第1話「母の置き手紙」
キッチンのテーブルの上に、また一枚、メモが置いてあった。
丸い字で、少しだけ力の入りすぎたボールペンの跡。
カレー、温めて食べてね。
塾、がんばって。
母より
俺はため息をついて、そのメモをくしゃっと丸めた。
「母より」って、同じ家にいるのに、なんだよそれ。
夕方のリビングには、カレーの匂いとテレビの音だけが残っている。
肝心の母親は、また夜勤。看護師になってからずっと忙しくて、ここ数ヶ月、まともに顔を合わせていない気がする。
「心配ならさ、ラインでいいじゃん……」
文句を言いながらも、結局、鍋を開けてカレーを温める。
皿に盛って一口食べると、ちゃんといつもの味がした。少し辛くて、でもじゃがいもがほろほろで、なんか悔しい。
テーブルの端には、昔の家族写真が立てかけてある。
父さんがいた頃、三人で撮ったやつだ。
父さんがいなくなって、母さんはもっと働くようになって、俺はもっと話さなくなった。
「……あんたの心がわかったらどんだけ楽か、だよ」
思わず、口からこぼれた。
母さんが何を考えているのか、本当はよくわからない。
俺のこと、どう思ってるんだろう。
父さんのこと、今でも好きなんだろうか。
俺がもっといい成績取れば、少しは楽になるのかな。
そんなことを考えながら皿を洗っていると、玄関の鍵が回る音がした。
「ただいまー……あ、ごめん、起きてた?」
母さんが、少し疲れた声で言う。髪は少し乱れていて、制服の袖にはアルコールの匂いがしみついている。
「うん。今、片づけてた」
「あ、カレー食べた? どうだった?」
「普通。いつも通り」
「あら、そっか。よかった」
母さんは笑ったけど、その笑顔は短くて、すぐに「あー疲れた」とソファにどさっと沈んだ。
こういうとき、本当は「お疲れさま」とか言えばいいのかもしれない。
でも、口がうまく動かない。
かわりに、さっき丸めたメモをポケットから出して、テーブルの上にそっと置く。
「ねぇ、かーさん」
「んー?」
「さ、最近さ……その、メモ、多くない?」
「ああ、置き手紙? ごめんね、うざかった?」
母さんは苦笑しながら言う。
「うざい」とは言えなくて、俺は黙って首を横に振った。
「ラインしてくれてもいいのに。…紙、わざわざ書かなくてもさ」
言ってから、「しまった」と思った。責めるみたいな言い方になった。
母さんは、少しだけ目を丸くしてから、視線をメモに落とす。
「……あんた、あれ、見てたんだね」
「見ないわけないじゃん。テーブルの真ん中にいつも置いてるし」
「そっか……」
母さんは、ソファから体を起こして、テーブルの方に向き直った。
その顔は、どこか申し訳なさそうで、でも少しだけ、安心したようにも見えた。
「ライン、何回も打ちかけたんだよ、実は」
「え?」
「『今日も塾かな?』とか、『ちゃんとご飯食べてる?』とかね。
でも、送る前に、これ見返すじゃない」
母さんは、スマホを持つ真似をして、笑うように肩をすくめる。
「……なんか、急に重たく感じて。既読、つかないかもなーとか、返事なかったらやだなーとか。
紙なら、返事いらないから、ちょっとだけ気楽なの」
「返事いらないって……」
「いやでしょ? 仕事中、いきなり長文とか来たら」
「そんな送らないし」
「うん、あんたはそうだろうね。でも、こっちが『話しかけてる』って思われるだけで、重いかなって」
母さんの言葉は、いつもの軽い調子なのに、どこか本音が混ざっている気がした。
「……重くないけど」
俺は、テーブルの木目を指でなぞりながら、小さな声で言う。
「ていうか、紙で置いてたらさ。話しかけられないし」
「話しかけられない?」
「……帰ってきたときには、もうかーさんいないし。
メモしかないからさ。なんか、メモも俺も置いてかれてるみたいで」
自分でも、何を言っているのかわからなくなってきた。
でも、一度口を開いたら、止まらなかった。
「ちゃんと起きて待ってろって言われたら、それはそれでしんどいんだけどさ。
でも、たまには、メモじゃなくて、直接『いってらっしゃい』とか『おかえり』とか、言われたいっていうか……」
言いかけて、顔が熱くなる。
子どもっぽい。我ながら、面倒くさい。
母さんはしばらく黙って俺を見ていた。
その沈黙が苦しくて、逃げ出したくなったとき、ふっと息を吐く音がした。
「……そっか。ごめん」
「いや、謝ることじゃ」
「あるよ」
母さんは、ソファから立ち上がると、キッチンに歩いていった。
戸棚から、小さなメモ帳を取り出して、ビッと一枚破る。
そして、ボールペンで何かを書き始めた。
「なにそれ」
「ううん、ちょっと待って」
数秒後。
母さんは、その紙を俺の前に差し出した。
メモじゃなくて、話しかける練習中。
これ読んだら、こっち向いて「ただいま」って言って。
母より
「……なにこれ」
「直接言うの、私も久しぶりでちょっと恥ずかしいからさ。
まず、紙の力を借りてみる」
母さんは、少し照れたように笑った。
それが妙にずるくて、俺は笑いそうになるのをこらえる。
「じゃ、ほら。『ただいま』って言って」
「今さら?」
「今からでも遅くないでしょ」
馬鹿みたいだ、と思う。
でも、紙の一言に背中を押される感じが、少しだけわかった気がした。
俺は、メモを握りしめて、母さんの方をまっすぐ見た。
「……ただいま」
「おかえり」
母さんは、まっすぐにそう言った。
たったそれだけの言葉なのに、胸の奥がじんわりと熱くなる。
「こうやってさ、少しずつ慣れていけたらいいな。
あんたの心も、全部はわかんないし、たぶん一生わかりきれないけど」
母さんはそう言って、俺の頭をぽんと軽く叩いた。
「でも、わからないなりに、近づこうとするのは、やめたくないからさ」
「……それ、こっちのセリフなんだけど」
「お、珍しく言うじゃない」
からかわれて、思わず顔をそむける。
テーブルの上には、二枚の紙が残っていた。
「カレー、温めて食べてね」という、いつもの置き手紙と。
「ただいまって言って」と書かれた、少しだけ勇気のいるメモ。
あんたの心がわかったら、どんだけ楽か。
きっと母さんも、同じことを思っているのかもしれない。
全部わからなくてもいい。
こうやって、紙切れ一枚ぶんずつでも、近づいていけるなら――
それで、今は十分な気がした。




