四
あの日、記念日の食事は何がいいか訊かれ、僕は奈々美に餃子をリクエストした。
生姜の効いた、奈々美の特製餃子だ。
家で支度をしていた奈々美は、冷蔵庫をあけ、大きくため息をついた。
生姜を切らしていたからだ。
彼女はバタバタと携帯と財布を持ち、そのまま玄関から出て行った。
コンビニへ、生姜チューブを買いに行ったのだ。
その様子を僕は毎日、繰り返し見続けている。
キッチンで支度し、ため息をつき、出て行く奈々美。
彼女には僕の声が届かない。
泣こうが喚こうが、彼女は玄関から出て行ってしまう。
なぜなら、あの日、コンビニに向かった彼女は、交差点の事故に巻き込まれてしまったからだ。
彼女は即死だった。
日常が突然絶たれてしまった彼女は、自分が死んだ事に気がついていないのか、毎日、キッチンに立つ。
繰り返し繰り返し、死んだ日の様子を僕は見つめる事しか出来ない。
奈々美が玄関から出て行く度に、僕は彼女をコンビニまで迎えに行く。
けれど彼女はいない。
どこにもいない。
彼女はどこにいるのだろう。どこに迎えに行けば良いのだろう。
コンビニの店員が怯えていた幽霊というのは、奈々美の事かもしれない。
彼女は毎日繰り返し、生姜チューブを買いにコンビニへ行くのだ。
僕がリクエストしたばかりに。
「奈々美、ごめん。僕のせいだ。僕のせいで奈々美は……」
公園に現れた彼女を前にして、僕は謝る事しか出来なかった。
もっと一緒にいたかった。
もっとたくさん話したかった。
奈々美との日常を失って、僕は幽霊みたいな毎日を過ごしていた。
僕は未練の塊だ。
奈々美は、「勝手に使わないでよね」と言って、スタンプカードをヒラヒラとさせた。
「これは、私のだから」
白髭の老人は、奈々美からカードを受け取り、最後の一枠にポンとスタンプを押した。
「じゃあ、お先に」
そう言って、公園を出て行く。
彼はなぜ、幽霊たちの成仏の手助けをしているのだろう。
彼も、僕と同じように未練を引きずっているのだろうか。
「じゃ、あたしも行こうかな」
そう言った奈々美を僕は必死に引き留めた。
「待ってよ。まだ行くなよ」
「でも……」
「お願いだ」
その時だった。
突然、明るい音楽が鳴り出した。
僕も奈々美もびくりとして、音の方を見た。
ベンチに老人の忘れていったラジオが置かれていた。
そこから、終わったはずのラジオ体操が流れてきたのだ。
僕は縋り付くように彼女に言った。
「奈々美。一緒に、ラジオ体操しようよ」
奈々美は「は?」と僕を見返した。
「だって、奈々美、スタンプ押してもらったけど、実際はラジオ体操してないだろう。一緒にやっていこう」
「でも、そんな——」
「腕を前から上にあげて、まずはのびのびと背伸びの運動から、ハイッ!」
僕は奈々美の言葉を遮るように、ラジオ体操を始めた。
「いっちにーさんし、ごーろくしちはちっ!」
「ちょっと……ねぇ……」
「腕を回しますっ!」
僕は必死だった。
その様子を見て、奈々美は少し笑って、一緒に身体を動かし始めた。
「いち、にーさんし、ごーろくしちはち」
毎日繰り返しやっていたので、セリフも動きも頭に入っている。
「……びっくりしたんだよ、君がラジオ体操やってる所を見た時」
奈々美は、腕を回しながら僕に言った。
「死んだ人よりも幽霊みたいな顔しちゃってさ、げっそりした顔で、ラジオ体操してるんだもん」
「奈々美がいなくなったらさ、なんか、生きてる意味がわからなくなっちゃってさ」
「それは言い過ぎだって」
奈々美は、泣いてるような笑っているような顔で、僕を見つめた。
「ちゃんと生きてね、約束だよ」
昼間の僕は、ふわふわと浮遊しているようで、最近は何をしても記憶に残らなかった。
誰にも見えず、誰にも聞こえない。
そんな毎日を過ごしていた。
僕の悲しみも、苛立ちも、他人には見えないし、聞こえない。
どこにも届かない。
この夜の時間だけが、誰かと繋がっていられる、そんな気がしていた。
ラジオ体操が終わった。
いつもの、最後の挨拶が流れる。
——今日も一日、どうぞお元気にお過ごし下さい。
顔を上げると、奈々美は消えていた。
次の日の夜、キッチンに奈々美の姿はなかった。
ため息も聞こえず、玄関を出て行く音もしなかった。
その日、僕は、夜のラジオ体操をサボった。
家で夜通し、奈々美を思って泣いた。
朝になり出勤すると、柳瀬と飯島が謝ってきた。
「前に食堂でさ、悪かったよ。その……あんな話しちゃって……不謹慎だったよな。彼女の事があったのに」
「お前が後ろにいるの、最初気が付かなくてさ。幽霊だのあの世だのってベラベラ話しちゃって……ごめんな」
「やべっと思って、慌てて席を立ったけどさ。めちゃくちゃ不自然だったろ? なんか無視したみたいになっちゃったよな。本当ごめん」
ここの所、僕の様子がおかしいので、だいぶ心配してくれていたらしい。
二人には、短くお礼を言った。
ぼくが幸福だろうが、不幸だろうが、世界はいつも通りだ。
日常は何事もなかったかのように無機質に流れる。
仕事には行かないといけないし、食事をし、眠らないといけない。
そんな僕の日常に、少し変化が加わった。
夜の二十三時すぎ、僕は公園へと出かける。
そこには未練を引きずった幽霊が、明るい音楽に合わせてラジオ体操をしている。
僕は白い髭の老人に軽く会釈をする。
そして体操に加わるのだ。
最近は、体操終わりに、皆にスタンプを押す手伝いをしている。
自分のスタンプカードは、まだ持っていない。奈々美のカードは返してしまったし、自分の分をもらえるのは当分先だろう。
ベンチの上で、小さなラジオから流れる声が、体操の終わりを告げた。
最後のセリフが聞こえる。
——今日も一日、どうぞお元気にお過ごし下さい。
僕は目を閉じながら、大きく深呼吸した。
——了——