異世界への帰り道
俺は異世界から来た人間だ。
そう言うと、この世界の人達は俺に『中二病』というレッテルを貼る。
しかし、これは事実だ。
俺には、別の世界で生きていた時の記憶がある。
元の世界で、俺は小さな港町の門番だった。町を襲撃しようとする賊や魔物達から人々を守ることが役目。剣術は勿論、少しだが水魔法も使えた。パン屋を営む年老いた優しい両親と幼馴染の可愛い恋人だっていた。町の人達に感謝され、支えられて生きていた。
世界が変わるキッカケなんてなかった。
元の世界で、夜の警備中に同僚と交代で仮眠を取ろうと見張り小屋のベッドに横たわり、目覚めた時にはこの世界にいた。
魔法の代わりに科学というものが文明を支える世界に──。
この世界での俺の役割は平凡な高校生というものだった。
知らない家で知らない人達と暮らし、道端に溢れるおかしな物に怯えながら学校へ行き、全く理解できない授業を受けて家に帰る生活。
こちらの戸惑いとは対照的に、周囲の人達は元からこの世界にいた存在のように俺を受け入れていた。俺自身も、学習していないのにもかかわらず、この世界の言葉を理解し、文字を書くこともできた。ありがたいという気持ち以上に、用意された状況に気持ち悪さを感じる。
俺なりに状況を理解しようと、今の世界にある書物を読んでみた。
異世界に渡った人達の記録が書かれた本の中で、体験した人達の状況は『憑依』『転生』『転移』など様々だ。
本を読んだことで、俺は自分の状況を『異世界転移』だと結論づけた。
断じて『憑依』や『転生』ではない。俺は元の世界で死んだのではなく、ただ眠っただけだからだ。
それに、顔も年齢も名前の発音も元の世界の俺と同じだ。
元の世界の俺と異なる部分は、訓練で鍛えた筋肉が削ぎ落とされた弱い身体であること、髪と目の色が真っ黒になったこと、魔法が使えなくなっていたことだ。ただ、これは『転移』で生じた変化だと俺は考えている。
異世界転移だと分かったところで、これからどうすればいいのか説明してくれる案内役はいない。
元の世界にいた頃の知り合いが誰もいない。頼れる友人も恋人もいない。
異世界転生や転移には何かしらの特典があるらしいが、それも無く、むしろマイナスしかない。
要するに──俺、マイナスしかない異世界でぼっち生活。泣きたすぎる。
今日も沈んだ気持ちを抱えたまま、学校で一日を過ごした。
明日から夏休みという長期の休暇があるらしいが、一緒に遊ぶ相手もいない。浮かれて楽しげな声を上げるクラスメイト達をよそに、俺は一人虚しい気持ちで教室を出た。
この世界に来て、もう四ヶ月近くも経っている。
現状を打破する変化は起きないまま、不安と焦りだけが募っていた。
俺は真っ直ぐに家に帰らずに、海岸へ足を向ける。
太陽の光を吸収した熱い砂浜の上に両膝をついて、目の前の広大な青い海に向かって両手を大きく広げた。
「神よ! ここは俺の生きる世界ではない。俺は元の世界に帰らなければならないんだ!」
俺が元いた世界では、神は海にいる。海を介して元の世界の創世神に届くように、強く念じながら祈りを捧げた。
慈悲深い創世神は流行病から町の人々を助け、強大な力を持つ魔物から守ってくれた。今回も、きっと俺を助けてくれる筈だ。
「どうか、俺を元の世界に帰してください! 俺の居場所はここではない!」
熱心に祈りを捧げる俺の体を、真夏の太陽がジリジリと焼いていく。この世界は酷く蒸し暑い。今の俺の貧弱な体は早々に根を上げそうになった。
「ねえ、君。何してるの?」
「どわっふ!?」
後ろから声をかけられて、俺は驚いて飛び上がる。あろうことか、着地間際で自分の足に引っかかって盛大に転んだ。
「お笑いのズッコケ練習?」
心配するのではなく面白がっているような声音だった。
起き上がって声の方を見てみれば、長い前髪で顔半分を覆ったヒョロイ男が立っていた。白いシャツに青いチェック柄のズボンという制服姿から、俺と同じ学校に所属しているのだとわかる。ただ、随分とだらけた性格なのか、ズボンの裾を膝下まで捲り上げて白いサンダルを履いていた。
「ねえねえ、元の世界に帰してくれって何? 君の話を聞かせてよ」
男の長い前髪の隙間から、キラキラとした猫目とそばかすが見えた。好奇心旺盛な目は、友人の魔術師とよく似ている。郷愁にかられていた俺はハッとして立ち上がった。
「何でもない。俺に構わないでくれ」
立ち去ろうとすると、猫目の男は俺のシャツの裾をガシリと両手で掴んだ。
「いやだ。俺が君に構いたいもん。ねえ、元の世界ってなーにー?」
小さな子供のようなわけのわからない理屈で、猫目の男は手を離さない。
「何でもないって言っているだろう!? どうせ、俺の話なんて碌に聞きもしないでバカにするくせに! この世界の人達は皆そうだ!!」
周りの人達は、俺の言動を「頭がおかしい」「妄想だ」と決めつけてバカにする。その度に、元の世界の存在を否定されたように感じて悲しくなる。
「”皆”って、ひとくくりにしないでよ。俺は君の話を聞きたいって言ってるじゃん。君の方こそ、俺の話を聞いてよね」
ぷんと怒りながら、猫目の男は自分の欲求を通そうとする。押し売り商人並みの強引さで「ねえねえ」攻撃を繰り返してきた。
「ああもう! お願いだから、ほっといてくれ!」
「嫌だー。そうだ! 君、腹減ってない? 飯奢るから、君の話を聞かせてよー」
「飯……」
空腹を思い出したように腹が鳴る。猫目の男は勝利を確信してニンマリと笑った。
「すぐそこに俺の馴染みの店があるから一緒に行こう!」
食欲と押しに負けて、俺はついていくことにした。
”野良”と名乗った猫目の男に連れられて訪れたのは、海辺に隠れたように佇む小さなカフェだった。
二十代後半程の年齢の男性店員に「いらっしゃいませ」と笑顔で出迎えられる。
小綺麗な店内は洒落てはいるが、不思議と落ち着くような居心地の良さを感じた。
空いている時間なのか、他に客の姿はない。野良は我が物顔で店内を進み、窓際にある緑色のソファにダイブした。クッションを抱いてゴロゴロと寝転がる姿は、完全に自宅のような寛ぎようだ。
この世界では普通のことなのかと首を傾げつつ、俺は野良の対面のソファ席に座った。
「飯屋〜、腹減ったー。今日の飯は何?」
「今日はロコモコ丼だよ」
店員はそう言って、俺達の前にあるテーブルに木の器と水の入ったグラスを置いた。
米の上に野菜とハンバーグを載せた料理。彩りもよく、食欲を誘うような良い香りがする。
野良はガバリと起き上がると、上機嫌にスプーンを手に取った。
「いただきまーす!」
「な、なあ。お前、ちゃんと金は持っているのか?」
目の前の料理は、この世界の通貨で千円は超えそうだ。この世界の学生には結構高い金額だと認識している。野良は見た目からして普通の学生で、裕福なようには見えない。
「ん? 何言ってんの? 無一文に決まってるじゃん」
「は!?」
俺の焦りを嘲笑うように、野良は大きな口を開けてハンバーグをモグモグと咀嚼して幸せそうな笑みを浮かべた。
「ちょ、まずいって!」
「大丈夫! 飯屋が作るご飯は全部うまいよ!」
「そういう意味じゃない! 無銭飲食は棍棒で百叩きの後、半年の強制労働の刑になるんだぞ!?」
「え?」
目をパチクリさせる店員を見て、俺は自分の言葉が場違いなのだと理解する。今までも元の世界の常識を話して、こんなリアクションをされたのだ。俺が狼狽えていると、店員がクスリと笑った。
「お代は取らないから大丈夫だよ。ここは僕の店だし、野良は友達だから。もう作っちゃったし、君も食べてくれると助かるよ」
若いから店員だと思っていたが、どうやら店主のようだ。店主の優しい言葉と食欲をそそる匂いに背中を押され、俺は感謝の祈りを手早く済ませてロコモコ丼を口にする。
(う、うまい!)
肉感のあるハンバーグ、溢れる肉汁を逃さないように受け止める米、少し酸味のあるタレと野菜が油を中和してサッパリと食べられる。
夢中で完食した後、俺は満足して幸せな溜め息を吐いた。
「よかった。お気に召したかな?」
「はい! うまかったです!」
店主は空いたグラスに水を注ぎながら嬉しそうに微笑む。冷水に入っていた小さな氷をガリガリと音を立てて食べていた野良は、俺が食事を終えたのを見計らって楽しげに口を開いた。
「ねえ、そろそろ君の話を聞かせてよ」
俺が言い淀むと、野良は「俺は約束を守ったよ」と言いたげに唇を尖らせる。確かに、ここで俺が話さないのは不義理を働くことになるだろう。
「……俺は、別の世界から来た人間なんだ」
俺は覚悟を決め、異世界転移した経緯を話す。言い切った後、俺は野良の顔を見れずに俯いた。続く沈黙が辛くて、俺は唇を噛み締める。
(信じてもらえるわけがないよな)
諦めの境地で顔を上げると、野良は真面目に思案するような顔をしていた。
「パラレルワールドだね」
「……パラー?」
「パラレルワールド。俺達が今いる世界と別の世界が並行して存在しているという考えだよ。君は元いた世界の軸から大きく外れて、この世界に来ちゃったんだろうね」
言い方は違うが、異世界転移と同じことを言っているのだろう。
他人も同じ意見であることに安堵したが、それ以上に不安に襲われる。本で書かれている異世界転移した人の話では、「元の世界に帰れない」というのがお決まりのパターンだった。
「俺はこんな特殊な状況などいらないのに……」
異世界転移をさせられた者は、勇者や聖女として世界から必要とされた人材だった。そんな理由があるなら、まだ理解できる。だが、平凡な学生になる為にわざわざ世界を移動させられるなど意味がわからない。
「君の状況は別に特殊なことじゃないよ。そもそも、俺達は様々な世界を移動してきているからね」
「は?」
「並行世界は同時に無数に存在する。今この瞬間、俺達のすぐ近くに観測できないくらい沢山の別世界があるってこと。今いる世界とは全く違う世界に行くこともあれば、わずかな差しかない世界に移動することもある。世界を移動することは、珍しいことでもないんだよ」
「そんなわけないだろう!? お前は世界を移動したことがないから、そんな適当なことを言えるんだ!」
「君みたいに大きな移動はないかもしれないけど、俺も違う世界を移動していると思うんだよね」
野良はグラスの水を全て飲み干した後、俺の目の前に掲げてみせた。
「さて、俺が今飲んだ物はなんだったかな?」
「……は? 水だろう?」
質問の意図がわからずに訝しんでいると、野良は首を傾げた。
「何言ってるの? 俺が飲んだのはアイスティーだよ?」
「は?」
俺は戸惑いながら、野良が飲み干したグラスをまじまじと見る。グラスには茶が入っていたような色はなく、透明な水しか見えなかった。
「まあ、今のは冗談だけど。でも、似たような体験をしたことがない? 自分の記憶と相手の言い分が異なること」
「それは…………あるが。だが、そんなものは自分か相手の記憶違いだろう?」
「その可能性もあるけど、別の可能性もあると思わない? 自分か相手のどちらかが別のよく似た世界からやってきて、そこではそれが真実だった。そして、今お互いがいる世界との違いが生じた」
どちらの言い分も正しく、ただ元となる世界が違っていた。その為に、言い分が違うのなら……。
俺はゾクリとした寒気を感じた。野良はニヤリと笑う。
「世界の境界は曖昧なんだ。眠っている間、もしくは瞬きの間に、別の世界に移動することだって有り得る」
「そんな……」
「元々、俺達の存在も曖昧だからね。認識しなければ存在しないのは、人も世界も同じ。君がいた世界も、君が『確かにあった』と言わなければ存在しないのと同じだ」
「そんなわけがない! 元いた世界は確かに存在している! 記憶だってある!」
「記憶ほど曖昧なものはないよ。その記憶だって、君が肯定しなければ存在できない不確かなものだ」
否定の言葉を吐き出したいのに、頭がグルグルと混乱して何も出てこない。嫌な汗が背中を伝っていく。野良はソファの背もたれに深く沈み込んでヘラリと笑った。
「だから、元の世界に帰れないと悲観することはないよ。世界の境界が曖昧なら、望む世界に行ける可能性がある。元の世界にポンと帰ることだって有り得るんだ」
どうやら、今までの話は野良にとって慰めのつもりだったようだ。俺は小さな希望に縋るように口を開く。
「お前は、元の世界に帰る方法を知っているのか?」
「……残念だけど、俺は自分で意識して世界を渡ったことがないから方法はわからない」
野良の答えに、俺はわかりやすく肩を落とした。
「希望を持てと言われても、明確な方法がわからなければ帰れないじゃないか」
「君が別世界に移動した時も明確な方法はなかったんでしょう? それなら、曖昧なままでも世界を移動できる筈だよ」
「お前は他人事だからそんなことを言えるんだ」
「確かに他人事だね」
「……俺は、これからどうすればいい?」
元の世界の大切な人達の顔を思い浮かべる。この記憶だって、いつか薄れて、俺の妄想だったのだという認識に変わりそうで怖い。大切な人達と、まだ一緒にいたかったのに。元の世界を愛していたのに。
帰ることができるかわからない希望に縋り続けるのは、地獄のように思えた。
「これからどうするかは、俺が決めることじゃない。君が決めることだよ」
欲しい答えを貰えなかった。俺は手で額を押さえて項垂れる。
「これは、神が俺に与えた罰なのか……」
正義の行いだと信じて魔物を倒したのがいけなかったのか。盗賊団を捕らえて処刑場送りにしたことが罪なのか。
「そう信じれば、それが君の世界の真実になるね。君が信じたものが世界の全てだから。俺が君の立場なら、絶対に生きて元の世界に帰れると信じて、今いる世界を存分に楽しむけどね」
「楽しむ? ふざけているのか!?」
俺は顔を真っ赤にして声を荒げる。
異世界転移を経験した人達は別の世界で生きることを喜んでいたが、俺はそんな気持ちになれない。
ある日突然、見知らぬ世界に放り込まれる絶望。齟齬は誤解を生み、周囲から疎まれていく。味方もおらず、その世界を生きられる便利な能力も無い。そんな状況で、うまくいく人の方が稀だろう。発狂して死ぬ方が自然だと思える。
俺が知りたいのは、この世界で楽しく生きる道ではない。元の世界へ帰る道だ。
「ふざけることの何が悪いの? 元の世界と大きく違うなら、見れる物や体験できる事がたくさん増えるでしょ? ふざけ倒して楽しまない方がもったいなくない?」
野良は平然と言ってのける。俺の考えが間違っているのかと混乱していると、ふわりと良い匂いが鼻を掠めた。顔を上げれば、店主がにこりと笑って皿とアイスティーをテーブルの上に置いてくれた。
「パウンドケーキだよ。よかったら食べて」
「え? でも……」
皿の上に載っていたのは、輪切りのレモンが飾られたケーキだ。美味そうだが、今の俺の手持ちの金では絶対に払えない。
「今日はもう、お客さんも少ないだろうし。食べてくれると助かるよ」
店主の視線を追って窓を見れば、暗い色の雲が空を覆っていた。
野良は「ラッキー♪」と上機嫌にケーキを食べる。
俺は手元にあるケーキを見つめる。元の世界で砂糖は高級品だった。裕福な家の人間がケーキを食べているのを見たことはあるが、口にすることは出来なかった。
俺が見た限りでも、この世界は豊かだ。平民でも当たり前のように砂糖を口に出来て、病院で治療を受けられる。魔物の襲撃にも怯えなくていい。
(……俺は、ずっとこの世界を否定していた)
元の世界を神聖化して、今いる世界から目を逸らしていた。周りから否定されていると思っていたが、俺自身も「元の世界と違う」と、この世界を否定していた。
俺はフォークを手に取り、ケーキを口に運ぶ。じわじわと口の中に広がる甘みは幸福の味がして、俺は少しだけ今の世界を見れた気がした。
ケーキを食べ終わって、俺は今の家に帰ることにした。まだ雨は降り出していないが、急いで帰った方がいいだろう。俺は店主に頭を下げる。
「お土産までありがとうございます」
「どういたしまして。来てくれてありがとう」
店主と野良に見送られて、俺は扉を開けて外に出る。浜辺から道路に出て後ろを振り返れば、先程までいたカフェが小さく見えた。
(今度は客として来よう)
透明な袋に入ったレモン味のケーキを掲げて笑ってみせて、俺は目の前に広がる道を見る。
幼い頃に初めて森へ冒険に繰り出した時に似た高揚感が身を包む。俺は今やっと、この世界を歩き出した。
***
少年を見送って、カフェの店主の飯屋こと飯屋崎は後ろを振り返る。ソファに寝転がっていた野良の目がウトウトとしていた。
「野良、起きて。君も家に帰らないといけないだろう?」
「……やだぁ。もう少しだけいる」
眠そうな声で返事をする野良に小さく溜め息を吐いて、飯屋崎はテーブルの上にあった食器を下げて洗い場に運んだ。
「ねえ、野良。さっきの彼の話は本当だと思う?」
少年と野良の話は、カウンターにいた飯屋崎にも聞こえていた。
異世界から来たという話は、飯屋崎には信じられない。少年の妄想ではないかと思ってしまう。
「うん。あの子が本当だと思っていることが、あの子にとっての本当だから。俺もそう信じるよ」
「僕は信じたくないな。こことは別の世界があるなんて」
あの少年が本当に異世界からやってきたのなら、別の世界を移動することがファンタジーではなくなってしまう。ある日突然、知らない文明を築く世界に放り出されるなんて恐怖でしかない。
「俺は逆に、世界が一つしかない方が怖いな。だって、そのたった一つの世界に居場所がなくて拒絶されたら悲しいじゃん。どこか別の世界があって、望む人生を送れる可能性があるのなら、自由に世界を移動できる方がいい」
「でも、彼のように、ずっとその世界にいたかったとしたら? 世界を移動できない方が幸せなのに、困るんじゃない?」
「……飯屋。どうして、あの子が元の世界にいた方が幸せだと思うの?」
「え? だって、彼自身が帰ることを望んでいるんだよ?」
少年は元の世界に帰りたいと訴えていた。それは嘘ではないとわかる程に切実な様子だった。
「もしかしたら、この世界で生きることが、あの子の幸せに繋がるのかもしれないよ?」
「……どういうこと?」
「もしさ、あの子が元の世界で殺される運命だとしたら?」
「え?」
「眠っている間に、あの子が言う魔物に町が襲われてしまったとかね。もしくは盗賊に殺害されるとか。あの子は神の罰だと言っていたけど、本当は神の情けでこの世界に移動させられたのだとしたら?」
それが本当なら、野良が「元の世界に帰れるかもしれない」と言ったことは、少年に自殺を仄めかしているのと同じではないのか?
青ざめる飯屋崎を見て、野良はクスクスと笑った。
「もしかしたらの話だよ。あの子が望むなら、元の世界とよく似た場所で生きられる世界線に辿り着けるかもしれない。世界は無数に存在しているからね。さて、俺もそろそろ出ていくよ」
野良は伸びをして立ち上がる。飯屋崎は頷いて、用意していたお土産のパウンドケーキを野良に手渡した。
「気をつけて帰るんだよ」
「ありがとう。今日のご飯も美味しかったよ」
「よかった。今日はひき肉が安かったからね。明日は何かリクエストある?」
野良にハンバーグを出すのは随分と久しぶりだった。最近は魚料理ばかりで少し不満が出ていたので、きっと肉料理をリクエストしてくるだろう。
「うーん。ここのところ毎日ハンバーグだったから、明日は久しぶりに魚が食べたいな」
「え?」
野良の言葉が理解できず、飯屋崎は呆ける。からかっている様子もなく、野良はいつものようにニコリと笑った。
「じゃあ、また明日も会えたらいいね」
野良が扉を開くと、暗い雲に覆われていた筈の夕日が彼の体を照らした。
飯屋崎はギョッと目を見開く。
扉の中は血のような不気味な赤い色で塗り潰されていた。固まる飯屋崎をよそに、野良は笑みを浮かべて扉の中へ足を踏み出す。
「帰り道じゃなくても、続く道があるのは良いことだよね。一番怖いのは、何処へも行けずに、何も無い世界に永遠に囚われてしまうことだから」
扉が閉まり、野良の姿と共に不気味な赤い光が消える。
窓を叩く音がして外を見てみれば、空を覆う重たい雨雲から大粒の雨が降り注いでいた。