未熟な二人が駆け落ちした物語にハッピーエンドはない
短編『天秤にかけた愛〜かけおちの行方〜』の敏明視点の話。天秤〜を読まなくても大丈夫……だと思います。
※一度非公開にしていましたが、少し改稿して戻しました。
彼女が時折見せる表情の翳りに気づかないふりをしていたのは、指摘したら僕以外の誰かの手をとって、急にいなくなるのではと考えずにはいられなかったからだ。
『少し残業。帰りは20時過ぎるかも』
『了解』
僕は彼女に返信をしてから携帯をチノパンのポケットにいれた。そして、ここのところ増えたと自覚している溜息をつく。
今も彼女の帰りが遅くなると知ってホッとしていた。最近は彼女の顔をまともに見られなくなっていたから。
「敏明、聞いてる?」
僕を呼ぶ姉の声。姉は隣県の実家に住んでいるためあまり会うことはないが、今日は用事で近くに来るらしいと親から聞いていたので、僕が駅前のカフェに呼び出した。
「あ、ごめん」
「相談ってなに? お金は貸さないし、変なビジネスとかもお断りよ」
「そんなんじゃないよ。ちょっとどうしたらいいかわからないことがあって」
「なんか面倒そうだけど、とりあえず話してみてよ」
「じつは――」
♢♢
僕は人妻を好きになってしまった。出会ってすぐに。清楚な見た目と真面目で控えめな性格に惹かれ、気づいたらとにかく手に入れたくて必死になっていた。
そして両思いだと知ってしまったら想いを止められるはずもなく、むりやり駆け落ちまがいなことをして彼女を手に入れた。
けれど、まわりが見え始めた時に、僕は激しく後悔をした。順番を間違えたと。
それに気づいたのは彼女と暮らし始めて既に一年以上過ぎてからのこと。それからは、彼女を一度帰らせるべきだとわかっていながら、どうしても彼女を手放せず、日々だけが過ぎていった。
二年目にはいるころ、心境の変化があった。
少し、加虐的になったと思う。わざと意地悪を言ったり、態度を悪くした。献身的な彼女に苛立ちを感じていたし、僕が段々と“夫”のように見られている気がして不快だったからだ。
さらに、最近は心ここにあらず、という表情をよく見せるようになったことで更に苛立ちが増していた。
このままでは、もっと酷い扱いをしてしまいそうな不安から、姉に相談することにしたのだ。
「……まさか、あんたが原因とかないわ」
話し終えて、姉の由紀がテーブルに突っ伏した。
「まさかって、なに?」
「美帆さんの旦那さんは私の友だち」
由紀が低くつぶやき、
「しかも、家にお邪魔したこともあるし、美帆さんと話したこともある」
と、突っ伏したまま早口で続けた。
「あー……姉さんも友達多かったね、そういえば」
「美帆さんが留守なのは知ってた。親の具合が悪くてしばらく実家に戻ってるって話だったけど。でもまさか弟と駆け落ちしていたなんて……鈴木君に合わせる顔がないわ」
「なんかごめん」
「聞かなきゃよかった」
由紀はようやく顔をあげ、疲れた表情を見せる。
「旦那さんは駆け落ちのこと知ってると思う?」
「そんなことわかるわけないよ。知らなければいいとは思うけど」
「……そうだね」
由紀が呆れた表情でしばらく僕を眺めていたけれど、小さく首を横に振る。
「どうしたらいいかなんて話じゃないよね。別れた方がいいって人に言ってほしいだけでしょ」
「そんなつもりじゃ……」
「不倫とか抜きに考えても、疑いだしたら終わりじゃないの? 信頼できないのに関係を続けるのは相手のためにもならないと思うけど」
その通りだった。彼女の変化に、もしかしたら僕もあっさり捨てられるのではと疑うようになっていた。
「疑うなってこと?」
「それは難しいかもね。お互いに疑心暗鬼になるようなことをしでかしての今なんだから」
由紀の辛辣な言葉に、僕はうなだれる。
――もう、終わってたんだな。
不意にそんな言葉が頭をよぎった。あの頃の、お互いしか目に入らないという時期はとっくに過ぎていて、彼女の視線がまっすぐ僕に向かなくなった頃から、そして僕が彼女に苛立ちを感じ始めた頃には終わっていたのかもしれない。
そう考えてしまったら、彼女への想いが遠い昔のものに感じた。
「律子とは何度も会ってたのに、なんでこのことを黙っていたのかなぁ。まさかあんたたちを応援していたとか? それはないか」
由紀がひとりごとのように呟く。
アパートの隣人の律子は姉の友人だ。偶然ではない。僕の住むアパートは叔父が所有者だから、空きがあれば知り合いに勧めることもある。
「応援どころか、反対されてると思う」
僕も姉の言葉に同意する。
もとから好かれてはいないと思っていたが、美帆と付き合いだしてからは特に蔑むような視線を向けられていた。
「それはともかく私も相談があるんだけど、人妻を寝とっておいてなんの責任もとらずにいる弟を、姉はどうするのがいいと思う? まずは一発殴ればいい?」
僕は、何も言えなかった。
それからは、美帆に対してどう接すればいいのかわからなくなって、優しくすることができなくなっていった。
彼女からここを出ると言い出すのを待っていたある日、隣人の律子から「美帆さんがこれからのことで迷っているからしばらくうちで預かる」と言われた。心の底から安堵した。
別れを告げられた日、久しぶりに視線が合った。
冷めてしまった心は、目を見ればわかった。
お互いに。
美帆と律子が引越す日、カーテンの隙間から外を覗いた。美帆が車に乗りこむところだった。
横顔だけれど出会った頃のような笑顔が見えた。
久しぶりに見る笑顔。
少し胸が痛んだけれど、出会った頃のような熱がよみがえることはなかった。
さよならとか、ごめんとか、元気でとか、幸せにとか、もし彼女に声をかけるならと想像したけれど、どれもしっくりこず、僕は彼女の後ろ姿をただ眺めていた。
車が発進する瞬間、彼女がこちらを振り返りそうな気がして、僕はカーテンをそっと閉じた。
読んでいただきありがとうございました。
ちなみに、夫視点は書きませんので安心してください。
ざまぁてきなものを期待されていたかた、何もなくてすみません。
【裏設定】
律子が敏明を嫌っていたのは、別れた夫に雰囲気が似ていたからというだけの理由。律子が由紀に駆け落ちのことを話さなかったのは、愛を信じたい気持ちと失敗してほしい気持ちが半々で、言うに言えなかったからという感じです。