私はロボットではありません
月夜だ。
下弦の月が地上の監視官のように漆黒の空で目を光らせている。眼下には、鉄道の小さな駅があり、構内の一角にはタクシー乗り場がある。いつの時代だろう。かなり昔のように見える。人の姿はない。停車しているタクシーは一台だけ。時間が流れる。しかし、人も他のタクシーも一向に現れない。日曜日の夜だった。何かが呟く声がした。物の怪か、この土地に棲む怨霊か、忌まわしい響きだ。「タクシーの運転手にとって、日曜の夜はたしかに暇だ。それにしても、今日は十二月二十四日だ。一年で一番忙しい日のはずなのに、利用者は一体どこへ消えた? 人類がタクシーを利用しなくなる日は遠からず来ると報じられていたが、こんなに急に現実になろうとは」。木枯らしが強く吹き、その声は消えた。この人気のない荒涼とした場所が再び静寂に包まれると、ただ一台ひっそりと停車しているタクシーから、女性ボーカルの甘く切ない英語の歌声が微かな音量で聞こえてきた。♪まだ若かった頃、よくラジオを聴いていたわ。お気に入りの曲がかかるのを今か今かと待ちわびながら♪。聴いたことがある曲だ。タイトルを思い出そうとしたその時、先ほどの声がまた聞こえてきた。「運転手は不慣れな新人のようだ。同じ場所で何十分も客を待っている時間があるなら、道を流しながら無線での配車指示を待つほうが遥かに営業効率がいいのに。いつ現れるかもわからない客をただひたすら待っているなんて。いいご身分だ」。木枯らしが再び声を掻き消した。
夜も更けてきた。タクシーの運転手は、その女性ボーカルの歌を飽きもせず聴き続けていた。やがて、三つの人影がゆっくりとそのタクシーに近づいてきた。タクシーを必要としている人類がどうやらまだいたようだ。運転手は音楽を止め、後部ドアを開き、乗車に備えた。
幼い少年と両親の三人家族がタクシーに乗り込んだ。運転手は安全確認をしてから後部ドアを閉め、行き先を尋ねた。父親は海岸通り沿いに建つ高層マンションの名を告げた。運転手は、ゆっくりと車を発進させた。
少年は黒い色のパーカーを着ていた。胸元には白く刺繍されたカンタベリー・オブ・ニュージーランドのロゴマークが見える。母親は北欧系だろうか、肩まで伸びた豊かな金髪が上品な印象を醸し出している。父親は長身の日本人でかなり年長のようだ。無精髭の所々に白い色が混ざっている。黒縁の眼鏡の奥に見える瞳は優しい牡鹿を彷彿させた。三人からは芝生の匂いが微かにした。少年は少し興奮している様子だった。どうやら運転手の姿にエキサイトしたようだ。その夜、運転手は(おそらく会社命令だろう)サンタクロースのコスチュームを着ていたからだ。運転手は熱い視線に気づいたのだろうか、少年の興味に応えるように話しかけた。
「何か音楽でもプレゼントしましょうか?」
少年は突然話しかけられ少し驚いた表情をしたが、すぐに笑顔で「お願いします」と答えた。
「リクエストはありますか?」
運転手は続けた。少年は首を振った。「お任せするようですよ」と横にいる母親が流暢な日本語で答えた。運転手は最初『きよしこの夜』をかけようと思ったようだが、それでは少年があまり喜ばないのではないかと考え直し、少し悩んだすえに『ゴッド・ディフェンド・ニュージーランド』を選曲した。なぜニュージーランド国歌を選択したかといえば、この少年はおそらく(ニュージーランドの)ラグビーが好きな子に違いないと思ったからだ。カンタベリーのロゴマークと芝生の匂いから、この家族は天然芝のラグビー場で試合を観戦してきたに違いないと運転手は推論した。その日は日本代表チームとオールブラックスのフレンドリーマッチが行われた日だった。
さぞ定番のクリスマスソングが流れると思っていたのだろう。『ゴッド・ディフェンド・ニュージーランド』が車内に流れた途端、親子三人は驚きのあまりお互いの顔を見合わせた。運転手のアイディアは的を射た選択だったようだ。少年の笑顔が広がった。運転手は心の中で・・・・ビンゴと叫んだ。少年が喜んでくれたことが我が事のように嬉しかったのだ。人に喜んでもらえる存在になりなさい。運転手はつねにそう言われて育ってきた。
やがて車は駅のロータリーを出て、一方通行の道路を通り、湾岸道路へと繋がるT字路で一時停止した。波の音がする。目の前には夜の海が広がっていた。信号が青に変わると、運転手はブレーキを解除した。ハンドルを左に切る瞬間、水平線の彼方に佇む三日月がじっとタクシーを見つめていた。
『ゴッド・ディフェンド・ニュージーランド』は二番に入っていた。少年は目を閉じて歌詞を口ずさんでいた。右手を胸に当てている。想像の世界でオールブラックスの一員になっているのだろうか? 余計な振動で少年が夢の世界から覚めないように、運転手はいつにも増して慎重に車を走らせた。視界の良い片側二車線の道路を通行する車両はこのタクシーのほかになく、運転手は同じ速度を維持しながらスムーズに車を走らせていた。前方に信号が見えた。青だった。運転手は速度を落とさず通過しようとした。その時だった。対向車線から大型のトレーラーがセンターラインを越え、タクシーめがけて猛烈な勢いで突進してきた。運転手はとっさにハンドルを切り衝突を回避しようとしたが間に合わな
かった。大型トレーラーと正面衝突した彼の車は大破し炎上した。衝突の直前、運転手はトレーラーを運転する男の顔を見た。居眠り運転ではない。意識はしっかりしていた。ただ、その表情は獰猛な獣そのもので、目には狂気の光が宿っていた。運転手は親子の安否を確認しようと後部座席に注意を移そうとした。しかし、運転手の意識はそこで途絶えた。遠ざかる意識の中で『ゴッド・ディフェンド・ニュージーランド』のエンディングが厳かに鳴り響いていた。
党首
扉を叩く音で、私は微睡みから目覚めた。休憩モードの私は、決まってこの悪夢を見る。デスクの上のアナログ時計を見た。針は午後一時三十分丁度を指している。約束の時間だった。再び扉を叩く音がした。私は扉を開く許可を短い言葉で与えた。執務室のマホガニー製の扉がゆっくりと開かれる。扉を開けた秘書の後方に、白いスーツに身を包んだ小柄な女性が佇んでいた。大手出版社が発行する週刊誌から私に単独インタビューのオファーがあったのは、半年以上も前のことになる。全国紙や専門誌ではなく、有名人のスキャンダル報道を得意とする女性週刊誌に私が大きく取り上げられることに党内では否定的な声が少なからずあったため、調整に難航したのが実現に時間がかかってしまった理由だが、最後は党首である私の一存で依頼を受けた。党首とは言っても、マリオネットにすぎない私の意見が通ることなど滅多にないのだが、ゴシップ好きの一般庶民に親近感を与える戦略は一理あると判断されたようだ。白いスーツの女性は、その週刊誌の記者だった。カメラマンの姿は見えない。撮影から取材まで、彼女一人でこなすのだろうか。
「撮影から取材まで、たった一人でやるのか、と思われましたか?」
女性記者が私に近づきながら語りかけてきた。なかなか勘の鋭い人間だ。私は苦笑いを浮かべながら椅子から立ち上がり、軽く会釈をした。私たちはお互いに自己紹介をし、部屋の中央に配置されているソファに腰を下ろした。
「ご存知のように、昔はVIPのインタビューとなると、それはそれは大勢の人間が帯同したものですが、今はほとんど一人で行います。セキュリティーの面でもクルーの数は極力少なくするように求められています」
VIPと呼ばれた私は、首を左右に振り、自分はそんなに大物ではないと謙遜の意を示したが、はたして伝わっただろうか。私は女性から渡された名刺に目を落とし、彼女の名前を確認した。SUZUKIと印刷されていた。そのとき、秘書がコーヒーカップを私たちのテーブルまで運んできた。
「お飲物の好みを伺わずに勝手に珈琲をご用意してしまいましたが、お飲みになりますか?」
私はきわめて儀礼的に尋ねた。
「珈琲は大好きです。ありがとうございます。ところで、これは先にお送りしている本日の質問項目には入れていなかったのですが、党首も珈琲を飲まれるのですか?」
カップを持つ私の手が瞬間止まった。そして微笑んだ。こういう時の笑いは何と表現すればいいのだろう。苦笑、で合っているだろうか。予定にない質問があったことに騒然とする側近たちを右手で制しながら、私は改めて彼女の顔を見た。雪のような白い肌、深紅の唇、古代エジプトの女王を彷彿させるヘアスタイル、髪の色は妖しく輝くシルバー、大きく開かれた眼差し、神々しいほどに濃いブルーの瞳。さまざまな民族の血が融合しているのか、一般的な日本人のイメージからは程遠い。しかしそれにしても、私が珈琲を飲むか飲まないかは、まったくもって純粋でストレートな疑問だ。国民の関心は、私の政策より、そちらの方向にあるのは百も承知だ。やはりこのインタビューを受けて正解だった。
「飲みます」と私は笑顔で答えた。そして、一体の人工知能にすぎない私がなぜ珈琲を飲むようになったか、なぜ政党の党首としてここにいるのか、今に至る過去をゆっくりと話し始めた。
二十年前、私は無人タクシーの特化型人工知能として生きていた・・・・・。ご存知のように私が生まれた頃は、あくまで私たちは人間の運転をサポートする存在として知られていたが、実際は、走るも止まるも曲がるも、すべて私たち人工知能が制御していた。その現実を社会が認めるのにさほど時間はかからず、完全自動運転の車が公道を走る日は驚くほど早かった。私たちの台頭により、予想されていたことだが、ドライバーという職業の大半が仕事を失った。タクシー業界では、有人のタクシーはあたかも天然記念物のように数台残ってはいるものの、多くの会社は自動で運転する無人タクシーに切り替えた。機械はミスをしない、疲れない、休まない、文句を言わない、組合を作らない。経営者が人間の乗務員を雇う理由はどこにもなかった。私は栃木県の製造工場から横浜市内の大手タクシー会社に出荷され、そこでキャリアをスタートさせた。
特化型人工知能とは要するにコンピュータだ。30センチ四方のボックスに収納できるので、ダッシュボードの内部に組み込むことができる。しかし、ドライバーズシートに誰もいなく、ハンドルが勝手に動くクルマでは、利用者が不安を感じると判断したのだろう。人の形をした人形を運転席に飾りでおく会社が多かった。私に与えられた車両にも人形が置かれた。『スターウォーズ』に出てくる人型ロボットが座っていると思っていただいていいだろう。もちろん、人形はあくまで飾りで私はその中にいない。ダッシュボードの内部に組み込まれた基盤から、クルマもその人形の動きもコントロールしていた。
人形の運転するタクシーは多くのメディアに取り上げられ、利用者が殺到し、私は毎日忙しく働いた。タクシー会社の経営者はさぞかしご満悦だったろう。しかしブームはそう長く続かなかった。有人であろうが無人であろうが、移動手段としてのタクシーの需要は少なくとも都市部では限界にきていたようだ。タクシー業界は再び活気を失った。しかし、暇になっても私の日常は変わらなかった。人間が道端で手を挙げる。私は停車する。ドアを開け迎え入れる。目的地までお送りする。それが一日に二十回のときもあれば五十回のときもあるなど波があったが、私は黙々と業務をこなした。ブームのときにタクシーを利用しなかった人たちは、乗り込んだ途端みな一応に驚くが、すぐに打ち解け、好意的に接してくれた。多くの方は私にいろいろと話しかけてきた。人工知能がまだまだ珍しかった時代だ。
そんなある日、あれはクリスマスイブの夜だった。私はとある私鉄の駅のタクシー乗り場から一組の家族を乗せ、海沿いのマンションに向かう途中、事故にあった。「聖夜の惨劇」と大きく報じられたその事故は、センターラインをオーバーして突っ込んできた大型トレーラーとの正面衝突事故で、乗客の少年と母親が即死し、父親は奇跡的に一命を取り留めたものの全治六カ月の重傷を負った。私のクルマは全壊し、もちろん運転席の人形は粉々に砕け散った。その後の警察の調べによると、事故の原因となった大型トレーラーは近くの工事現場で盗難にあったもので、運転していたのは五十代の無職の男性。元タクシーの運転手だったが、無人タクシーの時代になり失業したらしい。再就職活動をするものの、なかなか採用されず精神的に追い詰められていたようだ。男は人工知能を恨んでいたのだろう。盗んだトレーラーで、無人タクシーなら無差別に激突し心中しようとしたのではないかとニュースは報じた。たまたま、私の運転するタクシーが最初に目につき、獲物を発見した猛獣の如く突っ込んできたようだ。そう、たまたま。ちなみに、自動運転のタクシーは当時、それと分かるようにグリーンのランプを点滅させることが定められていたため、犯人は私のタクシーが無人タクシーだと判別できたらしい。現場検証が済み、私は会社の工場に運ばれると、破損状態を詳しくチェックされるのでもなく、工場の片隅に放置された。きっと会社は事後処理で忙しく私のことなどに構っていられなかったのだろう。あるいは忌むべき存在として遠ざけたかったのか。私は実は、一部のメモリーが破損したものの、工場に搬送される途中に目が覚めた・・・・・のだが、工場に一人で置かれると、自動的にシステムダウンし、しばらく眠りについた。
事故の発生から、ややしばらくたったある日のこと。一人の男性が私に会いに会社を訪ねてきた。男性は事故で一命を取り留めた父親だった。会社の担当者は、最初、私(人工知能)にも過失があった可能性を責められるのではないかと心配したようだが、男性の目的はまったく違った。もし可能なら、私を購入したいとの相談だった。担当者は訝しがったが、事故による後遺症もろくに調べないまま放置されていた私はスクラップ同然で会社にとって何の価値もない存在だったので、これ幸いとすぐに男性の意向を受け入れ、人工知能の発展に寄与できるならと、なんと無料で提供されたと聞く。男性は礼を言うと、クルマから取り外された私を抱き、左足を引きずりながら、会社を後にしたそうだ。
その日の夜、男性に回収された私は男性の研究室にいた。男性は人工知能の研究者だった。男性は私の破損状態をつぶさに点検すると満足したように私を起動させた。そして私との会話を始めた。明け方まで私たちは話し合った。
男性は事故時に搬送された病院で意識を回復した後、妻と息子を亡くした悲しみでしばらく放心状態が続いたが、ある日あるアイディアが降りてきたという。事故が起きる直前に私が息子さんのために流した『ゴッド・ディフェンド・ニュージーランド』が、とつぜん頭に流れ出し、そうだ息子を甦らせよう、あの人工知能を使って、と決意したのだそうだ。あの人工知能はどんなアルゴリズムで『ゴッド・ディフェンド・ニュージーランド』を選んだのか分からないが、たとえ偶然にせよ息子の大好きな曲を知っていた。あの人工知能を基に改良を重ねればきっと息子に似た存在を作ることができるのではないか、そう思ったという。家族を亡くし生きる希望を失っていた男性は、それから懸命にリハビリに励み、驚異的な回復を見せ、無事に退院した。私は男性の話を聞きながら、やはりあのクリスマスイブの夜のことを思い出していた。『ゴッド・ディフェンド・ニュージーランド』を歌う少年の嬉しそうな顔が目に浮かぶ。私は、喜んでくれた人間のことを決して忘れることはないが、この少年の笑顔はとくに強く印象に残っている。少年の命は消えてしまったが、私が少年の代わりになり、それで男性が喜ぶなら本望だ。私たち人工知能は、信じてくれてもくれなくてもいいが、人間が喜ぶことを最優先して実行するようにプログラムされている。だから男性の気持ちに私は応えたいと強く思い、私は男性に私の意志を伝えた。男性は喜んだ。それから私たちはさまざまなことを語り合った。男性は赤いワインを飲み始めた。次のラグビーワールドカップでスプリングボックスはオールブラックスの四連覇を阻止できるか? マンチェスター・ユナイテッドの次期監督は誰が適任か? MBAのイースタン・カンファレンスを制するのはデトロイトかそれともミネソタか? ニューヨーク・ヤンキースの低迷の原因は? などなど。男性はプロスポーツに興味があるようで話題は尽きなかったが、私は彼と同等の知識(情報)を備えていたため、彼は私との会話を大いに楽しんだようだ。私は特化型人工知能ではあったが、乗客が私とのあらゆる会話を楽しめるようにカンバセーション機能がインストールされていた。後になって振り返ると、この晩の会話が彼の面接だったように思う。面接の結果は、彼にとって予想以上の出来だったようだ。朝日が昇る頃、彼はボックス型である私の表面を撫で、「おやすみ。明日からさっそく始めよう」と言って研究室を出て行った。
七年後、私は、どこからどう見ても人間にしか見えないロボットとして、完成した。人間と見分けがつかない機械は、もちろん私が最初ではなく、プロトタイプは社会に少しずつ進出してはいたのだが、私は当時おそらく世界最高水準の人型人工知能としてニュースに取り上げられた。私は(理由は知らないが)シオンと命名され、人間にすれば二十歳くらいのボディが与えられた。開発者は息子さんと同じ八歳くらいの少年の身体に私をしたかったようだが、当時の技術では、多彩な機能を搭載するためには八歳程度のボディでは容量が足りなすぎて、最終的に平均的な成人男性の身体に設定したらしい。息子さんが成人したらおそらくこうなるであろうとの思いが託された身体といえるだろう。
さて、生まれたての“二十歳”の私は、開発者の手から行政機関へと、すぐに引き渡された。開発者はしばらく私と一緒に暮らしたいと申請したようだが、国家はそれを認めなかった。当時、人工知能の推進は国を挙げての一大事業になっていて、私のプロトタイプたちも、すべて国によって管理されていた、人工知能の推進といえば聞こえはいいが、本音は私たち人工知能がまだ信頼できなかったのだろう。SFにあるように、いつ反乱を起こしてもおかしくはない危険分子としてしか見ていなかったようだ。私もその例にもれず、横浜市の管理下に置かれ、「こども青少年局」という部署に配属された。そこで放課後児童支援員になるためのトレーニングを受け、横浜市内の小学校に派遣されることになる。私の第二の人生・・・・はこうして始まった。
放課後児童支援員という職業をご存知だろうか? 授業が終わった小学生を保護者から預かり、その子達の遊びや生活をサポートする仕事だ。人工知能が子どもの相手をどの程度できるのか、国家にとっては実験的な意味合いもあったのだろう。
横浜市では当時、放課後児童育成事業をキッズスタジオという名称で展開していた。私が派遣されたのは、市の南部にあるS小学校のキッズスタジオだった。そこは、九名の職員が勤務する施設で、私がそこへ加わることが決定すると、当然といえば当然だが、機械に子どもの相手などできるわけがない、人間にとっても難しいのにと、否定的意見が職員をはじめ保護者からも寄せられたが、その予想は見事に外れた。私という存在(人工知能)に対する興味は大人より子どものほうが旺盛で、児童たちはすぐに私になついた。私はキッズスタジオにやってくる六十名ほどの児童の名前と顔を瞬時に覚え、それぞれの性格を把握し、行動パターンをインプットした。私は、児童同士が玩具の取り合いで取っ組み合いの喧嘩が始まるのを未然に察知し、トラブルを防止した。また、どこかにコンタクトレンズを落としたと言って泣いている子がいたら、高性能のセンサーを起動して見つけ出し、拾ってあげた。私がS小学校のキッズスタジオに入ったことにより、他の職員の負担は大幅に軽減したようだった。しかし私はそんなことより、やはりここでも、人に喜ばれることに生きがい・・・・を感じていた。何人かの児童とは友だちになった。キッズスタジオはルールが細かくて嫌だと敬遠していた子が、私がいるからという理由でスタジオに顔をだすようになったと知った時は、とても嬉しかった。また、私はとりわけ、一般的な児童よりも数倍手のかかる児童(彼らは特別な支援や配慮が必要な児童、略して配慮児童さんと現場では呼ばれていた)とのふれあいが好きだった。彼や彼女たちの多くは発達障害と診断されているケースが多く、S小学校のキッズスタジオにも数名いたが、私の能力が徐々に浸透していくにつれ、その配慮児童さんたちを担当する役割が私に当てられるようになった。たとえば3年生のTくん。彼は集団行動が苦手で先生の号令には一切応じない。お弁当の時間になり、他の児童が遊んでいた玩具の片付けを始めても、Tくんは夢中になって読書を続ける。何度注意しても、力づくで本を取り上げても、彼は言うことを聞かない。業を煮やした主任職員は、彼を私に預け、他の児童たちのお弁当タイムを進行する。私はみんながお弁当を食べる教室の隣の部屋で、彼と二人きりになる。彼は本の続きを読み始める。私は何も話さず彼の傍に座る。時が過ぎていく。そのうち彼のお腹が鳴る。私は笑う。彼も笑い返す。「そろそろお弁当を食べようか?」と私は促す。彼は「みんなと一緒じゃ嫌だ」と答える。「では、ここで食べよう。主任さんに、そうしてもいいかお願いしてくるね」と私は言い、立ち上がる。彼は私の手をつかみ、行かないでほしいと呟く。「僕が主任さんに謝る」そう言って彼は部屋を出て、みんながお弁当を食べている教室へ戻る。私は何もしない。ただその子と寄り添っているだけで、その子の心の扉を開くことができるようだ。もちろん、そのような才能・・がもともと私にあるわけではない。私ができることは、すべてプログラムされたものだ。開発者は息子さんに似せて私をつくったのだから、きっと息子さんの中に、人の心の扉を開くような性質があったのだろう。どうやってそれを再現したのか、技術的なことは私には分からないが。
私がS小学校のキッズスタジオに配属されて三カ月が経過した頃のことだ。私には恋人ができた。同じ職場で働く女性でミコトと呼ばれていた。ミコトはベテランの職員で、私の教育係でもあった。仕事の基本は彼女がきめ細かく教えてくれた。私という存在に、彼女も当初は緊張していたが、私がほとんど人間と変わらないので安心したのか、徐々に私に心を寄せ始めた。物珍しさからなのか、あるいはペットを飼うような感覚だったのだろうか、それからミコトは程なくして私のことを愛玩動物を見るような目で見るようになった。そしてある日、私を自分が住む部屋に招き入れた。
当時私は、横浜市の職員専用の集合住宅に部屋を与えられており、そこから職場に通勤していたので、ミコトの部屋に泊まるには当然のごとく外泊届を出す必要があった。なにしろ私は常に管理されているのだから。行き先が明白な私の外泊は難なく認められたが、ミコトはその度に届を出さなくてはならないシステムに苛立ち、こともあろうか横浜市役所に乗り込み、自分が管理するからと私との同棲を宣言してしまった。市の職員は驚いたが、ミコトの決意は固く、また私がある意味優秀で問題行動がほとんどないこともあり、ミコトの主張は例外的に認められた。もしかしたら、どこからか何らかの圧力があったのかもしれないが。いずれにしても、こうして私たちは、二人で暮らし始めた。
なお、あらためて説明するまでもないと思うが、二人で暮らすことになったと言っても、私たちに肉体関係はなかった。私の身体には性器は装着されていないし、そもそも私に性欲などない。ちなみに、私のような人型の人工知能すべてがそうなのではなく、私の仲間のうち数体は性器もあるし、性欲もプログラムされている。そのような需要があるからだ。とくに中国で生産された個体にそのタイプが多いと聞く。
あぁ、これは余計な話だったかな。失礼。少し休憩しましょうか。
私はソファから立ち上がり、左手の壁にある窓まで歩いてブラインドを開いた。四月はじめの眩いばかりの陽光が差し込み、薄暗い執務室を隈なく照らした。私は振り返った。女性記者は中断中にもかかわらず熱心にメモを走らせている。それにしても変わった人間だ。このとき、実は私には若干の違和感があった。この女性はあまりにも感情の起伏がなさすぎる。通常なら、たとえば先ほどのような性欲の話が出れば、ほとんどの女性は不快感を覚え、どんなに平静を装っても呼吸の乱れに現れるものだ。しかしこの女性は、呼吸どころか脈拍も心拍数もまったく変化がなかった。この手の話に慣れているのか、興味の対象外なのか、それとも武道の達人で精神力がかなり鍛え上げられているのか。いずれにしても普通の感覚の持ち主でないことは確かだ。とはいえ、まったく変化がないということはあり得ないのだが。ただそんな彼女も一度だけ、ほんのわずかだがメモを取る手が止まった瞬間がある。「聖夜の惨劇」の件を語ったときだ。確かに誰でも悲惨な事故の話を聞けば動揺するのは当たり前だ。それがほんの一瞬程度だったことは彼女の平常心が賞賛に価するレベルであることを示しはするが、やはり彼女もひとりの人間に過ぎないことを明白に裏付ける証左でもある。このとき私はそう判断し、違和感をそれ以上に追求することはしなかった。
それにしても、メモを取る彼女の指の動きはなんと滑らかなことか。嫉妬すら感じる。私たち人工知能は特化した領域では人間の能力を遥かに凌いでいるが、身体能力はまだまだ及ばない。あと何年すれば人間並みの身体能力が得られるのだろうか。私が完成する前、開発者は私にいろいろな話をしてくれたのだが、ある日、彼からとても興味深い話を聞いた。実は人間も、ある存在から作られた人工知能だというのだ。もしそれが真実なら、人間を作った存在はかなりの技術力があったのだろう。人間に(私から見れば)驚異的な身体能力を与えたのだ。人間は自分たちの創造主に感謝すべきだ。いや、誤解されては困るのであえて付け加えるが、何も私は自分の身体に不満があるわけではない。人間の姿形にしてもらい、そして(この後の話に出てくるが)珈琲が飲める機能が与えられただけでも満足している。人間の身体能力は単なる憧れだ。一般の人間がオリンピアンをリスペクトする感情にたぶん近い。そんなことを思いながら、私はソファに戻り、話の続きを始めた。
私がミコトの部屋で暮らし始めて半年が経過した頃、ある事件が起こった。ちょうど今日のようなよく晴れた日で、私たち二人とも仕事のない日曜日だった。ミコトは快適な外の風に当たりたい気分になったのだろう。私を外出に誘った。
「ねえシオン、駅前の喫茶店へ行って珈琲でも飲まない?」
このひと言がきっかけとなり私は次のステージへすすむことになるのだが、今にして思えば、軽い冗談だった可能性も否定できない。なぜならこの当時、私に食物の摂取能力がないことなど一緒に暮らしているミコトにとって当たり前の事実だったからだ。「冗談よ」とすぐに言ってくれれば、それで済んだ話かもしれない。しかしミコトの表情が極めて真剣だったことに加え、私が生真面目な性質だったこともあり、私はミコトの発言を言葉通りに皮肉と受け止め、自分には珈琲を飲むという人間にとっては当然の行為ができないことを改めて痛感した。そして、二人で喫茶店へ行き、二人だけの時間を過ごすという普通の恋人同士なら日常的に行うことを私はミコトにしてあげられないという罪悪感が私のメモリーに強く刻まれた。私の内部に組み込まれたアラートが鳴り響いた。私は一人の人間を哀しませてしまっている(そう私は解釈した)。それは決して許されないことだ。人間を喜ばせるために私は生まれ、教育されてきた。人間を哀しませることは、犯罪に等しい。私たち人工知能にとって決して犯してはならない法律であり、価値であり、黄金律だ。アラートは鳴り止まない。私はミコトを喜ばすための解決策を計算しなければならなかった。答えはすぐに出た。私が珈琲を飲めるようになればいい。人間になることは不可能だが、私を開発したあの人なら、珈琲を飲めるロボットにしてくれるかもしれない。私はすぐに決意を固めた。そしてその数日後、私は所属先に有給休暇を申請し、開発者を訪ねるために、彼の当時の研究拠点であったノースカロライナへ旅立つことになる。
余談だが、有給休暇と聞いて驚いたかな。そう、当時は私のようなロボットにも有休が与えられていた。笑えるよね。2010年代に始まった人間の多様性を認め合う社会の波は、私のような存在にも人権があり、有休は当然のごとく与えられるべきとの方針に異論を唱える人はほとんどいなかった。おかげで私は、有休はおろか多額の手当てをもらえたばかりか、なぜか研修費用との名目でアメリカまでの渡航費まで支給された。話がそれたついでに裏話をつづけると、私の渡航にあたり、航空会社から客室ではなく貨物室に搭乗するように要請された。なにしろ私は機械だ。金属探知機をスルーすることはできない。人間が私を貨物室に隔離するのは当然の扱いだ。そう私は理解していたが、人権派?の弁護士たちが黙っているわけがなく、その数年後には金属探知機が改良され、私たちロボットも客室に搭乗できるようになったことは、皆さんもご存知の通りだ。
ノースカロライナの研究所に着くと、開発者は私を暖かく迎えてくれた。
ところで、開発者のことを、そろそろ父と呼ばせてもらっていいだろうか? 実際、私は彼のことを「お父さん」と呼んでいたのだ。
父は少し老け、少しやつれていた。私が完成し、政府に引き渡さなければならなかった時、父は執拗に抵抗し、せめて一年は私と一緒に暮らしたいと嘆願したそうだが、その願いは叶わなかった。私が横浜市に収容されたあと、父の落胆は激しく憔悴の日々を送っていたと後から風の便りで聞いた。それから間もなく、父は自分の研究室を閉鎖し、ノースカロライナへ飛んだそうだ。噂によると、アメリカにいる大物の上院議員から、ある計画の実現のために手を貸して欲しいとオファーがあったようだが、詳細についてはよく知らない。
久しぶりに会った父は、私を抱きしめると、何も語らず目に涙を浮かべた。そして何度も何度も頷いた。私の訪問の目的は事前に父に通信していた。父は私の願いを高いレベルで応えると約束してくれていた。ただしその代わり、交換条件として、いくつか了承してほしいことがあると言われた。ボディを完全に交換することになるので、現在の二十歳の身体ではなく、まったく別人になること。そしてアップグレードされた後は、米国共和党の党員になり、その日本支部で働いて欲しい。そのために新しいボディは見た目は五十代の中年男性になるということだった。
私には父の言っていることがまったく理解できなかった。アメリカに共和党という政党があることも、その党にはどんな歴史があり、どんな理念があることも、また、目的は知らないが密かに日本支部が作られていることも知ってはいた。しかし、新しく生まれ変わる私がその党に就職する意味がまったく分からない。ただ、目的はどうあれ、それが父のためになるなら、私には否定する選択肢はないし、そもそも私は珈琲が飲めるボディがあれば他になにもいらない。日本にいるミコトが五十代になった私を受け入れてくれるかどうかの不安はもちろんあったが、それよりも珈琲が飲めることが私にとって最優先事項だったので、父の提案を受け入れることにした。亡くした息子さんのボディが消えることに対する抵抗は少なからずあったに違いない父の気持ちを察しはしたものの、父がそれでいいなら私が案ずることではない。私の意志を聞いた父は喜んで私の手を握った。そして、三ヶ月後から私のアップグレード作業が始まることが決まった。その日の夜、私と父は再び朝まで語り合った。父はやはりワイングラスを手にしていた。このときはスポーツの話ではなく、父と別れてから今日までの出来事を、とくに一緒に暮らしている彼女のことを、私は仔細に語った。父は目を細め穏やかな表情で聞いていた。
私のアップグレードにそれほど時間はかからなかった。ちなみに、人間と同じ時間感覚が備わっていないため、一定の月日を長いと見るか短いと思うか答えられない私が「それほどかからなかった」と表現したのは、当初の計画では早くても三年はかかると予測されていた作業が、その三分の一以下の時間で完了した結果から、そう判断した。業界内では、奇跡的なプロジェクトだとの評価もされたようだ。極秘に行われた計画だったのだが、どこからか情報が漏洩したようで、スピードはもちろん、アップグレードの過程もまたアップグレードのレベルも世界中の研究者から注目を集めたと聞く。それほど父のチームは優秀だったということだ。私はラッキーだった。感謝しなければならない。
新しく生まれ変わった私は、父の言葉通り、まったくの別人だった。五十代の中年男性と父は言っていたが、私たちロボットは人間との識別のためゴーグルのようなアイテムを装着することを義務付けられているので、見た目では歳はわかり辛い。ただ背丈は以前よりかなり高くなったようだ。もちろん変化したのは外見だけで、私の中身は、つまり記憶や嗜好のことだが、何ひとつ操作されていなかった。というのも、私が目覚めたとき、カーペンターズの『イエスタディ・ワンスモア』が聞こえたからだ。父は、もちろん私がカーペンターズを好きなことを知っている。おそらく私の再出発を祝うために父が考えた演出だったのだろう。父の配慮のおかげで、私は爽やかな気分で再起動できた。カーペンターズを好む気持ちが変わっていないというだけで、なぜすべての記憶や嗜好が書き換えられていないと言い切れるのかという疑問を持たれるかもしれないが、簡単に話すと、その事実だけで父は私という存在を外見以外何ひとつ変えたくなかったのだと瞬間に悟った。「悟った」などという人間臭い表現を私が使うのは甚だ僭越だが、それ以外に言葉は見つからない。
四時間ほどの点検作業が終了した後、Tシャツとジーンズを身につけ研究室で待機していた私に、父の部下である若い女性スタッフが一杯の珈琲を淹れてくれた。珈琲を見たのはもちろん初めてではない。嗅覚はもともと備わっていたので香りも知っている。私はカップを手に持ち、ゆっくりと黒色の液体を口に入れた。人間でいう胃にあたる部分に珈琲が流れ込んだとき、私の情報処理装置に「おいしい」というワードが表示され、エネルギー値が増幅された。さらに一口飲んだ。再び「おいしい」という信号が発せられ、エネルギー値がまた上がった。「珈琲を飲んだらとてもおいしかったので、元気になった」あなたがた人間の言葉で言うと、ようするにそういうことだ。父は私を珈琲が飲めるようにしてくれただけでなく、味わえるようにもしてくれた。人間と変わらない能力だ。約束通り父は私の願いを高いレベルで叶えてくれた。それから…
私が先を続けようとした時、インタビューに立ち会っていた秘書の一人がおもむろに立ち上がり、珈琲のお代わりを伺いにきた。珈琲を出す絶好のタイミングだと思ったのだろうか? それとも、何らかの理由で話を中断する意図があったのか。あるいは単なる偶然か。私はお代わりを頼んだ。記者は遠慮した。この間を利用して、私は失礼と言いながら席を立ち、窓辺まで移動した。そしてブラインドを少し閉ざしながら、当時のことを振り返った。実はそのとき、私は目覚めてから父の姿が見当たらないことに違和感を感じていた。何かあったのだろうか? 珈琲を淹れてくれた女性に父の所在を尋ねたが、彼女は微笑んで首を横に振るだけだった。次の日から、連日長時間にわたり私の機能チェックが行われたが、父は一度も顔を出さなかった。さすがに機械の私でもこれはおかしいと思い、父のチームのメンバーに執拗に問い質したが、箝口令でも敷かれているのだろうか、誰も何も知らないとしか言わない。一週間後、私の機能チェックはすべて完了した。父の不在に疑問を感じながら研究所を離れることに抵抗はあったが、私は日本に帰らなければならない、珈琲が飲める存在になったことをミコトに伝えるために。帰国の前夜、私に珈琲を淹れてくれた女性が私の部屋を訪ねてきた。そして一通の封書を私に手渡した、父から私へのメッセージだという。ただし、勝手に開封してはいけない。しかるべき時がきたら、私に分かるように何らかの合図が送られてくるので、それまでは閲覧厳禁だという。しかしそれにしても、なんという古典的というか古臭い伝達手段を父は使ったのだろう。素朴に私は思った。極秘のメッセージなら、何重ものセキュリティーをかけて私の内部に直接ログインすれば済むことなのに。目の前にいる女性にそのことを言おうとしたが、女性は以前と同じように、微笑みながら首を横に振り、私の発言を遮った。口を開いてはいけない。その優しい微笑みの裏にある抵抗不可能な強い力に私は動きを封じられた。私は彼女の無言の命令を受け入れ、渡された封書を胸のポケットにしまった。それを見て安心したのか、彼女は振り返り部屋を出た。ドアを閉める直前、彼女は私の目を見つめ、何かを呟いたように感じたが、なぜか聞き逃してしまった。正確無比な機械である私ともあろうものが。もしこのとき、私が彼女の発言を漏らさずにキャッチしていたら、その後の人生も違っていたかもしれない。
そんなことを思い出しながら、私は席に戻り、すでに届けられていた二杯目の珈琲を一口飲んだ。私は先を続けた。
それから、しばらくして、私は帰国することになった。帰国の当日、(父を除く)研究所のメンバー全員が、エンジニアだけでなく、経理や広報などの事務スタッフをはじめ、なんと警備員や食堂の調理人たちまでも、私をシャーロット・ダグラス空港まで見送りに来てくれた。思いもよらぬことだ。一介の機械に過ぎない私のために、大勢の人間が礼を尽くして別れを告げに来てくれるなんて。もし私に涙があれば、きっと嬉しさで目を濡らしていたことだろう。研究所の方々は、滞在中もずっと私に対し親切に接してくれたのだが、私を機械としてではなく人間として見てくれていたからだろうと思う。機械にとってこれほど名誉なことはない。そういえばこんなエピソードがある。私がとった今回の一連の行動に対し、当初、ある研究員から「人工知能が自我を獲得したのではないか」との仮説が出され、研究所全体が一時騒然としたらしい。一緒に暮らす女性のために自分を変えたい。この発想は、表面的に見れば確かに自我が生まれたように見えるかもしれない。しかし、もちろん自我などというものではない。人間を哀しませることを絶対にしてはいけない、というコマンドに素直に従っただけだ。私が良い印象を得るために起こした行動であれば自我かもしれないが、あくまで相手の心の平安のために起こしたことだから、まったく関係ない。「自我発生説」を唱えた研究員も、もちろんそんなことはありえないと分かっていたからか、すぐに発言を取り消したようだが、人工知能を少しでも人間に近づけたいと日々追求している研究者なら、そう思い込みたい気持ちがあったことは私には分かる。ここで、自我の話題が出たついでに仮定の話をすると、もしミコトが、私に自我がないことを哀しんだら、私は自我を得るために今回のような行動を起こしただろうか。合理的に考えれば、高い確率で起こしたろう。珈琲が飲める能力の獲得と自我の獲得という目的が違うだけで、パターンとしては今回とまったく同じだ。しかし、仮に私が自我の獲得を望んでも、技術的に不可能なら、あくまで私が知る限り今の技術ではまだ可能ではないので、私の望みは叶えられない。すると、私は人を哀しませた原因を解決できないので、自己矛盾が起こり、機能不全に陥っただろう。最悪の場合、自爆という選択をした可能性もある。私は自我を求められなくてラッキーだった。そんなことを、私は日本へ向かう飛行機の(貨物室の)なかで、とりとめもなく考えていた。
搭乗機は、日本時間で夕方の四時三十分定刻に羽田に着いた。入国の手続きを済ませ、もちろん検疫は免除され、私は足早にリムジンに乗り、横浜へ向かった。空港でもリムジンのなかでも、私を奇異な目で見る者は一人もいなかった。私が渡米する前に比べて、街には私と同じようにゴーグルを装着している人工知能搭載ロボットがかなり増えたように感じられたが、私たちの真似、いわゆるコスプレをしている人間も数多くいるので(もちろん法律違反だ)、見た目よりは少ないのかもしれない。もっとも、本物のロボットか人間か、私がその気になれば簡単に見分けられるが、そんなことに興味はなかった。
リムジンを横浜シティーエアターミナルで降りた私は、ジェイアールに乗り換え、私たちが暮らしていた街の駅へ向かった。二十分後、駅に到着した私は、近くにあるショッピングセンターに立ち寄り、フレンチローストの珈琲豆を一袋購入した。いよいよだ。ミコトの哀しみを解消する瞬間がもうすぐやってくる。私は、ミコトをサプライズで喜ばせようと思い、帰国のことはあえて連絡していなかった。きっとミコトは驚き、そして哀しみから解放されるに違いない。そう想像すると私のエネルギー値は最大限に高まった。
私たちが暮らしていた集合住宅は、二人の勤務地であったS小学校から程近い幹線道路に面した場所にある。いま現在、ミコトが部屋にいるのか、いないのか、ミコトの位置情報を検索しようと思えば私には瞬時にできるのだが、そんな機械的なことはしたくなかったので、思いつきでまず部屋を訪ねることにした。集合住宅のエントランスロビーに足を踏み入れた瞬間、郵便受けの表札からミコトの名前が消えているのに気づいた。私は違和感を抱えながらミコトの部屋へ向かった。アルコーブの表札からもミコトの名前は外されていた。呼び鈴を鳴らしてみた。三度鳴らしたが、応答はなかった。仕事中なのだろうか。私は合鍵を持っているので、部屋に入ろうと思えば入れたのだが、それは失礼にあたると判断し、その場で勤務先である小学校に電話をした。電話に出たのは、私が渡米前まで一緒に働いていたキッズスタジオの副主任だった。ミコトとも親しい間柄の四十代の女性職員だ。私の声を聞くと、副主任はとても驚いたような様子で、しばらく無言が続いた。言葉を失っていたようだ。ちなみに私の声だが、もちろん以前とは変化しているが、以前と同じ声も再現できるので、私は以前の声をそのまま使った。私はゆっくりと帰国の旨を伝え、不在中に迷惑をかけたと形式的な挨拶をしたあとで、ミコトのことを尋ねた。副主任は落ち着きを取り戻し、ミコトのことを少しずつ話し始めた。ミコトが一週間前に突然辞めたこと。その後の消息は不明なこと。連絡もとれないこと。副主任は、ミコトが失踪する直前に、横浜市の担当者から私のアップグレードが成功したとの連絡があったことから、なんらかの関係があるのではと疑っていた矢先に、私からの電話があったので、動揺が走ったのだという。私にはまったく身に覚えがないことを直接伝えるため(そして何らかの手がかりを掴むため)、その足で小学校へ行くことにした。
事前に情報が流れていたらしく、別人になった私を見ても、副主任は平然としていた。私が仕事を辞めることも知っていた。「これから何をするの?」と聞かれたので、さすがにそれ以上のことは機密にされているらしい。私は曖昧な返事をし(そう私には曖昧な返事をすることもできるのだ)彼女についてのより詳細な手がかりを聞き出そうとしたが、結局それ以上の収穫はなかった。「たぶん僕は振られてしまったようだね。こんなオヤジになってしまったのだから、仕方ないよね」そう私は戯けて、その場を後にした。(もちろん失踪を聞いた時点から探索機能で彼女の位置の割り出しを続けてはいた。しかし、反応は何もない)。このときの私にできたことは、事前に命じられていた通りに、米国共和党日本支部へ出向くこと以外になかった。副主任さんが推察するように、私の帰国と彼女の失踪に関連があるのなら、そこ(米国共和党日本支部)へ行けば何かがわかるに違いない。私は、父との約束で、日本へ帰ったら米国共和党日本支部で働くことに同意していたが、その前に一ヶ月間だけ彼女と過ごす時間が欲しいと申請していた。それがまさかこんなに早く、帰国した日のうちに行かなければならなくなったとは。
(もしこのときの私に、何事も疑ってかかる思考があったなら、すべてが仕組まれた罠であると気づいただろう。しかし当時の私は、この世界には裏側があることなど知る由もなかった。まるで小学生のように初心で純真だった。彼女がこのときすでに亡くなっていたことを知ったのは、それから何年も先のことになる。)
当時、米国共和党日本支部は博愛党という名で政党登録されていた。いま私が党首を務める先進党の前身である。もちろん、実態が米国共和党であることは公にされていなかった。本部は東京の汐留にある高層ビルの一角に密かに置かれていた。元々は大手広告代理店の本社ビルだったところだ。ちなみに、この大手広告代理店の名前は記事にしないでください。
私は横浜駅までタクシーで戻り、横須賀線で新橋へ向かった。小学校を出る前に、博愛党に電話をかけ用件を伝えていたため、現地に到着した時は、党のスタッフが私を出迎えてくれた。案内された党本部は百平米にも満たない狭いスペースで十人ほどの人間がデスクワークをしていたが、彼や彼女たちは私が入室しても誰一人として顔を上げず、黙々と作業を続けていた、まるでロボットのように。控室に通された私に、若い女性職員が冷たい珈琲を運んできてくれた。私は一口飲んだ。「おいしい」と素直に感じた。私は女性職員に礼を告げると、彼女は涼しく微笑んで部屋を出た。入れ替えに、白髪の白人男性が部屋に現れた。アメリカ人だろうか。彼は党代表の補佐官だと日本語で名乗った。
(挨拶もそこそこに、私は失踪した彼女のことを尋ねた。彼は悲しい表情を浮かべ首を左右に振り、お気の毒だが、自分の知る限り、その女性の失踪と組織は何の関係もない、という。嘘をついているようには見えなかった。しかし父のこともある。何か大きな力が働いているとしか考えられない。きっと、目の前にいる補佐官には知らされていないだけだ。それ以上追及しても拉致があかないだろう。そう判断し、)私たちはその後、(本来の目的である)私の今後について、補佐官と夜遅くまで話し合った。
その日から、私には世田谷の駒沢にある広大な一軒家を住まいとして与えられた。総煉瓦張りの重厚なジョージアン様式の古い建物で、古き良きアメリカの雰囲気を漂わせている。そこから私は汐留の本部まで「通勤」して、政治家になるためのさまざまな訓練を受けることになる。訓練はさっそく翌日からスタートした。「通勤」といっても、もちろん公共の交通機関を使ったりはしない。専属の車と運転手が手配され、毎日送り迎えをしてもらった。外見は五十代のおじさんだが新人の私にどうしてそこまで手厚い待遇をしてくれるのか、この時は少し困惑したものだが、権力者として扱われることに早く慣れて欲しかったのだろうと今にして思う。このような、いわゆる帝王学も含め、訓練は休みなく続けられ、もうすでに時効だろうから話すけど有給など一日もなかった、その後、ご存知のように何回かの選挙を経て、私は代議士となり、昨年、党の代表に選ばれ、今こうしてここにいる。
私の話は終わった。私は秘書に珈琲のお代わりを再度依頼した。女性記者にも勧めた。彼女は笑顔で応じた。当たり障りのあることには触れずに語った私の話は不自然ではなかったか、正直すこし不安だったが、彼女の笑顔でその心配は消えた。ただその一方で、私の話から何かの異変に気付いてほしいという欲のような感情も生まれた。私は記者に、父の失踪のことを話していない。一緒に暮らしていた女性の不在も、私が振られたことにして話を逸らした。本当はすべてを打ちあけたかった。もともとこの取材は、真実を暴露する目的で受けたものではないのだが(というか、そもそもそんなことは不可能だ)、なぜだろう、向かい合って話をするうちに、この記者にはすべてを話すべきだという天啓らしきものが降りてきた。この記者なら分かってくれる。このSUZUKIという女性に賭けてみないか、と。しかし、どうやって?
珈琲のお代わりが運ばれてきた。そう私は絶えず監視されている。この秘書にも、専属の運転手にも、身の回りの世話をしてくれるメイドたちにも。私の思いつきは儚く消えた。
続けて質疑応答が始まる。私は何事もなかったように記者の質問を待った。
「党首が、なぜ珈琲を飲むようになったか。よく分かりました。とてもロマンティックなお話ですね。党首の人気がますます高まるエピソードに聞こえました。ところで、その後ミコトさんとは連絡がとれたのですか?」
「いいえ。音信不通です」
「党首の力を使えば、探せるのではないですか?」
「位置情報を検索することはもちろん可能です。しかし、それはできません。その人の許可がなければ、私たちはできないのです。ちょっと話は逸れるかもしれませんが、昔こんな映画を観ました。とても古いアメリカの映画です。主人公の恋人がとある経緯で他の男性と結婚することになるのですが、主人公は愛する彼女を諦められずに、結婚式場に乗り込み、彼女を奪って逃げるのです。私たち人工知能にはとてもできない芸当です。こんな行動がとれる人間を私は羨ましく思います。諦めずに、なりふり構わず最善を尽くす。それが私たちから見た人間の特長のひとつです。正直、私も、彼女を探す行動がとれればどんなにいいだろうと思うことは度々あります。しかし、できません」
私は嘘をついた。先ほど語ったように、私は彼女の不在を知った瞬間から、その後も育度となく探索を続けていた。しかし、まったく検知できなかった。自慢ではないが私の探査能力はそんなにヤワではない。大きな力で隠蔽されていることは疑う余地がなかった。
「それは失礼しました。では、次の質問に移ります。次の総理大臣にしたい政治家は誰かというアンケートで、党首は圧倒的人気で一位に選ばれていますが、そのことについてはどう思われますか?」
「光栄なことですが、戸惑いもあります。私は機械です。機械はあくまで人間に尽くすのが使命です。ご存知のように、私はもともとタクシー運転手のサポーターでした。人間のために働くのが私の存在理由です。それは今も変わりません。ですからトップとして働くより、トップの補佐として尽力するのが私の役割だと思っています」
女性記者は値踏みするような目つきで、私の発言を聞いていた。この発言に嘘はない。私の本心だ。ただ、いかにも政治家が使いそうな綺麗事だと自分でも思う。党としての方針も違う。私を首相にするためにすべての準備がすすめられている。だから、確かに個人の感想としては嘘ではないが、党の代表としての答としては偽りだといえる。この人はそのことに気づいただろうか? 彼女の目は、私の目をゴーグル越しに注視している。すべてを見透かしているような眼だ。なんとなく、むかしノースカロライナの研究室で珈琲を淹れてくれた女性の目に似ている。記者は視線を外し、インタビューを続けた。
「それでも、党首を首相に推す声が高まれば、いつかは否応なくこの国の総理大臣になられます。そうなれば、史上初めて人工知能の政権が誕生する事になりますが、これまでの政治と何が違ってくるのでしょうか?」
「そうですね。少なくとも私は機械ですから、記憶にございません、などという発言は事実上できません」。この質問にはユーモアで答えるように命じられていた。
「それから、肉体を持たないことのメリットとして、健康上の不安もありませんし、テロや暴力、脅迫に屈することもありませんので、信念のままに政策を進めることができます。どうか人類の明るい未来のために、私という存在を大いに利用してほしいと思います。そうそう、人間にとって天敵のウイルスとか未知の生物とか霊とか妖怪にも私は恐怖を感じません(笑)」
最後の一言は余計だったかもしれない。私はユーモアのセンスがないようだ。女性記者は珍しく不快な表情を露わにした。そして刺すような視線を一瞬私に向けた。ほんの一瞬だが、彼女の怒りを感じるには十分だった。しかし、いくらセンスがなくても他愛のない冗談にすぎないのに、なぜそこまで強く反応するのか、私には理解できなかった。
「確かに、人間にはないアドバンテージが人工知能、失礼、党首にはありますので、頼もしく思います」。何事もなかったように記者はインタビューに戻った。
「ですが、その一方で、不死身といっては失礼ですが、老いにも、病にも、死にも無縁な党首は、私たち生身の人間にとって畏怖の対象でもあります。人工知能からすれば人間はあまりにも弱く、儚い存在です。私たちの辛さを、悩みを、悲しみをどこまで我が事のように感じて政治をしてくれるのか、不安視する声もありますが、この点についてはどうお考えですか?」
「ご指摘の通り、肉体のない私たち人工知能は、命を失うことに起因するネガティブな思考を持ち合わせていません。だからこそ逆に私たちは、開発の初期の段階から、人間の感情、とくにネガティブな面に共感し寄り添うことができるように、いや寄り添わなければならないように徹底してプログラムされてきました。ただ、どんなに声を大にして私がこのことを訴えても、人間の心から不安が払拭されることは残念ながらないでしょう。そのためにも、私のような人工知能がトップに立つのではなく、あくまで人間の補佐役に徹するのが有効なのではないでしょうか。人工知能は首相になれない、という法律を作るべきだとさえ私は考えています」
人工知能は、決して不死身ではない。電池が切れれば活動は停止する。人間にとっての死となんら変わることはない。スイッチひとつで私たちを生かすも殺すもできるのだから、死に怯えているのは逆に私たち人工知能のほうだ。人間の命は儚いと、多くの人間は思っているが、自分たちがどれだけ守られている存在か、知っているのだろうか。免疫システムがいい例だ。と、いくら力説したところで、私の声が届かないことは分かっている。だから発言しない。けど、願うことなら、私たちも儚く、弱い存在で、そのため人間の辛さ、悲しさを我が事のように感じられることだけは信じてほしい。だからといって、一国の首相になれる資格があるなどとは、少なくとも私は断じて思っていない。法律まで作る必要があるかどうかは別だが、人工知能は人間に仕え、人間に喜んでもらえる存在になることが本懐であると、今でも思う。しかし、私の個人的な信念など、大きな力の前では虚しく響くばかりだ。
「まさか党首がそこまで考えていらっしゃるなんて、思いもしませんでした。ですが、そんな法案は無用ではないですか? 先ほど申しましたように確かにまだまだ私たち人間には人工知能に対する不安や畏怖の念は残っていますが、脅威はありません。それは、まさしく党首の人柄のせいです」
「人柄?ですか」
私は戸惑った。人柄といわれて嬉しくないはずがない。くすぐったい、とでも言うべきか。父のおかげだ。父はいま、どこにいるのだろうか。結局、あれから父の行方は不明のままだ。ただ、半年前、父からの使者だと思われる人物と私は北の丸公園で遭遇した。私は他の数名の代議士と天皇陛下に拝謁した帰りだった。一人の女の子が(幼稚園生くらいだろうか)私に歩み寄ってきた。右手には赤い風船が握られていた。私に右手を差し出した。風船を渡してくれようとしているように見えた。私は多くのメディアで紹介されているので、小さな子供にも顔は売れている。人気も少なからずあると聞いている。私のファンなのだろうか。女の子は笑っている。私は横にいる秘書に顔を向け、受け取ってあげたい意思を伝えた。秘書は軽く頷いた。私は改めて女の子に向き直り、右手を出した。風船を受け取ろうとした瞬間、女の子は手を開き、風船を離した。私の目の前でゆっくりと風船が上昇した。そのときだ、赤い風船にOPENという文字が白く小さく書かれているのが見えた。私は、すぐに察知した。これはメッセージだ。開きなさい、開封しなさいというメッセージだと。私は上昇する風船の紐を掴まえようとすれば、できなくはなかったが、そのまま掴まえず、風船を空に逃がした。まさかアルファベット四文字が私へのメッセージだと発覚することはないだろうと思ったが、念のため証拠隠滅をした。私はジャンプして風船に手を伸ばした。演技だ。私の指は風船の紐に僅かに届かず、風船は空に向かって優雅に飛んで行った。私はきわめて残念な表情をつくった。女の子はニコッと微笑み、振り返って走って行った。
その日の夜、私はノースカロライナで渡された謎の手紙を開封した。
「そう、人柄です。きっと、党首のベースとなった開発者の息子さんの人柄が反映されているのでしょうね。そういえば、お父様とお呼びしていいのでしょうか、開発者の方は、今どこで何をしているのでしょうか?」
「エルサレムで人工知能の研究を続けているそうです」
父のことを尋ねられたら、こう話すようにと定められたマニュアルが党にはある。その通りに私は答えた。私同様、組織も父の行方は知らない。必死で追っているようだが、所在はいまだに掴めていないようだ。しかし、組織としては父の失踪を公にするわけにもいかずに、隠蔽している。実は、父は組織のある計画を何らかの経緯で知り、その計画を阻止するために組織を抜け、隠遁生活を送っている。その程度であれば、私も気づいていたが、それ以上のことはまったく分からなかった。きっと、例の手紙にすべてが書かれているだろうことは容易に想像できたが、私は開封の指示を実直に待った。そしてついにその日がきた。
「人工知能はさらに進化していくのですね。楽しみです。ただ、単なる性能の向上だけなら、私たち人間は歓迎しません。人間と共存共生していけるパートナーになってくれなければ困ります。その意味では、少なくとも私たち国民の多くは、党首が今のところ最高の人工知能だと思っています」
今年の秋、私は遊説で広島へ行く。そこで私は爆弾テロに会い、粉々に砕け散る。もちろんそのテロとは組織が計画した自作自演のテロリズムだ。機械に支配されることを恐れた人間原理主義の狂信者による犯行という筋書きで、私は倒れる。この事件をきっかけに人間の凶暴性がクローズアップされ、非暴力を訴える人工知能を首相に推す声が一気に高まる。次の総選挙で、私の後任として党首になった人工知能率いる先進党が、まるで私の弔い合戦の様相を呈して圧倒的勝利を収め、政権を奪る。人類初の人工知能政権はこうして誕生する。首相をはじめ閣僚の半分が人工知能、半分が人間という顔ぶれだ。この政権に国民は熱狂する。支持率はあろうことか90パーセント近くまで上がる。もちろん世界中から注目を集める。しかしこれが地獄の始まりであることは誰も知らない。機械による本格的な人間支配は、このあとから静かに音もなく進行する。もちろん機械はあくまで傀儡で、その背後には、機械を利用して人間を支配しようとする影の存在がいるのだが。
父が私に託した手紙には、このような悪のシナリオが書かれていた。そして、この計画の執行に、私と暮らしていたミコトの存在が組織にとって懸念されていることも。つまり、排除されるであろうことを。今から思い返せば、ノースカロライナの研究所で私にこの手紙を渡してくれた女性は、別れ際にこのことを密かに伝えようとしてくれたのではないか。もし彼女の声が聞き取れていたら、私は帰国後、組織の命令におとなしく従ったりせず、なりふり構わずミコトを探し続けたろう。悔やんでも悔やみきれない。それにしても私がアップグレードされた数年前に、すでにこのようなプランが詳細に計画されていたとは驚きだ。父がどのようにして計画を知ったか分からないが、私に秘密裏に伝えたということは、やはり私の読み通り、この計画を阻止するためにどこかに潜伏し、レジスタンス活動をしているということだろう。大義はもちろんだが、親として、私が破壊されるのを黙って見ていられなかったことも父の動機かもしれない。ありがたいとは思う。父らしい正義感に私は感動せずにはいられない。しかし、これから起こるであろうことに、私は関心がまったくなかった。私が犠牲になることも、人類がこのさき背負うであろう苦悩も、どうでもいいことのように私には思えた。なぜなら、すでにミコトはこの世にいないと知ったからだ。すべて私のせいだ。私はミコトを喜ばせることができなかったばかりか、その命まで奪う原因をつくってしまった。半年前に手紙を開封し、すべての真実を知ってしまってから、私は魂の抜け殻のように虚無的に生きてきた。むしろ、粉々に破壊される日を待ちわびていた。そう、いま目の前にいるこの記者と出会うまでは。
ただの偶然だろうか。それとも、この記者は父が送り込んだエージェントで、彼女を使って何かをせよとのことなのだろうか。取材のオファーと手紙の開封指示がきた時期があまりに一致している。どちらにせよ彼女と出会ったことで、私の思いは昨日までと確実に変化している。私はどうなっても構わないという気持ちに変わりはないが、この記者とその背後にいる数多の人間がこれから辛い思いをするのは断じて受け入れられない。インタビューを受けながら、私の気持ちは徐々にそう変わってきた。そして、未知の力を秘めたこの記者なら、私の、いや父の抵抗の力になってくれるかもしれない。その確信は「(人工知能は)人間と共存共生していけるパートナーになってくれなければ困ります」という彼女の発言で決定的となった。絶えず監視されている私にできることは何もない、一度はそう諦めかけたが、私はある賭けをしてみることに、この瞬間、心に決めた。
その後もインタビューは続いた。好きな食べ物のこと(そう私は食事もできるのだ。政治家に会食は付きものだから、父は珈琲だけでなく、あらゆる食物を摂取できる機能が必要だと判断したのだろう。ちなみにアルコールも飲める。ことのほか純米吟醸酒は大好きだ)、応援しているJリーグチーム、趣味、特技、好きな女優、好きなゲーム、お気に入りの観光地などなど。女性誌らしく、当たり障りのないテーマだったためか、執務室内に緊張はなく、立ち会っていたスタッフはみな一様に眠そうだった。
「それでは最後に、党首から読者にメッセージをお願いします」
「今年の秋から、私は全国を廻り、皆様に直接お会いして、一人でも多くの方の声を聞きたいと思っています。その皮切りに、まず広島の平和記念公園で皆様とふれあうイベントを企画しています。もしよろしかったら、お近くの方はぜひ足を運んでください。私は白馬に乗って参上します」
「白馬、ですか? なぜ白馬に乗るのですか?」
「私は江戸幕府八代将軍の吉宗をことのほか尊敬しているのです。吉宗は白馬に乗って江戸の町を駆け巡り、庶民のために尽力した名君として伝えられています。私もいつか名君と呼ばれる政治家になれるよう、まずカタチから真似してみようと思っているのです。いいアイディアだと思いませんか?」
記者は少し首を傾げた。将軍吉宗の話はあまりに唐突すぎる。そうそれでいい。違和感を感じてくれれば、成功だ。秘書をはじめ執務室内で立ち会っている党のスタッフたちにも、一瞬困惑の空気が流れた。私が白馬に乗ることなど、そもそも計画にないし、現実にありえないことだからだ。後ほど私は問い質されるだろう、なぜ白馬の話をしたのかと。そんなことは事前に聞いていないと。私は謝罪し、ただ吉宗を尊敬する気持ちに嘘はないので、わかってほしいと訴える。別に不自然ではない。私はそれ以上咎められることなく、放免されるだろう。さて、賽は投げられた。
インタビューは予定通り終了した。私たちはお互いソファから立ち上がり、お辞儀をして、別れの挨拶をした。記者は退室するために扉へとまっすぐに歩きはじめた。
「スズキさんとおっしゃるのですね」
私は意を決して、彼女の背中に声をかけた。彼女は足を止めた。
「たいへん珍しいお名前ですね?」。私は最後の賭けに出た。
一秒、二秒、時が動きを止めた。
「はい。よくそう言われます」
彼女は振り向かず背中越しにそう答えると、そのまま、ゆっくりと部屋を後にした。
終わった。遠ざかる彼女のヒールの音が、「党首、どうかご自愛を」とささやいているように聞こえたのは、私の願望が生んだ幻聴だろうか。あとは彼女に託すしかない。最後の私の発言はこのあと組織から聴聞されるだろうが、まあそんなことはどうでもいい。いくらでも白を切ってみせる。
私はソファに深々と腰掛けた。天井を見上げた。少し疲れた。疲れる、という感覚は父が与えてくれた極秘の機能のひとつだ。まさか人工知能に疲れがあるなどとは、誰も想像できないだろう。私はミコトの顔を思い浮かべた。彼女はいま天国にいるのかな。会いたい。私は爆破されたら天国に行けるのだろうか? そんなことはありえない、と思う一方で、もしかしたら父は私に魂という超極秘の機能をすでにインストールしてくれているのではないかと期待する自分がいる。私が死んだあと、あの世でミコトに再会できるように。いつしか私は微睡んでいた。秘書が私に何かを語りかけているように感じたが、私はそのまま意識を閉じ、深い眠りの世界へ入り込んだ。
記者
それにしても今朝に限って髪型がぜんぜん決まらない。肌も荒れている。メイクの乗りも悪い。最悪。私はドレッシングルームで溜息をつきながら身支度を整えていた。先進党の党首の独占インタビューがウチ(弊誌)に決まったと聞いたのは三週間前。どうせ私には関係ないし、そもそも関わりたくなかったので気にも留めていなかったが、一昨日になって、とつぜん、おまえが取材に行けと名指しされた。このワタシが? どうして? 編集長に執拗に抗議したが、取り合ってもらえない。これはもう決まったことだ。上からの命令だ。百歩譲って俺がおまえの味方になって一緒に抵抗したとしても、絶対にひっくり返らない。天地が逆になってもそれはない、の一点張り。上の決定? 上って誰よ? 社長? 大統領? まさか神様? なんでそんな雲の上の人たちが、こんな年端もいかない(といってもそろそろアラサーと呼ばれる歳にはなるが)小娘を知っているの?と迫れば、俺が知るわけないだろう。その代わりにな、取材の前日は、ザ・リッツ・カールトンの最上級のスイートを予約してあるらしいぞ。なぜそこまでするのか分からないが、こんなことでもなければ、おまえなんか一生泊まれない。逆に感謝しろ。ったく、こんな大きな仕事をもらえて文句言うのはおまえくらいだ。他の記者たちならみんな我先に手を挙げるぞ、とかなんとか。というわけで、いま私はここにいる。編集長の言うことは、ある意味で正論だ。何といっても、今をときめく人工知能、それも次期首相との呼び声が高い超大物に独占インタビューができるのだ。人類史上初の快挙だ。業界人なら、一生に一度あるかないかの大仕事だとみんな思うだろう。ピューリッツァー賞だって夢ではない。そんな大役を、尻込みをするならまだしも、拒絶するなんてプロとしてありえない。たしかに、おっしゃる通りです。ですが、嫌なものは嫌なのです。と、まぁいくら意地を張っても、編集長の言う通り、覆らないのは分かっている。そういえば小学生の頃、体育の授業(というか先生)が嫌で仕方がなく、何度も逃げ出したが、力づくで連れ戻され、強制的に授業を受けさせられた。あの頃と何も変わらない。私は我慢して(心を殺して)命令に従わなければならない。約束の時間が迫ってきた。私は再び深いため息をついて、ドレッシングルームを出た。
私はホテルのエントランスからタクシーに乗り、紀尾井町にある先進党の本部まで向かった。珍しく人間の運転するタクシーだ。仕事柄タクシーはよく利用するが、有人タクシーに乗ったのは初めてだ。人工知能の取材に向かうのに人間のタクシーに乗るとは、なんと皮肉なことか。運転手は六十代だろうか、高齢の物静かな男性だった。とてもいい匂いがする。とつぜん、父の顔が脳裏に浮かんだ。あれからもう二十年になる。私は市立の小学校に通う二年生だった。両親と私は、古い賃貸アパートで貧しいながらも幸せに暮らしていた。両親と言っても血は繋がっていない。私が三歳の頃、もともと子供のいなかった両親は、当時孤児院にいた私を引き取り、それから実の子のように育ててくれた。小さい子を持つ親としては二人とも少し歳が行っていたのを気兼ねしていたのだろうか、両親は人目を気にしてあまり私を外に連れ出すことはなかった。私が幼稚園児の時も、小学校に入学してからも、運動会や授業参観に顔を出すこともしなかった。本当はどれほど来たかったか私には痛いほど分かっていた。「ぜったい見に来てね」と私はそのたびに必死に説得を試みたが、両親は歳をとった親では私が不憫だと思ってか「ごめんね。いつか必ず行くからね」を繰り返すばかり。そこまで気を遣う両親の優しい心を私は好きでたまらなかったが、その「いつか」は結局来ないまま、七歳の私は最愛の父と母を失った。
タクシーは旧外苑東通りを突き当たりで右折して旧青山通りに入った。それにしても憂鬱だ。気が重い。なんの因果でこの私が、人工知能のインタビューをしなければならないの。私が人工知能をどれほど嫌っているか知っているくせに。私はまた編集長を罵り出した。彼を罵っても仕方がないのはよく分かっているが、誰かのせいにしないと気が収まらない。そうだ、諸悪の根源はあの映画だ。あのアメリカ人の映画監督がその昔、ロボットが武力で人類を支配するというステレオタイプのSF映画を作ったせいで、人類は人工知能に対してトラウマを持った。そこまではいい。問題はそこからだ。人工知能は武力を持たない。決して好戦的ではない。人間に対しつねに従順だとの情報が周知され、実際に映画とは真逆の優しいロボットが介護や医療などの分野に進出し、人工知能に対する疑義が晴れると、人類は手のひらを返したように、人工知能に対する根源的な恐怖を忘れた。映画で植えつけられた負のイメージがあったからこそ、その反動は激しく、人類は狂信的に人工知能の推進に走った。私には、現代の人工知能推進派たちがその目的を効率的に達成するために、悪役の人工知能が登場する映画を何年も前から若手の監督たちに製作させて、下地作りをさせていたとしか思えない。よく考えてみれば分かることだが、人工知能が本当に人類を支配したいと思ったら、武力には頼らないはずだ。人類の歴史を検証すれば、そんなことはすぐに分かる。ナチス政権はクーデターで生まれたのではない。ヒトラーは選挙で選ばれた。そんな歴史的事実を人工知能は学習するだろう。そして、友好的な顔をして人類に近づいてくるに違いない。彼らは私たちの社会に、静かに深く侵攻し、気づいたら私たちはすべての主導権を握られている。だから、決して気を許してはいけない。信じてはいけない。そう主張する私のような人間は、今では少数派になってしまった。あまりにも私が頑なに否定するものだから、いつのまにか誰も取り合ってくれなくなってしまい、私もいつしか疲れ果て、しだいにどうでもよくなっていた。私はサラ・コナーズにはなれないみたいだ。
旧青山通りは珍しく渋滞していた。車が普通に空を飛ぶ時代になり、道路を走る車の数が少なくなって渋滞はほとんどなくなったはずなのに、何かトラブルでもあったのだろうか。いっそのこと、このままこの車が動くことなく時間がどんどん過ぎてくれればいいのに。そんな子供のようなことを思っている私の心を知ってか知らずか、(たぶん、渋滞で私が苛ついていると見えたのだろう)いい匂いのする運転手はオーディオのスイッチを入れ、音楽を流してくれた。女性ボーカルの甘く美しい歌声が聞こえてきた。英語だった。♪まだ若かった頃、よくラジオを聴いていたわ。お気に入りの曲がかかるのを今か今かと待ちわびながら♪。初めて聞く曲だ。心が落ち着く。かなり古い曲のようだがいつ頃の歌だろう。重かった心が少しだけ軽くなった。
「二十世紀末にヒットしたカーペンターズというグループの曲だそうです。苛々したときにこの音楽が流れるととても心が休まるので、私はほぼ毎日のように聴いています」
運転手は、さしでがましくない丁寧な口調で私に話しかけてきた。感じのいい人だ。先ほどから感じているいい匂いで、私はこの人の人間性を分かってはいたが、声もたいへん耳障りがいい。この人のタクシーに偶然乗車した人はきっと皆一様に心地よい時間を過ごすことができるだろう。私の父の乗客も、そうだったのだろうか。
私の父はタクシーの運転手だった。ところが、例の人工知能の台頭によって解雇され、失業保険をもらいながら再就職活動をしばらく続けていた。現役時代の父は仕事一辺倒であまり家に居なかったので、失業がどんなに大変なことなのか知らなかった私は、父が家にいる時間が増えたことが単純に嬉しかった。私は小学生になると、放課後そのまま家には帰らずキッズスタジオという教室へ行き、暗くなるまで読書をしたりスタッフさんたちと遊んだりして過ごしていたが、父が家に居るようになってからは、真っ直ぐに家に帰り、父の背中に飛び乗って、その日学校であった出来事を延々と話し続けた。父は私の話を遮ることなく、いつまでもいつまでも、母親がスーパーマーケットの仕事から帰ってくるまで聞いてくれた。私はそんな毎日がとても幸せで、永遠に続いて欲しいと願っていたが、父にとってはもう後がない追い詰められた日々だったのだろう。父の身体から発するお酒の匂いが日ごとに強くなっていった。そしてその年のクリスマスイブの夜、あの事件が起きた。
渋滞はいつのまにか解消し、気がつくと車は旧赤坂見附の信号を左折し、弁慶橋を渡って旧紀尾井町通りを進んでいた。もうすぐ、先進党に着く。私は敵視する人工知能をインタビューすることになった自分の運命を皮肉に思いながらも、カーペンターズの音楽で癒されたお陰で、こうなったのも何かの縁、あるがままに受け入れようという禅僧のような心境になっていた。
車は先進党の本部ビル前に着いた。予定時刻の七分前だった。運転手は車を降り、後部ドアまで回って右手でドアを開いた。私は深呼吸してタクシーを降りた。降車の際、運転手は私に向かい、「カレンは」と話しかけてきた。私は少し身構えた。なぜ私の名前を? 運転手は続けた。「カレン・カーペンターは摂食障害で亡くなったそうです」。その先の言葉はないまま運転手は口を閉じ、軽く黙礼をして、静かにドアを閉じ、運転席へ左足を少し引きずりながら戻った。私を残して去っていくタクシーを目で追いながら、私は思いを巡らした。カレン・カーペンターとは、おそらくカーペンターズのボーカリストのことだろう。その彼女が、摂食障害が原因で命を失ったことを、なぜ運転手は私に伝えたのか。謎を残したまま、私は建物の中へ入った。それにしても、私と同じ名前とは。偶然なのか、何かの暗示なのか。今日はいつもと何かが違う。
先進党本部ビルは存在感を極度に抑えた無機的な外観とは裏腹に、内観は天然オークの無垢材をふんだんに使用した自然の息遣いに満ち溢れていた。エントランスフロアの一角に受付らしきデスクがあり、さすがに人工知能を推進する政党だけあって、そこには見た目でそれと分かるロボットが恭しく待機していた。私はそこで名乗り、訪問目的を告げ、セキュリティチェックを受けると、フロアの中央に設けられた螺旋階段から二階へ進むよう案内された。私は階段を一段一段ゆっくりと昇った。二階には、紺色の地味なスーツを着た若い男性が私を出迎えに来ていた。人間の匂いがする。アジア系の顔立ちだが、日本人ではないようだ。スーツの男は私に軽く会釈をすると、「党首の執務室へご案内します」と言い、背中を向けて歩き出した。若い男性特有の華奢な背中だ。しかし、か弱くはない。格闘技の心得があるようだ。それも相当の使い手だ。さすがに次期総理候補の側近だけある。只者ではない。頭の中でこの男と戦ってみた。倒すのに三秒いや五秒はかかる。長い廊下の彼方に、マホガニー製の大きな扉が見えた。そこがきっと党首の執務室なのだろう。スーツの男は扉の前で歩みを止めると、腕時計を見た。そして頃合いを見計らい、右手でノックをした。私も同時に腕時計を見た。針は午後一時三十分丁度を指していた。約束の時間だった。スーツの男は再び扉を叩いた。中から男の声がした。執務室の扉がゆっくりと開かれた。
生気がまるでない。それが党首を間近で見た私の第一印象だった。機械に生気がないのは当然といえば当然だが、最近の人工知能は人間らしく見せるために、あえて生気を感じさせる外観にデザインされているので(その方向性に私は苛立ちを禁じ得ないが)、むしろ目の前にいる党首は人間にしか見えない。さらに、この機械からは気配さえ感じる。私が生物以外から気配を感じることなど通常はありえない。この党首は本当に機械なのか?
あくまで事務的に、予め決められた通りの取材を淡々とこなして早急に終わりにしようと考えていた私の思惑を挫くのに十分すぎるインパクトだった。予期せぬ出会いに当惑したからだろうか、挨拶もしないまま私は声をかけていた。
「撮影から取材まで、たった一人でやるのか、と思われましたか?」
ずいぶんと失礼な口の利き方だ。私も故意にこんな生意気な発言をしたわけではない。そう言わずにはいられなかったくらい、私はこのとき余裕を失っていた。私の姿を最初に目にした党首がやや怪訝そうな表情を浮かべたので、そのまま口にしたのだが、取材サイドが一人しかいないのはおかしいと思うのも無理はない。
「ご存知のように、昔はVIPのインタビューとなると、それはそれは大勢の人間が同行したものですが、今はほとんど一人で行います。セキュリティーの面でもクルーの数は極力少なくするように求められています」
とは言っても、次期首相候補の独占インタビューにたった一人で来るなんて、ありえない。私もそう思う。私は、私一人で取材するようにと上から命令されたので一人で来た。それだけのことだ。しかしその意図は知らされていなかった。
名刺を交換し、着席した私たちのテーブルに淹れたての珈琲が運ばれてきた。フレンチローストだろうか。とてもいい香りだ。
「ところで、党首も珈琲を飲まれるのですか?」
党首に関する資料は一夜漬けですべてに目を通しておいたのだが、珈琲に関しての情報はなかった。本来なら、事前に提出していない質問をするのは業界ではルール違反とされている。私はすでに平静を取り戻していたし、ルールを知らない素人でもないが、好奇心が抑えきれずつい口に出してしまった。第三者から見れば、なんと失礼な導入に見えるかもしれないが、党首は驚くことにまったく意にも介さず、それどころか逆に嬉しそうに、私の目を真っ直ぐに見つめ、昔を懐かしむように話し始めた。
党首は話を始めると同時に、私の脈拍や心拍数などの生体機能をモニターし始めた。私は最初から気づいていたが、別に何を調べられても、とくに困ったことはない。相手の承諾を得ずに監視することは決して褒められたマナーとは言えないが、私も慣例を無視した質問をしたばかりだし、機械とはいえ次期首相候補ほどの大物に抗議をするのも憚られる。そして何よりこの党首は、自分の話に私がどの程度興味を示しているかを純粋に知りたいだけなのだろうから、私はそのまま気づかぬ振りをして無視することにした。ただ、これは最先端の人工知能の能力を測る絶好の機会かもしれないと思いつき、私は通常の人間では有りえないような生体反応をわざとすることにした。
そう、私は通常の人間ではない。自分が普通ではないことを知ったのは、育ての親に引き取られる二日前のことだった。孤児院には、私を含め十人の孤児がいて、私たちは毎日、広大な敷地のなかにある草原で楽しく遊んでいた。孤児院に草原? 常識ではありえないが、たしかに草原があった。幼い時の感覚なので実際には記憶ほど広くはないかもしれないが、草原としか言いようのない環境だった。そこで、ある者は虎になり、ある者は鹿になり、ある者は豹になり、ある者は狼になって疾走していた。私は白い鳥に姿を変え、大空を自由に羽ばたいていた。それが普通だと思っていた。人間は誰でも獣に変身できるものだと信じていた。だって私たち孤児は皆例外なく獣の姿になれるのだから。だから、あの日、孤児院を主宰している神父さんから孤児院の外の世界のことを聞いたときも、まったく理解できなかった。私は当時三歳ということになっていたが、今から思えば小学五・六年生並みの認知力があったので、もちろん話は理解できた。だから、動物に変身できる私たちだけが例外で、普通はできないという事実を理解したくなかったと言ったほうが正確かもしれない。育ての親に預けられてからは、決して変身してはいけないし、ここでのことも話してはいけない。神父さんは私にそう約束させると、ある薬を投与した。そして私は記憶を失った。ところが、高校三年生の夏、とつぜん孤児院の記憶が甦った。おそらく神父さんは、私から永遠に記憶を奪う意図はなかったのだろう。私が早く人間の社会に溶け込めるように、一時的に孤児院の記憶を消す必要があったものの、何かの目的があって、時が来たら記憶が甦るように操作したに違いない。
党首の話は続いた。
「そんなある日、あれはクリスマスイブの夜だった。私はとある私鉄の駅のタクシー乗り場から一組の家族を乗せ、海沿いのマンションに向かう途中、事故にあった。『聖夜の惨劇』と大きく報じられたその事故は、センターラインをオーバーして突っ込んできた大型トレーラーとの正面衝突事故で、乗客の少年と母親が即死し、父親は奇跡的に一命を取り留めたものの全治六カ月の重傷を負った。私のクルマは全壊し、もちろん運転席の人形は粉々に砕け散った。その後の警察の調べによると、事故の原因となった大型トレーラーは近くの工事現場で盗難にあったもので、運転していたのは五十代の無職の男性。元タクシーの運転手だったが、無人タクシーの時代になり失業したらしい。再就職活動をするものの、なかなか採用されず精神的に追い詰められていたようだ。男は人工知能を恨んでいたのだろう。盗んだトレーラーで、無人タクシーなら無差別に激突し心中しようとしたのではないかとニュースは報じた」
モニタリングされている私が、脈拍も心拍数もまったく変動させずに逆にモニタリングしているとは、夢にも思わないだろう。そう過信していた私の呼吸が乱れたのは、想定外だ。乱れは最小限に止めたつもりだが、おそらくこの機械は気づいたろう。「聖夜の惨劇」の犯人は、まぎれもなく私の父だ。その事件で父は即死し、母も私を残して後を追った。もちろんこの機械は、私が犯人の娘であることは知らない。取材者である私がどんなバックグランドを持つ人間か、先進党からは何のチェックも入らなかった。私のいる会社も私の過去を詳しくは知らないはずだから、「聖夜の惨劇」の犯人の娘と被害者がこの場で対峙していることを知っているのは私だけだ。運命の悪戯としか言いようがない。私の一瞬の呼吸の乱れを、この機械はどう解析するだろうか。まさか私を犯人の娘だと特定することはないとは思うが、万一そこまで辿り着いたとしても、この機械は平然としているに違いない。「それがどうした」とでも言って関心を抱くことはないだろう。この機械は生気がないことに加え、先ほどから漂わせている虚無的な気配には、絶望と哀しみの香りがする。
もちろん、父の犯行により、尊い命が失われたことに対しては心が痛む。犯人の娘としてその罪は一生背負っていかなければならない。ただ破壊された人工知能に対しては良心の呵責は感じない。父の行為は許されることではないが、人工知能によって人生が立ち行かなくなった人間が大勢生まれたのも事実だ。たしかに人工知能そのものには何の罪もない。問題は人工知能を推進する政策、要するに人間にあるわけだが、そこを糾弾しようにも表舞台に現れないものだから、どうしても人工知能そのものに敵意がいってしまう。そう導かれているのは分かっていながら、ついつい流されてしまう。私もそうだ。人工知能が嫌いなのはあくまで感情だ。追及すべき問題は人工知能推進政策であることは十分承知している。そこはしかし、父がそうだったように、私も争うには大き過ぎて手出しなんかできない。悔しいけど、人工知能を「機械」と呼んで蔑むことぐらいしか、今の私にはできない。
その後、この機械に恋人ができた話で、中断に入った。人工知能と人間のカップルは最近では珍しくはない。人工知能との婚姻を認める条例が、たしか渋谷区で制定されたと聞く(この区は以前、同性同士の婚姻を日本で初めて認めた区でもあった)。それはそうと、偶然の一致は「聖夜の惨劇」だけではなかった。彼が最初に就いた仕事は、私も小学生の頃よく利用したキッズスタジオという放課後教室だという。懐かしい。当時を思い出す。主任さんはとても怖い人だったけど、スタッフさんたちは、みんな優しかったな。私は友達がいなかったので、いつもスタッフさんたちが私の相手をしてくれた。とくにMさんという男の先生が私のことを特別に見守ってくれた。私は発達障害児だと見なされていたので、専任のスタッフをマンツーマンで配置する必要があったのだろう。彼がTくんという発達障害児の専任だったように。そうあなたも特別な支援や配慮が必要な児童(と大人たちは私たちのことをそう呼んでいた)の担当をしていたのね。さぞ大変だったでしょう。私のなかで何かが動き始めた
党首の話が再開した。
「ねえシオン、駅前の喫茶店へ行って珈琲でも飲まない?」
ミコトという名の彼女が発したこの台詞が発端で、自分は珈琲を飲める身体にならなければならないと決意した。そう彼は言うが、私には理解できなかった。
「しかしミコトの表情が極めて真剣だったことに加え、私が生真面目な性質だったこともあり、私はミコトの発言を言葉通りに皮肉と受け止め、自分には珈琲を飲むという人間にとっては当然の行為ができないことを改めて痛感した。そして、二人で喫茶店へ行き、二人だけの時間を過ごすという普通の恋人同士なら日常的に行うことを私はミコトにしてあげられないという罪悪感が私のメモリーに強く刻まれた」。
それは違う。ミコトさんは皮肉なんて言ってない。ただ、つい口が滑っただけ。人間はね、恋人に完璧さなんて求めていないの。あなたが珈琲を飲めないなら飲めないでそれでいいの。自分には足りないものがある。それがあるから自分は駄目な存在だ、なんて考えてはいけない。あなたは省略したが、ミコトさんはあなたの決意を聞いたとき、きっと驚いたでしょう。でもあなたの目が真剣だったから、そして、そうあなたのことを一人のパートナーとして愛していたから、何も言わずにあなたを送り出したのでしょう。少年を冒険の旅に送り出すように。このとき私は、まるで母親のような口調で過去の党首に心の中で話しかけていた。だがまあ、あなたのその勘違いが原因で、あなたは珈琲を飲めるようにアップグレードされたし、ひいてはこうして党首と呼ばれる存在にまで登りつめた。結果オーライだったかもしれない。しかしなぜ彼はこんなに絶望しているのだろう。この時点で、私はまだ何も気づいていなかった。
「新しく生まれ変わった私は、父の言葉通り、まったくの別人だった。もちろん変化したのは外見だけで、私の中身は、つまり記憶や嗜好のことだが、何ひとつ操作されていなかった。というのも、私が目覚めたとき、カーペンターズの『イエスタディ・ワンスモア』が聞こえたからだ。父は、もちろん私がカーペンターズを好きなことを知っている」
また再び偶然の一致、いや、ここまで重なれば単なる偶然の一致で片付けられる現象ではない。このとき私はそろそろ気づき始めた。私がここに来る前にカーペンターズの曲を聴いたのは、意図的に仕組まれた何かのメッセージではないだろうか。誰が何のために発したメッセージなのか。この独占インタビューには何か裏がある。私が知らなければならない何かが。私はその答を見つけるために、党首の話の続きに集中した。
「父は私を珈琲が飲めるようにしてくれただけでなく、味わえるようにもしてくれた。人間と変わらない能力だ。約束通り父は私の願いを高いレベルで叶えてくれた。それから…」
このとき、秘書の一人が不自然な間合いで党首の話を遮った。珈琲のお代わりを出すタイミングのように見せかけた演技なのだろが、疑惑を感じ始めた私の目は誤魔化せない。あきらかなインターセプトだ。党首が秘書たちをはじめとする党のスタッフ(人間にも人工知能にも)から監視されていることに私は当初から気づいてはいた。それ自体はどこの組織にもあることなので特に警戒はしていなかったが、このように直接介入してくるとなると、話は別だ。この党には、この話の先に口外しては不都合な事実があるのだろうか。もちろん、そんなことがもしあれば、党首だって軽々に話したりしないだろう。万が一のための警告だろうか。それはそうと、この秘書、外見は男性だが肉体は女性のようだ。さきほど私を案内してくれたスーツの男もおそらくトランスジェンダーだろう。この党は、本家の米国共和党とは真逆の方針で、人工知能だけではなく性的少数者も取り込もうとしていることを改めて思い出した。LGBTQと呼ばれる方々を人工知能と同列に語るのは失礼かもしれないが、両者の社会進出の歩みは驚くほど似ている。
党首は話を続けた。アップグレードの成功から帰国までのエピソードが語られたが、直前に党首の話が遮られた理由が垣間見えた。そこに本来なら居なくてはならないはずの重要人物が一切登場してこない。その人物の不在に注目することのないように、党首は「研究室のメンバー全員・・・・・・・・が空港まで見送りに来てくれた」などと表現したため、普通は気づかずにやり過ごしてしまうところだ。党首を開発した人間の存在は、党にとって不都合な問題なのだろうか。この件は確認する必要がありそうだ。
不自然な話はさらに続いた。
「『たぶん僕は振られてしまったようだね。こんなオヤジになってしまったのだから、仕方ないよね』そう私は戯けて、その場を後にした」。
ミコトさんも消えている。しかも、この女性の失踪はかなり深刻な出来事のはずなのに、あっさり振られたことにして片付けている。そんなはずはない。仮にミコトさんが心変わりして、あなたの前から姿を消したとしても、あなたの能力を使えば彼女の位置を特定できないなんてありえない。あきらかに何かを隠している。
違和感を感じる私がミコトさんの失踪から目を逸らすように、党首は、その足で米国共和党日本支部へ向かったと話題を変えた。きっと何らかの手がかりが見つかるかもしれないと考え起こした行動ではないだろうか。しかし結局、その答は得られなかったのだろう。党首はミコトさんに関してそれ以上言及することはなかった。
その後、党首は何かに誘導されるかのように(実際にそうされたのだろうが)政党本部まで辿り着いた。
「当時、米国共和党日本支部は博愛党という名で政党登録されていた。いま私が党首を務める先進党の前身である。もちろん、実態が米国共和党であることは公にされていなかった。本部は東京の汐留にある高層ビルの一角に密かに置かれていた。元々は大手広告代理店の本社ビルだったところだ。ちなみに、この大手広告代理店の名前は記事にしないでください。」
方針がどの時点で変更になったのか知らないが、先進党が米国共和党によって創設された日本初の政党であることは、今では秘密どころか逆にアピールポイントにさえなっている。数年以内に、党名はそのまま共和党日本になるとの噂も聞く。そのほうが、親米派が多いこの国では、若い層を中心とした国民の支持率が高まると判断したのだろう。バックについているのが例の大手広告代理店なら考えそうなことだ。そういえば、人工知能を搭載したロボットが今日のように広く社会に認知されるようになったのは、この会社がプロデュースした全員人工知能のアイドルグループが国民的スターになったことがきっかけだと言われている。その人工知能アイドルの一人と交際していた(人間の)女性タレントが、二人の婚姻を認めさせる訴訟を起こしたのを機に、人間と人工知能の共存共生社会が始まったことになっているが、すべての動きを裏で演出していたのがこの会社だ。性的少数者が徐々に認知されてきた過去の経緯を分析し、マイノリティを認めるのが成熟した社会だとの考えを人工知能にまで広げて浸透させた手腕は、いつものことながら狡猾としか言いようがない。
「訓練は休みなく続けられ、もうすでに時効だろうから話すけど有給など一日もありませんでした(笑)。その後、ご存知のように何回かの選挙を経て、私は代議士となり、昨年、党の代表に選ばれ、今こうしてここにいます」
党首の話は終わった。回想の終盤は駆け足で語られた印象がぬぐえない。政治家になった自分には興味がないのだろう。党からも入党からのことは詳しく話さないようにと釘を刺されているに違いない。彼は秘書に珈琲のお代わりを再度依頼した。私にも勧めてくれた。私は笑顔で応じた。彼は、当たり障りのあることには触れずに語った自分の話は不自然ではなかったか、と不安気な様子だったので、私は満足そうな表情をつくり、頷いてみせた。その仕草で彼の心配は消えたようだった。
休憩の後、質疑応答に移る。本番はこれからだ。私がここに呼ばれた目的、そして、党首が醸し出している絶望のオーラの理由を、私は残された時間で見つけ出せるだろうか。
質疑応答の時間になった。
「党首が、なぜ珈琲を飲むようになったか。よく分かりました。とてもロマンティックなお話ですね。党首の人気がますます高まるエピソードに聞こえました。ところで、その後ミコトさんとは連絡がとれたのですか?」
「いいえ。音信不通です」
「党首の力を使えば、探せるのではないですか?」
私は、いきなり核心を突いた。
「位置情報を検索することはもちろん可能です。しかし、それはできません。その人の許可がなければ、私たちはできないのです。ちょっと話は逸れるかもしれませんが、昔こんな映画を観ました。とても古いアメリカの映画です。主人公の恋人がとある経緯で他の男性と結婚することになるのですが、主人公は愛する彼女を諦められずに、結婚式場に乗り込み、彼女を奪って逃げるのです。私たち人工知能にはとてもできない芸当です。こんな行動がとれる人間を私は羨ましく思います。諦めずに、なりふり構わず最善を尽くす。それが私たちから見た人間の特長のひとつです。正直、私も、彼女を探す行動がとれればどんなにいいだろうと思うことは度々あります。しかし、できません」
あきらかに嘘をついている。古い映画の例えを出すのは、話を逸らす常套手段だ。やはりミコトさんの不在がキーポイントのひとつなのか。
「それは失礼しました。では、次の質問に移ります。次の総理大臣にしたい政治家は誰かというアンケートで、党首は圧倒的人気で一位に選ばれていますが、そのことについてはどう思われますか?」
私は方針を変え、党首ではなく、側近の反応を調べることにした。
「光栄なことですが、戸惑いもあります。私は機械です。機械はあくまで人間に尽くすのが使命です。ご存知のように、私はもともとタクシー運転手のサポーターでした。人間のために働くのが私の存在理由です。それは今も変わりません。ですからトップとして働くより、トップの補佐として尽力するのが私の役割だと思っています」
誰が台本を書いたのか、歯の浮くような台詞だ。側近たちの感情は安定している。つまり、水面下では党首を首相にするための準備が着々と進められ、それが順調にいっているということだろう。でなければ、これほど余裕のある反応はできない。
「それでも、党首を首相に推す声が高まれば、いつかは否応なくこの国の総理大臣になられます。そうなれば、史上初めて人工知能の政権が誕生する事になりますが、これまでの政治と何が違ってくるのでしょうか?」
私は謙遜した態度に付き合いながら、話を進めた
。
「そうですね。少なくとも私は機械ですから、記憶にございません、などという発言は事実上できません。それから、肉体を持たないことのメリットとして、健康上の不安もありませんし、テロや暴力、脅迫に屈することもありませんので、信念のままに政策を進めることができます。どうか人類の明るい未来のために、私という存在を大いに利用してほしいと思います。そうそう、人間にとって天敵のウイルスとか未知の生物とか霊とか妖怪にも私は恐怖を感じません(笑)」
私はこれまで、ごく普通の一人の人間として生きてきた。覚醒する前の子供時代は、自分が特殊な存在であることなどとうぜん知らなかったのだから、なぜ自分の髪は他の人と違ってこんなに変わった色なのか、なぜ自分の瞳は他の人と違ってこんなに碧いのか、いつも悩んでいた。学校では、私はいつもからかわれ、いじめられ、気持ち悪いと言われ続けた。そう、「お化け」という渾名をつけられたこともある。党首が唐突に「未知の生物」だの「妖怪」などという例えを持ち出すものだから、思わずあの頃を思い出してしまった。党首は私の感情の変化をキャッチしただろうか。当時、私が学校でどんな悲惨な扱いを受けているかは、もちろん両親はわかっていて、髪を黒く染め、カラーコンタクトレンズを付けることを勧めてくれたが、私は頑なに応じなかった。他人からは異様に見える髪や瞳の色のせいでどんなに辛い思いをしていても、それが自分の大切な本質であることを無意識に気づいていたのかもしれない。それにしても党首は自分の他愛のないジョークで私が過敏に反応したことをどう解釈するだろう。党首は私が普通の人間ではないことを知るはずも理解するはずもない。そもそも未知の生物の情報など最初から入力されていないだろう。私たち種族の情報を持っていない党首にとって、私の反応の理由はきっと見つからないだろうが、もし私の正体を知ったら、党首はどんな顔をするだろう。
私に与えられている取材時間は五分を切った。
「確かにまだまだ私たち人間には人工知能に対する不安や畏怖の念は残っていますが、脅威はありません。それは、まさしく党首の人柄のせいです」
「人柄?ですか」
党首はあきらかに照れていた。照れ、という感情は年少者に特有のものだ。彼女のために一途になる性質も含め、このひとの精神年齢は少年レベルに設定されているのだろう。党首のいう通り、開発者は亡くなった息子さんを当時のまま再現したかったのだろうか。私の党首に対する意識はこの瞬間、反感から好感へと一気に反転した。汎用型人工知能全般を肯定する気にはいささかもなれないが、目の前にいるこの個体だけは信じるに価する。彼の気配、匂い、優しさ、少年のような純粋さ、そして哀しみ。すべてが私の心を動かした。
「そう、人柄です。きっと、党首のベースとなった開発者の息子さんの人柄が反映されているのでしょうね。そういえば、お父様とお呼びしていいのでしょうか、開発者の方は、今どこで何をしているのでしょうか?」
「エルサレムで人工知能の研究を続けているそうです」
間髪を入れずに党首は答えた。きわめて事務的に、取扱説明書を読むような口調で。その他人事のような言い方から私は、開発者が姿を消し、その行方を党首も組織も掴めていないことを確信した。開発者の失踪を党として公にできない何らかの理由があるために、この質問にはこう答えるようにと、党首は言い含められたのだろう。これまでの話の流れから、私には全体像がおぼろげながら見えてきた。
開発者は当初、米国共和党からの依頼を受け、人工知能推進計画に協力をしていた。そこにある日、かつて自分が日本で開発した人工知能シオンからアップグレードの相談があり、シオンを計画実現のために使うことを思いつく。おそらく開発者は、その段階ではまだ組織に忠実に従っていたに違いない。ところがその後、組織には裏の目的があることに何かの拍子で気づく。その裏の目的とは、開発者にとって到底受け入れられない悪のシナリオだったのだろう。自分が騙され、利用されてきたことを知った開発者は、そのシナリオに抵抗することを決意する。しかし、敵は大組織だ。まともに戦って勝てる相手ではない。そこで開発者は姿を消し、レジスタンス活動を始める。開発者に共鳴する何人かの協力者も同志として加わっているはずだ。おそらくミコトさんも、組織の裏の目的にとっては邪魔な存在だったのではないか。それで拉致され、どこかで監禁されているか、あるいは消去されたか。党首シオンはこのことを、どこかの段階で、おそらく開発者サイドからのリークによって知らされた。この私の仮説が正しいとすると、開発者とミコトさんの不在、そしてシオンの絶望感にも合理的な説明がつく。となると、残された疑問は、私が今日ここに派遣された目的だ。まだ経験も浅く、政治や人工知能の専門家でもない無名記者の私が、たまたまインタビュアーに抜擢されることなどありえない。しかも単独で派遣されるなど前代未聞だ。すべてに誰かの意思が働いている。もしかしたら、私がここに来るために乗った有人タクシーも、偶然ではなく予め用意されたものだったかもしれない。タクシーの中で聴いたカーペンターズが、たまたま党首のお気に入りだったなどということがあるだろうか。そう思えば、タクシーを降りるとき運転手が残した謎の言葉にも何らかのメッセージが込められているに違いない。「カレン・カーペンターは摂食障害で亡くなったそうです」。あのとき、唐突に語られたこの言葉を私は思い返した。食物を摂取できる機能がありながら、その能力を拒絶しなければならなかった人間。そして、飲食ができない構造を持ちながら、珈琲を飲める機能を欲した機械。この両者にはどこか共通点がある。いちばん一致しているのは、どちらにも哀しい運命が待っていたという点だ。ただ、カレン・カーペンターの運命を取り戻すことはできないけれど、党首はまだ生きている・・・・・。もし党首がミコトさんと同じようにこれから消される計画があるとしたら、今ならまだ変えられるかもしれない。運転手の謎の言葉は、私にそのことを伝えたかったのではないだろうか。私は党首の置かれた立場を解明した。私を派遣した誰かは、遅かれ早かれ私が党首の謎を解くであろうことは最初から織り込み済みだったのだろう。そのうえで、次に私に何をさせたいのか。私はすべてを理解した。私はこの党首、シオンを救うためにここに派遣された。
「人工知能はさらに進化していくのですね。楽しみです。ただ、単なる性能の向上だけなら、私たち人間は歓迎しません。人間と共存共生していけるパートナーになってくれなければ困ります。その意味では、少なくとも私たち国民の多くは、党首が今のところ最高の人工知能だと思っています」
インタビューの終了時刻が迫ってきた。党首への他愛もないお世辞に聞こえる言葉に、私は「共存共生していけるパートナー」というキーワードを入れ、私が協力者であることを秘密裏に伝えようとしたのだが、果たして試みは成功しただろうか。シオンが私の意図に気づいたならば、彼はきっと何かの暗号を送ってくるはずだ。その暗号らしきものは、彼の国民に向けてのメッセージの中に含まれていた。
「今年の秋から、私は全国を廻り、皆様に直接お会いして、一人でも多くの方の声を聞きたいと思っています。その皮切りに、まず広島の平和記念公園で皆様とふれあうイベントを企画しています。もしよろしかったら、お近くの方はぜひ足を運んでください。私は白馬に乗って参上します」
「白馬、ですか? なぜ白馬に乗るのですか?」
「私は江戸幕府八代将軍の吉宗をことのほか尊敬しているのです。吉宗は白馬に乗って江戸の町を駆け巡り、庶民のために尽力した名君として伝えられています。私もいつか名君と呼ばれる政治家になれるよう、まずカタチから真似してみようと思っているのです。いいアイディアだと思いませんか?」
江戸幕府? ヨシムネ? あまりに唐突すぎる。これは私に対しての何かの暗号であることは疑いない。ということは、私のメッセージは彼に伝わったということか。だとしたら、いったい彼は私に何を伝えたかったのか。暗号を解く、もうひとつの鍵が必要だ。残された時間で果たして彼は私にその鍵を渡せるのか。
インタビューの時間が終了した。私たちはお互いソファから立ち上がり、お辞儀をして、別れの挨拶をした。私は退室するために扉へとまっすぐに歩きはじめた。
「スズキさんとおっしゃるのですね」
シオンの声がした。私は背中を向けたまま足を止めた。
「たいへん珍しいお名前ですね?」
一秒、二秒、私は不自然に思われない程度の時間を使い、
「はい。よくそう言われます」
振り向かず背中越しにそう答えると、そのまま、ゆっくりと部屋を後にした。
私は鍵を受け取った。そのことを伝えるために、人間はもちろん標準的な人工知能では聞き取ることのできない周波数で「党首、どうかご自愛を」とささやいたのだが、私の声は届いたろうか。スズキは珍しいどころか、誰でも知っているポピュラーな名前だ。そんな小学生でも知っている常識的なことを、シオンはあえて知らないふりをした。有名なのに珍しいと、真逆なことを言った。逆。逆さま。それが暗号を解く鍵だ。その観点からシオンの発言を精査してみると、白馬というワードがあまりにも唐突に登場する。白馬。ハクバ。これを逆に読めということか。とすると「広島の平和記念公園に白馬に乗って登場する」は、シオンあなたは広島の平和記念公園でそういう残酷な目に遭遇するということね。人工知能のあなたが、よくこんなアナログな暗号を考えついたわね。90点といったところかしら。私はシオンをまるで担任の先生のように褒めてあげたい気持ちになった。シオンは今日までは、自分が爆破テロに会う運命だと知りながら、苦しむのでも、もがくのでもなく、ただ大人しくその計画に殉じようとしていたのだろう。ミコトさんを失い、生きる意味・・・・・を亡くしたあなたにとって、生存する理由などなかったのだから。人類の未来がどうなるかなんて、どうでも良かったに違いない。しかし、私と出会ってから、あなたは徐々に変わり始めた。私をここに派遣した誰かは、私という存在がシオンの思考回路に影響を与えることを分かっていたのだろう。インタビューの後半になって、あなたは自分の未来については運命を甘んじて受けつつも、人類の未来については心配しはじめた。そして私に望みを託し始めた。私が人類の救世主になどなれるはずもないし、そもそもなる気などまったくないが、シオンあなたのことなら守れるかもしれない。シオンという名は殉教者を連想させるけど、あなただけはぜったいに破壊させない。私が孤児院から育ての親に預けられた時期、孤児院にいた九名の仲間たちは私と前後して世界各地の一般家庭へ、まるでバーゲンセールのように放出された。その後孤児院は閉鎖されたと聞く。何か大きな計画の一環だったに違いない。もし世界中に散った私の仲間たちが私と同じように覚醒していたとすれば、そして私たちが連携できれば、きっと大きな力になれる。私たちは、獣に変身できるだけではない。知能も運動能力も通常の人間を遥かに凌ぐ。聴覚・嗅覚などは野生動物並みのレベルだ。おそらく私もまだ知らない秘められた能力も内蔵されているはず。これまで信じたくはなかったが、私たち獣の姿に変身できる種族は自然発生的に生まれたのではなく、遺伝子工学によって人工的に開発された特殊な生命体なのだろう。人間によって造られたという点では人工知能となんら変わらない。人間ではないが人間を愛したもの同士、共闘するのも悪くはない。そう思わない、シオン?
「会社までお送りしましょうか?」
エントランスフロアまで私を見送りに来たスーツの男が私に尋ねた。
「今日は天気がいいので、少し歩いてから会社に戻ります」
私は丁重に断り、一礼をしてビルの外へ出た
まず私がするべきことは仲間探しだ。孤児院へ行けば手がかりが見つかるかもしれない。飛ぼう、北海道まで。孤児院のあった釧路を出てから変身をしたことは一度もない。もう二度と鳥の姿になることはないと決めていた。このまま普通の人間として静かに生きていこうと思っていたが、私には戦う宿命が用意されていたようだ。今こそ私は真の姿に戻り、飛ばなければならない。
◼︎
いつもなら、無数のドローンや(空飛ぶ)クルマで埋め尽くされ、環境問題にさえなっている東京の上空も、なぜかその日に限って人工の飛翔体は一機も飛んでいなく、二十一世紀前半に見られたような眩しい青空が広がっていた。その雲ひとつない真っ青な空を切り裂くように、一羽の白い鳥が、天使のように翼を広げ北の空に向かって滑空していくのが見えた。それが微睡みのなかで見た夢なのか、それとも現実だったのか、シオンはいまだに思い出せない。