5 アービドという人
騒がしかった一大事は、時が経てばいつしか記憶も薄れて。
ヤシュムの民たちは、魔物によって破壊された街を今日も作り直している。
軽快な、釘を打つ音や木材を運ぶ音を背景に、クラリスはほっと息をついた。彼女は、大樹の神殿から少し離れた、人々が暮らす家が幾つも建っている場所に居る。
そこは、美しい森に囲まれていて、中心にはレンガの道。道を挟んで、整然と木でできた柔らかな風合いの家々が立ち並んでいた。街の奥には丘があって、水車や風車もあり、のどかでとても心が安らぐ場所だ。
今は、魔物の襲来によってその街は傷んでいる。それを、アービドは率先して自ら修繕に当たっているのだ。
クラリスは、あの日以来落ち込んでいる様に見えるアービドを気にかけていた。
目を合わせようとしても、さっと逸らされるし、前ほど話しかけてくれない。気になって、ヤシュムの王であるというのに、汗水たらして民に尽くしているアービドの様子を窺いに来たのだった。
ある家の、屋根の修繕をしていたアービドが、梯子から降りてきた。
見計らって、クラリスはアービドに声を掛けつつ、手ぬぐいを手渡す。
「アービドさん、お疲れさまです」
「クラリス様! このような所にどうして……」
アービドが目を見開いた。
差し出された手ぬぐいを一瞬見て、両手で受け取る。
沈黙が二人を包む。アービドがふと微笑んで、こう言った。
「少し、お話ししましょうか」
街が見渡せる丘、風車の下にはちょうどいい腰掛があって、二人はそこに座った。
天気は快晴で、さわさわと頬を撫でる風が心地いい。風車の軋む音がして、クラリスは平和を味わった。
「最近の態度、ご心配をおかけいたしました」
「……(自覚はあったのね)いいえ」
「男がうじうじと。クラリス様に守られてばかりで、自分が悔しかったのです」
「アービドさんは、前線で戦ってくれていました」
結果的にクラリスがヤシュムを救った形になったが、先頭で指示して戦っていたのは彼だ。彼こそが、ヤシュムや民たちの被害を最小限に抑えたといっても過言ではない。
「こんな時でも、お優しいのですね。私は、クラリス様が羨ましいのです。エルファラの王子でありながら、私は、無力だった。そして、誓ったはずでした。貴女様にご負担を掛けないと。そのお力は、強大です。使いすぎれば、他国に狙われるでしょう。貴女様のためにも、今後はお力を隠しておいたほうが良い」
アービドが真剣に、クラリスの瞳を見つめながら訴えた。
(ああ、この人は“後者”ね。お母さま)
かつて、クラリスの母が彼女に言い聞かせた。
そよぐ風の中、中庭で母の膝に頭を預ける幼いクラリス。
「クラリス。貴女の力は強大よ。だからね、“命にかかわるとき”と“誰かを助けるとき”以外は使ってはいけないわ。約束してくれる?」
「うん! やくそくする!」
無邪気に、彼女が答える。
「力を使ったとき、貴女には2つの人間が現れるわ。前者は、利用するため、もっと力を使えという者。後者は、貴女を心配して、力を使うなという者」
母の瞳が、悲しく揺れた。まるで、昔を懐かしむように。母にもきっと居たのだろう、身を案じてくれる、誰かが。
「ねえ、クラリス。その力はね、きっと悪いものじゃない。どうか貴女は見つけて。得難いだろうけど、貴女を本当に心配して、愛してくれる人を――。そして、離さないで」
幼いクラリスには、その言葉の真意は分からなかった。
でも今ならわかる。
母は、前者の権力に囚われた。やがてクラリスを生んでしまったため、逃げも出来なかったのだろう。優しい母は、それでもクラリスを愛してくれた。
地位に囚われず、決してクラリスに立派な令嬢になれ、とは言わなかった。いつも、穏やかな顔で、貴女が本当にしたいことをしなさい、と口癖のように言っていた。
「隠していたわけではないのですが」
クラリスが口を開く。
「私は、棄てられたのです。フローリア伯爵家から」
自然に、彼には言わなければならないとクラリスは思った。
「……そうでしたか。お辛かったでしょう。しかし、クラリス様。貴女様は、この国の母。貴女を棄てる者は、誰もおりませんよ。もしそんな者がいても、私が必ず懲らしめます」
その声が穏やかで、静かで、クラリスの心のささくれを宥めていく。
クラリスは、亡くなった母の分も、やりたいことをやろうと決めていた。怠惰にごろごろして、三食、栄養がたっぷり入ったご飯をきっちり食べて。天気のいい日は外で日向ぼっこしたり、雨の日は、地に落ちる雫の音を聞きながらうたた寝をする人生を送ろうと。
しかし、心のどこかで、自分は棄てられたのだと、ずっと思っていた。
つう、と透明な涙が彼女の頬を伝う。
アービドがそれを見て、慌てた様子で手ぬぐいを探し始めた。クラリスは可笑しくて、ぷっと笑う。おっとりとした半眼が細められた。
「ありがとうございます、アービドさん」
「それは、こちらの台詞ですよ」
微笑みかけられて、アービドが頬を染める。
ヤシュムの穏やかな午後に、強い風が吹いて、風車を回した。




