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今まさに二人の女が、柏木家という今まで考えもしなかった新たな場所で、以前から何かと問題を起こしていた夫の亮のことで、話し合いを持とうしていたわけである。これは紫音にとってはもちろん、ある意味禮子にとっても極めて重要なことでもあったのだ。というのも、それは今現在起こっている問題を抜きにしても、重大な意味を持っていたと言えるからである。考えて見ればこの二人の女にとって、この亮という男はそれくらい因縁のある何とかしなければならない男でもあったからだ。といって何もこの男が特別な人間だという意味ではなく、いやそれどころか何処にでもいるような男ではあるが、それでも彼女たちにとってはある意味特別な存在だったとそう言ってもよかったからである。それはどんな人間にもその人固有の運命といものがあり、それに沿ってすべてが動かされているからである。これは誰にでも起きていることなのだが、誰もそのことには気付かないままその運命に従って生きているわけなのだ。まったく夢のようなことを聞かされているように思われるかも知れないが、まさしくこの現実は夢と直結しており、それは常に表裏一体となって我々の生活に影響を与えているからである。いわば夢が無意識の表現なら現実は意識の表現だと言ってもいいわけで、この二つが揃ってこそ人間の魂は活動することが出来るからである。我々は何もこの現実の世界だけで生きているわけではないからだ。我々は夜になれば夢の世界でちゃんと生きているわけである。むしろ、そっちの世界の方が本家かも知れないのだ。もちろん我々の傲慢になった意識はそんなことは認めないだろうが、しかし人間の真の営みは意識など無視して日々その確かな足取りで自分の運命を生きているわけである。もちろんそんなことは意識の与り知らぬことなので、我々は夢のことなど無視して日々暮らしてもちっとも困らないわけである。しかし我々がこの世に生まれてきたという不可解な事実はいったいどう説明できるのだろう。もちろん誰もそんなことで頭を悩ますなんてことは恐らくないだろうが、それでもこの世のすべての問題はこの不可解な事実から始まっているのである。
ところが驚くべきことに、この二人の女は、誰も悩まないその不可解な事実にひどく苦しんでいたわけである。もっとも本人たちはまだはっきりと認識していたわけではないのだが、それでも何となく自分の存在の奇怪さに驚いてはいたのだ。とくに禮子などは自分の生き方に真剣に疑問を持つようになっていたからである。確かに彼女のような女にとって、それはまったく意外なことだと思われるかも知れないが、実際に彼女は何を信じて生きて行けばいいのかまるで分らなくなっていたからだ。今回の結婚にしても、彼女にとってみればそこには何の必然性もなかったわけである。例えば結婚に必要だと思われている、愛とか嫁姑問題とか社会的な地位とか、そういった世間的に通用している一般的な常識こそ一番信じられなかったからである。それなら何のためにこんな結婚などしたのかという疑問が残るのだが、それこそ彼女自身が一番知りたかったものかも知れないのだ。もっとも他人は何とでも言うわけで、亮にしろ橘氏にしろ、いろいろと勝手に自分の考えを彼女に投影しては自分で勝手に苦しんでいたわけなのだ。しかし彼女のこうした傾向は何も今に始まったことではなく、恐らく子供のころからそうした傾向があったようで、両親の生き方がその傾向に一層の拍車をかけてしまったといってもよかったからである。
彼女の両親は二人ともかなり裕福な家庭で育ったこともあり、その生き方もやはりご多分に漏れず、社会的通念に従って一流の大学を出ることが人生で勝ち抜くための必要条件だと考えていたわけである。そういう路線の行き着くところは、やはり夫の出世が何よりも一番大事だと考えるようになるわけで、それ以外の生き方などおよそ考えることもできなかったのである。つまり彼らの人生はもはや他に変えようがなかったわけで、禮子も幼少の時からそのような環境にどっぷりと浸かりながら成長していったわけである。父親はご存じの通りキャリア官僚として、前例という法律よりも強固な形式で何事も決めていくという環境の中、まるで機械のように正確に、間違いなど決して犯さないことを前提に行動することが何よりも求められていたわけである。父親もそれを当然と思いながら生きてきたわけで、おのずから家庭でも人間が元々持っているいい加減さなどまったく認めようともしないで、そのガチガチに凝り固まった生き方が、その家庭の中にも深く浸透していったわけなのだ。そうした父親の生き方が、禮子のような鋭敏な女性にどのような影響を与えたのか、それは彼女のその後の人生を見れば明らかなように、彼女の生き方を百八十度逆方向へと導いていったわけである。要するに彼女は父親の凝り固まったその精神の欺瞞を見抜き、その欺瞞に盲従する母親にも愛想を尽かし、この呪われた家に絶縁状を叩き付けたというわけである。
彼女には歳の離れた姉が一人いたのだが、この姉が父親に勝るとも劣らない型にはまった人間であったわけなのだ。彼女はそれこそ自分の人生が極端に言ってしまえば、恐らく死ぬまで予定通りに進んで行くことが彼女の生きる上での絶対条件だったわけである。彼女の幸福とは、すべて予定通りに進むことだけであり、いわば未来はそうなるはずだという確信のなかで安心して生活できることが彼女にとっての理想だったわけなのだ。だから彼女の生活はすべて予定表通りに進んで行くしかないわけで、それはそれでかなり無理を重ねるということなのだが、それがまた彼女の生きがいでもあったわけである。彼女は予定通り一流大学を卒業し、予定通り誰もがうらやむエリート官僚との結婚を果たしたというわけである。ところがその一流男がなぜか彼女の予定通りには動いてくれなかったのだ。何かと言えば彼女に逆らって彼女の予定をぶち壊したのである。この予定外の夫の行動に彼女もすっかり混乱して、もはや離婚しかないと思ったわけである。しかしこの離婚は彼女の予定にはなかったことなので、さっそく悩んでしまったというわけだ。こうして彼女もこの現実という世界には、自分の予定通りに行かないことがあることを始めて知ったというわけである。それ以来、彼女は精神を病んでしまい家に閉じこもるようになったのだが、しかし考えて見れば、彼女もある意味親の生き方の犠牲者でもあるわけで、こうした病は彼女にとって親に対する強い抗議だと言えなくもないのである。
それに比べて妹の禮子は、姉とはまるで逆で実にいい加減なというか、そうしなければならないという使命のようなものを感じていたのではないかと思われるくらい自由奔放だったのだ。彼女一人がこの型に嵌まった家族に対抗するかのような破天荒な行動を小学生のころからしていたわけである。それは学校の先生も呆れたくらいで、何度母親が学校に呼び出されたか分らないくらいだったのだ。両親もすっかりお手上げ状態で、もはや家の恥さらしだというレッテルが貼られ、親戚一同からも冷たい目で見られていたことは彼女も分っていたのだが、そんなことなどものともせず自分のいい加減な生き方を貫いて止まなかったのだ。しかしそんな彼女も大学を卒業すると、さっそくこの予定調和に毒された家を飛び出し、自分の生き方を探すためにそれこそ色んなことに手を染めて行ったわけである。だからといって彼女が姉より意味のある人生を送っているなんてことが言いたいわけではない。それぞれの人生に甲乙など付けられないからである。一番大事なことは、本人が自分の人生とどう向き合っているのかということだけが何よりも大事なことなのだ。究極的に言ってそれ以外のことはすべてあってもなくてもどうでもいいことだからである。それはさておき禮子のような数奇な運命に支配された女の人生が、これからどのようなものになって行くのか、それは神のみぞ知るでまったく予想もできないのだが、それでも何となく彼女も今まで自分の人生と向き合ってきたお陰で、何か今まで見えなかったものが少し見えてきたのではないかと思われたからである。つまり今まで何の価値もないガラス玉だと思っていたものが、突然そこに宝石の輝きを見いだしたとでも言えようか。それは他でもない夫の卓という人間にはまだ誰も気付いていない、何か非凡なものが隠されているのではないかと思うようになったからである。こういう直感は女にしかない特別なもので、確かに彼女は何か大事なものを彼の中に感じ取っていたのかも知れない。
そういう思いがけない発見に、ある種の喜びを感じ始めていた時に、思いもしなかった方面からとても嫌な依頼が持ち込まれ、それがもとで彼女も思いもしなかった渦に巻き込まれてしまうことになってしまったのである。それはある人物から、とても厄介な相談を持ち掛けられたことが原因だったのだ。その人物とは、以前まだホステスとして働いていた時に知り合ったとても尊敬のできる老紳士で、彼女も彼には密かに好意を持っていたことがあり、彼女にとっても無視のできない友人でもあったからだ。その人物こそあの木戸専務であり、亮の心を不断に悩まし続けていたという曰く付きの男でもあったわけである。確かに彼は歳の割には不思議なほど年齢を感じさせな男だったので、亮もきっとそうした印象に惑わされたのかも知れない。とはいえ、そういう妄想にはやはり人間である以上、ただ彼自身の倫理性の欠如が原因だといって済ますわけにはいかないものがあるからである。ひょっとして本人たちも気付いていない極めて妖しい関係がそこに潜んでいたかも知れないからだ。しかしまあ、そうはいっても実際のところ二人の関係はまったく綺麗なもので、気になる染みなど一つもなかったことだけは、ここではっきりとさせておきたいのである。で何を彼女に相談したかと言うと、「実は社長の実弟である亮さんの考えを探って欲しいのです。もちろん無理を承知でお頼みしているわけですが、なにぶん彼の動向が会社のこれからに影響する懸念が出て来てしまいまして、あなたの手を煩わすようなはなはだご迷惑な所業に出たというわけなんです」
「何ですか、あまり穏やかな話しではなさそうですね。でも、あなたがそこまでおっしゃるということは、きっと緊急を要することなんでしょう。しかしもう少し詳しいことをお聞かせ願えないでしょうか、それでなければどう判断していいのか分りませんので」
「もちろん必要なことはすべてお話しするつもりです。実はあなたのご主人である現社長の退陣を彼が密かに目論んでいるということは、たぶんあなたのお耳にも入っているのではないかと思います。しかしそれは彼の将来のことを考えますと、今の段階では絶対阻止すべき事柄だと社長はもちろん私もそう考えているわけなんです。と言いますのも何もそんなに慌てて彼が社長の座についてもあまり会社のためにはならないと思われるからです。確かに今の彼は昔の彼とは違ってすっかり頼もしくなり、社長としての器もそれなりに備わって来ているのではないかと一応考えられるのですが、実際にはまだそこまでの実力は備わっていないと思われるからです。時期尚早というのが今の彼にふさわしい言葉ではないかと皆そう思っているわけです。ですから彼が仕掛けようとしている計画を何としてでも阻止し、どうあっても諦めるてもらうよう何とかしなければならないわけなんです。それには、あなたのお力がぜひとも必要だと考えたわけでして……」
「ちょっとお待ち下さい。それでは何ですか、このあたしに彼の野心を止めるよう説得をしろとそうおっしゃりたいわけですか?」
「いや、まさかそこまではいくら何でもお願いできないと思います。ただ、あなたも亮さんとは昔から親しい仲だったと伺っております。ですから、そこはあなたのお力で、彼の考えを前もって探って頂ければ、こちらとしても何かと動きやすいかと私などはそう思ったわけなんです」
「ですが、そういうことは何もこのあたしなどに頼むより、そちらで何とか出来ないものなんですか?いくら何でも女のあたしが出しゃばってもあまり効果はないと思われるのですが。しかし、どうしてあたしなんかにそんな話しを持ちかけて来たのかよく分かりませんが、たとえ彼とは昔からの知り合いだとしても、それだけで彼を諦めさせるなんてことはどだい無理だと、たぶんあなただってそう思っているのではありませんか?下手をすればかえって彼の反発を招いてしまい、彼の暴走に火を付けてしまう懸念だってあるのではないでしょうか?」
「いや、ですからそこまではこちらも望んではいないのです。どうも押し付けがましい言い方になって恐縮ですが、ただ彼の動向を探って欲しいと思っているだけでして……」
彼女もどうやら少し熱くなってしまったようなのだ。と言うのも亮の野心の話は夫から聞いて知ってはいたのだが、突然自分がそういうことに巻き込まれるなんて予想外だったからだ。それにしても彼から直接こうして頼んで来たということは、そこに夫の関与もあったのかしらと一瞬考えてしまい、もしそうだとしたらこのまま断るのもどうかと思ったのだ。というのもこの問題は夫に直接関係したことなので、彼の妻としてそれくらいのことはして上げなければいけないのではないかと思ったりしたからである。しかしこの家で、そんなスパイまがいの行為が行なわれて果たしていいものか。彼女としては出来ればそんなことはしたくはなかったのだ。それに人が言うほど、彼とはそんなに親しかったわけではなかったからである。むしろ三角関係でもつれにもつれていたといった方がよかったくらいなのだ。正直それを考えると、今自分がこうしてその三角関係だった相手と一緒に暮らしていること自体が、何か非常にあり得ないことではないのかとなぜかそう思えたのである。すると、ある考えがフッと浮かんで来たのだ。まるで意地の悪い誰かがソッと彼女の迷う心につけ込んで来たような、そんな感じだったかも知れない。
「それなら、こうしてはどうでしょう。彼には紫音という奥様がいらっしゃるのですが、もし彼を説得したいと思っているならば、その奥様に頼んでみてはいかがでしょうか?彼女ならきっと期待通りの仕事はしてくれるのではないかと思うからです。何ならこのあたしから彼女に頼んで見てもよろしいですよ。この際ですから利用できるものなら何でも利用してみてはいかがでしょうか?」
「しかし、彼を説得すると言っても先程あなたがおっしゃったように、そう簡単にはいかないとは思うのですが、でもまあ相手が彼の奥様ならば案外うまく行くかも知れませんね」彼も、何となくそれはいいアイデアかも知れないと思い、「そうですか、それではその奥様のことはあなたにすべてお任せしたいと思います。ただ、これだけはどうかその奥様にお伝え願えないでしょうか。あくまでも説得ではなく彼の本音を探って欲しいと、そうお願い出来ないでしょうか。それと私のことはくれぐれも内密にして頂かねばなりません。もしこのことが彼にバレたりしたらそれこそ大ごとになりますからね。まったく勝手なことばかり言って申し訳ありませんが、これも彼の将来を考えればこそですので、そこはどうかお許し下さい。で、その紫音さんという方はそんなにしっかりした奥様なんですか?」
「それは、このあたしがそう言うのですから間違いありません。彼女はこのあたしなんかより百倍もしっかりした女性ですから。きっと、うまく彼の本音を引き出してくれるに違いありませんわ」と言って、禮子は自分がその役目から外れたことを何よりも喜んだのだ。これで自分は安心して、彼女がどう自分の夫の本音を引き出すかゆっくり見物していられると思ったからである。しかし世の中そんなに甘くはなく、すでに彼女だって渦の中にすっかり巻き込まれていたわけで、自分だけ高みの見物で安心しているわけにはいかなかったのである。




