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いったい彼女はどういうつもりでそんなことを言ったのだろうかと、紫音も今までの彼女だったら決してそんなことは思わなかったようなある疑惑を持ってしまったのだ。禮子はひょっとして今回のことで何か企んでいいるのではないかと疑ってしまったわけである。それはやはりいくら彼女のような女でも、そういつまでも、お嬢さんみたいな見方で物事を見ているわけではなかったからだ。彼女は確かにまだそれほど人間として成熟しているわけではなかったが、それでもそれなりに経験を積んできたおかげで彼女も以前と比べて少しは変わったのではないかと思うようにはなっていたのだ。それは何も自分が禮子に負けないくらい強い女になったということではなく、自分がどういう人間かそれが少し分かって来たように思えたからである。自分は決して以前に思い込んでいたような女ではないということがよく分かったからである。これは彼女にとってとても苦しい自己認識ではあったのだが、そのおかげで彼女も内面的な幻想から少しではあるが覚醒し、以前の彼女なら禮子から昔とちっとも変わっていないなんて言われたら、きっと顔を赤らめてまともに彼女の顔も見られなくなったに違いなかったのだ。それが今ではそういうことを言われても、あまり苦にもならずにきっとこんなふうに言い返していたかも知れないのだ。「私はあなたと違って決して強い人間ではありませんが、それでも自分の弱さをそれほど恥ずかしいとは思わなくなりました。まあ私も結婚して人並みに変わったのかも知れません。だって、ほらこうして私もあなたのように髪を伸ばして、昔の自分とはすっかり様子が変わってしまいましたもの」と。確かに彼女の髪の毛には禮子も以前から気になっていたのだが、おそらくこれは自分のアドバイスがその原因ではないかと思ったのだ。つまり彼女が結婚するずっと以前に、亮に彼女の髪の毛について何か言った覚えがあったからだ。禮子も確かに彼女の変貌には驚いていたのである。それは美的な点から言っても、彼女の変化は実に激しかったからである。ここまで女らしくなるというか、いやそれを遙かに超えてもはや美の極致に達したかのような実感を持ったからである。自分のようなどこか下卑た美ではなくどこまでもそれは純粋で、もはや自分などいくら背伸びしても到底敵わないところまで達していたからである。それにおそらく彼女はその意識がまるでないに違いないと禮子は確信していたのだ。それがなおさらしゃくにさわったのである。自分の美など彼女に比べればもうほとんど作られたものに過ぎなかったのだ。紫音の美はどこまでも自然で、そこに何の企みもなくただあるがままの自分がそこにあるだけなのだった。そんなものにいったい誰が対抗できると言うのだろう。もはや彼女の美に黙って頭を下げるしかほかに何もできやしないのだ。
二人の会談は、一週間後の日曜日午後一時からと決まり、それに合わせてなるべく不自然にならないようにお互い予定を組むのだった。しかしこれには少なからぬ懸念があったのだ。というのは二人同時に家を空けることなど今までなかったからである。このことを真っ先に心配したのは紫音の方であったが、もはやどうすることもできずそれを禮子に言ったところ彼女は笑って、「いや、そのことなら何の心配もありませんわ。だって今では二人ともお互い顔を合わすこともなく自分の部屋に閉じこもっているからです。それに家政婦だってすでに私が手なずけておきましたから告げ口の心配もありません。ですもの私たちがたとえ仲良く一緒に出掛けたとしても何の心配もないのです」と。そういうわけで禮子は出掛けるとき姑にちょっと用事が出来たのでこれから出掛けますが、もし遅くなるようなことがあれば電話しますのであまり心配しないで下さいね、と余計な疑いを持たれないようにそこはさりげなく念を押して家を出て行くのだった。
ところが紫音は禮子のように簡単にはいかなかったのだ。何か後ろめたい気持ちがどうしてもあり、これから自分のすることがおばあさんを裏切っているように思えて仕方がなかったのである。しかしこうなっては彼女もいつまでも自分のそういう考えにこだわっているわけにもいかず、ここは潔く嘘をついておばあさんを安心させて出掛けて行くしかないと覚悟したのである。しかし彼女もこれからこうした自分の意に沿わない嫌なことが増えて行くのかも知れないと思うと、何となく気が重くなるのだった。
二人は久々にお互い思い出のあるレストランに、今度はなぜか二人揃って来店したというわけである。しかし昼間のその部屋は夜の時のあのロマンティックな雰囲気とはまるで違っていて驚くほど散文的でありふれた部屋だったのだ。少なくとも紫音はそう感じたのである。この部屋はやはり昼間ではなく夜来るべきものだと、その時実感したからである。ところがその窓から見る眺望は夜とは違ってその壮観さが一番の見所でもあったのだ。夜はただ様々な光の輝きが街の輪郭を鮮やかに映し出していたのが最大の売りだったが、昼は昼でその街の全貌が見て取れたからである。地上にいれば別に何の変哲もない街ではあったが、こうして高層から見ると何かまったく違う感想がどうしても思い浮かんで来るからである。
「こうして高い所から見るといくら住み慣れている街でも何か違って見えて来るから不思議ですね」と、紫音は正直に思ったところを口にするのだった。
「そうですね。私もこの部屋に来る時はいつも夜でしたからね。こうして昼間の景色は初めてなんでまた違った印象を持ってしまいましたよ。やはり人間も同じかも知れませんね」
「それはまたどんなところがですか?」
「だって、人は他人を見るときどうしても同じ角度から見てしまうからです。現に私だって、いつもあなたを同じ角度からしか見ていないのかも知れないからです。だから、どうしても新しい発見はしにくいのかも知れません。でもほら住み慣れた街でもこうして違う角度から見るとまったくその印象が違って来るじゃありませんか。ですから私ももう一度あなたを違った角度から見てみたいなんて思うようになってきたんです」と言って禮子は笑うのだった。それはまるで彼女の人間性をこれからとことん暴いてやるといったどこか意地の悪い笑いのようにも見えたのだ。というのもやはり禮子にとって彼女こそ自分にとってどうしても折り合いを付けなければならない相手だったからである。
「実を言いますと紫音さん。こうしてあなたをこういうところにまで引っ張り出してお話を伺いたいと思ったわけは他でもありません、ほら例のおばあさんが宣言した亮さんのことなんです。つまりおばあさんのおっしゃったことの意味があまりよく分からなかったもんですからね。まさかおばあさんに直に聞くわけにもいきませんので、こうしておばあさんの近くにいるあなたにその真意を聞いてみようと思ったわけなんです」
「ああ、でもそのことでしたら正直私自身もよく分からないのです。何でおばあさまが夫にあのようなことを言ったのか。一番不思議に思ったことなんですが、おばあさまが夫は変わったとしきりにおっしゃっていましたが、いったい夫の何が変わったのかそれが今でもよく分からないからです。もちろんそれは夫の仕事ぶりが変わったと取るのが一番合理的なのかも知れませんが、でも果たしてそれだけで社長という仕事が務まるのでしょうかという疑問もあるからです」どうやら彼女も同じ疑問を持っていたことがこれで禮子にもよく分かったのだ。
「そうしますとあなたもやはりおばあさんの話には何かおかしいところがあると思っていらっしゃるわけですね」
「そうはっきりとは言いませんが、それだけではないのではないかと」
「と言いますと、やはり何かほかに理由があるのですね」
「いや、禮子さん。私は何もおばあさまを疑っているわけじゃありませんからね。ですから、あなたが私からその理由を聞き出そうとしても正直私からは話すべきことなど何もないのですよ」
どうやら禮子も早くその真相を聞き出そうとして少し焦ってしまったのだろう、危うく紫音に疑念をもたれそうになってしまったのだ。彼女は少し冷静にならなければと少し別の視点から攻めてみるのだった。
「いえ、何もあなたから無理に聞こうとは思っていませんが、でもね紫音さん。こういうことはこれからの柏木家にとってとても重要なことだと思いますの。ですからお互いもう少し腹を割ってお話ししたほうがいいのではないでしょうか。だってこのことはこの柏木家の将来を左右する大事な問題ですからね」
「それならちょっとお聞きしたいのですが、禮子さんは夫が社長になることに反対なんでしょうか?」
「いえ、決してそんなことはありませんわ。でもね紫音さん。もしあなたのご主人が社長になられたら恐らくこの柏木家もすっかり様変わりしてしまうのではありませんか?あなたのご主人が社長になればおのずとあなたが社長夫人となり、この家のすべてを任されることになるわけですからね」
「ああ、そのことでしたら何もご心配には及びませんわ。たとえそうなってもこの家のしきたりを変えようなんて少しも考えていませんから。お義母さまには今まで通りこの家を仕切って頂きますので、もちろん禮子さんも今まで通りの生活をして頂いて構いませんので、といってもこれはあくまでもそうなった場合の話ですからね……」
これを聞いて禮子も驚いてしまったのだ。そうなった場合のことを彼女なりに考えていたということがこれでよく分かったからである。しかしもちろん彼女の言うことなどとても鵜呑みになんか出来ないのだ。彼女の後ろにはおばあさんがいたからで、そのおばあさんが彼女と同じようなことを考えているとはとても思えないからである。
「あなたがそこまで考えていらっしゃるのなら、私も自分の考えを少しお話ししなければいけませんわね。というのも、あなたが今おっしゃったことはとても重要なことに思われますので、つまりあなたのご主人が社長になった場合、今ご自分がおっしゃったようなことが実際に実現出来るとお考えなんでしょうか?もちろんこれはあくまでも仮定の話としてお聞きしているのです」
「おそらく、おばあさまが反対するだろうと考えていらっしゃるのでしょうが、もちろんおばあさまが私と同じようなことを考えていると言っているわけではありません。むしろそんなことは考えていないと思ったほうがいいかも知れません。いやまったく考えてなんかいないでしょうね……」
ここで禮子ははたと考え込んでしまったのだ。というのも彼女がそう言った時の表情から何かとても苦しんでいる様子が見て取れたからである。ひょっとして彼女自身とても悩んでいるのではないかと思ったりしたのだが、それは確かにありそうなことだと彼女も心配したのである。実際のところ彼女のような女が、いきなりこんな奇怪な出来事に巻き込まれて何も悩まないでいるなんてことが出来るわけがなかったのだ。そう思うと彼女のことをよく知っている身としてはかなり複雑な思いに心も乱れるわけなのだ。とはいえ彼女のことばかり考えているわけにもいかなかったので、ここは冷徹に自分の仕事を果たさなければならなかったのである。そこで禮子はまた違ったところから紫音に揺さぶりを掛けて見るのだった。
「ところで亮さんは、今回のことをどう思っていらっしゃるのかしら。いえ何も変な意味でお聞きしたわけではないのです。実は主人に今回のことを聞いてみたのです。そしたら弟さんのことをとても心配していたもんですからね。というのもやはり、現在の会社そのものがとても危機的な状況らしく、そんな難しい時期に弟さんが社長になって本当に大丈夫なんだろうかって心配していたからなんです。何もこんな難しい時期に社長になんかなるべきではないという意味なのかも知れません。それはやはり会社のためにも、彼のためにもならないと思っているからではないでしょうか」
「確かにそうかも知れません。いや私もそれを心配しているのです」
「ということはあなたもご主人が社長になることに賛成というわけではないのですね?」
「まあ、そう言ってもいいかも知れません……。でも、夫は今回のおばあさまの決定にすっかり舞い上がっていますからね。私がいくら反対だと言っても恐らく聞く耳など持たないと思います」
「ああ、確かにそうかも知れませんね」
「実は以前にあなたを介して夫を何とか説得してもらえないかって思ったことがあったのです。でももうそれもダメでしょうね。おばあさまのお墨付きを得た以上、もはや誰の声も聞かないでしょうから」
それを聞いて禮子もなるほどそうだったのかと思い、これは意外と彼女の思いは自分の考えとそう隔たったものではないかも知れないと思うのだった。すると紫音は「それじゃ、お義兄さまも心配しているわけですね?」と、まるでそこに何かしらの活路を見出そうとしているかのように突然禮子に問い質したのである。
「そうですね。とても心配していました。でも主人は何も弟さんが社長になることに反対しているわけではないのです。そこがまた不思議なところで、いったい主人は何を考えているのだろうって今でも戸惑っているところなんです。ねえ、紫音さん。いったいどう思われます?自分が権力を握っていながら、それをあっさりと放棄して誰かに譲るなんてことが本当に出来るものなんでしょうか?というのも男というものは一度権力を握ると、なかなかそれを手放さないものだと思っていましたもんですからね。それがこうもあっさりと弟さんに譲るのかと思うとどうしてもそこに納得できないものが残ってしまうわけなんです。もちろんそれが悪いことだなんて言っているわけではないのです。むしろ柏木家のために無益な争いを避けようとしているのかも知れませんからね。まあ、ああいう性格の人ですから、人と争うことが嫌いなのかも知れません。でも、もしそうであるならもっと他の選択肢だってあるはずなんですがね」
「私の知っているお義兄さまの性格から想像してみると、恐らく何か深い考えがあってのことだと思うのです。もちろんお義兄さまはとても穏やかな人だし、責任感も人一倍強い方なのできっとそうしたほうがいいと判断したのかも知れません。ですから何も権力に興味がないわけではなく、むしろそんなことよりもっと大事なことを考えているのかも知れません」
「確かにそうかも知れません。と言いますのも主人はある重要な計画を私に話してくれたからです。それは恐らくあなたが今おっしゃったことと大いに関係してるんじゃないかしら。主人はこう言ったのです。「こうなってしまった以上自分は潔く退陣するが、しかし何も弟に譲ることはないのではないかと考えているんだ」って言ったのです。それはつまり今の状況を弟では乗り切れないと判断したからなんです。できればもっと頼りになる人に託したほうが会社にとっても、また弟の未来にとってもいいのではないかという考えからなんです」
「もちろんそういう方がいらっしゃれば絶対そのほうがいいに決まってますわ」
「それがいらっしゃるんです。たぶんあなたはご存じないとは思いますが、木戸という今は専務として働いている方なんですが、この方は確か先代の社長の時から右腕として活躍している方なんです。つまり主人の言うには彼こそがこの難局を乗り切ってくれる唯一の人だって断言するのです。こんなにはっきり言った主人を見たのは初めてでしたわ。いつもは恐ろしいほど慎重な発言が多い人なんですが、でも彼ははっきりと一番ベストなシナリオは彼に次期社長を引き受けてもらうことだって、そう言ったのです」




