいた。


(またちゃんと、聞きたいことを持っていこう)


 “あんたの心”だけじゃなくて、

 “自分の心”の方も、少しずつ整理しながら。

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