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別に背に腹はかえられないと思ったわけではないのだろうが、そうすることで心なしかその時が先に延びることを喜んでいるようにも見えたのだ。それでも紫音にしてみれば、父親が禮子に振られた話など、娘として正直恥ずかしくて仕方がなかったのだが、それとこれとを天秤にかけてみれば、やはりこっちの方が話し易かったことだけは確かなのだ。なにせこっちは嘘をつかなくてもよかったし、それに今思い出してもどこか懐かしく思えたし、義母もすっかり喜んでくれたので、ますます思い出話に花が咲いてしまったというわけである。とくに選挙の時のエピソードを話してやった時の義母の喜びようは半端ではなく、選挙に負けてしょげ返っている父に叱咤激励する禮子のその時の様子を何度も聞き返してくるのだった。いったい何がそんなに気に入ったのかよく分らないのだが、どこか彼女の琴線に触れるものがあったのかも知れない。しかし、一番義母の好奇心を満足させたのが、禮子が父親に婚約の破棄を言明した時のエピソードだったのだ。彼女も初耳だったらしくいったいなぜそんな思い切った行動が彼女に取れたのか、そのことを考えることが禮子という女を知る上で、とても大事なんじゃないかと紫音に向かって言ったりしたのだ。すると紫音はその時同じ場所に卓さんもいたことを思い出し、そのことを何気なく義母に伝えると、彼女は突然何かに弾かれたようにソファーから立ち上がり、しばらく何も言わずにその状態のままジッとしていたのだ。彼女は明らかに何かとても大事なことに心を奪われていたのである。つまり今まで一つの謎としてずっと心に引っ掛かっていた息子がなぜ禮子を結婚の対象にすることができたのか、その経緯がこれでよく分ったからだ。それにもっと重要なことは、息子の結婚が橘氏の破談という犠牲の上に成り立っていたということである。これは意外と母親の心に暗い影を落とすことになったのである。息子の結婚には決して素直に喜べないものがあったのだ。ひょっとして、この問題は今も尾を引いているのではないかと思うのだった。もちろん彼女は身内として橘氏のことはそれなりに知っているつもりだったのだが、実際はほとんど知らないと言ってもいいくらいだったのだ。これを単なる母親の取り越し苦労だと言って済ますことも出来るのだが、母親としての勘がそう思うことに強く反発していたのである。こういうことは、たとえ本人が否定していたとしても、そう簡単にハイそうですかと言って済ましていいものかとても疑問だからだ。たとえ口ではそう言っても、心の底ではまったく違うことを考えているなんてことは、人間を多少でも長くやっていればそれくらいのことは誰でも分ることだからだ。
「ところで、あなたのお父さんは今はどうされているんですか?」と、義母はさっそく自分の不安を払拭するためなのかどうかは分らないが、紫音に橘氏の近況を尋ねるのだった。
「確か父は、次の選挙の準備に入っているのではないでしょうか。詳しいことは分りませんが多分そうだと思います」
「なるほど、それじゃとても他のことに気を取られるなんてことはないのでしょうね」
「そうですね。私もこの前の選挙で父の応援に駆り出されましたが、もうほとんど休む暇もないくらいでしたから、とても他のことにかまけている時間などないと思います。それに今回の選挙は父にとって恐らく最後の選挙になると思われますので、前回以上に覚悟を決めて臨んでいるのではないでしょうか」
この会話から義母が何を得たのか分らないが、ただ言えることは、この誰も気にもしない問題に彼女だけが秘かに心を向けることになったのである。こうして二人の会話は、ずいぶんと違う方向に進んでしまったのだが、お互いそんなことはもうどうでもよくなったようで、とくに義母の方が新たな問題で頭が一杯になってしまい、もはやおばあさんのことなど忘れてしまったのではないかと思われたほどなのだ。
一方、紫音もここまで話しが脱線してしまうと、今さらおばあさんの言い分でもないだろうと思い、ちょうどいい雰囲気にもなっていたので、本来の目的である例の話しを済ませて、この会見を終わらせてしまおうと思ったのである。ところが、なかなかそううまい具合に事は進まなかったのだ。やはりおばあさんの突然の方針転換は、義母にとってそう簡単に承知するわけにはいかなかったからである。どうしておばあさんのやることは、いつもこうなんだろうとその自分勝手なやり方に、ここぞとばかりに不満をぶつけるのだった。とはいえ、紫音にしてみればこの決定は、彼女がおばあさんにお願いして決めたことなので、そこまで一方的におばあさんが責められてしまうのもなかなか辛いものがあったのだ。
「それなら明日その理由を説明してくれるんですね?しかし、いったい何を考えているんでしょうね。あなたのおばあさまは。でも、あなただってまさか何も知らないまま言付かって来たわけではないのでしょう?どうなんです?話せる範囲でいいですから、その理由なるものを教えてくれませんかね。事前にある程度のことを知っておきたいのです。だって、これ以上おばあさんの勝手なやり方に振り回されたくないからです。もうこの家は、おばあさんだけで成り立っているわけではないのですからね。以前にもそのことでおばあさんに言ったことがあるんですが、それがどういうわけか、まったく相手にもされなくて悔しい思いをしたのですが、できれば今度はこっちから何かおばあさんに注文を付けて見たいんですよ。どうです。この際ですから私に協力してくれませんか。あの偉そうにふんぞり返っているおばあさんの大きな鼻を、一度でもいいからへし折ってやりたいんです」
どこまで本気でそう思っているのか知らないが、こともあろうにおばあさん派の彼女に向かって協力を要請してきたのだ。紫音にしてみれば、義母の気持ちも分らないではないのだが、明日おばあさんが何を言うのかその内容までは正直に言って何も分らなかったことだけは事実なのだ。しかし、ここで義母の期待に無理に応えて何かそれらしいことを言ったとしても、恐らくそんな嘘はたちまち見抜かれてしまうだろうと思ったのだ。それなら何と言えばいいのだろうかと言うことになるのだが、それならもはや正直に知らないと言うしかあるまいと覚悟するのだった。とはいえどうも義母はそうは取ってくれないのではないかと心配するのだった。しかも、もしそれに対して何か言い訳をすることにでもなれば、どうもそうなる確率は大きいのだが、そうなるとまたしてもあの悪夢に悩まされることになってしまうわけである。
「お義母さん、明日おばあさまが何をおっしゃるのか正直にいって何も知らないのです。私もお義母さんのために何かしたいとは思っていますが、今回は残念ながらお役に立てそうにもありません。これは何も私の立場が言わせているわけではないのです。私はおばあさん派でも、お義母さん派でもないと思っているからです。むしろ、この家のために役に立ちたいと思っているだけなんです。ですから、どうかその辺の事情を汲んで頂き、できることなら、今回のおばあさまのわがままは許してやって頂きたいのです」
「仕方がないですね。あなたがそこまでおっしゃるなら今回のおばあさんのわがままは許すことにしましょうかね。でもまあ、あなたのような方がいてくれて本当に助かりましたわ。もし、あなたがいなければきっとこの家はもっとおかしくなっていたでしょうからね。というのもあなたがいるお陰で、何とか亮の野望も抑えられていると思うからです。でも、あなただってそういつまでも夫を押さえつけていられるもんでもないでしょうし。それにあの子はどういうわけか優柔不断なくせに、一旦こうと決めたら梃子でも動かないってところがありますからね。兄の卓とは違ってとても頑固なんですよ。それに、あの子は非常に他人の評判を気にするところがありますからね。そのくせ人からとやかく言われるのが嫌なんです。ですから、あの子のプライドだけはどうか傷つけないでやって下さいね。あの子はね、その辺がどうも一番の弱いところでして、むしろ持ち上げてやったほうがいいのです。煽てて怒る人間はそうはいませんからね。ですからあの時あなたのとった態度はちょっとやり過ぎだったかも知れないのです。でも、あなたの気持ちだけは彼も肝に銘じたのではないでしょうか。その点であなたは妻としての自分の立場をちゃんと示したってわけです。ですがこれからは決して上手に出て何かを言ってはいけませんよ。そこはどうかうまくやって下さいね。ああ、そうそう、危うく忘れるとこでした。何ですか禮子さんがあなたにとても大事な用事があるらしいのです。そのことをこの前頼まれましてね。こんな状態ですから、どうやってあなたに連絡したらいいのかと悩んでいたら、あなたのほうからわざわざやって来て下さったと言うわけです」
紫音も、義母からこういう話しを聞くだけでも背筋がゾッとして、すべてのことが徐々に縺れ始めて来たことを肌で感じずにはいられなかったのだ。義母がもし、おばあさんの心変わりを知ったらその時はいったいどうなるのだろう。恐らく義母は今度こそ堪忍袋の緒を切らし、それこそ家族全員を巻き込んだ骨肉の争いに発展するに違いないと確信するのだった。つまり彼女もそうなることをひどく恐れたわけで、いや恐れたというよりも、彼女の中ではすでに事件は始まっていたのかも知れないのだ。
翌日、予定通りおばあさんと紫音はもとの食堂に集まって、久しぶりの夕食の時間をみんなと一緒に過ごすことになったのだが、どういうわけかその様子がどうも普通ではなかったのである。まるで、これからパーティーでも始めるかのように、テーブルの上には所狭しと豪華な料理が並んでいたからである。するとおばあさんはすぐさまそこによからぬ意図みたいなものを感じ取ってしまったのだ。確かに、夕食にしてはこの豪勢な料理の数々はあまりにも不自然だからで、誰もがおばあさんと同じようなことを感じたとしても決しておかしくはなかったのである。言うまでもないことだが、これにはちゃんとした意図があり、つまり、おばあさんに注文を付けたいという昨日の予言をさっそく実行したというわけである。要するに、これからは自分のやり方に従って頂きますという強いメッセージがこの食事に込められていたというわけなのだ。しかし、そんなメッセージなどおばあさんに分るはずもなく、むしろ人をバカにしたような趣向に怒り心頭といった気持ちのほうが大きかったのである。
「しかし、いったいこれは何のまねですか?これから盛大なパーティーでも開くおつもりなんですか?まったく意味が分りませんね。律子さん。これはあなたがお考えになったことなんでしょうが、こんなことにいったいどういう意味があるのか、最初にそのことをまず伺っておく必要がありますね。それでなければこんな人をバカにしたような食事なんか、とてもじゃないが頂くことはできませんからね」と、おばあさんは、こんなやり方は断じて許してはいけないと思ったのか、返答によっては退室することさえ辞さない覚悟で、すっかり変わり果てた嫁の律子に強く抗議するのだった。ところが、この時の律子は、もはやそんなおばあさんの脅しなどお構いなしに、平然とした口調でこう言い返したのである。
「おばあさま。何もそんなに驚くことはありませんわ。これは何もおばあさまのためだけに用意したものではないからです。ですから何もそう興奮なさらずにどうか落ち着いて、みんなと一緒に食事を楽しんで頂きたいのです。だって、家族みんなが久しぶりに揃って食事をするのですからね。どうかおばあさまもその点をよく考えて頂きたいのです。ああ、どうやら息子達も間に合ったようです。さあ、どうかみなさんご自分の席に着いて下さいね。禮子さんはどうぞこちらにお掛けになって下さい」と言って、律子は、まずテーブルの上座におばあさんを座らせ、その隣りに紫音と亮を並ばせ、反対の席に自分と卓それに禮子を座らせるのだった。きっとこれも昨日のうちに考えていたことなのだろうが、まるで何かを暗示しているかのようなその席順に、みんなも何かよからぬ意図を感じずにはいられなかったのだ。
「今夜は、この柏木家が新しい門出を迎えたことを、みなさんと一緒に祝おうと思っているんです。というのも、この柏木家も新たな時代を迎えることになったからです。ようやく卓も結婚し、公私ともに充実した人生をこれから歩んで行くことを私だけではなく家族一同がそう強く望んでいるからです。いいですか卓さん、あなたはこの柏木家の将来を担う運命にある人なんですよ。あなたのほかにその大役を任せられる人はいないのですから。そこをよく考えて頂きたいのです。それには、もちろん家族の協力が必要です。でも、何も心配することはありません。禮子さんを始め、家族一同一致団結してあなたをサポートしていきますからね。おばあさんだって、そのことは十分ご承知のはずですし、こうして戻って頂けたということだけでも、そこに強いメッセージを感じることが出来るからです……」
「あなたのおっしゃってることがよく飲み込めないのですが。いったい何が言いたいのでしょうか?しかし、あなたもずいぶんと変わりましたね。驚いてしまいました。いったい何があったんです?新しい門出とはいったい何のことなんです?ご自分が何をおっしゃっているのかよく分かっているんですか?まったく呆れて物も言えませんよ。いいですか、あなたの真意が何なのかそれが分らないうちは、とてもじゃありませんがあなたと一緒に食事なんか出来ませんからね。どうやら私達の決断は間違っていたようですね」と言って、おばあさんは最後の言葉を隣りの紫音にソッと耳打ちするのだった。すると彼女は誰もが分るくらい顔を紅くしたのだ。とはいえ、それに気付いたのは反対側にいた三人だけで、亮とおばあさんは位置的なものもあり気づかなかったようだ。しかしそれとはまったく関係ないことだが、亮は亮で恐らく彼にしか分らない母親の変わりようにすっかり驚いていたのである。子供にとって母親というものは、生まれた時から知らず知らずのうちにその子の中で独特なイメージが作られて行くわけだが、彼の場合はちょっと変わっていて、どこかアンビバレントなものが非常に強かったのだ。彼にとって母親というものは、どうやら無条件に愛を与えてくれるものではなかったようで、どこか意地悪で依怙贔屓の塊のような、子供心にとってある意味最悪な存在だったようだ。もちろん母親にはそんな意識など少しもないのだが、それでも彼がそう感じている以上やはり何らかの影響は避けがたいわけである。彼の性格だとは思うのだが母親に対して何も言えなかったのである。というよりも言わなかったと言った方が正しいのだが、これが大きかったようだ。というのも彼はそういう母親を責めるのではなく、自分の気持ちをシャットアウトする方を選んだからである。そういう異常な少年期を過ごした彼は、父親の異常な教育に耐えながら何とか青年期を迎えるのだが、もうその頃になると彼にとっての母親は、この家での実態がよく見えていたので、かつての怨みがましい感情は姿を消して色んな意味で気の毒な人として見るようになっていたのである。というのも、やはり父親つまり彼女の夫との関係があまりにも悲惨だったので、かえって母親に同情をするようになっていたからである。それがこの瞬間、今まで持っていた母親のイメージがすっかり壊れてしまったのである。いったい今まで自分は何を見ていたのだろうか。あの夫とおばあさんに虐げられ、まるで奴隷のように扱われてきた、あの大人しい母親はいったいどこに行ってしまったのだろうか。彼もご多分に漏れず家のことにはまったくノータッチで、何が起こっているのか関心もなかったのだが、話しはどうやら彼の耳にも入っていたようで、母親とおばあさんとの間に何やら軋轢が起こったということだけは分っていたのである。しかし、女同士のそれも古典的な嫁姑問題などに、今さら首を突っ込むのもどうかと思っていたくらいだから、その詳しい内容を知ろうとさえ思わなかったのである。それがどうだ、目の前にいる母親は今まで自分の中にあったイメージとは完全にかけ離れた存在のようにアグレッシブに語っているではないか。『いったい母親に何があったのだろうか。あの暴君から解放されたことが彼女を一変させたとでも言うのだろうか。それは確かにあり得ることだが、でも、おやじが死んでからずいぶんと時間が経っているわけで、どうやらそれだけが原因ではないようなのだが。ということは、ひょっとして禮子の存在が彼女を刺激したというのだろうか。しかし、いったいどう刺激したのだ。まったく訳が分らんぞ。いや、昨夜おばあさんが言ってたな。自分に謀反を起こしたって。そうか、お袋にとっておばあさんはもはや邪魔な存在なんだ。そりゃそうだろう。今までさんざっぱらこき使われて来たんだから、もうそろそろ解放されたいと思ったっておかしくはないわけだ。ということは、ついに今夜その幕は切って落とされたってわけか』
彼も自分の母親のその変身ぶりに正直度肝を抜かれたわけだが、それ以上に何かとても厄介なものが新たに生まれたのではないかと恐れたのである。それは母親というものが、子供の頃から解決のつかない大問題として常に彼を脅かしていたからで、それがいきなりまるで亡霊のように彼の前に立ちはだかり、彼の行く手を遮るような態度をとって見せたからである。それがいったいどういうことなのか、もちろんまだはっきりとした説明は彼にも出来なかったのだが、それでも今の彼にとってそれは決して喜ばしいことではなかったことだけは、はっきりと直感できたのである。




