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紫音の約束   作者: 吉田和司


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 この問題は、おばあさんの説明によって一応解決されたかのように思われるかも知れないが、なかなかそうもいかなかったのである。確かに母親にとってみれば、このまますんなりと卓が社長の座を降りるわけにはいかなかったからだ。もしそんなことが実現したら彼女の計画も恐らく先へと延ばされ、下手をすればその前に紫音がこの家を牛耳るはめになるかも知れないからである。おまけにその後ろにはおばあさんがでんと構えているのだ。そうなればもう自分の出番はなくなり、すべてのことが狂い始め、その上おばあさんが隠居する代わりに自分が隠居へと追い込まれてしまうかも知れないのである。

 彼女は自分の部屋に戻って来ると、さすがに疲れ切った様子でこれから先のことを考えるのもどこかしんどくなり、ソファーに腰を下ろすとぼんやりと窓の外を眺めるのだった。折しも夕日が小高い丘の向こうに沈む時で、それを見ていると何かもの悲しくなって来て、まるですべての希望が夕日と共に一緒に消え去って行くような実に心細い気持ちになるのだった。するとその時、静かにドアを叩く音がしたのだ。彼女はこんな時にいったい誰だろうと思い、あまり人とは会いたくなかったのだが、それでもこの部屋を訪れる人間などほとんどにいなかったし、来るとしたら恐らくあの人しかいないだろうと思ったのだ。すると案の定ドアを開けると禮子がそこに立っていたのだ。きっと自分を心配して来てくれたのだろうと、この時ばかりはそう思いたい気持ちが強かったので、その態度にも彼女に対する信頼の情が自然と表われて来るのだった。やはりこれからは彼女なしでは何事も前に進まないことだけは確かだったからだ。禮子もこの時彼女のその態度から今までに感じたことのない不思議な親密さを感じて一瞬戸惑ってしまったのである。ひょっとしてこれは自分に何かを期待しているのだろうかと思ったのだ。もしそうならそれはそれでとても好都合だと思い、なぜならその方が何かとやりやすくなると思ったからである。というのも禮子がなぜ姑の部屋にわざわざやって来なければならなかったのか、その理由がすべてを物語っていたからである。

 姑の律子は、さっそく彼女を窓際の一番いい席に座らせて、自分はまるで彼女のしもべのようにその側にかしずくのだった。まるで禮子だけが頼りだと彼女のその従順そうな態度がそう明言しているようだ。その態度だけ見ると、すでに力関係がすっかり入れ替わっているようにも見えるのだが果たしてそうなのか。すでに彼女は禮子の軍門に降ってしまったのだろうか。禮子はまずは自分の危惧していることを静かに語り始めるのだった。

「お義母さん、このままだと夫は社長の座を降りることになるかも知れません。でももしそんなことになればお義母さんの将来にも大きく影響するのではないでしょうか?もちろんお義母さんだけではなく、この私にも少なからぬ影響が出るでしょうから正直私もじっとしていられずに、こうしてお話しを伺いにやって来たというわけです。それにしてもお義母さん。今回のことは事前に何の情報もなかったのでしょうか?」

「まったく知りませんでした。しかしこれにはきっと何か裏があると思っているんです。私はおばあさんの話を聞いてすぐにピンときました。いいですか禮子さん。もし弟が社長になったとしたら、おそらく紫音がこの家をすべて取り仕切ることになるでしょう。そうなればあなたはもはや何も出来ません。いくら長男の嫁でも、社長を降りた長男はただの長男でしかないのですから。あなたもただの嫁に成り下がってしまうわけです。そんなことなど決して許してはいけないのです。いいですか禮子さん。私は長年この家で暮らして来ました。夫が亡くなりさあこれから自分の人生が始まるのだと思っていました。それがいきなりこんな訳の分らないことですべてがダメになってしまうなんてとても我慢など出来るわけがないのです。こうなったら、どんなことをしてでもおばあさんの計画を阻止しなければなりません。ああ、でもいったいこの私に何が出来るというのでしょうか」

「さあそこですよ。いいですかお義母さん。何もそうあっさりと諦めてしまっては何事も成就できません。この問題はあらゆる角度から考えてみる必要があると思います。そうすればどこに問題があるかおのずと分って来ると思いますから。ここは一つ私にすべてのことをお任せ願えないでしょうか。私がお義母さんのために何とかしてみせますから。もちろんうまく行くかどうかは保証の限りではありませんがそれでもやってみる価値はあると思います。まあ、見ていて下さい」

 禮子はいったい何をどうしようとしているのか。まるで何かうまい手でも思い付いたかのように姑に約束するのだった。彼女も今回のことは自分の将来にも大きな影響を与えかねない非常に重要なことでもあったので、どうしてこのようなことが起きてしまったのかいったいどこに原因があるのか、まずそこのところをよく考えてみなければならないと思ったのである。ところでこの話の一番の肝は彼が変わったという所なのだが、それ以上に彼が変わったから社長に推薦するという話しも疑おうと思えば疑えるのである。『おばあさんはしきりに彼は変わったと言うが、いったいどういうところが変わったというのだろうか。しかしいくら彼が変わったといっても、それだけでは社長など務まるはずがないのだ。いくら親族経営でもこの選択はあまりにも強引過ぎやしないだろうか。それも会社の経営が危機的な状況だと言われているそんな時に彼が社長になって果たして大丈夫なのだろうか』彼女もこのことがあった後で夫と話し合ったのだ。その時夫はこう言ったのである。「弟なんかよりずっと頼りになる人間が会社にはいるんだ。それは今まで未熟だった私をずっと支えてきてくれた木戸専務なんだよ。彼こそ今の危機的状況を救ってくれる唯一の人間だと自分は確信しているんだがね」夫は確かに経営者として彼の父親ほどの才能はなかったのかも知れないが、(彼もそれは一応自分でも認めていたのである)しかし彼には人を見る目があったのだ。それに父親の思いを考えればやはり彼の後継者は親族でという思いも無視できなかったのだが、いくら何でもこの危機的状況のなか経験の浅い弟に、みんなを安心させるような経営が出来るとはとても思えなかったのである。それを何でおばあさんはそんな無茶なことを思い付いたのだろうかと彼も不思議に思っていたのだ。しかしあのおばあさんのことだ無理にでも弟を社長にするかも知れないと、彼も実に困ったことになったと母親以上に頭を悩ますのだった。ところで彼自身はどうやら社長という地位から潔く退くつもりでいるらしいのだ。このまま自分が頑張って社長を続けるという選択肢もないわけではなく、今まで通り木戸専務の力を借りて何とか経営を立て直そうということだって有り得たからである。そのことを考えると実にその何というかそれは彼自身の性格なのか、そこまで社長という地位にこだわるつもりはないらしく、誰か他に適当な人がいれば抵抗することもなく簡単に譲ってしまうような人間だったのだ。確かに、彼の妻もそのことになるとため息が出るというか、もう少し自分の立場というものに自覚を持ってくれないかと内心思っていたのである。今回のことでも彼がもっと強く出ていれば、ここまで追い詰められることはなかったのではなかろうかと彼女も思っていたくらいなのである。正直これほどまでに欲のない人間も珍しいと彼女のようなどちらかというと欲の強い人間からすれば何かもの足らないというか、何でこうもあっさりと自分の地位から退こうとしているのかまったく理解できなかったのである。今回もし義弟に権力が委譲してしまうとそれはそれでまずいことになるので、誰か他に適任者がいないのだろうかと彼女も思い悩むのだったが、この時ふと夫が言った言葉を思い出し、そんなに木戸専務が頼りになる人なら彼に次期社長をやってもらえばいいではないか。この考えは意外と彼女を興奮させたのである。しかしその前に亮がこれからどう動こうとしているのか、それを紫音から聞き出せないものかと思ったのだ。しかし彼女だってもはや自分の将来が懸かっているわけだから、そう簡単には口を割らないだろうが、そこにこの木戸専務の話を持ち出したらいったいどう反応するだろうか。いやたとえどう反応しようと話してみる価値はあるのではないかと彼女は思ったのである。

 すっかり人が変わったとおばあさんに褒められた亮は、俄然活気づいたことはもちろんで、というのもこうしてみんなの前で言明された以上、もはや誰もそれを否定することは少なくとも表向きには出来なくなったからである。そこで、これから先自分はどう行動すべきか、それにはまずこの事実が兄にどう影響したのかそれを知る必要があるのではないかと考えたのだ。ところが、その兄は今のところ何の動きも表向きには見せなかったのである。会社の上層部にこの情報は彼を通じて伝わっていないはずがなかったので、何らかの反応があってもおかしくなかったのだが今のところ何のコンタクトもなかったのだ。まるでそんな事実などないかのように会社は平常通りに仕事をこなしているだけで、誰もそんな重大なことが起こっていたなんてことは夢にも思っていないようだった。彼ももちろん自分からそんなことがあったとは口外するわけにもいかなかったので、そこは黙って彼もいつも通りの業務に励むしかなかったのだ。しかし、内心それこそ今までとはまったく違った心持ちで仕事をしていたのだが、そこはどうしても平常心とはまったくかけ離れた、どこか浮ついたものだったのはやむを得なかったのかも知れない。ついこの間までのことを考えれば何という違いだろう。これで自分の将来は完全に保証されたも同然だったからである。しかし、たとえそうだとしてもこのまま自分は何もしないでも社長になれるなんてことは恐らくいや絶対ないのだ。ここははっきりと自分からその意志を示す必要があるのではないかと思ったのである。それにはやはり仲間が必要なのだ。自分一人だけでは組織は動かないわけで、やはり派閥というものがどうしても必要になって来るのだが、あの二人は今ではすっかり自分から離れてしまっていたので、果たして戻ってくれるだろうかと一応心配するのだった。でも恐らくこの話をあの二人に聞かせてやれば、それこそすぐさま尻尾を振ってくるに違いないと確信するのだった。坂本総務部長は尻尾を振るどころか恐らく間違いなく飛びついてくるだろうが、もう一人の篠田企画部長は、あの事件以来すっかり怖じ気づいてしまったので果たしてどうだろうかと彼も気になるのだった。しかしもはやそういう心配もどこか楽しみの一つでもあるかのように彼の気持ちを浮き立たせていたのである。

 禮子はさっそく紫音にコンタクトを取るのだった。紫音とは柏木家が分裂して以来の接触だったので、あまりなれなれしくするのもかえって変に思われるといけなかったので、それに今ではもう彼女は昔の彼女とは違っていると考えていたほうがいいのではないかと思ったのだ。確かに以前の彼女なら、それほど苦労なく自分の話に同意してくれるだろうとそう確信していたのだが、しかし状況がこうなった以上そう簡単には話に乗って来ないと考えていたほうがいいのではないかと考えるくらい、彼女もかなり慎重になっていたのだ。

 あの分裂騒ぎがあってからの柏木家は、一旦はもとに戻ったとはいえやはりその後遺症は残っていたわけで、この一件があってからというもの以前よりもっと深刻な状態になってしまったのではないかと彼女はそう考えていたのだ。しかし考えてみれば同じ家の兄弟の嫁という実に奇怪な間柄になってしまった二人ではあるが、彼女はなぜか自分のそうした奇怪な巡り合わせに何か言い知れぬ因縁めいたものを感じていたのである。それはすべてが分かり切ったことだけで出来上がっている今の世の中には、もはや信じるに値する物など一つもないとそう確信していたからである。人間には分からない何かもっと大事なものがあるに違いなのだ。たとえそれが人には理解されないものだとしても、自分だけでもそれを信じて歩いていかなければならないのである。

 禮子はなるべくならこの家の外で紫音とじっくりと話したいと思っていたのだ。というのも、やはりこの話しはおばあさんに知られてはまずいわけで、それに家政婦のこともあるのでなるべくなら外で行ったほうが安全だと思ったのである。紫音にそのことを言うと、どうしておばあさんに知られちゃまずいのだろうと彼女は少し首を傾げたのだが、その理由を聞く間もなく彼女がどこか静かな場所は知らないかと突然聞いてきたのだ。そんないきなり知ってるかって言われても彼女も困ってしまったのだが、それでも一つだけある場所が思い浮かび、それはいつか夫と行ったあのガストン・ロワイヤルというレストランで、そこなら静かで誰にも邪魔されず思う存分お話が出来ると彼女も思ったのである。しかしあのレストランは思い出のあるレストランだったので彼女に知られるのが何となく嫌だったのだが、ほかに思い当たる場所などどこにもなかったので仕方なくそこを教えたのである。すると禮子は一瞬なぜか知らないが眉をしかめたのだ。紫音もうっかりしていたのだ。あの場所は彼女にとっても極めて思い出のある場所だってことを思い出したからである。ところが禮子はまったく違う理由でつまり彼女の相変わらずのお嬢様ぶりに眉をしかめたのである。『これじゃ以前とそれほど変わってないのかも知れないわ』と、禮子は彼女のことを少し買い被っていたというか、徒らに慎重になっていただけなのかも知れないと思うのだった。

「確かにあそこなら誰にも知られず気楽にお話できるかも知れませんね。それじゃそこにしましょうか。でもあそこは確か予約制でしたね。それならどうしましょうか。いえ予約する時間ですよ。まさかこの間みたいに夜にするわけにもいかないでしょう。昼間なら誰にも怪しまれずにこっそり会うこともできますからね。あなたもその方がいいでしょう?だっておばあさんに私と会ったなんて知られるとあなたも困るでしょうからね。二人の関係はこの家ではすでに敵同士といってもいいくらいなんですから。ほんとうにどうしてこんなことになってしまったんでしょうか。まあそれはいずれじっくりとお話しすることにして、それなら店の予約は私が取っておきますから決まったらすぐお知らせます。しかしあなたも結婚して少しは変わったと思っていたのですが、なんかそうでもないのかも知れませんわね。でもあなたとまた色々とお話しできる機会が持てて私も何かとても興奮しているんですよ。だってあなたはこの私にとってとても重要な人には違いないからなんです。でもおかしいとは思いません?あの最初の出会いからどれほど時間が過ぎてしまっても、ほらこうしてあなたとはまだお話しができる関係でいるんですからね。きっと二人の間には何か不思議な繋がりがあるのかも知れませんわ。もちろんそれが何なのかまったく分かりませんけどね。でも分からないからこそ二人はお話しする必要があるのかも知れませんわ。そう考えるとなぜか知りませんが、あなたがその大事な鍵を握っているのではないかと私には思われてならないんです。ですから今度の会談は柏木家の将来にとっても、また私たち二人の関係にとってもとても重要な時間になるだろうと期待しておりますの」

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