第10話「マウントを取るママ友」
幼稚園のママ友グループLINEには、いつも綾香さんがいる。
『今日の健太、また自分でお着替えできました。
「ママ、もう手伝わなくていいよ」だって。親離れ早すぎ〜』
写真:きちんと畳まれたパジャマと、ニコニコの男の子。
『この前の発表会の動画、先生に褒められちゃって。
「お家で練習いっぱいしてるんですね」って。
私なんて何もしてないのに〜』
(いや、絶対してるでしょ)
私はスマホの画面を消して、ため息をついた。
グループの別のママがすぐに返信する。
『さすが健太くん!!』
『綾香さん、ほんとえらい〜』
その流れの中で、「うちは昨日も寝る前にギャン泣きでした」とは書きづらい。
(なんか、いつも「私は何もしてないのに〜」とか言いながら、
実績だけしっかり報告してくるんだよな……)
いわゆる“謙遜マウント”。
そう名付けてから、余計に気になり始めた。
「……あんたの心がわかったらどんだけ楽か、って感じだよ」
キッチンで洗い物をしながら、思わずつぶやく。
こっちは仕事に家事に育児でいっぱいいっぱい。
毎晩「お風呂入るのやだー!」と逃げ回る息子の悠斗を追いかけるので精一杯なのに。
「自分で着替える」とか「自分で片づける」とか、
他人の“できた報告”を見せられると、
こちらの「できてない」が、くっきり浮き上がる気がする。
◇
ある日、幼稚園の参観日。
教室の端っこに立って子どもたちを見ていると、
隣に綾香さんが立った。
「遥さん、おつかれさまです」
「あ、どうも」
ぎこちなく頭を下げる。
綾香さんは、きちんとメイクされていて、
淡い色のワンピースがよく似合っている。
(こっちは朝ギリギリまで息子にパン食べさせて、
マスカラ片側だけ塗って飛び出してきたのに……)
比較したって意味がないとわかってはいる。
でも、同じ空間に並ぶと、どうしても目についてしまう。
授業が終わり、解散になったあと、
園庭で子どもたちを遊ばせながら、ママたちで立ち話になった。
「あのシャボン玉の遊び、可愛かったね」
「うちの子、全然前に出ないから心配になっちゃった」
私がそう言うと、綾香さんが笑いながら言った。
「うちは逆に出すぎて困っちゃって。
なんでも『僕が僕が』なんですよ。誰に似たんだか」
(はい出た、“うちは大変なんですアピール”)
心の中で毒づきつつも、口には出さない。
「でも、ちゃんと発表できててすごいなって思いましたよ」
別のママが言うと、綾香さんはまた、
「私なんて何もしてないんですけどね」と笑った。
(何もしてない人の笑い方じゃないんだよな……)
モヤモヤが、じわじわと溜まっていく。
◇
その数日後。
幼稚園から「クラス係のお手伝い募集」のお知らせが来た。
仕事との兼ね合いを考えながら悩んでいると、
グループLINEに綾香さんからのメッセージが届く。
『クラス係、私やりますね。
仕事もあるんでちゃんとできるか不安ですけど、
誰か一緒にやってくれる方いますか?』
すぐに返信が続く。
『綾香さん助かる〜!』
『私は下の子がぐずるから難しいかも』
『私もフルタイムで…ごめんなさい』
(……だよね。
誰も手を挙げないやつ)
スタンプだけがぽこぽこと飛ぶ中、
私はスマホを握りしめたまま迷った。
(仕事あるのに、係もやって、
あの完璧な育児もして、
あの身だしなみも維持してるとしたら……)
イラっとする気持ちと同時に、
自分が何もしていないような劣等感が押し寄せる。
結局、「忙しいので…」と無難にスタンプだけ押して、
スマホを裏返した。
◇
その週末。
幼稚園の行事の準備で、
数人のママが集まることになった。
たまたま仕事の休みが合い、
「少しだけなら」と私も顔を出すことにした。
園のホールで、飾りつけ用の画用紙を切っていると、
隣のテーブルで綾香さんが、
大きな模造紙に文字を書いているのが見えた。
その手が、わずかに震えていた。
「……あれ?」
思わず、声が漏れる。
「どうかしました?」
同じテーブルのママが首をかしげる。
「いえ、なんでもないです」
ごまかしながらも、
気になって視線が何度もそちらに向かう。
綾香さんは、几帳面に文字の輪郭を下書きして、
ゆっくりとペンを動かしている。
でも、線はまっすぐではなく、
ときどき細かく揺れていた。
◇
準備が一段落したあと、
他のママたちが先に帰り、
たまたま私と綾香さんだけが残った。
「すみません、これだけ貼ったら帰りますね」
「私もです」
ホールの片づけをしながら、
私はずっと迷っていた。
(聞くか、聞かないか)
でも、このままモヤモヤを抱えたままなのは、
もう少しだけしんどかった。
「あの……」
声をかけると、綾香さんが振り向く。
「さっき、文字書いてたとき。
手、震えてましたよね」
一瞬で、綾香さんの表情が固まる。
「……見えてました?」
「いや、なんか、たまたま目に入って」
しまった、言い方が直球すぎたかもしれない。
取り繕おうとする前に、
綾香さんが小さく笑った。
「恥ずかしいですね、これ」
そして、両手をぎゅっと握って見せた。
「私、人前で字書くの、めちゃくちゃ緊張するんです」
「え?」
「小学校のとき、字が汚いって先生にすごい言われてて。
みんなの前で『もっと丁寧に書きなさい』って、何回も板書をやり直しさせられて」
意外な話だった。
「それ以来、人に見られながら書くの、すごく怖くて。
でも、係やってると、“書記”とか“ポスター係”とか回ってくるじゃないですか」
「……うん」
「逃げたいんですけど、逃げたら逃げたで、
『あのママ、何もしないよね』って思われそうで」
あんたの心がわかったらどんだけ楽か――
今、綾香さんは、自分でそれを説明してくれている。
「LINEでも、よく“できたこと”報告してるじゃないですか、私」
綾香さんは、申し訳なさそうに笑った。
「うん……正直、すごいなぁとは思ってた」
「“すごいなぁ”って思われてるなら、まだいいんですけど」
「他になんかあるんですか?」
「……“ちゃんとしてる人”って思われてないと、
怖いんです」
その言葉は、思っていたよりずっと重かった。
「うち、夫が仕事で家にいないこと多くて。
両親も遠くて、頼れる人いなくて。
だから、“ちゃんとしたママ”でいないと、
“ダメな親”って思われるんじゃないかって、
ずっとびくびくしてるんです」
「ダメな親って……」
「昔、近所のおばさんに言われたことがあって。
公園で健太が泣き叫んでたときに、
『お母さん、しっかりしなきゃだめよ』って」
綾香さんは、視線を下げた。
「それがずっと刺さってて。
“しっかりしてる風”に見せることで、
自分を守ろうとしてるのかもしれないです」
胸の奥で、何かがカチッと噛み合う。
グループLINEでの“できた報告”。
謙遜しながらも、ちゃんと成果を並べるあの文章。
(あれって、“マウント”というより……
“確認”だったのかもしれない)
「私、大丈夫ですよね?」
「ちゃんとやってますよね?」
そう言っているようにも、今なら聞こえる。
「でもさ」
気づけば、口が勝手に動いていた。
「私、ちょっと羨ましかったですよ。
あんなにちゃんと報告できて、
ちゃんと係まで引き受けて」
「羨ましい、ですか?」
「うん。
私は逆に、“ダメなママだってバレたらどうしよう”って思って、
“何もしてない風”で生きてますから」
自嘲気味に笑うと、綾香さんも吹き出した。
「何もしてない風……わかります」
「LINEで、『今日は疲れたから冷凍からあげ』とか書こうとしても、
『ちゃんとご飯作ってない親』って思われる気がして、消しちゃうし」
「私も、『怒ってばっかりになっちゃった』とか書きたいのに、
『あの人いつも余裕ないのね』って思われそうで、やめちゃいます」
「結果、“できたこと”だけが並ぶ」
「そうなんですよね……」
二人でため息をついて、同時に笑った。
◇
「じゃあさ」
私は、思い切って提案した。
「今度から、たまに“できなかった報告”もしません?」
「できなかった、報告……」
「今日も、『悠斗、お風呂前にポテチ食べてて、
歯みがき大戦争でした』とか」
「うちも、『寝かしつけ三回失敗しました』って書けるかも」
「“ちゃんとしてる風”やめたら、
ちょっと楽になる気がする」
綾香さんは、少しだけ考えてから、
ふっと笑った。
「……遥さんって、思ってたよりずっと怖くないですね」
「え、私、怖く見えてました?」
「見えてました。
“グループの中で一番落ち着いてて、
心の中でみんなのこと冷静にジャッジしてそうな人”」
「ひどくないですか」
「ほめてるんですよ」
お互いの「思い込み」が、ぽろぽろ剝がれていく感じがした。
◇
その日の夜。
グループLINEに、綾香さんからメッセージが届いた。
『今日、係の準備ありがとうございました。
実は、字を書くのめっちゃ緊張して手震えてました。
次からちょっと崩れてても見逃してください』
続けて、私も送る。
『私も、こっそり画用紙を斜めに切ってました。
几帳面キャラじゃないのバレそうなので、
「斜め上手」ってことにしてください』
すぐに、他のママたちからも返信が来る。
『わかります! 私も人前で字書くの苦手です』
『斜め上手、いいですね』
『じゃあ私は「のりつけ雑担当」ってことで』
タイムラインには、
それまで見えなかった “できない” の笑い話が、少しずつ増えていった。
あんたの心がわかったらどんだけ楽か――
そう思っていたけれど。
“マウントを取るママ友”の正体は、
「ちゃんとしてない自分がバレるのが怖い人」で、
“何もしてないふりをする私”もまた、
同じ怖さを抱えていただけだった。
全部をわかり合うことは、多分できない。
それでも、「できたこと」だけじゃなく「できなかったこと」も、
少しだけ見せ合えるようになっただけで――
幼稚園のママ友グループの景色は、
前よりずいぶん、息がしやすくなった気がした。




