99
彼女の意外な話に紫音も少し戸惑ってしまったのだが、それでももしそれが実現できるような話であるならばそれに越したことはないと思うのだった。しかしそうなると、それはそれでまた大きな問題が持ち上がることは火を見るより明らかだったのだ。恐らく彼がそんなことを素直に承知するはずがないからである。いやそれ以上におばあさんがどう思うかそっちのほうがより問題かも知れないのだ。しかしたとえ二人が反対しようと会社のためにはそうなったほうが全然いいのではないかと思い直すのだった。これは彼女の立場からすると、かなり反動的な意見のように思われるかも知れないが、しかし今の彼女の思いからすると極めて当然な結果でもあったのだ。というのも何もそんなに慌てて社長になんかなることはないという意見にずっと前から傾いていたからである。なぜそんなふうに思っていたかというと彼が社長になるには最低でもあと十年は必要だろうと彼女には思われたからだ。要するに今の彼にはそこまでの力はないと、もちろんそれは妻の目から見た彼女なりの判断ではあるのだが。
「もし、その方が次期社長になられたら会社の今の状況も少しは良くなるのでしょうか?」
「それはもう間違いありませんわ。何しろ今の会社が何とか持ちこたえているのも彼のお陰だからです。いえ、これはすべて主人の受け売りなんですが、私も何となくそう思っているからなんです。というのも木戸専務とはずっと昔からの知り合いでもあり、その人柄もよく分かっているからです。なぜかと言いますとあなたもご存じの私のホステス時代に彼とお付き合いがあったからなんです。彼はなかなかの苦労人でして、先代の社長に見込まれて創業当時から彼の右腕として、それこそ会社のために骨身を惜しまず働いて来たのです。彼は決して口数の多い方ではありませんが、口から出る言葉はいつも的確で人を納得させるものだったんです。私も自分の無知をいいことに色々と失礼な質問をしたこともありましたが、そんな時でも彼は嫌な顔一つ見せずちゃんと答えてくれたのです。ですから私もある程度は知っているんです。先代が亡くなった時彼が次の社長になるのではないかという話しがあったことも知っています。でも先代との約束もあり自分は辞退したという話しも聞きました。ですからこういう事態になったからには、ここは一つ彼に社長を引き受けてもらい何とか会社を建て直して頂きたいと思ったわけなんです。もし彼が社長になれば、あなたがさきほど心配されていたことも解決するのではないかと思われるからです。でもこの話は恐らくそう簡単には実現できないかも知れません。だってあのおばあさんが自分の考えをそうやすやすと撤回するとはとても思えないからです。これも主人の受け売りですが、彼もそう言ってため息をついていました。確かに、おばあさんからすればご自分の息子さんが築いた会社を他人に明け渡すなんてことは、たとえその人が信頼できる人であったとしてもそう簡単に承知できるものではないと思われるからです。でもこのまま弟さんが社長になって、それでうまく行くのかという心配もどうしてもあるわけなんです。主人もそれをとても気にしているってことは先ほどもちょっと話しましたが、そこでなんですが紫音さん。あなたからおばあさんにこの話しをして頂くなんてことはできませんかね。もちろん無理にとは言いません。あなたにだって出来る事と出来ない事があるでしょうからね。出来ない事を無理にお願いしてあなたを困らせるのもどうかと思いますし、でも主人も今度ばかりは本当に頭を悩ましていましてね。で私も主人の悩んでいる姿を見かねて、それじゃ私から紫音さんにお話しだけでもしてみましょうかって言ってしまったのです。そしたら主人はあなたを心配してか、そんなことまで彼女に頼んでは申し訳ないだろって言ったのです。彼女の立場というものを考えてやらなければダメだって彼に強く叱られてしまったのです。でもね正直なところ彼だってそうしてくれたら本当に助かるんだってことだけはよく分かっているのです。いやもちろんそこまであなたに甘えてはダメだって彼も正直そう思っていたのかも知れません。むしろこういうことは自分からおばあさんに話すべきだってそう考えているようなんです。もちろん私もそうすべきものだとは思っていますが、この話を確実にするためにはやはり主人だけではダメではないかって思っているんです。だって主人は生真面目で嘘のつけない人ですからね。人に媚びて機嫌をとったり口から出任せ言って相手を丸め込むなんてことができるわけないからです。そこがまあ、あの人のいい所でもありダメな所でもあるので、彼一人の力だけではとてもおばあさんを口説き落とすまでにはなかなかいかないと思われるからです」
これにはさすがの紫音も呆れてしまったのだ。というのも自分の立場を考えたらとてもそんなことは出来なかったからだ。彼女だってそんなことは百も承知で言ってるのだろうが、しかしだからこそ何か変なのだ。彼女はいったい自分に何を求めているのだろう。自分が嘘のつけないお義兄さんに代わって、おばさんを何とか口説き落としてほしいって言ってるのだろうか。とはいえ、たとえ自分にそんなことができたとしても、そう簡単に禮子の話に乗るわけにもいかなかったのだ。というのもそんな話しをしてくる自分を果たしておばあさんはどう思うか。それこそ変な目で見られるどころか、いったい何を考えているのかと余計な疑いまでかけられ、話しが一層こじれたものになっていくかも知れないからである。
「禮子さん。もちろん私もそうしたことに非力ながらも協力したいとは思うのですが、しかし私が口を出したことによってこの話がこじれでもしたらそれこそ取り返しがつきません。この話は会社のためにも絶対潰してはいけないと思いますので、申し訳ありませんが私のほうからは何もしないほうがいいのではないかと思うのです。でも何も協力しないということではありません。それ以外で私に出来ることがあるならもちろん何でもいたしますので、どうか遠慮なくおっしゃってください」
「よく分かりましたわ。あなたのおっしゃる通り、この話は確かに一番ベストなものだと思われますので何としてでも実現させなければなりませんからね。でももしそうなると、亮さんはもちろんあなただってあまり気持ちのいいものではないのではありませんか。それを思うと私も何か複雑な思いに心苦しくなってしまいますの」
「いやそんなお気遣いは、今のような状況を考えればまったく余計なものではないでしょうか」とはいえ、そうは言ってもやはり夫の気持ちを考えるとこの話しは彼女にとってもなかなか複雑な思いが絡まざるを得なかったわけである。というのもそうなるといくら社長には十年早いとは思っていても、本音はまた別の意見をひねり出してくるからである。彼女にとって何よりも不快だったのは禮子は夫の実態をよく知っているに違いないということなのだ。恐らく自分より彼の欠点をよく知っているのではないかと思われるくらいだったからだ。そんな彼女が木戸専務という何だかよく分からない人をいきなり持ち出してきて、彼こそ次期社長にふさわしい人だといきなり言ってきたのだ。まったく納得のいかない話しもはなはだしいではないか。彼女はこの時、夫が社長になるにはあと十年は必要だという話しを彼女にしなくて本当によかったと胸をなで下ろしたのである。というのもさっき話しの序でにこの話を自分の見解として彼女に聞いてもらおうと思っていたからだ。要するに彼女はもはや彼の妻として、自分のことばかり考えているわけにはどうしてもいかなくなっていたのである。それと同時にそんなことを言ってくる禮子に対してかなり強い警戒心を持つようになったのだ。こうした彼女の一連の心の動きを見るとどうやら彼女の中で何か劇的な変化が起こっているのではないかと推察されるのである。ところが彼女はまだ自分の傲慢さにはまったく気づいていなかったのだ。それは彼女がいつの間にか夫を見下していたことからも明らかであり、いったいどんな理由から夫に対してそんなことが言えるのかという疑問すら彼女の意識に上ることがなかったからである。
今回密かに行われた二人の会談は、お互いに共通の認識を得たようでそれなりに有意義なものではあったようだ。それでも紫音としては、どちらにしても解決の難しい問題が彼女の前に立ちはだかることになったわけで、いったいこの先どうなって行くのかますます分からなくなるのだった。それに比べて禮子はというと、予定通りこの話を彼女にしたことによって何かが動くことを密かに期待するのだった。しかしその後に続けて、おばあさんにこの話をしてくれないかとまったく予定にないことを言ってしまった時、さすがにどうなるかと心配したのだが、ところが彼女が何のためらいも見せずにそんなことはしないほうがいいとすぐ言ってきたのには正直驚いたのである。今までの彼女とはちょっと違うものをそこに感じたからだ。ちなみにこの話はすべて彼女の創作であり、もちろん夫は何も知らないのだが、しかし知らないはずの夫も、どういうわけか彼女と同じようなことを考えていたのである。というわけで、この話がどれだけ実現性のある話なのかまったく分からなかったので、これから夫にこの話をしてその実現性について相談してみなければと思ったのである。
二人はその後しばらくそのレストランで過ごしたのだが、お互い何となく口が重くなってしまい何を話すにしてもどこか気持ちが入っていないというか、二人とも心ここにあらずといってもいいような状態だったのだ。それはやはりお互いそれぞれ問題を抱え込んでしまったわけで、ゆっくりお茶など飲んでいる場合ではなかったからである。確かに禮子としても今回の一件が自分のちょっとした思いつきから起こったことなので正直心穏やかではなかったのだ。もしこの話がまったく実現性のない話だと夫に言われたらどうするつもりなのか。それでもこの話を何が何でも進めて行こうと思っているのだろうか。どうしてそんな難しいことをやろうなんて思ったりしたのだろう。すると急に自分は何でこんなことで、こんなに心配したり気をもんだりしているのだろうと呆れ返るのだった。誰が社長になろうとそんなことはどうでもいい話ではないのかと、まるで突然人が変わったようにこれから自分がしようとしていることに疑問を持つのだった。もちろんこうした反動にはそこにちゃんとした理由があったのだが、ただ彼女のような性格の女にとって、そんな理由などむしろなかったことにしたかも知れないのだ。そうと決めたらそうしなければ気が済まない性分でもあり、たとえ不都合なことがあろうとそこは自分の力だけで今までも何とかやり抜いて来たからである。彼女にとって自分の意志こそがすべてだったのだ。意志あるところに道は開けたわけであり、ということはその意志に反したことはすべて無視するか否定していたわけで、彼女にとって都合の悪いことはすべて葬り去って来たわけである。それは彼女が初めてあの場所に行った時にも似たようなことが起きていたわけなのだ。あの時の彼女の行動は今となってはすべてバレてはいるのだが、それでも彼女のその時の心情は恐らく今だに理解されていないと言ってもいいのではないだろうか。そもそも何で彼女はあの場所にやって来たのだろうか。表向きは亮の結婚する相手がどんな女か、それを見てみたいというそれなりに納得できる理由があったのだが、しかしそれはそう思ったほうが自分にとって都合がいいからそう思っただけにすぎないのだ。その裏には彼女にとってとても受け入れることの出来ない理由がちゃんとあったのである。彼女のようなプライドの高い女にとってそれは絶対認めたくないものだったのだ。だからといって何も彼女のそういう性格を揶揄する必要など少しもないわけで、要するにそういうことは人間である以上誰にでもあるわけで、誰だって自分にさえ秘密にしておきたいことは必ずあるからだ。それなら何で彼女はあの場所にノコノコやって来たのか。それはまだ彼に未練があったからである。それが最大の理由だったのだが、もちろん彼女はそんなことは意識すらしていなかったのだ。いやそれだからこそ彼女のすることなすことすべてが裏目に出て、彼女のプライドを散々な目にあわせてしまうことになったのである。彼女のあの時の行動は未だに尾を引いているといってもいいくらいで、現在の恐ろしく込み入った問題にしても、その元を辿ればすべて彼女のあの時の行動に端を発していたと言っても間違いではないのである。
「お父様は元気でいらっしゃいますか?最後にお会いしたのは確か私の結婚式の時でしたかしら。それ以来お顔も見なくなり、どうしているかしらって今ふと橘さんのことが思い出されましてね。つい懐かしくなったものですから、ちょっとお聞きしたのです」
「父は次の選挙のことで色々と忙しくしているのではないでしょうか」
「ああ、次の選挙。そうでしたわね。あの人には次の選挙で勝つという大きな目標があったんでしたわね。ああ思い出しましたわ。私のせいで選挙に負けてしまったときは私も正直なところ責任を感じていたのですが、でもあの人は私をまったく責めませんでした。そうしたって決しておかしくはなかったのに、あの人は私をかばってさえくれたのです。でもどうなんでしょう。正直なところあの人は今でも私のことを恨んではいないでしょうか?」
「そんなことはないと思いますよ」
「どうしてそう思われるんですか?」
「それはあの時の父の様子を見てそう思ったからです」
「それはひょっとしてあのご対面の時のことをおっしゃっているのですか?確かにあの時の橘さんからはそういったことは微塵も感じられませんでしたからね。でもどうして、あんな状況でありながらそこまで冷静に判断できたのでしょう。本当に驚いてしまいますわ」
「いや私はただそこに諦めきれていない父親の姿を見ただけなんです。もちろん父がどういう気持ちであなたに会いに行ったのか私にはまったく分かりませんが、ただあの時の様子からあなたを恨むと言うよりも、いつまでも消えない未練に苦しんでいる父親の思いを感じてしまったんです。でもそれはあくまでも私の想像ですからね。実際の父の気持ちなど私にだって分かりません」
「あの時の橘さんは、ある事を確かめるためにお店にやって来たんです。私のような女がどうしてあのような、どう考えても不釣り合いな男と結婚することになったのかその理由が知りたかったんです。不釣り合いというのはあの人がそう言ったんです。それだけでも、あなたがおっしゃるようにまだ私に未練があるってことはよく分かりますからね。私もいったいどうしたら諦めてもらえるのかとずいぶんと悩んだんですよ。でもね、こういうことはなかなか思い通りにはなりませんので、それなら彼の話をよく聞いてやるしかないと思ったわけなんです。ところが、そう思って話を聞こうとしたところにあなたがやって来たんですわ。あの時は本当に驚きました。だって、あなたのような方がお一人でお店に来るなんて想像すらしていませんでしたからね」
「正直私だってすごく驚いていたんですよ。父親をあのような形で見るということが娘にとってどんなに衝撃的だったか。家にいる時の父親とはまるで違った姿を垣間見たとでもいうのでしょうか、その姿は異様であり、正直とても恥ずかしかったんです」
「でも、あの時のあなたの態度はとても立派でしたわ。変に取り乱すこともなくそれこそ冷静に立ち回っていましたからね。橘さんもすっかり黙ってしまったじゃありませんか」
「ひょっとして父も恥ずかしかったのかも知れませんね」
「ああ確かにそれはあったかも知れません。急に帰るなんて言い出したりしてね。あれはきっといたたまれなくなったんですよ。結局それ以来橘さんとはお話しすることもなく、私も結婚してしまい今に至っているわけですが、何かすっきりしないんです。橘さんの気持ちをちゃんと聞いてやれなかったことが今でも心残りなんです」




