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『夕餉の温もり』

作者: 小川敦人

『夕餉の温もり』


初夏の夕暮れが街を薄紅色に染める頃、私は駅前の小さな和食店へ足を向けた。高橋からのメッセージは簡潔だった。「PCがまた調子悪くて。例の店で相談させてください」。三か月ぶりの再会だった。

店の暖簾をくぐると、醤油と出汁の香りが迎えてくれる。

「お疲れさまでした」

直美さんが笑顔で迎えてくれた。六十四歳になった今でも、私にとって彼女は「なおみちゃん」だ。呼び方を変えるには、あまりにも多くの時間を共有しすぎた。四十三年前、私が入社四年目の春、高橋が新人として配属されてきた日から数えて。

「なおみちゃん、お疲れさま」

その笑顔は、亡き妻・三津子が見せてくれた微笑みとどこか似ている。二人は仲が良かった。私たち四人でよく出かけた温泉旅行、映画館での爆笑、居酒屋での深夜の語らい。今思えば、それは平凡という名の奇跡だった。

奥の席で高橋が手を挙げて待っていた。私より七歳年下だが、もう白髪が目立つ。時の残酷さを感じる一瞬だったが、すぐに彼の変わらない人懐っこい笑顔に心が和んだ。

「よう、お疲れ」

「こちらこそ。またお世話になります」

私たちの間には、もう説明の必要な言葉はない。彼のPCトラブルは大抵、息子や娘に聞くのが気が引けるレベルの初歩的なものだ。でも私は、彼が私を頼ってくれることが嬉しい。年を重ねると、人から必要とされる機会が驚くほど減っていく。

テーブルに並ぶ季節の前菜を眺めながら、高橋が近況を話し始めた。

「最近どう?」

私は曖昧に頷いた。三津子が亡くなって十五年。「慣れた」と言えば嘘になるが、「まだ辛い」と言うのも、この年になって甘えているようで気が引けた。

「実はね」となおみちゃんが箸を置いて話し始めた。「パートで面白い出来事があったの」

彼女は百円ショップの配送センターで働いている。週三日、午前九時から午後四時まで。家計の足しにと始めた仕事だったが、今では生活のリズムを作る大切な時間になっているらしい。

「でもあの倉庫、本当に過酷なのよ」となおみちゃんが苦笑いを浮かべた。「空調設備なんて高級品は当然なくて、この時期になると外気温が三十度を超えると倉庫内は三十五度近くになる。汗が目に入って、タオルが手放せないの」

高橋の眉間に心配の皺が寄った。

「無理しちゃダメだよ。体調崩したら意味がない」

「でもね、意外と悪くないのよ。スマホの歩数計を見ると、毎日一万二千歩から一万五千歩は歩いてる。おかげで体重も三キロ落ちたし、夜もぐっすり眠れるようになった」

なおみちゃんの表情には、単なる我慢ではない、何か前向きな光があった。

「それで、印象的な人がいるの」

彼女は声のトーンを少し落とした。話す内容を大切に扱うような、そんな話し方だった。

「七十二歳のおばあさん。田中さんっていうんだけど、私より八歳も年上なの。毎朝八時四十五分きっかりに出勤してきて、制服に着替えるのも一番早い。あの灼熱の倉庫で、文句ひとつ言わずに黙々と作業してる」

私は箸を止めて、なおみちゃんの話に耳を傾けた。

「ある日、休憩時間に田中さんに聞いてみたの。『こんなに大変なのに、なぜ続けるんですか』って。そうしたら、こう言われたの」

なおみちゃんの声が少し震えた。

「『家にいると、一日誰とも話さない日がある。でもここに来ると、おはよう、お疲れさまって言葉を交わす人がいる。それが何より嬉しいの。この仕事が私の生きがいなのよ』って」

テーブルに沈黙が降りた。私も高橋も、その言葉の重みを噛み締めていた。

「胸がいっぱいになっちゃって。人は年を取っても、いえ、年を取るからこそ、人とのつながりを求めるものなのね」

高橋が静かに妻の手に自分の手を重ねた。そんな夫婦の姿を見ていると、私の胸の奥にも温かいものが広がっていく。

「もう一つ、心に残ることがあったの」となおみちゃんが続けた。「二十三歳の女の子の話なんだけど」

今度は表情が明るくなった。

「山田さんっていう子で、最初は本当に暗い顔をしてたの。挨拶してもボソボソとしか返事しないし、休憩時間も一人でスマホをいじってる。きっと何か事情があるんだろうって、みんなで見守ってたの」

なおみちゃんの話し方には、人への深い愛情が込められている。聞いているだけで、彼女がどれほど周りの人を大切に思っているかが伝わってくる。

「でも三か月ほど経った頃から、だんだん表情が明るくなってきて。先週なんて、休憩時間に私たちのところに来て、こう言ったの」

なおみちゃんの顔が輝いた。

「『おばちゃんたち、毎日一万歩以上歩いてるのにすごく元気ですね。私も見習わなくちゃ』って。そして『最初は嫌で嫌で仕方なかったけど、皆さんがいるから、この暑い仕事も楽しくなりました』って」

その瞬間、私は何か大切なことを思い出したような気がした。人は一人では生きていけない。でも同時に、一人一人が他の誰かにとって大切な存在になり得るということも。

「人って、本当に色んな想いを抱えて生きてるのね。汗を流して働くことで、かえって心が軽くなることもある。私もその一人かもしれない」

なおみちゃんの言葉が、私の心の奥深くに響いた。私自身、三津子を亡くしてから漠然とした憂鬱を抱えている。それも、きっと人生の重荷の一つに過ぎないのだろう。

「懐かしい話をしていい?」と高橋が遠い目をして言った。「入社した頃、先輩によく飲みに連れて行ってもらったよな。あの頃の俺、何も分からなくて」

「ああ、覚えてる」

記憶の扉がゆっくりと開いた。あの頃の高橋は初々しく、私は彼に会社のことを教えながら、自分も多くのことを学んでいた。先輩後輩という関係が、いつしか対等な友人関係へと変化していく過程を、私たちは自然に受け入れていた。

「三津子さんもよく一緒に来てくれましたね」となおみちゃんが優しく微笑んだ。「本当に温かい方でした」

亡き妻の名前が出ると、胸が締め付けられる。でも今夜は不思議と、悲しみよりも感謝の気持ちの方が大きかった。

「あいつもお前たちと過ごす時間を大切にしていた」

「私たちも大好きでした」となおみちゃんが静かに答えた。「だから今でも、こうしてお会いできることが本当に嬉しいの」

その言葉を聞いた瞬間、私の心に積もっていた重いものが、雪解けのように溶けていくのを感じた。一人でいることの寂しさ、年を重ねることへの不安、将来への漠然とした恐れ。それらがこの夫婦との時間の中で、取るに足らないもののように思えてきた。

「実は今日、少し気持ちが沈んでいた」

私は思い切って本音を口にした。高橋となおみちゃんは、驚いた素振りも見せずに静かに頷いた。

「そんな時もありますよ」と高橋が言った。「俺だって、理由もなく憂鬱になることがある。でも先輩とこうして話していると、何だか安心するんです」

「本当にそうね。こうして昔からの方とお会いしていると、自然と気持ちが軽くなる。それが友情の力なのかもしれませんね」

まさに今、私が実感していることだった。四十三年という歳月が築き上げた信頼関係は、どんな慰めの言葉よりも強い癒しの力を持っている。

時計の針が九時十五分を指していた。いつもより長居をしてしまったが、心から充実した時間を過ごすことができた。

「そろそろお暇しないと」

私が立ち上がると、なおみちゃんも慌てて席を立った。会計は今夜も高橋が済ませてくれた。

「PCの件、来週末にでもお願いします」

「わかった。こちらこそ今日は、ありがとう」

本当に価値のあるものとは何か。それは長い時間をかけて育まれた人間関係なのかもしれない。お金でも地位でも名誉でもない。こうして心を通わせ合える人がいること、それこそが最も貴重な財産なのだろう。

駅への道のりを一人歩きながら、私の足取りは来た時とは明らかに違っていた。軽やかで、心の奥に温かいものを抱えているような感覚があった。憂鬱が完全に消えたわけではない。でも、それと向き合う勇気と力が戻ってきた。

三か月後、また三人でテーブルを囲むだろう。特別な話題があるわけではない。日常の些細な出来事を分かち合い、過去の思い出を語り、そして互いの存在を確認し合う。それだけで十分なのだ。

長い人生で出会える真の友人は数少ない。高橋夫妻は、紛れもなく私にとってかけがえのない存在だ。そして私もまた、彼らにとって同じような存在でありたいと心から願っている。

バスの座席に身を委ねながら今夜を振り返ると、すべてが夢のように感じられた。でも心に残る確かな温もりが、それが間違いなく現実だったことを証明してくれる。

家に着いて鍵を開けながら、私は小さくつぶやいた。「ただいま」。返事をする人はいない。でも今夜は、その静寂が孤独ではなく、静謐な安らぎのように感じられた。

明日からまた一人の日常が始まる。でも今夜のような温もりを胸に秘めていれば、どんな困難も乗り越えていけるような気がした。

人は一人では生きられない。しかし真の友情があれば、どのような孤独も恐れるに足りない。四十三年という時の重み。それが今夜ほど愛おしく、そして力強く感じられたことはなかった。

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