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紫音の約束   作者: 吉田和司


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 こうしたおばあさんの驚くべき発言は、さっそく二人に大きな影響を与えずにはいなかったのだ。確かに亮にとってみれば、これは大きな追い風になることだけは間違いないわけで、おばあさんの一言がそのまま通るわけではないが、なにせまだ隠然たる力は持っていたので、会社の首脳部もまったく無視するわけにもいかないことだけは確かだったのだ。こうなると反社長派としては戦略の見直しがぜひとも必要だと思ったわけである。というのも例の二人の上司がなぜか弱腰になっていてとくに篠田部長が木戸専務の策略にすっかりビビってしまい、もうこの計画から抜けたいと言ってきたからだ。この日も、そのことで大汗をかいてまで何とか抜けないよう説得に当たらなければならなかったのである。しかしこれでもう彼らを当てにする必要もなくなったわけで、無理に頭を下げてまでして引き留める必要もなくなったわけだ。こうなると彼も俄然強気になって来て、これからは堂々と自分の道を進めばいいだけのことだと、今すぐにも祝杯をあげたい気持ちになるくらい、すっかり有頂天になってしまったのである。

 一方紫音は、これは実にまずいことになったと正直おばあさんの決断にひどく落胆してしまったのだ。というのも、これで夫はおばあさんの後ろ盾を得たわけで、妻である自分がおばあさんの決断に逆らって、夫にそんな野望は捨てろとあからさまに言えなくなってしまったからである。となると夫の暴走はもはや到底自分の手に負えないものになってしまったわけで、彼女としてはただ黙って見ているよりほかに何も出来なくなったわけである。しかし、ここで彼女はまだ諦めるのは早いとあることに希望を持つのだった。というのも、このことはまだあちらの人達は知らないわけで、それなら予定通りに自分が禮子に何とかしてくれないかと頼めば、恐らく彼女のことだからあの遠慮のない性格で何とかしてくれるのではないかと思ったわけである。しかし今となっては彼女の神通力もひょっとして効かないかも知れないのだ。おばあさんという後ろ盾を得た以上、もはや誰が言っても馬耳東風ってことになると思われるからである。しかしなぜ、おばあさんは考えを変えたのだろうか。あれほど彼には社長になる資格はないと言っていたのに、どうして急に方針を変えたのだろうか。もちろんおばあさんにはちゃんとした考えがあるに違いないので、そのことをまずよく考えて見なければならないのだ。すると紫音はまずあることに思い至ったのである。これはきっと禮子に対する対抗策として、あえて夫を社長に担ぎ上げようとしたのではないかと思ったわけである。つまり禮子の力を削ぐために。弟が兄に代わって社長になれば、どうしたってこの家での勢力図は大きく変わるわけで、兄がこの家の当主であることに変わりはないとしても、実権が弟に移ってしまえば、その立場も極めて弱いものにならざるを得ないというわけである。当然、禮子の立場も同じように弱まることだけは確かだろうからだ。もしこの推理が正しいとすれば、おばあさんのこの家を守るという意味もそれなりに納得できるというものだ。しかし、もしそこまで考えているとすれば余程おばあさんは禮子を恐れているということになる。確かに禮子は一筋縄ではいかない女性だということは紫音もよく分かっていたのだ。だからといってそこまですることだろうか。かえって問題をこじらせてしまわないだろうか。いや実際にそうなっても決しておかしくはないのだ。そんなことになれば第一お義母さんはどう思うだろうか。きっと、おばあさんの仕打ちを快く思わないどころか本気で怒るかも知れないのだ。そうなると、ますますこの柏木家は今まで以上にひどい状態になるかも知れないと彼女は危惧するのだった。するとその時自分はあまりお義母さんとは親しくお話ししたことがないことを思い出したのだ。その事実はすぐさま彼女にある不安を呼び起こしたのだが、それはまた以前からずっと心に引っ掛かっていた問題でもあったのである。しかし彼女はすぐにそれは仕方がなかったのではないかと自分を慰めるのだった。というのも最初からおばあさんとの関係があまりにも強すぎて、義母とは成り行き上それほど親しむこともなくやり過ごして来てしまったからである。これは決していいことではなかったのだが、彼女の性格もあり何となくそうした関係のまま今に至ってしまったというわけである。でも、それはやはりこの家の嫁として決してやってはいけないことだったのだ。おばあさんとの関係がよければあとは何とかなると思うこと自体もってのほかだったのである。というのも、そうした歪な関係が結局ここにきて大きなつけとなって彼女の行動を縛ることになってしまったからである。『もっとお義母さんと親しくしておくべきだった。そうしていれば二人の間を何とか取り持つことも出来たろうに』すると突然、『そうだ、お義母さんに明日の食事のことを知らせておかなければいけなかったんだ』と、おばあさんとの約束を思い出し、さっそく二階の義母の部屋に行こうと思ったのだが、あの部屋のことはそれこそ夫から散々聞かされていたので、突然押しかけて行って大丈夫だろうかと不安になるのだった。しかしどうしても言付けだけはしなければいけなかったので、二階の義母の部屋の前までそっと近づくと恐る恐るドアをノックして名前を名乗るのだった。すると驚いたことに中から義母の落ち着いた声で、「どうぞお入り下さい」と言ってきたので、彼女もこれでは話が大分違うではないかと些か面食らってしまったのである。

 義母は丸いテーブルでこの前と同じように何か作業をしていたのだが、禮子の時とは打って変わって、紫音の顔を見るなり何の戸惑いも見せずにスッと立ち上がると、まるでいいところに来てくれたと言わんばかりにニコニコしながら、彼女を窓際にあるソファーまで案内するのだった。

「まあ、いったいどういう風の吹き回しなんでしょう。こんな所にわざわざやって来るなんて。でもよかったわ。実は私もね、あなたにお願いしたいことがあったんです。それが今こんな状態でしょう。どうしたらいいかって今も考えていたところなんですのよ。ところで、おばあさんは相変わらず元気にやっておりますか?私もね、どうしているんだろうって心配していたんですよ。だって今まで私がいなければ何も出来なかったんですからね。だから、あなたがいてくれて本当に助かったんです。だって、もしいなければきっとおばあさんは途方に暮れてしまったに違いありませんもの。で、ご用件は何でしょう?」

「実はおばあさまからお言付けがございまして、それをお伝えしようと思いましてお邪魔いたしました。でもその前にちょっとお義母さんにお話しておきたいことがあるんです。それは今回のおばあさまのしたことについてなんですが、どうかお義母さん、この家のためにもおばあさまのしたことを許してやって頂きたいのです」と、何を思ったのか、いきなり紫音は義母に許しを請うたのだ。ところが義母はこうした彼女の振る舞いに、まるで何が言いたいのかよく分からないといったいかにも怪訝そうなまなざしで彼女を見つめたのだ。紫音はそれを見て、これはきっと自分に対する正直な気持ちなんだろうと思い、かえって自分の出過ぎた振る舞いに顔を紅くするのだった。

「いきなり驚かせてすみませんでした。実は、きっとお義母さんも、おばあさまのやり方に呆れているんじゃないかって思ったもんですから。つい勝手なことを言ってしまいました。実を言いますと私も最初おばあさまのやり方に正直ついて行けなかったんです。何でここまでのことをするのか疑問に思ったからです。でも、おばあさまからお話しを聞いて、すべてを納得したわけではありませんが、おばあさまの言い分は何とか理解することができました。でも、それだけでは本当のところはよく分かりませんからね。だって、お義母さんにも言い分があるでしょうから。そこでどうでしょうか、ぜひともお義母さんの正直なお気持ちをお聞かせ願えないでしょうか?だって、いつまでもこんな状態のままでいいわけがないからです!」

 正直なところ、彼女はいったい何をしたいのかよく分からないのだが、その言葉から察するに、どうやら何とかして二人の関係を改善させようとしているのではないかと思われるのだった。

「まあ、どうか落ち着いて下さいね。あなたのお気持ちも分らないではありませんが、私もね、こんな状態がいいとは正直思っておりません。あなたはどうやら私の言い分が聞きたいようですが、私には別にこれといって申し上げるようなことは正直何もありませんのよ。だって、すべてはおばあさんが勝手にやったことですからね。私はただそれを黙って見ているだけでして、別に何の言い分も思い付きませんし、たとえ思い付いても言いたくもないのです」と、どうやらあちらにすべての責任があるというのが義母の一貫した言い分のようだ。

「でもまあ、あなたがどうしてもって言うなら私だって考え直してもいいですが、でもその前に、ぜひともおばあさんの言い分なるものを聞いてみたいもんですね。おばあさんがあなたに何を言ったのか。それをあなたがどう理解したのか、そのことをまず知っておきたいのです。そうでないと私の言い分もきっと当たり障りのない、どうでもいい話しに終始することになると思うからです」

 しかし、たとえそうだとしても紫音は正直とても迷ったのだ。もし自分があからさまにおばあさんの言い分をここで話してしまったら、それこそ義母を震え上がらせてしまうことだけは確実だからだ。そんなことは口が裂けても言えるものではないことくらい彼女だって分っていたのだが、彼女の性格上なかなかそうはいかないのがどうも厄介なところでもあったわけである。つまり、そうなるとこっちもなるべく当たり障りのないようにアレンジして話すことになるわけだが、しかしそんなことは彼女にはまったく考えられないことだったのだ。でもこうなってしまった以上、その考えられないようなことをしなければ、この難局はとても切り抜けられないだろうと思ったのである。『しかし、そうするとこれはどう考えても自分は嘘をつかなければならないと言うことなのだろうか』そりゃ、彼女だって、今まで一度も嘘をついたことがないわけではなかったのだが、こんな大事な時に、それも何かと引け目を感じている義母に向かって、どうしたら納得させるような嘘がつけるのか、そんなことはとてもじゃないが自分には出来るわけがないと彼女もそのことだけはよく分っていたのである。『ああ何でこんなことになってしまったのだろう。これこそ過去のつけがそのまま自分に跳ね返ってきた証拠ではないか』と思うのだった。彼女はしばらく放心したように黙ってしまったのだが、決して怖じ気づいたわけではなかったようだ。かといって開き直ったと言うわけでもなく、この間の夫を叱り飛ばした時とは違って何だか恐ろしいくらい心は静まり返ってしまったのである。とはいえ、これから自分が何を言うつもりなのか、正直それすらはっきりとは分っていないまま、それでも何かを言わなければならないというかなり危なっかしい状態の中、もはや自分を信じてやってみるしかないと、ようやく決心した彼女は静かに口を開くのだった。

「どうか、お義母さん。これから私が言うことに驚かないで頂きたいのです。きっと、お義母さんは、私とおばあさまの関係にあまりよい印象は持っていなかったのではないでしょうか?いえ、これは何も変な意味で言っているのではありません。それは当然そう思われても仕方がないと思われるからです。というのも、私の至らぬせいで、お義母さんとの関係が疎かになり、それが今になってもまだその状態が続いているのではないかとずっと気に掛かっているからです。今回のことでも、私がもっとちゃんとお義母さんとの関係をしっかりと築いていれば、きっと二人の仲を取り持つことも出来たろうにと今さらですが思ったりしていたのです」

「あなたがそんなお気持ちでいたなんて今の今までちっとも知りませんでしたが、でもね紫音さん。あなたは別に何も悪くなんかありませんよ。いや確かに、そんなことをいきなり聞かされては、こっちだって驚かないわけにはいきませんけどね。それにしても本当に感心してしまうわ。あなたがそこまで私のことを考えてくれてたなんて。でもね、そんなことは別に気になさる必要なんかちっともなかったんです。私は、あなた達の関係を別に変に思ったりなどしませんでしたし、むしろおばあさんに気に入られてよかったとさえ思っていたくらいでしたからね。だって、あの気難しいおばあさんに最初から気に入られるだけでも大したことなんですから。だから、私もそのつもりであなた達を見ていたんですが、時々あなたの疲れたような顔に出会ったりすると、あなたのご苦労が手に取るように分かって、かえって気の毒にさえ思っていたくらいなんですからね。ですから、あなたが私との関係をそこまで考えて下さったことはとても嬉しいのですが、でも最初からあなたには多くを求めていませんでした。だって、あのおばあさんと付き合うだけで、どれくらいエネルギーを使ってしまうか私はそれを嫌と言うほど経験してきましたからね。ですからこれからは、そんなことで一々気を遣うことはやめて、今まで通りおばあさんをやさしく見てやっていて下さいね」

 すると、今まで抱いていた義母に対するわだかまりが一瞬にして消えてしまったのだ。もうそうなると彼女の心は一気に感動で溢れ、義母の話しを聞いている最中からすでに涙が溜まりかけていたのだが、もはやそれを押し止めることも出来なくなり、次々と大粒の涙が両の瞳からこぼれ落ちるのだった。

 こうして、しばらくはお互いの気持ちを労るように黙ってしまったのだが、紫音はそれでもその生真面目な性格から、これからどうのようにしておばあさんの言い分を話したもんだろうかと考えずにはいられなかったのだ。彼女は義母がそっと差し出したハンカチで涙を拭きながら、こんないいお義母さんにこれから自分は嘘をつかなければならないのだ思うと、果たして自分は正しいことをしているのだろうかとどうしても考えてしまうのだった。なにせこんな思いで苦しむことなど生まれて初めてのことだったので。

「きっと、お母さんも口では言えないご苦労をたくさんなさっていらしたのでしょうね」と、別に意図的に話しを避けたわけではないのだが、やはり嘘をつきたくないという気持ちがあるので、どうしても違う話題に逸れて行くのだった。

「それはもう、うんざりするくらいありました。あなたのような方には聞かせなくないようなことも実際ありましたからね。でも、もうそういうことは今の時代にはとても通用しないかも知れませんね。恐らく、今の若い人達にはとても耐えられないと思うからです。世の中がすっかり変わってしまいましたし、それにこの家だけの特殊な事情もあるでしょうし、あなた達若い人に同じようなことをして果たして意味があるのかとても疑わしいからです。やはりこれからはもっと私達女も変わっていかなければならないと思っているんです。そうは思いませんか?私はね、この歳になってなぜかそういうことを思うようになったんです。おかしいでしょう?でもね、ついこの間も禮子さんに同じようなことを話したら、ひどくうなずいてくれましたよ。あの方も最初は何だか取っ付きにくい人だって正直思っていましたが、実際は全然そんなことはなかったんですっかり安心してしまいました。ああ、そんなこと一々説明しなくても、あなたはよくご存じでいらしたわね。でも最初は、卓には似合わない人だってことは正直思っていたんです。ですが実際はまったく違っていましたし、息子もとても頼りになる人だって喜んでました。ところで、あの方は、あなたのお父様と婚約していたことがあったんですって?」と言って、義母はいきなり思いも寄らない話しを紫音に振ってくるのだった。こういう話しの進め方は女の会話ではごく普通に起こることで、紫音も驚くには驚いたのだが何も変だとは思わなかったようだ。こうなるともはや、さっきまでの緊張したやり取りなどどこかに行ってしまい、まるで二人して世間話に興じているような感覚になるのだった。とはいえ彼女にしてみれば、正直父親のことなどあまり話したくはなかったのだが、そうも言ってられないという事情もあり、この際義母の意に添うべきだと判断するのだった。

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