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こうして木戸専務は、まず狙いをこの二人の部長に定めて、ある策略を仕掛けてみたのである。彼らにしてみれば、いったい何事が起こったのかと最初はまったく分らなかったのだが、どうも、これは明らかに自分たちの立場を揺るがすような大事件ではないかとようやく気付いたのだ。しかし、これは別の視点から見ると、実に厄介な問題がそこに隠れていることになり、いったい、自分達の今の立場はどういうことになるのかと考えざるを得ないわけである。自分達は、要するに反社長派であり、いわば彼らとは敵対的な立場にいたわけで、それが突然いったい誰がそんな過激なことを言ったのか知らないが、いきなり自分達の立場も危険に晒されることになってしまったのである。この総務と広報部長は、それなりに頑張っている、まあそこそこ野心のある人間ではあったのだが、どうやら亮に上手いこと乗せられてしまったようで、大人しくしていればいいものを、なぜか彼らにとっての人生最大の賭けに出たというわけである。彼らにしてみれば、恐らく今の自分が飽き足らなく見えたのかも知れない。それはそれで別に悪いことではなく、むしろ亮の野心や考え方を意気に感じ、自分の人生も変えるべきではないかと夢を見たわけなのだが、果たして彼ら自身の覚悟はどうなのか、そこが問題なのだ。しかし、こうも考えられるのである。もし、そんな議題が会議にかけられたら、きっと上層部に動揺が走り、自分達の地位が脅かされるのではないかと疑心暗鬼に陥ることだけは確かではないかと思ったのだ。それはそれで、反社長派としては面白い展開になるかも知れず、自分達にとって極めて都合のいい状況に持って行けるのではないかと、どうやらこの二人の野心家はそう思ったようなのだ。そうなれば恐らく今まで半信半疑だった自分達の夢が本当に実現するのではないかと考えてもいいのではないか。おまけに彼らの野望を叶えてくれる相手がなにせ社長の実弟であり、自分が次の社長になることを狙っている男でもあるからだ。それだけ実現の確率が高い立場にいるわけで、それに賭けない手はないのではないかと、彼らなりに今の地位と将来待っているであろう地位を天秤にかけたわけである。彼がどのような理由で自分達に声をかけてきたのか、それは分らないが声をかけてきた以上、きっとそこに彼なりの理由があったからだと考えても間違いではないだろう。それなら、こっちもその期待に応えなければ男としての面目が立たないではないか。男として彼の野心のサポート役として彼に協力すべきだと、そういう考えに至ったとしても決しておかしくはなかったのである。もちろん木戸専務にとって彼らがどう考えようがそれほど問題ではなかったのだが、しかしそこは何事も人間のやることだから、決して思い通りにいくわけもないことくらい最初から分っていたのだ。むしろ、どうなるのか分らないことを意識していることの方が、こうしたいと思っていることよりよっぽど大事だという考えが、彼にはいつもあったのである。
「そういうわけでして、少し時間を頂いて、あなた達とこの件でこれからお話しをしていきたと思っているわけなんです。なにぶんこの問題は我が社の将来が懸かっていることもあり、あなた達がこれからどう振る舞うかで、この会社の命運が決まってしまうからです。で、まずこうして差しでお話ししようと思ったわけです。やはり、いきなりこういう話題を会議にかけると、恐らく収拾がつかなくなる恐れがあるでしょうからね。どうしても自分のことを真っ先にあれこれと心配してしまうのが人間の常だからです。しかし、この会社がつぶれてしまっては元も子もないわけでして、あなた達の立場も我が社が存続してこそ、曲がりなりにも実体として存在することが出来るからです」
「しかし専務、いったい誰がそんな無茶なことを言ったのでしょうか?」と、広報部長の篠田がまず一番気になっていたことを恐る恐る尋ねるのだった。
「いや、それはまだ言わない方がいいと思うのです。と言いますのも、やはりこういうことは慎重に扱うことが一番大事なことだからです。恐らくそんなことを言うやつは、きっと自分が安全なところにいる奴に違いないと、誰もがそう思っても仕方がないでしょうからね。いや、別にそうだとは言いませんが、しかし油断は禁物です。もし、うっかり話してそれがもとで会社が混乱してしまっては困りますからね。ところで、お二人はこういう問題を今まで考えたことが、もちろんあるとは思うのですが、いや誰だって同じ会社にいる以上考えるわけでして、ただ自分から何か積極的にアプローチしないだけでしてね。まあ、それが普通のことですから、取り立てて今まで何も言わなかったわけなんです。しかし、これからは恐らくそうは行かないと思います。実際に、ここにおられる社長にしても、私にしてもですね責任ということではあなた達と一緒ですからね。いや、むしろ一番重い責任を背負っているといわけです。ですから何もあなた達を責めることなど出来るはずがないのです。どうかそこのところは誤解のないようにして頂きたいと思います。とにかく一番大事なことは、今の状態を何とかしなければいけないわけでして、それが至上命令でもあるわけです。ですから、これからはすべての経営幹部が一丸となって、自分の責任をまっとうして頂くことが何よりも大事だと思うわけです。どうかそれだけはお忘れにならないよう、これからもこの会社のために、どうかよろしくお願い申し上げます」と言って木戸専務は、深々と二人に頭を下げたのだ。もちろん社長も。しかし、これは実に巧妙な作戦で、これで二人は、どうもこれは実にまずいことになったと、そう思わざるを得なくしてしまったわけである。これは明らかに反社長派に対する分断工作であり、亮が変なことをしないよう前もって力を削ぎ落として置こうという魂胆のようだ。もし、これでダメなら最後に亮の名前を公表することになるだろうが、恐らくそこまでは行かないのではないかと木戸専務は考えていたようだ。というのも、そうなる前に亮も取締役としてその責任を背負うことになるからである。彼もこの会社のために、自分の野心など捨てて頑張ってもらわなければいけないからだ。
「それとですね」最後に木戸専務はこう念を押すことを忘れなかったのだ。「この話は、どうかご内密にお願いいたしますね。もちろん、ほかの幹部にもこれと同じことを話しはするのですが、それでも会議で話すまで出来れば社内に広まって欲しくないからです。こういうことは、やはりその時の緊張した皆さんの雰囲気が何よりも大事ですからね。ですからあなた達もどうか私の話に驚いて頂きたいのです。なぜならこの会社の運命はあなた達を始め、経営幹部たちの一致団結とそのやる気にすべてが懸かっているからです」
恐らく二人は、これは何か変だと、どうやらそこまではっきりと疑うまでには至らなかったようだ。それだけ木戸専務の話し方が実に巧妙だったと言えるのだが、それ以上に彼らは真剣に悩んでしまったからである。いったい、これからの自分達は、今まで通り未来の社長候補に従って行くべきなのだろうかと疑うようになったからである。もはやこうなると、自分達だけではどうすることも出来ないわけで、まずこの話しを亮にしておく必要があると二人ともそう思ったわけである。もちろんそうなると、恐らく亮はすべてを悟るかも知れない。案の定未来の社長は、してやられたと思わずにはいられなかったのだ。橘氏のいつかの話しではないが、木戸専務に先手を打たれてしまったからである。それも実に巧妙に、二人の前で深々と頭を下げたわけである。たとえ上の者が意識してそれをやったとしても、恐らくそれを見て何も感じない部下などまずいないと考えてもいいのではないだろうか。まして、木戸専務と社長が直々に二人に頭を下げたのだ。どうして動揺しないわけがあろうか。
亮は、ここに至って極めて難しい局面にぶつかってしまったのである。というのも、ここで自分がその張本人だと彼らに知られたとしたら、恐らく二人は、自分のことを今まで通りには信じなくなることだけは確かだろうと、彼はそう判断したからだ。それは正しい判断だったかも知れない。もちろんそうはならないことも考えられるだろうが、少なくともこの際は安全策を取って、このことは伏せて置くことにしたのである。しかし、ひょっとして向こうがそのことをバラすかも知れないのだ。それはあり得ることだが、そこはもうあちらの考え方次第だ。こっちが心配しても仕方がないし、もしそうなったら二人の本音が、そこで確かめられると思っていればいいだけのことだ。それで自分から離れて行けば、それはそれで仕方のないことではないだろうか。彼らの人生は彼らで選ぶしかないのだし、それをとやかく言う理由もないわけである。彼はそう思うと何か重苦しいものがすっかり取れて、自分が一個の独立した人間だという意識が突然目覚めたのだ。それは実に不思議な感覚であり、何か知らないが自分の心がすっかり吹っ切れたような気分になったのである。なるほど、それじゃ、そこまで吹っ切れたと豪語するなら、こっちも先手を打って彼らの前で、その過激な犯人は自分だと名乗ってみたらどうだと、もし誰かにそう言われたら、彼は躊躇なくそうしただろうか。恐らく、しなかっただろうと思う。なぜしなかったかと言うと、そんな自分を試すような話に乗っかって墓穴を掘るより、もっと現実的な差し迫った指示を彼らにしなければいけなかったからだ。まず彼らの不安を何としてでも払拭しておかなければいけなかったからである。
「それなら、こうしましょうか。その会議でどのようなことが語られるのか録音でもして、それをぼくに聞かせて下さい。専務が何を考えているのか、まずそれを知らなければいけませんからね。でも、ぼくに言わせれば、恐らくこの会社の首脳陣は、今の幹部をみんな入れ替えることなんか、恐らくしないと思います。だって、今の社長になってからというもの、そういう厳しさがなくなったんじゃないんですか?あなた達のような長くこの会社で働いてきた人達からすれば、先代と今の社長とでは月とすっぽんだという認識は恐らくお持ちなんではないでしょうか。この際ですから、どうか正直におっしゃって下さい。何もぼくに遠慮などする必要はありませんから。先代がもし生きていたら、こうなる前に何かしらの手は打ったと思います。それがどうです。今の社長の体たらくにはまったく呆れるばかりじゃありませんか。そこをぼくは言いたいのです。ですから社長自らが責任を認め、速やかに今の地位から降りてもらうのが一番いい方法だと、ぼくはそう思っているだけなんです」
「しかし柏木課長、いったい誰がそんなバカなことを言ったのでしょうか?その狙いはいったい何なんでしょうか?だって、いきなりそんな話しが出て来るなんて何かおかしくないですか?確かに今の我が社の状況はよくはありませんが、今すぐにつぶれるわけではないでしょうからね。そんなやわな会社ではないはずです。私は先代社長がご存命の時に、ある会議でこう話されるのを聞いたことがあるんです。先代はこの会社はたとえ赤字が続こうが、そう簡単につぶれるような体質ではないことだけはこの私が保証しておきますって。確かにそうおっしゃったのをこの耳で聞いたことがあるんです。これをいったいどう解釈したらいいのでしょうか」と、彼の上司の坂本総務部長が、まるで今の切羽詰まったような状況と矛盾するような逸話を出して来たのだ。恐らく彼は、木戸専務が言った明日にでもつぶれるような悲壮感丸出しの言い方に、何か違和感を持ったのかも知れない。
「しかし、たとえ先代がそう言ったとしても、赤字続きはやはりまずいのではないですか?それに、あすこまで言われたら、私たちだってこのまま黙って、自分達の野望だけを考えているわけにはいかないのではないでしょうか」と篠田企画部長が横から、いかにもその動揺が隠せないといった調子で口を挟んで来たのだ。どうやら、彼は今の自分たちの状況をとてもシビアに捉え始めていたようなのだ。このままこの破天荒な御曹司について行って果たして大丈夫なのだろうかと、本気でそう思うようになっていたからである。要するに、木戸専務の作戦はその効果を発揮し始めていたのだ。
「いや、ですから何もそんなに焦って結論を出すことはないと思います。それこそ向こうの思う壺だとぼくは思うのですがね。確かに木戸専務のおっしゃることも一理あるとは思うのですが、ぼくに言わせればそれは、まあ言葉は悪いですが一種の脅しではないでしょうかね。そう言って我々の行動を締め上げていると考えられなくもないからです。いや、あの専務はそのくらいのことは平気でやりかねない御仁ですからね」
「ということは、つまり木戸専務の言ったことは、すべて私達を牽制するためのお芝居だったというわけですか?」と、篠田部長が、それは意外だという顔をしながら、あの時の木戸専務の言葉を思い返し、その裏に隠れている意味を改めて思い直してみるのだった。すると木戸専務という人物が今まで思っていたイメージとはまったく違う、策略に長けたそれこそすべてを見越して何事も決めていく冷徹な人間に思えて来たのだ。そうであるなら、なおさら今の自分達の立場は彼らにとっては絶対承認できないものだったに違いない。彼はそう思うと一瞬背筋に冷たいものが走り、自分たちのこれからやろうとしていることが、いかにとんでもないことであるか改めて認識し直すのだった。
「恐らく彼らにしてみれば、そうやってぼく達の野望を何とか阻止したいわけなんです。それにはまずあなた達の気持ちを変えて行くことが何よりも必要だったというわけなんですよ。要するに、このぼくを孤立させたいがための作戦だと言ってもいいくらいで、言い換えれば、彼らもぼく達の力を恐れているという証拠ではないでしょうか。ぼくにはそう思われますね。ですから、どうか今まで通りこのぼくを信じて頂きたいのです。決してお二人の期待を裏切るようなことはいたしませんから。どうかこのぼくを信じてついてきて頂きたいのです」
亮も必死になって、何とか彼らの気持ちをつなぎ止めようとするのだが、果たして、この先どうなることやら、かなり不透明になってしまったことだけは確かなようだ。
こうして男どもの戦いが会社という戦場で繰り広げられていたその裏で、女たちはその固有の戦いを柏木家という戦場で密かに繰り広げていたのである。それは柏木家の兄弟の争いが、そのまま妻たちの争いに発展しかねないような状況だと言ってもいいくらいだったからだ。いや妻たちだけではなく、その後ろに二人の母たちが控えていたから、なおさら事は複雑な様相を呈していたのである。何よりも一番目立った動きをしていたのが紫音だったのだ。彼女は何としてでも夫の暴走を止めようと必死になっていたからである。まず彼女が考えたことは、夫の暴走は自分の力だけでは到底止められないと思っていたので、そこは誰かの力を借りてでも夫の暴走を止めなければと思ったのである。そのためにまず思い浮かんだのが禮子の存在だったのだ。彼女こそ亮に対してある力を持っていると密かに感じていたからである。それはずっと昔から、それこそ彼女と一番最初に出会った時から二人の関係にある心理的な傾向を感じていたからだ。その傾向は、その時から今に至るまで、ほとんど変わっていないのではないかと思われるくらいだったからである。もっとも紫音からすれば、そんなことは絶対認めたくないくらい嫌なことだったのだが、今はそんなことを言っている場合ではないと我慢して、彼女に頭を下げてでも何とかしてもらいたかったのである。とはいえ、この二人の関係は、昔からそれこそ一筋縄ではいかないくらい複雑に絡み合っていたので、なかなか難しいと思われるのだが、しかし、今では彼女も結婚して、何と紫音の義姉として同じ屋根の下で一緒に暮らしているという、実に摩訶不思議な関係に収まっていたというわけである。もはや身内として一緒に生活していたわけで、そこは気軽に話しを持って行けるのではないかと紫音も思ったわけなのだ。もっとも、一時は彼女の父親である橘氏の妻としてその地位を狙っていたようだが、それがどういう風の吹き回しか、今ではすっかり柏木家の社長夫人として、この家に君臨していたのだから世の中分らないと、紫音のような女でも、人生の奇怪さがこうして目の前で示されたことに驚かざるを得なかったわけである。




