一
「『夜のラジオ体操』って知ってるか?」
社員食堂でそんな会話が聞こえてきた。
振り返らなくても声でわかる。
僕と同期の柳瀬と飯島だろう。
「聞いたことねぇけど。何それ。動画配信的なやつ?」
「いやいや、都市伝説的なやつ」
柳瀬はそう言うと、奇妙な話を始めた。
「深夜0時ちょっと前ぐらいに、公園でラジオ体操やってる集団がいるんだって。ベンチにラジオ乗っけて、そこから流れる音楽に合わせて、こう」
イッチニーサンシ、と柳瀬が小さく腕を動かす。
飯島は「ふーん」と気のない様子で飯を食べているようだ。
「それでさ、体操が終わるとそいつら、ふっと姿を消すんだって」
「なんだそりゃ」
「幽霊だよ、幽霊。成仏出来ないでいる霊が、毎夜毎夜、集まってラジオ体操をやってるらしい」
「へーぇ。なんで?」
「知らん」
「そんな真夜中にラジオ体操なんて放送してんのか?」
「いやだから、あの世からの放送なんじゃね? 死んでる人にしか聞こえない、ていう」
僕は思わず振り返って、二人の会話に入ろうとした。
ところが、二人はそこで会話をやめてしまった。
飯島が「行くぞ」と柳瀬の腕を取って立ち上がる。
「ねぇ、その話ってさ——」
二人の背中に向かって僕は声をかけたが、飯島も柳瀬もまるで気が付かなかったかのように、食器を片付けに行ってしまった。
僕が聞き耳をたてていた事に気を悪くしたのだろうか。
あんな風に無視しなくてもいいのに。
僕はため息をついて、席を立った。
家に帰ると、奈々美がキッチンに立っていた。
僕が「ただいま」と声をかけても、ぼーっとしている。
「おかえり」という言葉もない。
最近はいつもこの調子だ。会話が成り立たない。
僕と奈々美は、同棲してちょうど一年になる。
以前、一周年の記念日に何を食べたいか聞かれた時、僕は「餃子」と即答した。
「そんなのでいいの? お店に食べに行かない?」
彼女の特製餃子はどんな高級料理にも勝る。
生姜が効いていて最高だ。
もし、人生最後の日に何を食べたいか聞かれたら、僕は奈々美の餃子と答えるだろう。
「それは言いすぎだって」
奈々美は照れたように言った。
でも、せっかくの記念日だから、彼女に料理なんかさせないで、どこかに食べに行けば良かったかもしれない。
彼女の優しさに、僕は甘え過ぎているのだろう。
一年も同棲していると、一緒にいる事が当たり前になってしまう。
ケンカも増えた。
例えば、彼女の持ち物も、ついつい拝借してしまい「ちょっと、それ私のなんだけど」とよく怒られる。
鞄だとか帽子だとか、僕と奈々美で共有している物も多い。
この間も、彼女が使おうとしていた鞄を僕が黙って借りて出かけてしまい「勝手に使わないでよね」と文句を言われたばかりだ。
奈々美の方をちらりと見ると、彼女は大きなため息をついた。
「どうした?」
僕の声を無視して、彼女はバタバタと携帯と財布を持ち、そのまま玄関から出て行ってしまった。
僕は、部屋に一人取り残された。
しばらく待ってみたが、彼女が帰ってくる様子はない。
仕事帰りのスーツのままだったので、とりあえず風呂に入り、部屋着に着替えて出てきた時、奈々美は戻ってなかった。
時計を見ると二十三時を過ぎていた。
奈々美の行き先は、きっと近所のコンビニだ。
迎えに行くべきだろう。
僕は玄関にかかっていたエコバッグを持ち、コンビニに向かう事にした。
ぼくが幸福だろうが、不幸だろうが、世界はいつも通りだ。
日常は何事もなかったかのように無機質に流れる。
同期に無視されようが、恋人に出て行かれようが、そんなことは全く関係ない。
コンビニに着いて中を探したが、奈々美はいなかった。
奈々美どころか、他の客もいなかった。
さらに、レジの店員もいなかった。
空っぽのレジカウンターの前で僕は立ち尽くした。
そんな事あるのだろうか。不用心にも程がある。
せっかく来たのでアイスでも買って帰ろうかと思い、店の奥に向かって「すいませーん」と何度か声をかけた。
しばらく待ったが、店員が出てくる気配はなく、仕方がないのでアイスを戻し、僕は空のエコバッグを持って帰路に着く事にした。
奈々美はコンビニにいなかった。
彼女はどこにいるのだろう。どこに迎えに行けば良いのだろう。
試しに携帯で連絡を取ろうとしたが、上手くいかなかった。
コンビニから出て、どうしようかと途方に暮れた。
仕方がないので、ぶらぶらとコンビニ前の道を渡る。
渡った先に公園があるので、そこのベンチにでも座って考えようとしたのだ。
しかし、公園の入り口で、僕は思わず「嘘だろ」と声を上げてしまった。
——腕を前から上にあげて、大きく背伸びの運動から、ハイ。
音の割れた音楽が、ベンチにちょこんと置かれた小さなラジオから流れている。
そして、その前には幾つもの人影が、音楽に合わせて身体を動かしていたのだ。
夜のラジオ体操だ。