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ある勢力とはいったい何か?それは母親にとって初めて聞くとても不吉な言葉に思えたのだ。彼の動向はそれなりに把握していたつもりだったが、ここに来てどうも自分の伺い知れない何かが動き出したのかも知れないと思ったのだ。彼も言ってたが、これは作り話ではないと。しかし、どこまでそれが本当のことなのかどうかはもちろん判断出来ないが、何か奥歯に物がはさまったような言い方が気になったのである。でももしそれが本当ならこのまま放って置くわけにはいかないだろう。と母親は思って、さっそく彼に質問するのだった。
「いったい、その勢力とはどういう意味なんです?あなたの話しも何か曖昧でよく分らなかったので、そこのところをもう少しちゃんと説明してくれませんかね」
「ああ、でもねお母さん。ある事情がありましてあまり詳しくお話し出来ないのです」
「いったいなぜですの?」
「なぜでもです」
「理由も言えないのですか?おかしいですね。ひょっとして口から出任せなんじゃありませんか?だって、もしそれが本当なら、こっちに何らかの情報が入って来てもおかしくないからです」
「それじゃ、亮、本当のことをここで言っておやんなさいな。あなたの母上がどうしても知りたいとおっしゃっているのですから。あなたの口からよく分るように説明しておやりなさい」と、いきなりおばあさんがこう言って、自ら秘密をバラせと亮に指示したのである。これには彼もビックリしてしまったのだ。というのも、これは自分から母親に宣戦布告をしろという意味なのかと思ったからである。確かにこのことをバラせば母親は自分の大事な息子の地位が奪われると思って強く反発するに違いないからだ。しかし、こうなった以上もう対決は避けられそうになかったので、母親が傷つこうがどうしようが自分のために覚悟を決めなければならならなかったのである。これは彼にとって今までのことを思えばとても喜ばしいことだったのだ。いよいよ彼も自分が何者であるか、それを母親に知らしめる時がついにやって来たということだったからだ。この難局を切り抜ければ彼の未来はかなり明るくなることだけは間違いないのである。断って置くが彼は何も母親が憎いわけではないのだ。むしろ今までの自分の内面に問題があったわけなので、そこを何とか切り抜けねばならなかったわけである。そうしなければ彼は何時まで経っても彼本来の自分を取り戻すことは出来ないのだから。
「それじゃ、実際に何が起こったのかそれからまずお話ししましょうか。それは昨夜の食事の時に突然知らされたのです。いきなりおばあさんからお達しが出たんですよ。次期社長にお前を推薦するってね。ぼくだって驚いちゃいましたよ。おばあさんがぼくの後ろに付いてくれるならそれこそ千人力ですからね。もはや決まったも同然だと思って間違いじゃないからです。そりゃそうでしょう。先代のご母堂がそう言った以上、誰がそれを頭から否定することが出来るのでしょうか?まあそこがファミリー企業のいいところでもあり悪いところでもあるのでしょうが、それに今でもおばあさんは大株主として隠然たる勢力を持ってますからね。今いる上層部の連中に、おばあさんの意向を無視出来るようなそんな勇ましい人間が果たして何人いるのでしょうか。つまりそういうことなんですよ。お母さん。ある勢力というのは、つまりおばあさんのことなんです。驚きましたか?そりゃ、誰だって驚くでしょうよ。ぼくだって驚いたのですから。だって、おばあさんはもともとぼくのことなどまったく買ってもいなかったからです。それはみなさんもよくご存じでしょうからね。ですから、もしこのことに不服があるのなら、どうかおばあさんに直にお聞きになったほうがいいと思いますよ。というのも、ぼくも本当を言えばよく分からないからなんです。どうしてそのような考えに至ったのか、ぼくも疑問に思っているからです」こう言って、母親に一応説明したのだが、彼も次第におばあさんの決断を何か変だなと思うようになって来たのである。というのも、社長の器ではないと散々自分を貶していたにもかかわらず、なぜ突然気が変わったのか、そのことがどうにも理解できなかったからだ。むしろ自分が母親に説明するより、おばあさんがまず自分に説明すべきだったのではないのか。そう思うと確かにおばあさんの心変わりもどこか謎めいていたことは間違いなかったのである。すると、そこまで言われてさすがの母親も我慢できなくなったのか、さっそくおばあさんに噛みついたのだ。
「いったいどのようなお考えから、そのような暴挙に及ぶことになったのでしょうか?」と、いきなり暴挙という挑発的な言葉で、おばあさんのしたことを非難するのだった。確かに母親からすれば、これはかなり痛手になることだけは間違いないので、どうしても非難めいた口調にならざるを得なかったわけである。
「何もそんな言い方をしなくてもいいと思いますがね。このことは何もあなたを苦しめるためにしたことではないからです。でもね、現実はなかなか厳しいのではないかと私はそう考えたんです。確かにあなたのお気持ちはよく分りますよ。自分のお気に入りの息子が、それほどでもない息子に取って代わるのは、いくら母親でも心情的に言ってあまり気持ちのいいものではありませんからね。もっとも、その辺のことは正直よく分かりませんけど、しかし私としては、あなたのお気持ちより、この柏木家のことを一番に考える必要があったからです。これはあなたもようく考えて頂かなければならないとても重要なことなんですよ。いいですか。確かに会社も経営的にかなり厳しいことは事実なんです。こう見えて私もその辺の事情は、ある人を介してよく分っているんです。でももっと大事なことは柏木家そのものが変な方向に行くことだけは阻止しなければならないからです。いいですか律子さん。あなたはまだその点不合格ですね。あなたには世間の厳しさがまだよく分っていません。しかし、まあ、あなたもこの家で自分の欲望を抑え今までよく耐えて来たと褒めて上げてもいいと思っているくらいです。でも、この家を守るにはそれだけではとてもダメだってことをもっとよく知っていなければならないのです。あなたにはどうもそれが欠けていると思ったんです」こう言って、おばあさんは非常に理解させ難いことを承知で、何とか彼女に分ってもらおうと説明したのだが、彼女にはそれこそ何を言っているのかまったく理解できなかったのだ。
「それはつまり、この私にこれからは世間にもっと出て行って、もっとよく人間を知りなさいという意味でしょうか?もしそうなら何もご心配には及びませんわ。私だって、これからは何でもやってみようと思っているからです。いつでしたか、禮子さんとお話ししていて気がついたんです。自分の人生とはいった何だったのかって。この歳になってようやくそういうことを考えられる余裕が出て来たのです。私はね、禮子さんというとても頼りになるパートナーを得たことで、これからの柏木家がもっとよくなって行くと信じているんです。ですからどうかおばあさま、何も今さらそんな余計な心配などしなくても、この家は決して変な方向に行くことなどあるわけがないのです。それなら、なぜそのようなことをしようとしているのか、その訳をお聞かせ願えませんか。まったく何の意味もなくそのようなことをおばあさまがするはずがないでしょうからね」こう言って、母親はどうにも納得できない心変わりの説明をおばあさんに求めるのだった。確かにそれは普通に考えてもまったく理解できないことだったからだ。あれほど亮は社長の器ではないとまで言って置きながら、どうして今になって考えを変えたのか、それは誰もが不思議に思って当然だっただろう。しかしおばあさんにとっては不思議でもなんでもないのだが、それを説明するとなるとなかなか言い出しにくいというか、いやとてもみんなの前で言えない理由があったからだ。それはすでにご存じだとは思うが、なぜかここに来て禮子に対する律子の態度がとても危ういという思い込みがおばあさんの心に取憑いてしまったからである。確かにそういう思い込みは、本人が至ってまじめにそう思い込んでいるので、なかなか否定し難いのが厄介なところなのだ。しかし実際に、禮子がこの家のことを律子を差し置いて自ら手中に収めるのではないかという恐れは、ひょっとしてまったくないというわけでもないのだ。そういう考えはむしろ世間の人の方が、いわば冷静に見極めているのではないかと思われるのである。確かに彼女が結婚した当初からそういう噂はあったのだ。しかし現実的にそうなったとしても、それで柏木家がおかしくなるという理由にはならないのである。どうもこの辺りに一番の取り除きがたい心理的な壁が潜んでいるのではないかと思われるので、一概におばあさんの考えが正しく禮子という人間が信用できないということにはならないのである。確かにこういう争いは今までにも繰り返しあったことであり、女という一筋縄ではいかない生き物同士の避けようのない駆け引きでもあるからだ。
ところで紫音はというと、この問題の元凶がどこにあるのかはっきりと理解していたのである。というのも、きのう禮子に関する思いをおばあさんから聞かされたからだ。それはかなり刺激的な話しで、自分が監視役になって禮子を見張れという話しだったことが彼女を驚かしたからである。その話しからおばあさんは余程禮子のことが気になってしかたないことがよく分ったのだ。ところでなぜ夫を社長に担ぎ上げようとしたのか、もちろん彼女も彼女なりにそのことはすでに考えてはいたのだ。彼女の推論によれば、夫を社長にすることによって、禮子の立場を弱いものにしてしまおうと思ったのではないのか。当然義兄が社長の座から降りればこの柏木家での禮子の立場もそれにつれてかなり弱くならざるを得ないからだ。つまりその分自分の立場が彼女より強くなり、おばあさんにとってはその方が柏木家のためにはずっとよいと考えたのではないだろうか。と、彼女は考えたわけである。もちろん、これはあくまでも彼女の想像だから、実際はどうなのか、それはおばあさんに聞かないと分らないわけである。それならおばあさんは前もって彼女にその理由を言って置くべきではなかったのか。それでなければ、彼女はこれからどうやって禮子と付き合っていけばいいのか分らなくなるからだ。ところが、彼女のそうした疑問もこうして図らずもみんなの疑問となって、おばあさんにその理由を求め始めたのである。
「私がどうして亮を次期社長に推そうと決めたのか、その理由が知りたいというのですか?そうですか。それなら言いましょう。理由は簡単です。昔の彼と今の彼はまったく違う人間になったということがまず挙げられます。確かに以前彼を社長という器ではないと言って誹謗したこともありました。それは認めます。でもね人間というのは日々変わるものです。実際彼は変わったのですよ。もちろんいい方に。私はある人から最近の彼の会社での働きぶりを聞いて、私の考えが間違っていたことに気付いたのです。今の彼なら社長を任せても大丈夫ではないかと思ったのです。卓は今までよく頑張ってきました。先代が亡くなって急遽社長という重責をいきなり任されてそれは大変だったと思いますが、それでも今まで何とか彼なりに頑張って来たのですが、このままでは彼の責任はどうやら免れないだろうと思いますからね。ここは一つ潔く退いて弟に任せたほうがいいのではないかと思ったわけなんです」
紫音は、この話しを聞いて最初にまず思ったのは、これはあくまでも表向きの話ではないかと思ったのだ。つまりそう言って置けば、誰も反対は出来ないという意味で表向きな話だと思ったのだ。しかし真実はもっと違ったところにあるわけで、昨日のおばあさんの話から想像すれば、やはりそこに禮子に対する大きな恐れが隠れていたと、どうしても思わざるを得なかったのである。とはいえ、こうした話も彼女にとってはすべて憶測の域を出ることはなかったのだ。ところがおばあさんの話を聞いていて、一つだけそれはちょっと違うのではと思ったことがあったのだ。それは自分の夫が、おばあさんが言うようにそんなに変わったのかということなのだ。というのも、自分にはとても変わったとは思えなかったからである。まあ、こういうことはよくあることで、他人にはよく見えていても実際の夫を知っている身としては、とてもそんなに変わったとは到底思えないからだ。それもいい方に。本当にそうなのだろうか。と彼女も内心首を傾げないではいられなかったのである。もちろん夫をダメな人間だなんて一度も思ったことなどない彼女としては、その思いに矛盾があるにしても、そう簡単に夫は変わったなどとは正直なところまったく思えなかったからである。いくら仕事の上で彼が変わったとしても、それは彼そのものが変わったとは言えないからだ。しかし、実際のところ、そう思う彼女もやはり昔とはずいぶんと変わっていたのである。もちろん本人はそんなことは考えもしないのだが、もし彼女のことを昔からずっと見ていた人がいたとしたら、きっと彼女もかなり変わったなあって思うはずである。もちろん彼女だって、いい方に変わったのかどうかは正直に言ってよく分らないのだが。
おばあさんのこの発言によって、さしもの母親も納得せざるを得ないと思うかも知れないが、なかなかそう簡単に彼女は納得などしなかったのだ。自分の今まで生きてきたこの柏木家での歴史を顧みても、そうやすやすと自分の立場を弱くするわけにはいかなかったからだ。というのも、もし弟が社長になれば紫音がこの柏木家を牛耳ることになることは確実であり、そうなれば自分の計画も頓挫しかねないからである。その計画というのはこの柏木家という旧態依然の環境を作り替えるというものなのだが、そのためには禮子が社長夫人でいなければならなかったからだ。というのもおばあさんの力を封じ込めるにはどうしても彼女の力を借りなければならなかったからである。おばあさんの言いなりに動く紫音ではダメだからである。彼女にとってその計画は、自分の夫が亡くなった時まるで今まで封じ込められていた情念が噴出するごとく沸き上がって来た彼女の暗い欲望だったのだ。やはりそこには彼女の虐げられて来た歴史が背景にあり、この計画もそこからすべて考えられていたわけである。しかしそれにはあばあさんの存在が邪魔なわけである。もちろんこんなことは表立って言えることではないが、あまりにも長生きし過ぎなのだ。何でこういつまでも自分の邪魔をするのだろうかと、彼女は今までにも何度かそう思わずにはいられなかったのだ。おばあさんがこのまま健康で長生きするならば、そういう喜ばしい状態が続くなら、それなら何とかおばあさんを隠居という無害な状態に追い込めないだろうかと考えたのである。それにはやはり自分の力だけではダメでどうしても禮子の力が必要だったわけである。とてもじゃないが紫音にそんなことが出来るわけがないからだ。




