『 新しい日常 』
歩道の桜の木は、葉の大半を落とし寒々しい姿を見せる。
残ってる葉はほんの天辺付近だけ...。
もう、冬だ。
でも、冷たい風が吹いているわけではなく、日差しは暖かい。
今日は、とっても良い天気。
穏やかな午後。
お昼ご飯のあと、舞ちゃんとわたしはボーっとテレビを見ていた。
いいねぇ...。こののんびりとした時間。
まぁ、診察時間も同じようにボーとしてんだけど、緊張感が違うものね。
さて...。
「どーする?家帰る?」
わたしは向いに座っている舞ちゃんに聞いた。
「あ、本屋さん行ってきます」
「わたしも行きたいな。一緒に行こうか」
出かける準備のために、わたしたちは椅子から立ち上がった。
すると、電話が鳴った。
舞ちゃんが出る。
しばらくして...。
「なんだか、胃拡張かも?って言われてます」
そんなんで、穏やかだった午後の時間は一変した。
わたし、胃拡張ってあんまり診たことないんだよね。
記憶を辿ってみると、2例かな?
ひとつは、胃捻転を伴っていて病院に来る前に死亡。
ふたつめも胃捻転を起こしてて、この子は手術して助かったかな。
救命率50%か...。
しばらくしてやってきた柴犬のヒナちゃんは、自分で歩いてきたものの診察台に乗ったらちょっとぐったり。
この子、来院が久しぶりなんだけど、しかし、なんだこのやせ具合は?
ちょーガリガリ...。なので、おなかの膨らみがかえって目立つ。
大きく膨らんだ前腹部を指で弾くと、空気が充満した高い音がした。
「いつから、こんなですか?」
「お昼前に少し家を空けていて、戻ったら様子がおかしくなっていました」
「ちょっとおなかを診てみますね」
舞ちゃんに合図してエコーを用意してもらう。
そして、おなかにプローブをあてる。
胃にかなり液体が貯まってそう。
脾臓か? 変な位置にあるぞ。
「やはりかなり胃が膨らんでいそうですね」
「胃捻転でしょうか?」
「可能性は高いですね。レントゲン撮ってみます」
飼い主さんには待合室で待っていてもらい、わたしはヒナちゃんを抱きかかえるとレントゲン室へ向かった。
撮影条件を合わせる。
「じゃぁ、まず横から」
1枚撮影。
もともと大人しい子だったけど、全然抵抗しない。しんどいのかな?
「次ぎ仰向け...、やっぱ、うつぶせでいいや」
2枚目終了。
「あ、吐きそうです」
ヒナちゃんがレントゲン台の上で戻す仕草をし始めた。舞ちゃんが慌てて何か受けるものを探す。
でも、なんにも出ない。
まずいな、こりゃ...。
レントゲンの結果はと言うと、巨大に膨らんだ胃。
「間違いなさそうですね」
レントゲンを見ながら、飼い主さんに説明をする。
出来るだけ早く処置をした方がよさそう。
「まず、胃に管が入るかやってみますね」
バイトブロック噛ませて、胃チューブを入れる。
入んない。
嘔吐できないんだから、入んないよね。
もう一度、飼い主さんに状態を説明。
完全に捻れちゃってるから、ショックと壊死が心配。
とかなんとかいってる間にも、ヒナちゃんの状態は悪化してる。
「どーします?」
飼い主さんは手術を希望。
ならば、とっととはじめよう!
まず、留置。
血圧低そう、血管が出にくい。
よし、入った。
全開で点滴を落とす。
舞ちゃんに付いていてもらい、わたしは手術の準備。
「ああ...」
手術室まで舞ちゃんの悲痛な声が聞こえてきた。
慌てて手術室から戻ると、なんとヒナちゃんが虚脱状態。
やっべ~。
PFA見てみる。触れない...。
まずいぞ!
18Gの針を手に持ち、膨らんだおなかに狙いを定める。
待てよ、消毒した方がいいかな。
手に持っていた針を口にくわえ、バリカンで右前腹部の毛をわずかに刈り、イソジンをかけた。
そして針を突き刺す。
ぷしゅ~という音とともに、胃の中のガスが抜けだした。
しかしすぐに出なくなる。
ディスポを付けて今度は強制的に吸い出す。
ドロッとした粘稠性の高い液体が抜けてくる。
1回、2回...。
何度も繰り返す。
けど、しばらくすると再び針がつまって抜けなくなった。
まだおなかは大きい。
「脈触れます」
舞ちゃんが股動脈を触りながら言った。
ヒナちゃんも上体を起こそうと動きだした。
ふぅ...。
なんとか危機脱出。
「死んじゃったかと思いました...」
舞ちゃんがまだ緊張の残る顔をしながら言った。
なんだか、あんまりのんびりしてられないみたいだね。
ドルミカム静注。
アトロピン使うなって書いてあったな。
だったら一気に寝てくれた方が良いから、ケタで。
挿管。
さぁ、手術室へ!
ちらりと時計をみると2時半。4時までに終わるかな...。
大きく毛を刈って、消毒する。
幸いなことに麻酔は安定してる。
緊急手術だから、術衣もディスポ。
「ホチキス出しといて、最後もホチキスね」
ドレープの固定も皮膚の縫合もホチキスを使って時間短縮をはかるぞ。
今日の手術は、ちょー豪華仕様だ!
剣状突起からお臍を通過して一気に皮膚を切開。
やせてるから、全然脂肪がない。
膨らんだ胃を傷つけないように腹壁に穴をあけ、前後に広げる。
姿を現す巨大な胃。
もっと切開を広げなきゃ。
さらに前後に広げる。
それでも見えるのは膨らんだ胃の一部だけ。
まいったな、こりゃ...。
もう一回針刺して抜いてみようか...。
「針ちょうだい...」
直接胃に針を刺す。
でもほんのちょっとしか抜けなくて、あまり事態は変わんない...。
さっきのでガスはほとんど抜けたから、あと入ってるのは粘っこい液体だものね。
このまま整復するしかないか。
さて...ってことで、
目の前の状況にしばし悩む。
いったい、どっちに捻れてんだぁ...。
頭の中でイヌの3D画像をイメージして、物思いにふける。
どっちに捻れることが多いんだっけ?
ダメだ、よく分かんない。
脾臓がこんなとこにあるわけだから...、
上には脾臓が通った痕がないし...、
となると、こっち向きか。
おなかの中に大きく手を突っ込んで胃を回す。
『もどれ!』
すると、ごろんと音を立てたような感じで回転した。
おお、ラッキー!!
元の位置に戻ってくれた...と思う。
「チューブ入れてみて」
舞ちゃんが口にチューブを差し込む。
どんどん入って行く。
するとチューブの端からドロドロの液体が出始めた。
舞ちゃんが慌ててバケツで受ける。
これで胃チューブも無事到達。
「強制的に抜いた方がいいですか?」
「ちゃんと出てれば自然落下でいいや」
中身が抜けるに連れ、少しずつ胃が小さくなってゆく。
「あ、出なくなりました」
「吸ってみて」
「ダメですね」
チューブが詰まったみたい。
まだ胃はかなり大きい。
切開して洗浄した方が早いね。
汚染しないように胃の周囲に何枚もガーゼを当てる。
支持糸をかけ、そして胃切開して、サクション入れて吸引。
そのあと何度か洗浄する。
朝に食べたという、リンゴの塊をいくつか発見した...。
食べさすなよ、こんなの...。
最後に胃を縫合。
周囲のガーゼを外す。
胃がすっきりしたら、なんだかがらーんとしたおなかになっちゃったなぁ...。
脂肪もほとんどなくって支えるものがないから、胃がごろんと捻れちゃったんだろうね。
まだ終わりじゃないぞ。
捻れたことでおかしくなっているところがないか、おなかの中を見てみる。
脾臓も腸管も問題なさそう。
胃壁に一か所だけ少し色が変わっているところがある。
切除するほどでもないと思うけど...。
念のため、パッチをあてる。
そして幽門付近を腹壁に固定。
これでやっと閉腹だ。
いつものように「どーしてこんなに大きく開けたのかなぁ」と後悔しながらおなかを閉じた。
時計を見る。
もう3時半過ぎてるよ。
「あとこっち見てるから、病院開けて」
そんなで夜の診察時間に突入した。
覚醒後。
なんだか様子がおかしい...。
どーして、こんなに元気なの...。
点滴のチューブは噛んで引き千切るし。
エリカラ付けると、取ろうとして暴れるし。
首輪に付けた包帯をくわえてぶんぶん振り回すし...。
異常にしかも陽気に元気あり過ぎ...。
「あ、元気そう...」
面会に来た飼い主さんも、そー言って帰って行った...。
万が一、胃壁が壊死したら...。
腎不全でも起こしたら...。
これからかな。
そんなで、今の元気な姿を見ても不安は尽きなかった。
午後7時。
外来の診察よりも、元気あり過ぎのヒナちゃんの世話で夜の診察時間は終わったようなものだった。
「おつかれさま...」
「おつかれさまでした」
舞ちゃんを送ったあと、病院の戸締まりを確認する。
電話は留守電に。
そして、入院室に行き、ヒナちゃんの様子を見る。
ちょっと落ち着いたかな。
入院室を出て電気を消した。
「おまちー」
隣の入院室の扉を開け、声をかけた。
ケージの中には待ちくたびれた様子のはぐちゃんがいる。
ケージから出すと大きく伸びをした。
一緒に階段を上がり2階へ。
部屋に入ると、はぐちゃんは急いでトイレへ走る。
そのあとバスターキューブで遊ばせる。
わたしは隣の部屋で夜ご飯の準備。
バスターキューブの中身がなくなるとくわえて持ってくるので、その度に中にフードを入れる。
それを3回ほど繰り返すと、わたしの食事が出来上がる。
今日はとり肉にチーズのっけてオーブンで焼いたのと簡単なサラダ。
はぐちゃんには、フード入りコングのナイラボーン詰めをあげる。これでわたしの食事の時間が十分とれる。
それじゃ、いただきまーす。
しばらくすると、はぐちゃんはナイラボーンをコングから引き抜き、コングを転がしながら中に入っていたフードを食べる。
コングの中のフードがなくなったことが分かると、満足したかのように自分でケージの扉を開け中に入る。ナイラボーンを持って...。
ほんと、世話のかからない子。
でも、ケージの扉閉めないと、また出てきて遊んでるけど...。
食事が終わり後片付けをしたあと、本を読んだり、ちょっと絵を描いてみたり。
そして、お風呂入って...。
髪を乾かすと、至極の時間の始まり。
ぶしゅ...と、ビールを開ける。
一口飲み、携帯を手に取る。
発信...。
「あ、もしもし、大丈夫?」
「大丈夫だよ」
「もう、飲んでるの?」
「とっくに」
「今日ね、胃捻転が来た」
「助かった?」
「うん、手術して戻した」
「おつかれさん」
「でね、その子、覚醒したあとすっごくハイテンションだったの。もう、元気あり過ぎって感じ。なんでだろ?」
「麻酔とか、何使った?」
「ドルミカムとケタ」
「ドルミカムならあるかもね...。でも、手術終わった頃には切れてるか」
「だよねぇ...」
「まぁ、元気がなくって心配するよりもいいでしょ」
「遅れて何かでないかちょー心配」
「大丈夫だよ...」
離れた場所で、お互いにビールを飲みながら、電話でこんな会話をする。
これが、日課になってる。
症例の話をしたり、
愚痴を言ったり、
読んだ本の話をしたり、
ただ、電話がつながっているだけだったり...。
でも、こーいうのってきりがないから、時間を決めてる。
わたしがビールをひと缶飲み終えるまで...。
ゆっくり飲めばそれだけ長く話せる。
でもね、それじゃぁ、ビールが温くなってまずくなっちゃう。
会話も同じ...。
最後の一口を飲む。
「また、明日電話するね...」