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おばあさんの真意などまったく知らない彼としては、恐らく昨夜話したことだろうと勝手に思い込んだわけで、もちろん口止めされていたことは分っていたが、いずれバレることも分かり切っていたので、それなら母親がどういう反応を示すか、それを確認するためにもここでバラしてしまった方が都合がいいと思ったわけである。もちろん、おばあさんとしては何を考えているのかさっぱり分らない、このバカ息子の行動には怒り心頭なのだが、こうなったら仕方ないので彼自身に何もかも背負ってもらうしかないと思ったのだ。つまり彼が自らの問題として母親を説得するしかないと考えたわけだ。いわばこれからの柏木家がどうなるか、それを占う上でも彼の能力が試されることになったわけである。すると母親は息子の何やら意味ありげな話しに、何かを感じ取りさっそく二人にその説明を求めるのだった。
「いったいそれは何の話しなんです?もし、その話しが今回のことと関係しているのなら、ぜひとも聞かせて頂かなければならないと思うのですが」
それを聞くと、さっそくおばあさんは、『私は知りませんからね。自分で何とかしなさいよ』といった態度を露骨に示しながらそっぽを向いてしまったのだ。慌てたのが亮であり、これはきっと怒らせてしまったに違いないと思ったのだが、しかし自分から言った手前このまま黙っていては面目が立たないわけである。自業自得とはいえ彼もこんなことになるとは思いも寄らなかったのだが、しかし、こうなった以上、自分の手でこの後始末をしなければどうにもならなくなったわけである。ところが彼にしてみれば色んな意味でそれが難しい仕事だってことが分ったのだ。というのも、母親は恐らくそう簡単にこの話しに納得するはずがなかったからである。となると、いったいどう話したらいいのか皆目見当がつかなくなったのだ。しかも、この時は母親に対して極めて強い悪感情を抱いていたので、どこまで冷静に対処できるのかよく分らないということもあったのだ。しかし、彼がそういう感情を抱いていたということは、ある意味、自分の優位性を母親に知らしめる願ってもないチャンスでもあったわけである。というのも、そうすることによって長年ため込んできた母親に対する怨念を少しでも晴らすことがで出来るからだ。とはいえ、再び言うが、それは彼にとって色んな意味で難しいことだったのだ。しかし、この時の彼は理由はよく分らないのだが自分でも驚くくらい強気になっていて、とにかく何でもいいから自分の積もり積もった怨念をここで吐き出す必要を強く感じていたのである。
「それじゃ、お母さん。ぼくの方からご説明させて頂きますが、その前にちょっとお母さんにお話しして置きたいことがあるんです。さっきから二人のお話しを聞いていて思ったのですが、どうやらお母さんはおばあさんに対して何かとても強い不満をお持ちのようですね。ぼくは今までこの家で何が起こっているのか正直それほど関心がなかったのですが、でも最近ぼくの耳にもお母さんの話しが時々入って来るようになったんです。もっとも男にとってそういう話しはすぐに飛び付けるような話しではないのですが、でもぼくだってやはりこの家の一員なんだし、これからの柏木家を背負って立つ人間の一人なんですから、まあこれからは真剣に考えて行かなければいけない問題だと思い始めたわけなんです。でもお母さんにとっちゃ、ぼくなんかどうせいてもいなくてもどっちでもいい人間なんでしょうが、でもまあ人生なんてどうなるか分ったもんじゃありませんからね。それに人は変わるもんだし、いつまでも同じような人間でいられるはずもないからです。だって、お母さんもずいぶんとお変わりになったじゃありませんか。ぼくも驚いちゃいましたよ。人というものは歳に関係なく変わろうと思えば変われるもんなんだって、その実例を目の前で見させて頂きとても感動したってわけです。ぼくも、これからはそういうお母さんを見習って、もっと優れた人間に変われるよう努力すべきだと、今まで以上にそう思うようになったという次第なんです。要するに自分に恥じない生き方をしなければって思ったわけです。ぼくだってね、いつまでも兄貴の下でくすぶっているわけにはいかないんですよ。ぼくだって結婚しているわけですから。そうでしょうお母さん?ぼくだってあなたの息子でもあるわけですからね。今まで育てて頂いたそのご恩に報いるためにも、今のような立場に甘んじていてはいけないとそう覚悟したという訳なんです。まあ前置きはこれくらいにして、本題に入りましょうか。それじゃ、結論から先に言ってしまいましょうかね。それの方がごちゃごちゃ言って誤解されるよりずっとましですからね。ぼくは前々から兄貴には会社のひどい経営状態から考えて今の地位を退くべきだと主張してきました。それは何もぼく一人の意見でないことは、お母さんだってご存じのはずです。そういう話しは会社内でも議論になっていることは事実だからです。ですから兄貴がこのまま現在の地位に留まるのはかなり難しくなって来たということをぼくは言いたいのです。つまり兄貴は責任上真剣に自分の進退を考えて頂かなければならなくなったわけです。だからこそ、家族一同一致団結して兄貴をサポートすべきだと言う意見にもそれなりに道理があるわけですが、でもね現実はそう簡単にいかないわけですよ。つまりある勢力がぼくの味方に付いたからです。この勢力については現在のところ詳しくお話しすることはできないのですが、でも、その勢力は確実にこのぼくをその地位へと押し上げてくれるだろうと思っているんです。まあ今のところ、これくらいのことしかお話しできませんが、でも、この話は決してぼくが勝手に作った法螺話なんかではありませんからね。それだけはどうぞ誤解なきようにして下さいね。でないとお母さんのこれからの人生にも狂いが生じてくるかも知れませんからね。でもどっちにしろやはり親として何もそうがっかりするようなことでもないとは思うのですがね。だって、ぼくもあなたのれっきとした息子なんですから。どう見たってあなたが悲しむべき筋合いの話しではないことだけは確かなんですから。それとも何ですか、ぼくなんかよりやっぱり兄貴の方があなたにとってはずっと大事な人間ってわけなんでしょうかね?」
彼もこう言い終えて母親がどのような反応をしてくるか、まずそれを確認したかったのだが、どうも母親の様子がちょっとおかしかったのだ。でも、彼としては自分が母親に面と向かって自分の気持ちを節度ある言葉で表現できたことにかなり満足を感じていたのである。というのもこれは彼にとってある意味画期的なことでもあったからだ。それに何よりも一番の難問だったおばあさんの話をある勢力という言葉であいまいにしたのも我ながらうまい思い付きだと感心したのである。ああ言っておけば、おばあさんだって恐らく文句はないはずだと思えたからだ。ところが肝心の母親は息子の思いも寄らない言葉にすっかり度肝を抜かれてしまったのだ。息子のどう取っていいのかまったく分らない不可解な話しもさることながら、最後の言葉なんかどう考えてもおかしいと思えたからである。というのも今まで彼が自分に対して何か不満らしきことを言ったことなど一度だってなかったからだ。ましてここまであけすけに言ってくるなんてとても信じられなかったからである。それとも、この子に対する自分の態度に何かおかしなところがあったからだろうか。自分としては決してそんなことはないと自信を持って断言できるというわけではもちろんないが、それでも兄弟隔てなくずっと接して来たつもりでいたからである。要するに、この母親にしてみれば彼の意外な発言が彼女の母親としての自尊心をかなり傷つけてしまったのである。母親というものは子供から何か批判めいたことを言われると、もし彼女がそんなつもりなどなければないだけ身に応えるものなのだ。彼女もいきなり息子から告発されたことで、かなりショックを感じていたのだが、それはむしろ彼の思慮に欠けた言い方にショックを感じていたのである。そこで、この母親が真っ先に考えたのが彼の性格そのものだったのだ。というのも子供の頃から彼には何か普通の子供とはちょっと違ったところがあったからである。しかしこの二人の関係をよく理解するには、母親というものが彼にとってどういう存在だったのか、また母親にとって彼はどういう存在だったのかよく考えて見なければならないわけである。以前にもちょっと話したが、彼にとって母親というものは常にアンビバレントな状態にあったわけで、そういう異常な状態の中、彼が取った行動がまた異常なわけで、母親に対する感情を一切シャットアウトしてしまったわけである。恐らくそうしないと彼にとってとても生きて行けない状態だったと思われるからだ。そういうわけで彼の前から母親はその姿を消したわけである。母親にしれみればそんなことなど知る由もないわけで、ただ彼が手の掛からない反抗することもない素直な子供としてずっと彼女には見えていたわけである。それが一転して、まるで自分が兄の方ばかり可愛がっているという実に子供らしい反抗を今になってしてきたわけで、これをどう受け止めるべきかやはり彼女も母親としてとても悩んだわけなのだ。もっとも子供の時ならいざ知らず、すでに結婚もしているいい大人がそんなことで母親を責めてくるなんて、彼女の常識からしてそんなことは今さら考えるに値しないと最初そう思いはしたのだが、それでもこうした息子の反抗を目の当たりにした以上、親として呆れてばかりはいられないとこの母親は一応そう思い直し、今頃やって来た弟の反抗期を母親らしく受け止めることにしたのである。ところがそのように見られていた息子は、まったく違った気持ちで母親を見ていたわけである。というのもこの出来事は何度でも言うが彼にとってある意味とても画期的な出来事だったからである。彼がどこまで意識しているかは分らないが、彼のしたことは子供の頃に自ら嵌まった呪縛から解放されるその端緒になったからである。彼は自分の苦しみが母親の態度にあるとずっと思い込んでいたわけで、それがたとえ彼の思い込みだったとしても、それは一つの動かし難い現実的な苦しみとなって彼をずっと悩まして来たわけである。ところがまずいことにその思い込みは次第に確信となり彼を異常な行動に追い込んで行ったわけなのだ。彼はある時、自分に母親というものがいなかったとしたらどんなに楽だろうかとフッと思ったのだ。つまりもしいなければ今自分が感じている苦しみがなくなるのではないかと考えたからである。しかしいくらいなんでも同じ屋根の下で一緒に暮らしている以上なかなかそれも難しいわけである。そこで彼は母親との感情的な繋がりを一時的に遮断してみたらどうだろうかと考えたのだ。これはやろうと思えば出来ないことではないと思い、ある時から自分の感情を極力表に出さないような生活を始めたわけなのだ。最初はどうもぎこちなかったのだが、自分の気質に合っていたのか次第にそのような行動が無理なく出来るようになって行ったのである。すると母親は彼の様子がどうもおかしいと思って何かあったのかと問い詰めたところ、彼は実にそっけなく別に何でもないと言って無視したわけである。まあ彼も行きがかり上そうするしかなかったのかも知れないが。すると賢明な母親は、彼も思春期だしあまり口出ししてうるさがられるのもよくないと思いそのまま放って置くことにしたわけである。ところが、こうした母親の思いやりを彼は、ああやっぱり自分のことなど心配する価値もないのだと勝手に思い込んで、ますます泥沼に嵌まり込んで行ったわけである。そうなると当然困ったことが彼の身に生ずるわけで、彼は自分の感情が知らないうちにどんどん失われていくような変な錯覚に襲われるようになっていったのである。これは恐ろしいことなのだが、彼はこれで自分の苦しみがなくなるのならそれはそれでいいのではないかと思ったのだ。ところが次第に感情だけではなく他のことにも支障が出て来てしまったのである。なぜか自分の正直な気持ちが素直に言えなくなってしまったのである。言うにしてもどこか不自然な気持ちがどうしても拭いきれなくて、例えばはっきりと物事を決めたい時でも正直どうしたらいいのか自分で判断が出来ず、なぜか優柔不断という妙な症状に苦しめられることになったのである。それがどうやら母親だけでなく他の人間関係すべてに影響していたようなのだ。それが今回思い掛けないことに彼の心に変化が起こり、一番の元凶であった母親に向かって自分の正直な気持ちを思い切りぶつけたというわけである。彼の発言は確かに大人として見れば決して褒められたものではなかったかも知れないが、本人にとってみれば過去の呪縛から自分を解放するというかなり重要な仕事がそこに隠れていたのである。そういうわけで、この出来事によって彼の身にもひょっとして何らかの変化が生ずるかも知れないのだ。しかし母親の立場からするとまた違った意見があるわけで、今さら親子関係をやり直そうなんてそんな気持ちなどまったくなかったのである。そもそも彼がそんな当てこすりみたいなことを言うこと自体おかしいので、恐らく自分が兄に加担しているのを面白く思っていないのだろうと母親は考えたわけである。確かに彼女は弟より兄の方を大事に思っていたことは確かなのだが、だからって何も弟を軽んじていたわけではないのである。つまりそれは何も好き嫌いの問題などではなくて、この柏木家の将来を思ってのことだったからである。『会社の状態が悪いのなら何も兄弟が争うのではなく、お互い協力し合って会社を建て直すのが本筋というものではないのか。それを何を血迷ったのか、自分が兄に変わって会社を建て直すなどとよくもそんな出来もしないことを言いだしたものだ』と母親は呆れたのだ。『おばあさんだって以前にはっきりと言ったじゃないか。亮にそんな力などないって』しかし、こういうことがあると彼女も次第に感情的になって来るわけで、『そもそも弟は自分にそれほど懐いていなかったではないか。小さい頃はそれほどでもなかったのだが、中学高校といった頃になるとまるで人が変わったように自分には見向きもしなくなった』からだ。『その点、兄の方はまったく違っていて、あの子は小さい頃から自分によく懐いていたし、大きなくなっても自分を頼りにしてくれたものだ。それに引き換え弟はまるで母親など居ないかのような態度でずっと過ごしていた』ではないか。『それがどうだ、今頃になって露骨に自分がどれくらい母親に嫌われていたかを、まるで当てつけのようにみんなの前で言い始めたではないか』しかし『何でそんなどうでもいいことを今頃になって言ってきたのだろう。ひょっとして彼は自分を貶めることで、この家の実権を奪おうとしているのではないか』と、この母親は疑い始めるのだった。その疑いを増幅させたのが、彼が意味ありげに言ったある勢力という言葉だったのだ。




