王女になったお手伝いさん
泰輔は、「僕のお父さん」という作文を書きました。
僕のお父さん、3年3組 萬城目泰輔
僕のお父さんは売れない小説家です。今、北杜夫の「ドクトルマンボウ航海記」が流行ですが、あれに比べれば、お父さんの小説はほとんど本屋でも見かけない、まさに売れない小説家です。それでも何とか食えているのは、お父さんのお父さんが残してくれた遺産で食いつないでいるから、とお父さんがよく言います。
この前、我が家に新しいお手伝いさんが来ました。普通、お手伝いさんと言うのは大金持ちの家に来るひとだと思っていましたが、大金持ちでもない我が家にお手伝いさんが来るとは思っていませんでした。僕は嬉しくなりました。この前までいた婆やが辞めるからです。新しいお手伝いさんは、中学を卒業したばかりですから、僕といくつも違いません。この子は、日活の女優の芦川いづみに似ていると言うことで、お父さんは採用することにしました。
それから1週間後、美千代は大きなボストンバックを持って萬城目家にやって来ました。
「大きなバックを持って、疲れたでしょう、一人で来たの、とりあえずは2階のあなたの部屋に行って、荷物を片付けて一服しなさないな」
婆やが遠慮する美千代からボストンバックを預かり、泰輔も手伝って2階へ上がりました。女中部屋と言っても4畳半の小ぎれいな部屋でした。婆やがカーテンを開ける、
「いい部屋でしょう。女中には勿体ない、なんてことは私は言わないよ。今は民主主義の時代だからね。民主、民主、とセミが鳴くってか」
婆やは一人で受けて大笑いしながら窓を開けます。からっ風が一瞬にして吹き込んだので、素早く閉めました。窓から見える風景は、瓦屋根が続く向こうに小高い丘の神社の雑木林。美千代はこの風景と自分に与えられた明るい部屋と清潔感に感動しました。
これまでの印刷工場の2階の部屋は「ちいさい秋見つけた」のお部屋は北向きくもりのガラスと言った雰囲気の部屋でしたから、美千代はうれしくてたまりませんでした。
「夕飯まではのんびりしていなさい。仕事は明日からね」
1週間も経てば、美千代さんがみよちゃんと気安く呼ばれるようになりました。泰輔は休み休みしながらも学校へは通っていました。しかし、学校は一向に楽しくはなりませんでした。授業中は黙って先生の話を聞いていれば、それで済みましたが、苦痛だったのは休み時間でした。皆は外に出て楽し気に走り回っています。体力もなく、友達と遊ぶこともできない泰輔は、窓側の席に座ったままです。こうしていると、先生や皆の自分を見る目も気になって一応校庭に出ます。花壇の端っこのレンガに腰掛けて、遊んでいるみんなを見ていました。
すると、買い物の途中なのでしょうか、買い物かごを下げたみよちゃんが、校庭脇の坂道を歩いてきました。泰輔はこんな惨めな格好を見られたくなかったから。隠れようとしましたが間に合いませんでした。隠れる前に、みよちゃんが泰輔に気が付いて手を振りました。泰輔も仕方なく手を振りました。みよちゃんは、ニコニコしながら坂道を登っていきました。何事も無かったように。
家に帰ってから、みよちゃんに聞いてみました。
「僕は変な子供と思うでしょう」
みよちゃんは新しく仕入れた映画雑誌をめくりながら、
「何でそう思うの」
「遊ぶ友達もいなくてさ、花壇に座り込んでいる子供はおかしいよね」
「そんなことはないよ。ひとりで堂々としていればいいんじゃない」
「みよちゃんは、そう思うの」
「そうだよ、坊ちゃんは、すこし大人びているから、他の子供たちとは違うんだ。だから、そう簡単には友達もできない。でも、友達が欲しいの」
「そう思ったことはないな。一人が好きだし」
「だったら、一人で堂々と生きて行けばいいさ。人の目なんか気にすることないよ」
泰輔は嬉しくなりました。そうか、堂々と生きて行けばいいんだ。
「今日は学校を休みます。また、熱が出てきたようだから」
泰輔は自分の熱が出る前兆を知っていたから、何時ものように父に告げました。
父も何時ものように、
「そうかわかった。みよちゃん、学校に電話しておいて」
と言うと、何事も無かったかのように朝食を続けました。
泰輔は嬉しかった。今日は、とりあえずは明日が来るまでは、この家の中にいられる。気を遣う他人と接触せずに1日を過ごせることは、どんなことよりも幸せに感じる。
普通の家であれば、いくら病弱と言っても、週に1日以上休む子供には「無理にとは言わないが、少し頑張って学校に行ったらどうだい」くらいは言われるでしょうが、萬城目家では、そう言ったことは言われることはありません。
土曜日の夕食の時に、父が「みよちゃんも、日曜日くらい友達と映画でも見に行ったらどうだい」と言うと、「いいえ、私はこのお宅でのんびりしているのが一番気楽ですから。でも損な性分ですね。友達と映画を見に行くくらいなら映画雑誌を見ている方がどれだけ気楽かと思うのですから」
泰輔は、自分とみよちゃんは似ている、と思いました。みよちゃんは映画雑誌の大フアンで、女中部屋には色鮮やかな大型の映画雑誌が何冊かありましたが、それらはすべて貸本か古本で、買い物の帰り道に貸本屋へ寄り道をするのが唯一の道楽でした。ヒッチコックの「裏窓(1954年)」、オードリーヘップバーンの「ローマの休日(1953年)」、ジェームズディーンの「エデンの東(1954年)」、石原裕次郎の「陽のあたる坂道(1958年)」と趣味の範囲は広かった。彼女はそんな映画の粗筋を滔々と泰輔に聞かせてくれる。そうかと言って、彼女はすべての映画を見たわけではなく、ほとんどは映画雑誌からの受け入れでした。
「みよちゃんが話してくれたローマの休日、今、駅前の映画館でやっているんだ。電柱にポスターが貼ってあった」
「あれはたしか1953年、と言うことはリバイバルなのか」
みよちゃんはちょっと興味ありげでした。泰輔が父に頼むとすんなりオッケーしてくれ、次の日曜日にみよちゃんと映画館に行きました。面白い映画でした。王女がその身分を隠してハラハラドキドキのお転婆ぶりに興奮しました。映画館から出てみよちゃんとあんみつ屋に入りました。
「たまには実際に映画を見るのもいいもんだね」みよちゃんは言いました。
「そうだよ、雑誌は音も出ないし、写真も動かないからね。やっぱり映画館に行かないと」
ローマの休日のオードリー・ヘプバーンを見ると、みよちゃんは芦川いづみにも似ているけど、オードリー・ヘプバーンにも似ているな、と思いました。
みよちゃんは、着ているものが地味だったから、皆は気づいていなかったけど、オードリー・ヘプバーンのような衣装を着せたら、きっと皆驚くだろうなと泰輔は子供心にも思いました。
秋の学芸会、これまでは白雪姫とか、一寸法師とか言った誰もが知る出し物がほとんどでしたが、新しく入って来た若い男の担任の先生、旭丘先生は同僚先生や父母からは、ちょっと変わった先生と思われている先生でしたが、その先生が、「今度の学芸会はローマの休日」をやろうと言いだしたのです。
その先生はオードリー・ヘプバーンの大フアンだったのです。
「先生は大学時代1週間映画館へ通い詰めて繰り返し見たもんだ。「ローマの休日」はそのくらい面白い映画だった。この中でローマの休日を見たことがある人はいるか」
誰も手を上げません。泰輔はおそるおそる手を上げました。
「萬城目は見たのか」
「この前、駅前の映画館でお手伝いさんと見に行きました」
すると、お手伝いさがいるのか、すごいな、と言った声が上がりました。
「そうか、どこが面白いと思ったか」
「グレゴリーペックが王女の手を引いて螺旋階段を昇ろうとすると、王女が階段から外れたり、間違って隣の部屋のドアをノックしそうになったところでは、劇場のみんなが笑いました」
「そうか、話が合いそうだな、昼休みに職員室に来いよ、2人で構想を練ろう」
いつももみそっかすの泰輔は、一躍クラスの皆から注目される存在になりました。給食を食べ終え職員室に入りました。職員室に入るなんて初めてのことだったので緊張しました。どこに旭丘先生は座っているのだろう。すると窓側で煙草を吸っている旭丘先生を見つけてホッとしました。先生は泰輔に気づくと煙草を持つ手を上げ、煙草の煙が大きく揺らぎ、陽の光に煙が青く見えました。
「萬城目はどう思うか。映画のストーリー通りになんてできっこないけど、子供らしい芝居にしたいな」
「ラッパの音楽隊が勢いよく駆け抜けるところとか、王女が寝室の窓からダンスパーティーを見下ろすシーンとか、王女が城を抜け出してローマの街中を楽しく歩くシーンとか、最後は記者会見のシーン。映画を見ていない人にはわかりづらいでしょうからナレーション入りにして」
先生は普段はおとなしい泰輔が滔々と話すのを見て驚いていました。泰輔はいつか映画監督になってローマの休日の日本版の映画を作りたいと思って、いつもその夢想に耽っていましたから、先生からローマの休日の話が出て、夢中だったのです。
それからは、泰輔と旭丘先生共同で脚本作りが始まりました。アン王女の閲兵、これは生徒がハーモニカや縦笛や木琴で行進する。これをアン王女が手を振りながら閲兵する。これなら演奏会にもなるし、多くの生徒が出演できる。
旭丘先生は、これはいいアイデアだと褒めてくれる。次にアン王女が眠気眼で城を抜け出して公園のベンチで寝転がる。そこにやってきた新聞記者のグレゴリーペック、仕方なく自分のアパートへ。アパートから町に出て来た。そこはたくさんの通行人や花屋、これもたくさんの生徒が出演できる。アン王女はスペイン広場でアイスクリーム。最後は記者会見の場、これも幾人もの記者になった生徒たちが質問すればいい。
「萬城目の構想は面白いな、来週のホームルームの時間にみんなに説明してくれないか」
生徒の反応は、ただただ泰輔の話を聞くばかりで、あまり盛り上がらなかった。
「先生、みんなが面白くないよ、と言うんだ」
「やっているうちに面白くなるよ、とにかく、脚本を書いて、それをもう一度みんなに話して聞かせよう」
それから半月後、やっと舞台稽古らしきものが始まりました。キャストも決まりました。アン王女は髪の長い千恵子さん、新聞記者は徹君、写真家は勇君、その他。
教壇にアン王女がエスコートされて、楽隊が校歌を演奏しながら行進する。
宮殿の寝室、アン王女は、街に出てみたいと駄々をこねる。
深夜、こっそりと寝室を抜け出す。そこはローマの街中。ベンチに寝ていた王女に新聞記者が語りかける。
「こんなところで寝ていたら風邪を引くよ、早く家に帰りなさい」
「帰る道がわからなくなってしまいました」
「しかたないな、今晩は僕のアパートで休みなさい」
翌朝、アン王女は記者と別れてローマの街中へ。
稽古をしている内に、みんなも少しずつ面白くなってきたようです。今日は学芸会の前日、最終リハーサルの日でした。ところがアン王女役の千恵子さんが登校してきません。
お母さんへ
驚かないでください、私は王女となりました。泰輔君の学芸会は「ローマの休日」で私も泰輔君と一緒に脚本を考えたりしていたので楽しみにしていました。すると、「みよちゃん、大変だ、王女がいなくなちゃったよ」と言って学校から帰ってきました。
「王女はいなくなってあたりまえでしょう、それでなきゃローマの休日にならないでしょ」
「違うんだよ、王女役の千恵子さんがいなくなった。なんでもおたふく風邪にかかったから、芝居には出られなくなったんだよ」
と言うではありませんか。
「代役はいないのかしら」
「明日のことで、セリフも覚えらえないし、みんないやがって」
「困ったわね」
「先生と相談したんだけど、みよちゃんはどうだろうと言うことになって」
「私が小学校の学芸会のピンチヒッター、ご父兄から大ブーイングよ、こんな話聞いたこともない」
「みよちゃんは脚本作りを手伝ってくれたから、セリフも展開もわかっているし、ここはみよちゃんしかいない、と先生は言うんだ、僕もそう思うよ」
「そんなこと急に言われても、第一、衣装もないわ」
するとこの話を書斎で聞いていたご主人様が出てきて、
「妻が着ていたドレスがあるよ、ちょっと着てみてよ」
素晴らしいドレスでした。まさにアン王女が着るような。
私はドレスを着てみました。背丈もぴったりでした。
そこへ旭丘先生がやってきました。
「心配になってやって来ました。みよちゃん、引き受けてくれてありがとう、似合うじゃないか、まさにオードリー・ヘプバーンだ」
ここにご主人様が撮ってくれた学芸会の写真を入れておきます。これはアン王女の記者会見の場で「アン王女は各国を見て回られましたが特に印象に残った国はどこですか」との記者の質問に「各国ともそれぞれいいところがあり」と言いかけて、「それはローマです。生涯忘れることはありません」と言い切ったところです。恥ずかしいから、人様に見せないでね。
美千代より