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紫音の約束   作者: 吉田和司


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 禮子はさっそくこの話しを紫音に頼まなければならなくなったのだが、なぜかことはそう簡単にはいかなくなってしまったのだ。というのも気が付いたら彼女とまともに話すことすらままならない状況になっていたからである。どうしてそんなことになったかと言うと、二人の母に異変が生じたからだ。いわばそのあおりを食ったというわけである。一つ例を挙げれば食事で、禮子が結婚してしばらくは家族一緒に食堂で食事を取っていたわけなのだが、それがある時から別々に食事を取るようになってしまったからである。つまり兄夫婦とその母、弟夫婦とおばあさんといった具合に。それを最初に決めたのはおばあさんだったが、その原因を作ったのは母親の方だったのだ。なぜそんなことになったかというと、ありていに言ってしまえば嫁として長年ため込んできた鬱積がここに来て一気に破裂したからである。つまり、この母親にしてみれば長いことこのおばあさんに黙って従って来たわけで、もういい加減自分というものを出しても、今の立場なら許されるのではないかと思ったわけである。というのも自分の息子がようやく結婚して、この柏木家の正当な跡継ぎとして働くようになった以上、その母親である自分がどうして今まで通り影の存在でいなければならないのか、当然そういった反省がこの母親にも生じたわけである。しかしそうなると、この突然自我に目覚めた母親は、もはや今までの生き方では満足できなくなって、これからは自分がこの家のすべてを取り仕切るという、今まで思いもしなかった一種の権力欲に目覚めたというわけである。するとおばあさんは、そういう嫁の心境の変化にある種の危機感を覚え、それを牽制するためかどうかは定かではないが、一緒の食事を拒否するというまことに唐突で不可解な行動に打って出たというわけである。

 おばあさんは、孫の結婚によって、ようやく死んだ息子に対する責任が果たせたと喜んだわけで、これで後は柏木家の繁栄がこれからも続いていくことが、おばあさんにとっては何よりも大事なことになったわけである。それには禮子がこの家のためにしっかりとその責任を果たしてもらわなければいけなかったのだ。おばあさんは彼女を信じたからこそ二人の結婚を許したわけで、何も好き勝手に振る舞っていいなんて言った覚えはなかったからである。そこがどうも、おばあさんの考えと違っていたのではなはだ気に入らなかったのだ。とくに気に入らなかったのが、なぜか知らないが自分を完全に無視しているような行動を取っているように見えたことである。いったいこれはどういうことなんだろうと、おばあさんも彼女の様子を黙って観察して分ったのだが、嫁の律子が禮子を手なずけようとして色々と画策していることに気が付いたのだ。つまり今まで影のように従順だった彼女が、禮子を手なずけることによってそういう立場から抜け出し、もはやおばあさんを頼らなくてもいいような存在になりたいと思い始めたのではないかと思ったのだ。恐らく今までは息子が結婚していなかったので、そこまで強気にはなれなかったのだろう。それが正当な跡継ぎとしての息子が結婚し、その嫁が自分をこの家の正当な主人(あるじ)として認めるようになれば、もはや何の障害もなくなるとこの母親は考えたに違いないと、おばあさんはそう結論づけたわけである。それからというもの、あれほど穏やかだったこの家の生活に不穏な空気が流れ始め、それが二人の若い嫁たちの行動にも少なからぬ影響を与えていたのである。

 とくに紫音は、今でもおばあさんの勢力圏に取り込まれたままだったので、なかなか自由に行動することもままならなかったのである。彼女としては何とか禮子に会って、夫のことで相談したかったのだが、どうもおばあさんの様子が明らかにおかしかったので、というのも、時より禮子のことでぶつぶつ文句をいったり、しきりに義母に対する不満を口にするようになっていたからだ。そういうわけで、彼女としてもしばらくは軽率な行動は控えた方がいいのではないかと思ったのである。それがある意味よかったというか、いや彼女にしてみればちっともよくはなかったのだが、あろうことか、それからしばらくして、あちらの人達とは関係を絶つと、突然紫音に向かって宣言したからである。つまりあちらの人達というのは義母と兄夫婦のことで、紫音もそれがどういうことなのか、その意味を知りたかったので、思い切っていったいなぜそんなことをするのかとおばあさんに聞いてみたところ、おばあさんは、この家を守るためだ、と言って紫音を驚かしたのだ。いったいこの家の何をおばあさんは守ろうと言うのだろうかと彼女も正直困惑するばかりで、これでは自分の夫の心配どころではなくなり、この突然のおばあさんの暴走にただただ呆れるばかりだったのだ。

 こうして始まった嫁姑戦争で一番困ったのは、お互いの生活圏が同じ家の中にいながら完全に別れてしまったことである。その中でもろに影響が出たのが食事だったのだ。今までは同じ食堂で一緒に食事を取っていたわけだが、嫁の造反に対抗するかのように、さっそくおばあさんは家の離れを食堂に造り替え、そこで弟夫婦と食事を取ることになったからである。この時一番泡を食ったのは家政婦で、いったい自分達はこれからどうすればいいのだろうかと戸惑ってしまったのである。二人一緒に仕事をすべきなのか、それとも別々に別れてお世話すべきなのか分からなかったからである。もちろんどっちでも構わなかったのだが、それでも長年この家で働いて来た関係で何となく好みのようなものができていたらしく、一人は兄夫婦のところへ、もう一人は弟夫婦へと自然と別れていったのである。一方、禮子はと言うと、義母がこの家でどのような生活を送っていたのかまったく知らなかったし、興味もなかったので、今まで頓着なくかなり自由に暮らしてはいたのだ。ところが最近この家の様子がどうもおかしいと、つまりどうしていきなり食事を別々にするようになったのか、彼女もやはり疑問に思ったわけである。そこでさっそく夫に、どうしておばあさん達は別な所で食事を取るようになったのかと聞いたところ、彼は一瞬顔を曇らせてはみたものの、彼女のこれからのためにも言わなければならないと思い、いきなり母親の心情を切々と語り始めるのだった。要するに自分の母親がこの家でどれくら自由を剥奪されてきたか、その歴史を語って聞かせたわけなのだ。ところが彼女もいったいそれが今回のこととどう関係しているのかと、最初は怪訝そうに聞いていたのだが、次第にどうしてこのような仕儀に至ってしまったのかそれがよく分ったのである。この母親にしてみれば、ここに来てようやく自分の時代が到来したのだと思ったのだろうし、彼女にしてみれば、ごく当然のことを主張しただけに過ぎなかったとも言えるからである。禮子もそういう話しを聞いて、義母の生き方にとても強いシンパシーを感じ、遅ればせながらも自分の人生を生きようと、強く決心した女がここにもいたんだと思いとても感激したのだ。しかしおばあさんからすれば、それはあまりにも自分を知らない出過ぎた行為だと思わざるを得なかったわけである。いったい彼女は何を思い違いしているのだと、おばあさんにしてみればそう言いたくもなるわけだ。というのも、おばあさんにはまだ見届けなければならないことがあったからである。それは禮子がこの先、この柏木家をどのような形にしていくのか、それを見届けるという一番大事な仕事が残っていたからである。そのためにはまだ現役で自分の存在を示す必要があったからだ。禮子のような女は、よほどこっちがしっかりしていないと、それこそ、いいようにされてしまう恐れがあったからである。おばあさんには彼女がどのような女かよく分っていたのだ。とてもじゃないが嫁の律子には、彼女を思い通りに動かしていく力などないと見抜いていたし、反対にうまく操られてしまうのが落ちだと見ていたからである。確かに二人は傍目(はため)には仲良くやっているように見えたが、おばあさんの目には禮子にうまくしてやられているとしか見えなかったのだ。恐らく、禮子にとって相手がどう考えていようと、そんな考えに惑わされずに相手の心を操ることくらい何でもなかったからだ。それは長年の客商売で嫌でも鍛えられて来たからで、その気になれば姑をうまく操って、自分がこの家の主人に収まることくらい、やろうと思えば簡単に出来たに違いなかったからである。そこまで、おばあさんは読んでいたのだが、だからこそ、そうならないように今から彼女を教育し、この家にふさわしい嫁にしなければならないと色々と考えていたわけなのだ。そういうこっちの苦労も知らずに、よくもまあ出来もしないことをやろうなんて思ったもんだと面と向かって言ってやりたいくらいだったのだ。こんなことでは、この柏木家の将来も実に危ういと考えずにはいられなかったのである。いったいこの嫁の反乱をどうしたらいいだろうと、おばあさんもさすがに頭を悩ますのだった。一方、禮子は、おばあさんとは違ってかなり好意的に義母のことを見ていたわけだが、それでも、こんな状況がいつまでも続いては自分の仕事にも差し障りが出てしまうので何とかしなければならなかったわけである。そこで話しだけでも聞いてもらおうと思い、さっそく二階の義母の部屋まで出掛けて行くのだった。

 その部屋は、もともとは夫の部屋だったのだが、死後そのまま彼女が使っていたのである。そこは、このやしきの中でも格調のある一番いい部屋で、大きな庭が一望できるバルコニーもあり、晴れた日の夕暮れ時などは、そこで椅子に腰掛けながら物思いに耽ることもあったようだ。彼女がなぜ夫の部屋を自分の部屋として使うようになったのか、その理由については誰にも明かさなかったのでよく分からないのだが、恐らく人に言っても分ってもらえないような理由がそこにあったのかも知れない。ところが、この部屋にまつわることで家族すら理解しがたいことが実際にあったのだ。それはこの部屋に誰も入ることを許さなかったという事実である。それについては家族たちも不思議がっていたわけで、どうしてそんなことをするのか最初は好奇心から何度か聞くこともあったのだが、そのたびに母親も話すことを拒否するかのように黙ってしまうので、そのうち気の毒に思われてきたのか謎は謎のままそっとして置こうと聞くこともなくなったようである。

 禮子は静かにノックすると、しばらく何の反応もなかったので、いないのかと思い、「お義母さん、禮子ですけど入ってもよろしいでしょうか?」と、一応名乗ってドアを開けたところ、部屋の中央にある丸いテーブルで何か作業でもしていたのか、ただ顔だけこの突然の闖入者に向けたまま見事に固まっていたのだ。それでも顔の表情から非常に驚いていることだけはよく見て取れたのである。とはいえ、何でそんなに驚くのか彼女としても理解に苦しむわけで、これはきっと、いきなり押しかけて来たのが気に障ったのだろうと、最初はそう思ったのだが、どうもそんな単純なことではなさそうだとそう思わずにはいられなかったのである。彼女としても、このままでは何か非常におかしなことになりかねないと思ったので、何とか義母の驚きに対処するために、こっちはこっちで相手の事情など完全に無視して、あたかも二人の間には正常な関係が出来ているかのように、いかにも落ち着き済ました顔でこう言ったのだ。

「お義母さん、ちょっとお話ししたことがあるのですが今よろしいですか?」すると義母は、「ああそうなの、ええもちろんいいですけど、いったいまあ、いきなりどうしたんです?」と、しどろもどろではあったが、こう言って心の動揺に何とか対処しようとするのだった。それにしてもこの意外な嫁の襲来は義母にとってとても衝撃的だったのだ。というのも当然この部屋のことは承知していると思っていたからで、そのことがなおさら彼女の驚きに拍車を掛けてしまっていたからである。しかし彼女だっていつまでもバカみたいに驚いていたわけではなく、この予想外な出来事をどう解釈すべきか冷静に分析してはいたのである。断っておくが確かにこの部屋には誰も入れたくはなかったのだが、別に入りたいと思う人もいなかったのだ。だから禮子が突然やって来たということは、そこに新たな意味が生じたということにもなるわけである。つまりこの強引な侵入は、義母にとって思いがけないチャンスが到来したということでもあるからだ。なぜなら、彼女との関係が、この家の将来を占う上で一番大事なことだったからである。この一癖ある嫁とどうしたらうまく付き合っていけるのか、そのことが彼女にとって一番の悩みだったからである。というのも彼女はこの嫁のことを正直に言ってとても恐れていたからだ。もちろん、まだはっきりとそうだと認めたわけではないのだが、ただ何となく弱気になったり強気になったりと、要するに、まだそういう感情とうまく折り合うことが出来ていなかったのである。つまり、姑として彼女とどう付き合っていくかという、その辺のさじ加減がまだよく分っていなかったのだ。あまり厳しくするのもダメだろうと思っていたわけで、やはり彼女の性格を思えば自分がこの家で経験した通りのことを教えても、それは通用しないことくらいは想像できたのだ。とはいえ自分の方針には従ってもらわなければならないので、そこんところをどうするかが一番の悩みどころだったわけである。かといって、あまり媚びてしまうのもどうかと思ったのだ。で結局それはこうしたらいいと言うより、もはや自然に任せて行くのが一番いいのではないかと、この姑は賢明にもそう思うことにしたのである。

「実は、亮さんご夫婦のことで、ちょっとお聞きしたいことがあるんです」

「何かと思えば、いったいあの二人がどうかされたんですか?」一応平静を装ってはいたのだが、いったい彼らの何が聞きたいのだろうかと正直不安ではあったのだ。

「いえ、大したことではないのですが、ただ、このところ紫音さんの姿が見えないもんで、いったいどうされたのかとちょっと心配になりましてね。それで、お義母さんなら何か知ってるのではないかと思いまして……」

「いえ、まったく知りませんよ。恐らく、あちらにはあちらのご都合があるんじゃないんですか。あたしには何も分りませんが」と、まるでこうなったのは自分のせいではないってことを、まずははっきりさせておきたかったようだ。

「でも、お義母さん。この間、亮さんとは珍しくリビングでお話ししたんですよ。その時に聞いておけばよかったのですが、いえね、彼女にどうしても頼まねばならない緊急の用事が出来てしまったもんですから。それがなぜか知りませんがすっかり姿を見せなくなったもんで、いったいどうされてしまったんだろうと心配になって。確かに、あちらのご都合もあるのかも知れませんが、それにしても、いったいどんなご都合があると言うのでしょうか?だって、同じ家に居ながら姿が見えないなんて、どう考えてもおかしいからです。お義母さんに、こんなことを聞いていいのかどうか迷ってしまいますが、でも他に聞く人もいませんのでお聞きしますが、どうしてあちらの方々は別な所で食事を取るようになったんでしょうか?あたしもね、この家の嫁として突然こんなことになってとても心配しているわけなんです。というのも、ひょっとして、あたしが至らないせいでおばあさんを怒らせてしまったんじゃないかってね。いや冗談ではなく、真剣にそう思ったんです。これはあたしの性格でして、どうも自分でも知らないうちに人を怒らせているようなところがあるからなんです。今回もひょっとしてそれが原因じゃないかって心配しているんですよ……」どこまで本気でそう思っているのかはさておき、それでも相手の気持ちを引き出すために、まずは自分に落ち度があったのではないかとへりくだって見せたわけだ。

「あなたに落ち度なんかあるわけないじゃありませんか。すべては、おばあさんが勝手に決めたことなんですよ。一体全体何が不満で、こんな訳の分らないことをしたのか、こっちもまったく理解に苦しんでいるんです。でもね私としてはこのままずっとご自分の部屋で大人しくしていて頂ければそれに越したことはないと思っているんですよ。まあ、これからの柏木家のことを考えれば、私としては、その方がいいと思っているくらいなんです。しかしまあ、そうはいってもこれからどうなるのか予断は禁物ですから、なるべくこちらからは波風立てないよう静観していた方がいいと思っているくらいで、あなたには何かと不便をお掛けして申し訳ないのですが、どうかしばらくは、あなたも無理な行動だけは控えて下さいね。あちらに不用意な言質を与えないためにもね。どうかお願いしますよ。ですから、あなたもあちらの方と何かお話ししたくなったら、まずこの私を通して下さいね。よろしいですか。まったく同じ家に居ながらこんなことになってしまってほんとうに申し訳ないのですが、もとはと言えば、あちらが勝手に決めたことですからね。仕方がありません。しばらくの間辛抱して頂くしかないのです。で、あなたに一つだけお願いして置きたいことがあります。こんなことになって、あなたもきっと迷惑に思っているでしょうが、これからは、すべてこの私がこの家を取り仕切っていきますので、どうかあなたもそのおつもりで、この私をこの柏木家の主人と思って付いて来て頂きたいのです」

 さすがに禮子も、そんなことを自信ありげに言われては、もはやうなずくしか仕方がないではないかと思ったのだが、しかし、ここで下手に立ち回っては何もかも台無しになるので、ここは大人しく恭順の意を示しておこうと、とりあえずこう言って安心させたのだ。

「もちろんですとも、お義母さん。あたしはお義母さんのために、また、この柏木家のために喜んで自分の責任を果たして行きたいと思っております」

「で、その緊急の用事とはいったい何なんです?」この時、義母は義母で自分の大胆さにすごく驚いていたのだ。というのも、どうしてこんな思い切ったことを彼女に向かって言えたのだろうかと。

「それが、とんでもなく厄介な用事でして、お義母さんもたぶんご存じだとは思いますが、どうやら亮さんが暴走し始めたようなんです……」

「暴走ですって?いったい亮が何をしたというのですか?」

「どうやら会社のゴタゴタに乗じて、夫に詰め腹を切らそうとしているようなんです」

「詰め腹を?ああ、なるほどそうですか。そのことでしたら、何時でしたか本人がみんなの前で、会社の業績が悪いのは卓のせいだと、何かそんなことを言ってましたね。どこまで本気でそんなことを言ったのかよく分りませんが、で、そのことと紫音さんの用事にはどんな関係があるんです?」

「実はとても重要な関係がありまして、というのも、この間、会社の上層部のある方とお会いしまして、その時あることを頼まれたからなんです。それがまた実に厄介な頼み事でして、それが今お義母さんがおっしゃった、彼がどこまで本気なのかそれを探って欲しいという頼み事なんです」

「探るって、あなたがですか?」

「いや、あたしではなく紫音さんがです」

「いったい、またなぜ?あの子にそんなことが出来るとはとても思えませんが」

「いえ、あたしはそうは思いません。彼女だからこそ出来ると思うからです。お義母さんも紫音さんの性格はよくご存じのはずです。彼女にしてみれば自分の夫が、そんな実の兄を蹴落としてまで社長の座になんか座って欲しくないと思っているに違いないからです。彼女は、きっとそんな夫の野心を快く思っていないはずです。ですから、恐らく彼女は喜んでこちらの頼みを聞いてくれると思っているんです」

「でもね、彼女にそんな探偵まがいなことが出来るのでしょうか。いくら自分の夫とはいえ相手は亮ですよ。あの子はね、とても用心深くて神経質な男ですからね。自分の妻にスパイのようなまねをされるなんて、いったいどんな気持ちなんでしょう。そんなことをするくらいなら一層のこと彼女に説得させたらいいと思うのですが。私としては、そうした方があの子のためにもずっといいと思うのですが」

「でも、もし説得が失敗してしまったら、彼のことですからますます暴走するかも知れませんよ。それに会社の本音は説得ではなく、どうやら亮さんの本心が知りたいことのようなんです。そうした方が会社のためにも亮さんのためにもいいとかで」

「でもね、彼女にそんなスパイのようなまねなんかさせて、それがもしバレたらそれこそタダでは済まなくなるんじゃありませんか?そんな危ないことをするより、お互い腹を割って話しあった方がずっといいと思うのですが。だって彼女はああ見えてとても肝がすわってるからです。あなたはご存じないと思いますが、あの子はみんなの前で亮を叱って見せたんですからね。それは見事なものでしたよ、会社の業績が悪いのなら、そんな兄の足を引っ張るようなまねなどしないで、どうしてもっと協力しないのかってね。それはみんな驚いていましたよ。でも妻としてもう少し違った言い方もあっただろうとは正直思いましたけどね。でも、その後がいけなかった。おばあさんが亮のことを彼女の付属品だとかいって笑いものにしたからです。まったく何でそんな余計なことを言うのでしょうか。そんな挑発するようなことを。私はね、その時とても嫌なものを感じました。あの子がそれをどんな気持ちで聞いたか、それを思うととても嫌なものを感じたのです。だって亮はもともと、そんな兄を出し抜いてまで自分の野心を遂げたいと思うような子ではなかったんですから。それはもう秩序を乱すようなことが大嫌いで、家族のためなら、たとえ自分が損してもそれに従うような子でしたからね。そんな子がどうして、そんな大それた野心など持ったのか、それが不思議で仕方がなかったんですよ。でもまあ、人間なんてある環境に追い込まれれば、どうしても変わらざるを得ないものでしょうからね。あの子も彼女と結婚して色んな面で変わらざるを得なかったのかも知れません」

「それはあるかも知れませんね。男というものは、女によってずいぶんと変わってしまうことがあるからです。あたしも、そういう人を何人か知っていますよ。まあ悲惨な人生を送る人もいれば、幸せに結婚生活を送る人もいるわけで、なかなか難しいところですが、ある男の人は、あまりに頭のいい女性と結婚したばっかりに、ずいぶんと無理な生活を強いられてしまったようなんです。あまりにも自分が惨めに思えてきて仕方がなかったからです。なぜなら男としてのプライドがありますからね。知的に優れていても、心がそれに見合っていればいいのですが、なかなかそんなうまい具合にはいかないものでね、とくに女はね。でも、紫音さんは別にそういうタイプの女ではないように思えるのですが」

「まあ、傍目にはそう見えますね」

「ということは、お義母さんも何か思い当たるようなことがおありなんですか?」

「いえ、そういうことではなく、女というものは、自分でもよく分らないでそうしてしまうところがあるじゃありませんか。無意識に男を煽ったりしてしまうようなことが。本人は何も悪気などまったくないのに、男にとってはそれがとても我慢できなかったりしてね」

「お義母さんもきっと色々ご苦労されて来たのかも知れませんね」


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