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紫音の約束   作者: 吉田和司


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 この二人の関係をもう少し詳しく語って見ようと思うのだが、というのもこの親子の軋轢はこれからの彼の人生においてとても重要な問題となるからである。子供の頃から母親に対して何かと不満があった彼ではあったが、別に自暴自棄にもならずにどういうわけか知らないが、極めて従順な子供として普通に生活していたのである。まあ家庭環境そのものが極めて異常であったこともあるのだろうが、彼の心はまるでその異常さに負けないくらいの異常さで何とかバランスを保っていたのかも知れないからである。というのも母親の愛情を得られないと思った彼は、父親には絶対服従するしかないと子供心に悟ったからで、ここで父親にまで見捨てられたら、それこそ死ぬしかないと思ったからである。とはいえ彼は何も父親に対して愛情など少しも感じていなかったので、少年の心は極めて苦しい環境に耐えて行かなければならなかったのである。すると彼は、なぜか愛情を感じられない母親に対して、まるで始めから居ないかのような態度を取るようになったのだ。恐らく、そうすることで自分の苦しみから逃れようとしたのか、それとも母親に対する復讐だったのかよく分らないが、しかしそういう不自然な態度は少しずつ彼の心を蝕んでいったのである。というのも子供の頃は何とか破綻せずに生活していた彼も、社会人になったとたん、その私生活は乱れに乱れ、挙げ句の果てに人妻と問題を起こし、自分の地位すら危ぶまれるくらい信用を失ってしまったからである。しかし彼も結婚し家族の助けもあり何とか持ち直して、一時は諦めていた父親の後継者という地位に再び挑戦してみようと思ってみたわけである。

 そういうわけで確かに彼は、子供の頃から母親という大問題に苦しんで来たわけだが、それが大人になって完全に解消したのかと言うと正直に言って極めて怪しいわけである。本人は否定するかも知れないが今でもそのしこりは消えずに彼の心を相変わらず蝕んでいると考えた方がいいかも知れないのだ。しかしこういうしこりは恐らく彼の意思とは関係なく忘却の底に沈んだまま、何かの切っ掛けがない限り例えば二人の間に新たな問題が起こらない限り甦って来ることはないと思われるのだ。それが、今回の事件でその忘れられた記憶が鮮やかに甦って来たのである。つまり居ないはずだった母親という亡霊が驚くべき姿となって彼の前に現れたというわけである。ところが、大人になって母親に対する見方も少しは変わって来ているのではないかと思いきや、母親は幾つになっても自分の子供に対する態度が少しも変わっていないという、それならお前はどうなんだと逆に聞いて見たいような上から目線で母親をあざ笑ったのである。こういう見方がまだ残っているということはまだしこりはなくなってはいないと考えたほうがいいのだ。しかもそのしこりは恐らく子供の頃よりずっと固くなっていただろうから、手遅れにならないうちに何とかしなければいけないのだが、というのも彼はこの時はっきりと母親に対して抑えようのない憎悪を感じていたからである。しかしこれはちょっと自分でもよく分からないのだが、なぜそんな憎悪が自分の中に生じてきたのか、彼としても初めてのことでもあり気でも狂ったのかと正直思っても見たりしたのだ。というのも、いくらなんでも今まで母親に対してそんな激しい感情など持ったこともなかったので、それが突然腹の底から湧き上がって来たということについては、やはりそれなりの戸惑いがあったのである。しかし、それは視点を変えて見れば、ようやく母親に対して持つことができた当然の感情だと言ってもよかったのだ。今まで彼が母親に対して持つことさえ拒否してきた子供としての感情が、いわば憎悪という形で突然彼の心を侵食し始めたというわけである。しかし遅れた分、それだけ対応が難しく、下手をすれば自分でも手に負えないくらいのものになる可能性だってあるのだ。しかし彼としては、とてもそこまで考えが及ぶこともなく、ただただ自分の母親が、私の大事な息子は()()()()()()とはっきり公言したということが一番の問題だったわけである。

『何が家族一同一致団結してあなたをサポートしますよだ。母親の愛情なんて所詮この程度のことなのかも知れんな。まったく何も見えていないんだ。実に哀れなもんだ』

 要するに彼の今の状態は、いわば母親というものがどういうものなのか生まれて始めて意識の対象になったようなもので、どうしても混乱した見方にならざるを得なかったわけである。彼だって本気で自分の母親を心から抹殺したいなんて思っていたわけではないので、ただアンビバレントな状態の中で揺れ動いていると言ったらいいのか、そういう意味からも何とかそこから抜け出したいと藻掻いている最中なのかも知れないのだ。ひょっとして今回の事件が母親という呪縛から逃れられる最大のチャンスかも知れないのだ。というのもどう見てもそのように条件が整いつつあると思われるからである。なぜおばあさんが彼の味方となったのか、もちろん彼のためにそうしたのではないことは分っているが、しかし、結果的に彼のためにはなっていたのだ。それに母親が自分の生き方を変えて来たのも、彼に大きな影響を与えたわけである。まるで誰かが彼を変えるべく秘かにアレンジしているように見えなくもないのだ。ただ言えることは彼がこのチャンスを逃すことなくものに出来るかどうかだが、それはすべて彼の考え方一つに掛かっているわけである。彼だってそんなにバカな男ではなかったので、母親に対していつまでも子供染みた考えにへばりついているわけにもいかないことくらい分っているはずなのだ。しかし、分っているからといって、なかなかそういう考えから抜け出せるわけでもないのである。だからどうしても自分のことは棚に上げて母親のことをあれこれと批判するのだが、その一環として母親の性格について面白い考察をして見せたのだ。

 彼は母親を見ながら人の性格などというものがいかに信用できないものか、というよりも、その人固有の性格などというものは本当に存在しているのだろうかと疑ったのだ。確かに今回の母親には度肝を抜かれたが、それは今まで自分が思っていた母親とはまったく違っていたからで、もし違っていなかったら何の問題にもならなかっただろう。ということは人の性格とは単なるこっちの思い込みということなのだろうか。確かにそういう面もあるだろうが、それなら本人は自分の性格をどう思っているのだろう。もしこの時母親に、あなたはご自分の性格をどう見てますかって聞いたとしたら何て答えるだろうか。たぶん人からどんな性格かと聞かれて的確に答えられる人などいないと思うので、彼女もしばらく考え込みながら結局はよく分からないというか、あやふやなことを言って誤魔化すかどちらかだと思う。ということはそもそも性格などと言うものは本人すらあやふやにしておきたいものなんだと言うことだろうか。恐らくそういうものなんだと思う。そして他人が勝手にあの人はこういう性格だと繰り返すのが性格というものの正体だと言うことだ。性格とは本人が決めることではなく他人が想像するものなのだ。というのも、他人の方が本人よりその人の性格を掴みやすいからである。だから、その性格が思い描いていたイメージと違ったりすると、なぜかガッカリしたり怒りを覚えたりはするが決して納得はしないわけである。つまり客観的に、この人はこういう性格だと言えるようなものなどどこにもないということなのだ。と彼は考えたのだが、これはいかにも日本人的な性格論ではないだろうか。つまり日本人にとって性格というものは本人より他人が決めることだからだ。自分はこういう人間ですと積極的に言い出すとかえってみんなに疑われるからである。日本社会において自我くらい厄介なものはないからだ。それはやたら個性を尊重する現代でもまだ決して解決しているとはいえない問題だからである。彼もそのことでは嫌というほど会社の中で苦い思いをして来たわけだが、未だにどうしたらうまく行くのかまったく分らないでいるのである。とはいえ中には自分の性格に真剣に悩む人もいるだろうが、それは結局他人の目を気にしてのことでしかないのだ。性格というものは社会的なものであり、もし彼が孤独な人間なら性格など恐らく問題にもならないだろう。しかしいくら何でも、一人だけでこの世を生きられるはずもないので、どうしても他人というものが必要になって来るのだが、その他人のことを日本では世間と言っているわけである。今時、世間などという言葉はあまり使わないだろうが、使わなくなったからそれから自由になったというわけではないので、世間は今でも十分過ぎるくらい我々の行動に影響を与えているわけである。ところが、その世間という言葉は今では社会という言葉に置き換わってしまったのだが、その意味するところはまだ世間のままだということが何よりも大事なわけである。というのも日本にはまだ社会などというものは存在すらしていないからである。小さな共同体としての世間はやたらあるのだが、大きな共同体としての社会などというものは、まだその産声さえあげていないかも知れないのだ。もっともわけも分らず社会社会と言ってりゃ、そのうち社会らしきものが出来上がると暢気に考えてる人達もいるかも知れないが。とはいえ、そうはいってもこういう問題は、この柏木家の人達にとっても決して無関係ではなく、それどころか彼らがこれからどう生きるかで、この問題も少しは変わって行くに違いないと思われるからである。

 そういうわけで亮としては、自分の母親がこれからどんな謀反を起こそうとしているのか、まずそれを確かめなければならなかったのだ。というのも、いくらおばあさんの後ろ盾を得たと言っても、こうなってしまうとこの問題は、そう簡単に片付くことはないだろうと彼も覚悟しなければいけなかったからである。まったく、こういう問題に家族が絡んでくると、問題はますますこじれて来てそれこそ骨肉の争いにまで発展するのではないかと、この時ばかりは彼も顔をしかめたのである。この問題は表向きは兄弟同士の跡目争いには違いないのだが、その裏では嫁姑の熾烈な争いが起きていたからである。恐らく母親は禮子と結託してこの家の主導権を握ろうという魂胆なのだろうが、おばあさんがそんなことを許すはずがなかったのだ。まして、今回ははっきりとおばあさんが彼の後ろに付いてしまったわけで、問題なのは母親がまだそのことを知らないということである。しかし、そのことを知ったらいったいどうなるのだろうか。恐らく腰を抜かして発狂するかも知れないのだ。

「しかしおばあさま。いったいなぜそこまで私のやり方に反発するのでしょうか?私はただこの家のことを思ってしたまででございます。おばあさまが、こうして戻って来て下さったことが、何よりも嬉しかったからなんです。出来ればもっと盛大にしたかったくらいなんですよ。でもまあ、私としてはこれが精一杯のおもてなしだったわけです。ですから、どうかおばあさまも機嫌を直して頂いて、どうか私達と一緒に食事をして頂きたいのです」

「でもあなた、さっきこの家が新しい門出を迎えたとか何とか言ってましたよね。いったいそれはどういう意味なんです?」

「いや、それは息子もようやく結婚できたことで、この家もようやく新しい門出を迎えられるという意味でございます」

「ふーん、そうですか。しかし、あなたもずいぶんとお変わりになりましたね。いったい何があったんでしょう。私もね最近のあなたの変身ぶりにはとても注目していたんですよ。もとからこんな人だったのだろうかって色々と余計なことまで考えてしまうくらい注目していたんですからね」

「しかし、そんなに注目されていたなんて思ってもいませんでしたので、かえって恐縮してしまいますが、でもおばあさま私そんなに変わったでしょうか?というのも自分の性格というものが、変に聞こえるでしょうが自分でもよく分っていないものですから、おばあさまからそんなに変わった変わったって言われますとかえってどう変わったのかしらって考えてしまうからです。でも性格というものをあまり気にするのもどうかと思いますね。だって性格というものをあれこれ詮索しだすと切りがないからです。私も六十を越えてすでに久しいですが、もう先が見えているこの歳になってまだ自分の性格が気になるというのもあまりみっともいい話しでもありませんからね。もはや覚悟を決めるべきなんです。人がどう思おうとそんなことはどうでもいいと思うべきなんです。そうしないと性格という判然としない迷路の中で自分を見失うことにもなりかねませんからね。そんな無駄なことをするより私はただ自分の残された時間を何とかこの家のために使おうと思っているだけなんです。それがなぜか知りませんが、おばあさまにはまったく理解して頂けないということが今もって腑に落ちないのです。私はおばあさまのために自分のことなど度外視して今まで尽くして来たつもりです。そりゃ至らない点も確かにあったでしょう。それでも私は今までこの家のために頑張って来たつもりです。それなのにおばあさまは何がご不満なのか知りませんが、この私にすべてを任せることを拒否するのです。いったい何が原因なのでしょうか?私という人間に何か不都合なところでもあるのでしょうか?何か人間的に頼りにならない所があるからなのでしょうか?もしそうだとしたら私はこの歳になって、おばあさまの信頼を勝ち取るために、また一からやり直さなければならないのでしょうか?それとも今まで通りおばあさまに逆らうこともなく、まるで奴隷のように従えってことなんでしょうか?そのどちらも今の私には正直出来ないと思います。しかし、そもそもそんなことをしている時間などないと思いますが。というのもおばあさまの年齢を考えれば、自ずからその答えは出ていると思うからです」 

「それがあなたの偽らざるお気持ちだというわけですね?それなら私も自分の偽らざる気持ちをここで正直に話すことにしましょうかね?私はね、正直に言ってあなたにはとても感謝しているのです。あなたという人が居なければ今の柏木家はなかったと思っているからです。確かに人の性格などあまり気にしない方がいいかも知れません。それでないとその人の本質を見誤る恐れがあるかも知れませんからね。でもね、人の本質などと言ってもそう簡単に分るはずもありませんから、そこに不安が忍び寄ってくるわけなんですよ。人を信頼するということはとても勇気のいることです。ましてや何かとても重大なことがある場合には尚更迷うことにもなるわけです。でもね、いいですか律子さん。誤解されては困るので、ここではっきりと言っておきますが、何もあなたに不満があるわけではないのです。それにあなたがおっしゃるように私の寿命のカウントダウンも恐らく始まっているでしょうしね。でもね、まだ私が元気でいる間は、この私にこの家のことは任せて頂きたいと思っているだけなんです。私にはまだしなければならないことがあるのですから……」

「ということは何かやり残したことがあるということですか?」

「そうです、やり残したことがあるのですよ。それを片付けてからでないと、あなたにこの家のすべてを任すわけにはいかないのです」

「そのやり残したことというのはいったい何なんでしょうか?」

「もうこうなったら言っちゃった方がいいかも知れませんよ、おばあさん。正直に話してしまった方がこの家の将来のためにも、またお袋のためにもずっといいと思うのですがね」と、突然亮が、あれほど内緒にしておけと言っておいたことを、何を血迷ったのかここでバラせと言ってきたのだ。これには、さすがのおばあさんも思わず顔をしかめたのである。

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