第13話「なんでも苦情を言うご近所さん」
うちの隣に住んでいる佐伯さんは、なんでも苦情を言ってくる。
「夜遅くに洗濯機を回さないでください」
「ベランダで話す声が丸聞こえなんですよ」
「ゴミ出し、袋の縛り方が甘いとカラスが来ますからね」
最初に注意されたのは、引っ越してきて一週間目の夜だった。
まだ荷ほどきも終わらず、段ボールを片づけるために、
23時頃に洗濯を回したとき。
ピンポンが鳴って、ドアを開けると、
白いポロシャツ姿の細いおじさんが立っていた。
「この時間に洗濯機、困りますね」
丁寧な言い方なのに、目は全然笑っていなかった。
「す、すみません。今日だけで……」
「“今日だけ”が、毎日続くんですよ」
その一言で、何も言えなくなった。
それ以来、私は佐伯さんのことを、
心の中で「苦情おじさん」と呼ぶようになった。
◇
ある土曜日の昼。
久しぶりに友だちを家に呼んだ。
仕事の愚痴を言い合いながら、
ポテトチップスをつまんで、動画を見て笑っていたら――
また、インターホンが鳴った。
「はい……」
『お隣の佐伯です。少し、よろしいですか』
ドアを開けると、いつもの無表情がそこにある。
「さっきから、笑い声が響いてましてね。
壁、薄いですから」
友だちが気まずそうに笑って頭を下げる。
「すみません、うるさかったですよね」
「いえ、楽しそうで何よりですが……
こちらはひとりなので、どうしても音が気になるんですよ」
「ひとりなので」という言葉が、妙に引っかかった。
「なるべく静かにします」
「ええ、お願いできますか」
ドアを閉めるとき、
背中に視線が刺さるような気がした。
せっかくの久しぶりのホームパーティーも、
それからはなんとなく笑いづらくなって、早めにお開きになった。
「大変だね、隣」
友だちが帰り際に小声で言った。
「うん……」
正直、「大変」なんて生易しいものではない。
(あんたの心がわかったらどんだけ楽か)
そんなに静かに暮らしたいなら、
もっと防音しっかりしたとこに住めばいいのに――
そう思ってしまう自分もいた。
◇
その数日後。
私は、仕事帰りにコンビニの前で、偶然佐伯さんを見かけた。
スーツ姿の若い男の人と、小さな女の子が一緒にいて、
佐伯さんを「お父さん」と呼んでいる。
「じいじ、これも買っていい?」
女の子が駄々をこねると、
男の人が苦笑しながら止める。
「こらこら。じいじ困ってるでしょ」
「いや、いいよ。たまのことだ」
佐伯さんは、いつもの無表情とは少し違う顔をしていた。
目尻が、ほんの少しやわらかい。
私は声をかけるタイミングを逃して、
そのまま店の前を通り過ぎた。
(……子ども、大好きなんだ)
意外な一面を見た気がした。
◇
翌週の日曜日。
朝から大雨だった。
ベランダに出て洗濯物を取り込もうとしたとき、
隣のベランダから、かすかな声が聞こえてきた。
「……もしもし、ああ、俺だ。
うん、どうしても今日じゃないとダメなのか?」
佐伯さんの声だった。
「いや、仕事だから仕方ないのはわかってる。
ただ、あいつ、がっかりするだろうなと思って……」
あいつ、というのは、きっとあの女の子だ。
私は、思わず身をひそめて耳をすませた。
「うん。わかってる。
“じいじのせいじゃないよ”って、また言うんだろうな」
一瞬、笑うような声音になって、すぐに沈む。
「“じいじのところに行くと、ママが疲れちゃうから”って、
こないだも言われたしな」
心臓が、どきりとした。
「……ああ、いい。大丈夫だ。
また今度で」
通話が切れる音。
雨の音だけが残る。
私はそっとベランダのドアを閉めた。
◇
その日の夕方。
ゴミを出しに行こうと玄関を開けたとき、
ちょうど廊下で佐伯さんと鉢合わせた。
「こんにちは」
「……こんにちは」
こちらが挨拶すると、
佐伯さんは少し驚いたような顔をした。
「この前は、友人と騒いでしまってすみませんでした」
先に謝ってみると、
彼は一瞬だけ目を丸くしてから、目をそらした。
「いえ。
……こちらこそ、きつく言いすぎました」
珍しく、「すみません」とはっきり言った。
「その……」
自分でも、なぜ口が動いたのかわからない。
「いつも、静かにされてるから。
少しの音でも気になりますよね」
佐伯さんは、廊下の蛍光灯を見上げた。
「静かにしている、というか。
ただ、ひとりでいる時間が長いだけですよ」
自嘲気味な笑い方だった。
思い切って聞いてみる。
「さっき、コンビニの前で、お孫さんといらっしゃいましたよね」
「……見ていたんですか」
「はい。
楽しそうでした」
佐伯さんの表情が、ほんの少しだけゆるむ。
「孫と一緒のときは、うるさくてたまらないですよ。
でも、静かなのも、たまらなくてね」
「静かなのも、たまらない?」
「ええ」
佐伯さんは、言葉を選ぶように続けた。
「息子夫婦が来るのは、月に一度か二度。
孫が帰ったあとは、やけに部屋が広く感じるんです」
それは、想像に難くなかった。
「だから、余計、音が気になるのかもしれませんね。
“ここにいるのは自分ひとりだ”ってことを、
音が、いちいち教えてくるもんですから」
あんたの心がわかったらどんだけ楽か――
そう思っていたけれど。
今、少しだけ、その輪郭が見えた気がした。
◇
「昔は、こっちがうるさいと言われる側だったんですよ」
佐伯さんは、ふっと笑った。
「子どもが小さい頃は、夜泣きもひどくて。
アパートの管理人に、よく怒られました」
「そうなんですね」
「“もう少し泣き止ませてください”なんて、
簡単に言うもんじゃないのにね」
その言葉が、少し胸に刺さる。
「だから、本当は、
“静かにしてください”なんて二度と言いたくないはずなんですが」
「でも、言ってしまう?」
「ええ。
静かすぎる部屋で、音だけが一瞬大きくなると、
腹が立つんです」
佐伯さんは、手すりにそっと触れた。
「“ああ、この壁の向こうには、ちゃんと誰かいるんだな”と思うと、
なぜか、羨ましくもなる」
羨ましい、という言葉は、
思ってもいなかった方向から飛んできた。
◇
「だからといって、
急に優しい隣人になる自信はありませんが」
佐伯さんは、少しだけ照れたように言った。
「音が気になるときは、多分これからもあります。
そのときはまた、言ってしまうでしょう」
「……そうですか」
「ただ、もしよければ」
そこで言いよどみ、
佐伯さんは小さく咳払いをした。
「“うるさいですよ”と言われたときに、
“すみません”だけじゃなくて、
“今日はこういう事情があるんです”くらいは、
教えていただけると助かります」
「事情、ですか」
「ええ。
“友人が久しぶりに来ている”とか、“子どもがはしゃいでいる”とか。
そういうのがわかれば、
こちらも、少しは心の準備ができますから」
それは、苦情ではなく、
「会話」の提案に聞こえた。
「……わかりました」
私は、自然に頭を下げていた。
「今度、また友だちを呼ぶとき、
先に一言お伝えしますね」
「そのときは、私も耳栓でも買っておきます」
めずらしく、佐伯さんの口元に笑みが浮かんだ。
◇
数週間後。
大学時代の友人たちを家に招くことになった。
玄関を出て、隣の部屋のインターホンを押す。
「はい」
「お隣の山本です。
今日、夕方から友人が数人来るので、
多少、話し声が聞こえてしまうかもしれません」
一瞬の沈黙のあと、
インターホン越しに小さな笑い声が聞こえた。
「わざわざ、ありがとうございます。
楽しんでください」
「なるべく、0時前にはお開きにします」
「それくらいなら、私も起きてますから」
ドアの向こうの空気が、
少しだけ柔らかくなった気がした。
◇
その夜。
友人たちと笑い合いながらも、
私はふと、隣の部屋のことを意識していた。
(今、どんな気持ちでいるんだろう)
うるさいと感じているかもしれない。
でも同時に、
「壁の向こうにも誰かがいる」と、
少しだけ安心してくれていたらいいな、とも思う。
あんたの心がわかったらどんだけ楽か――
全部を理解することは、多分できない。
それでも、「なんでそんなにうるささに厳しいのか」を、
少しだけ聞いてみたら。
“なんでも苦情を言うご近所さん”は、
“静かすぎる部屋で、誰かの気配を探している人”に変わった。
その夜、友人を見送って部屋に戻ると、
ポストに小さな紙袋が入っていた。
『ささやかなお詫びとお礼です。
うるさくしてすみません、の分と、
わざわざ知らせてくださってありがとう、の分を込めて』
中には、耳栓と、
個包装のクッキーがいくつか入っていた。
私は台所の電気をつけて、
クッキーを一つ口に運びながら、
壁の向こう側に向かって、心の中でつぶやいた。
(これからもきっと、何回かは注意されるんだろうけど)
そのたびに、
「うるさいですよ」の裏にある気持ちを、
少しだけ想像してみようと思った。




