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第13話「なんでも苦情を言うご近所さん」



 うちの隣に住んでいる佐伯さんは、なんでも苦情を言ってくる。


「夜遅くに洗濯機を回さないでください」

「ベランダで話す声が丸聞こえなんですよ」

「ゴミ出し、袋の縛り方が甘いとカラスが来ますからね」


 最初に注意されたのは、引っ越してきて一週間目の夜だった。


 まだ荷ほどきも終わらず、段ボールを片づけるために、

 23時頃に洗濯を回したとき。

 ピンポンが鳴って、ドアを開けると、

 白いポロシャツ姿の細いおじさんが立っていた。


「この時間に洗濯機、困りますね」


 丁寧な言い方なのに、目は全然笑っていなかった。


「す、すみません。今日だけで……」


「“今日だけ”が、毎日続くんですよ」


 その一言で、何も言えなくなった。


 それ以来、私は佐伯さんのことを、

 心の中で「苦情おじさん」と呼ぶようになった。



 ある土曜日の昼。

 久しぶりに友だちを家に呼んだ。


 仕事の愚痴を言い合いながら、

 ポテトチップスをつまんで、動画を見て笑っていたら――


 また、インターホンが鳴った。


「はい……」


『お隣の佐伯です。少し、よろしいですか』


 ドアを開けると、いつもの無表情がそこにある。


「さっきから、笑い声が響いてましてね。

 壁、薄いですから」


 友だちが気まずそうに笑って頭を下げる。


「すみません、うるさかったですよね」


「いえ、楽しそうで何よりですが……

 こちらはひとりなので、どうしても音が気になるんですよ」


 「ひとりなので」という言葉が、妙に引っかかった。


「なるべく静かにします」


「ええ、お願いできますか」


 ドアを閉めるとき、

 背中に視線が刺さるような気がした。


 せっかくの久しぶりのホームパーティーも、

 それからはなんとなく笑いづらくなって、早めにお開きになった。


「大変だね、隣」


 友だちが帰り際に小声で言った。


「うん……」


 正直、「大変」なんて生易しいものではない。


(あんたの心がわかったらどんだけ楽か)


 そんなに静かに暮らしたいなら、

 もっと防音しっかりしたとこに住めばいいのに――

 そう思ってしまう自分もいた。



 その数日後。

 私は、仕事帰りにコンビニの前で、偶然佐伯さんを見かけた。


 スーツ姿の若い男の人と、小さな女の子が一緒にいて、

 佐伯さんを「お父さん」と呼んでいる。


「じいじ、これも買っていい?」


 女の子が駄々をこねると、

 男の人が苦笑しながら止める。


「こらこら。じいじ困ってるでしょ」


「いや、いいよ。たまのことだ」


 佐伯さんは、いつもの無表情とは少し違う顔をしていた。

 目尻が、ほんの少しやわらかい。


 私は声をかけるタイミングを逃して、

 そのまま店の前を通り過ぎた。


(……子ども、大好きなんだ)


 意外な一面を見た気がした。



 翌週の日曜日。

 朝から大雨だった。


 ベランダに出て洗濯物を取り込もうとしたとき、

 隣のベランダから、かすかな声が聞こえてきた。


「……もしもし、ああ、俺だ。

 うん、どうしても今日じゃないとダメなのか?」


 佐伯さんの声だった。


「いや、仕事だから仕方ないのはわかってる。

 ただ、あいつ、がっかりするだろうなと思って……」


 あいつ、というのは、きっとあの女の子だ。


 私は、思わず身をひそめて耳をすませた。


「うん。わかってる。

 “じいじのせいじゃないよ”って、また言うんだろうな」


 一瞬、笑うような声音になって、すぐに沈む。


「“じいじのところに行くと、ママが疲れちゃうから”って、

 こないだも言われたしな」


 心臓が、どきりとした。


「……ああ、いい。大丈夫だ。

 また今度で」


 通話が切れる音。

 雨の音だけが残る。


 私はそっとベランダのドアを閉めた。



 その日の夕方。

 ゴミを出しに行こうと玄関を開けたとき、

 ちょうど廊下で佐伯さんと鉢合わせた。


「こんにちは」


「……こんにちは」


 こちらが挨拶すると、

 佐伯さんは少し驚いたような顔をした。


「この前は、友人と騒いでしまってすみませんでした」


 先に謝ってみると、

 彼は一瞬だけ目を丸くしてから、目をそらした。


「いえ。

 ……こちらこそ、きつく言いすぎました」


 珍しく、「すみません」とはっきり言った。


「その……」


 自分でも、なぜ口が動いたのかわからない。


「いつも、静かにされてるから。

 少しの音でも気になりますよね」


 佐伯さんは、廊下の蛍光灯を見上げた。


「静かにしている、というか。

 ただ、ひとりでいる時間が長いだけですよ」


 自嘲気味な笑い方だった。


 思い切って聞いてみる。


「さっき、コンビニの前で、お孫さんといらっしゃいましたよね」


「……見ていたんですか」


「はい。

 楽しそうでした」


 佐伯さんの表情が、ほんの少しだけゆるむ。


「孫と一緒のときは、うるさくてたまらないですよ。

 でも、静かなのも、たまらなくてね」


「静かなのも、たまらない?」


「ええ」


 佐伯さんは、言葉を選ぶように続けた。


「息子夫婦が来るのは、月に一度か二度。

 孫が帰ったあとは、やけに部屋が広く感じるんです」


 それは、想像に難くなかった。


「だから、余計、音が気になるのかもしれませんね。

 “ここにいるのは自分ひとりだ”ってことを、

 音が、いちいち教えてくるもんですから」


 あんたの心がわかったらどんだけ楽か――

 そう思っていたけれど。


 今、少しだけ、その輪郭が見えた気がした。



「昔は、こっちがうるさいと言われる側だったんですよ」


 佐伯さんは、ふっと笑った。


「子どもが小さい頃は、夜泣きもひどくて。

 アパートの管理人に、よく怒られました」


「そうなんですね」


「“もう少し泣き止ませてください”なんて、

 簡単に言うもんじゃないのにね」


 その言葉が、少し胸に刺さる。


「だから、本当は、

 “静かにしてください”なんて二度と言いたくないはずなんですが」


「でも、言ってしまう?」


「ええ。

 静かすぎる部屋で、音だけが一瞬大きくなると、

 腹が立つんです」


 佐伯さんは、手すりにそっと触れた。


「“ああ、この壁の向こうには、ちゃんと誰かいるんだな”と思うと、

 なぜか、羨ましくもなる」


 羨ましい、という言葉は、

 思ってもいなかった方向から飛んできた。



「だからといって、

 急に優しい隣人になる自信はありませんが」


 佐伯さんは、少しだけ照れたように言った。


「音が気になるときは、多分これからもあります。

 そのときはまた、言ってしまうでしょう」


「……そうですか」


「ただ、もしよければ」


 そこで言いよどみ、

 佐伯さんは小さく咳払いをした。


「“うるさいですよ”と言われたときに、

 “すみません”だけじゃなくて、

 “今日はこういう事情があるんです”くらいは、

 教えていただけると助かります」


「事情、ですか」


「ええ。

 “友人が久しぶりに来ている”とか、“子どもがはしゃいでいる”とか。

 そういうのがわかれば、

 こちらも、少しは心の準備ができますから」


 それは、苦情ではなく、

 「会話」の提案に聞こえた。


「……わかりました」


 私は、自然に頭を下げていた。


「今度、また友だちを呼ぶとき、

 先に一言お伝えしますね」


「そのときは、私も耳栓でも買っておきます」


 めずらしく、佐伯さんの口元に笑みが浮かんだ。



 数週間後。

 大学時代の友人たちを家に招くことになった。


 玄関を出て、隣の部屋のインターホンを押す。


「はい」


「お隣の山本です。

 今日、夕方から友人が数人来るので、

 多少、話し声が聞こえてしまうかもしれません」


 一瞬の沈黙のあと、

 インターホン越しに小さな笑い声が聞こえた。


「わざわざ、ありがとうございます。

 楽しんでください」


「なるべく、0時前にはお開きにします」


「それくらいなら、私も起きてますから」


 ドアの向こうの空気が、

 少しだけ柔らかくなった気がした。



 その夜。

 友人たちと笑い合いながらも、

 私はふと、隣の部屋のことを意識していた。


(今、どんな気持ちでいるんだろう)


 うるさいと感じているかもしれない。

 でも同時に、

 「壁の向こうにも誰かがいる」と、

 少しだけ安心してくれていたらいいな、とも思う。


 あんたの心がわかったらどんだけ楽か――

 全部を理解することは、多分できない。


 それでも、「なんでそんなにうるささに厳しいのか」を、

 少しだけ聞いてみたら。


 “なんでも苦情を言うご近所さん”は、

 “静かすぎる部屋で、誰かの気配を探している人”に変わった。


 その夜、友人を見送って部屋に戻ると、

 ポストに小さな紙袋が入っていた。


『ささやかなお詫びとお礼です。

 うるさくしてすみません、の分と、

 わざわざ知らせてくださってありがとう、の分を込めて』


 中には、耳栓と、

 個包装のクッキーがいくつか入っていた。


 私は台所の電気をつけて、

 クッキーを一つ口に運びながら、

 壁の向こう側に向かって、心の中でつぶやいた。


(これからもきっと、何回かは注意されるんだろうけど)


 そのたびに、

 「うるさいですよ」の裏にある気持ちを、

 少しだけ想像してみようと思った。

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